「うた」に重ねた表現の祈り──ゆーきゃん『うたの死なない日』

京都から東京へと活動の場を変え、現在は故郷・富山にて教鞭を執りながら、独自の歌を織り続けるSSWゆーきゃん。そんな彼が2020年11月25日(水)に、4年半ぶりとなるフル・アルバム『うたの死なない日』をリリースする。本作はもともと、OTOTOYが運営するライヴハウス支援企画『Save Our Place』に寄せて限定配信された1枚。企画が終了した9月末以降は配信もストップしていたのだが、この度、全国のリスナーのもとへ、彼の歌声が届けられることとなった。“ことば”や“うた”が安易に消費される世界から、あらゆる表現の尊さを掬いあげる今作。しかし、このたくましいタイトルとは裏腹に、作品に込められたのは、「死なないで」という悲鳴や祈りだという。リリースに至るまでの経緯や、コロナ禍を経て感じたこと、そして教師として生活する一面を通して、今作の真髄に迫るインタヴュー。ゆーきゃんが思う『うたの死なない日』とは一体。
"うた"への祈りを込めて
INTERVIEW : ゆーきゃん

世のなかのほとんどのものが数値化されてしまう現代社会において、「うた」とはどんな存在なのか? たくさん再生されたから、たくさんSNSに投稿があったから、それはいいうただといい切ってしまっていいのか? そこからこぼれ落ちてしまっているうたに価値はないのか? そんな自問自答をすればするほど沼にはまっていってしまいそうな2020年、ゆーきゃんは『うたの死なない日』という意味深なタイトルのアルバムを全国流通でリリースする。もともとは世のなかに出さずにお蔵入りにしようとしていた楽曲が元になっているという本作。うたとはなんなのか、このアルバムはそれを聴き手に示してくれているような気がする。富山にいるゆーきゃんに、Zoom越しでゆっくりと話を訊いてみた。
インタヴュー&文 : 西澤裕郎
心強く思ってもらいたい、励ましたい、みたいな気持ちはゼロでしたよ
──ご無沙汰しています。お元気ですか?
ゆーきゃん : うーん、まあまあですね。まあまあじゃなかったことあるのかな(笑)? すごく元気だったこともないし、動けないほど落ち込んだこともない。
──変わらずという感じですかね。
ゆーきゃん : 変わることを忘れてしまったのかもしれません(笑)。
──さっそくですが、今作のアルバム・タイトルは『うたの死なない日』という象徴的な名前です。このタイトルをつけた理由や意味を教えてもらえますか。
ゆーきゃん : 意味はたくさんあったはずなんですが、いろいろなものが重なりすぎて、自分でもよく分からなくなってしまいました。ただ、たくさん歌が死んでいくなと思ったんです。「うた」は音楽でもあるし、ことばでもあるし、ポエジーそのものでもあるはずなんですが、いろんなニュースを見ても、街を歩いていても、それらあらゆる種類の「うた」が踏みにじられたり撃ち落とされたりしていくのが分かる。そういう状況のなかでゆっくり立ち上がってきたタイトルが、これなんじゃないかと。
──コロナ禍があったから、というわけではないんですね。
ゆーきゃん : もっと前からあったような気がします。ヘイトスピーチなんかはひとつの典型ですし、テレビでも、電車の吊り広告でも、とにかくことばが裏切られていく場面は日常にたくさんある。そういう場面に遭遇するたび、少しずつこのタイトルが固まっていったと思うんです。でも、確かに、まだ名前がなかった曲をタイトル・チューンにして、アルバムの指針にしようと思ったのは、今年の春から明らかになっていった「自粛警察」的なものに対する違和感、というか、嫌悪に近い恐怖が引き金だったのかもしれません……。逆に西澤さんはどう思いました? 『うたの死なない日』というタイトルを聞いて。
──いまおっしゃった自粛警察に対する恐怖とか嫌悪、違和感は、間違いなく音楽業界と呼ばれる場所にもあると感じていて。だからこそ「死なない」ということを明言していることに対して、勇気をすごくもらいました。
ゆーきゃん : 自分としてはいい切ったというより、かなり悲鳴に近いものではあったんです。ライヴハウスが呼びかけたクラウドファンディングには自分の出せる限りの金額を出資したつもりですし、Tシャツやトートバッグも幾つも買いました。けど、自分ひとりの懐具合なんてたかが知れてますよね。何の役にもたたんなあと。そのとき、「あ、まだあったわ」と気づいたんです。「アルバム、録ってた」(笑)。それで飯田(仁一郎)くんに電話したんです。OTOTOYがやっていた『Save Our Place』というライヴハウス支援企画、そのなかでニュー・アルバムをリリースしたら、インパクトがあるんじゃないかなと思って、「これを出してほしい」とお願いしたんです。
──そうしたミュージシャンの行動は、ライヴハウスのみなさんにとっても心強かったんじゃないかと思います。
ゆーきゃん : でも、正直にいうと、心強く思ってもらいたい、励ましたい、みたいな気持ちはゼロでしたよ。それどころじゃない。富山でも、ライヴハウスの店長さんが新型コロナにかかったというニュースがあって、ものすごいバッシングが起きていた。あの頃Twitterを開けばコメント欄は基本地獄みたいな状態だったでしょう。悪意のための悪意みたいな、とりあえず誰かを後ろから蹴飛ばしたいという欲求、蹴飛ばさないとやっていけない人がこんなに多いのか、そういう状態がとにかく怖くって。タイトルこそ『うたの死なない日』ですが、「うたは死なないぞ」と思っていたのではなく、たぶん後ろから蹴られて、突き飛ばされた悲鳴がそういう声になったんだと思うんです。いまも「うたは死なない」というよりも、「死にませんように」と思いつづけている。
──祈りみたいな気持ちがある。
ゆーきゃん : ひとつでも多くの「うた」が生き残りますように、という感じです。
あらゆる「うた」が「かけがえのないうた」

──「うた」が死んでいくというのは、殺されるというニュアンスですか? それとも、出しても気づかれずになくなっていくというニュアンスなんでしょうか。
ゆーきゃん : 誰かの前で歌っている限り、誰にも聴かれない歌はない。あなたが生きている間なのか、あなたが音楽を辞めたあとなのか、それは分からないけど、いつか届くんだ、って...。これはJOJO広重さんが以前おっしゃっていたことなんですけど、なんとなくその感じには僕もしっくり来ているんですよ。それよりは、消費されることが問題のような気がしています。本当に歌われなくてはいけなかったはずの何かが、表面的な理解や共感のなかに取り込まれてぐちゃぐちゃにされてしまう、みたいなこと。ほんとうはあらゆる「うた」が「かけがえのないうた」で、ある人の一生に伴走したり、世代を越えたり、そういう力を持っていたはずなのに、瞬間的なセンセーションとか、見せ方の優劣とかに引っ張られるなかで、緩慢な自殺を選ばされているような。これはミュージシャンが悪いとか、リスナーが悪いとか、いやビジネスとはそういうもんだとか、そういうことではなくて、もっと大きな、時代や社会の問題なのかもしれませんが。
──そういう意味で、今作はもともとリリースする予定はなく作っていた楽曲たちが、これから一般流通されることに対してどういう気持ちでいるんでしょう。
ゆーきゃん : これを世のなかに送り出していいのかということについては、まだあまり踏ん切りがついていないといったら…… インタビューまで受けておいていまさら感がひどいんですが(笑)、チャリティというカッコを外して、普通の作品として世のなかに流通することに対する怯えみたいなものはありますね。それがなんの怯えなのかは上手くいえないんですけど…… ひとつは、たぶんまた売れないんだろうなということかもしれないし。あるいは、自分なりの善だと思って世に送り出した作品が、これで偽善になっちゃうんじゃないかみたいな気持ちかもしれません。人の評価に晒すということが、作品の意味合いを変えてしまうんじゃないかとも思ったりしていて。
──だからこそ、もともとはリリースせずにいようと思っていた。
ゆーきゃん : 自分なりに、フラットな目線で見ても、まあ良いアルバムだとは思うんです。歌詞についても、曲についても、メンバーの演奏についても、ミックスについても、マスタリングについても、いまのゆーきゃんにできるベストなものになっている。やることはやったので、あとは我関せずみたいなふうに思いたい気持ちもあって、揺らぎ続けています。好きになってほしいけど、誰にも聴かれなくても構わない、そんな気持ちを行ったり来たりするんですよ。もうすぐMVが公開されるんですが、そうすると否応なしに、何回再生されているかとか、低評価が幾つついたとか、目に入るじゃないですか。でも、本当はそんなこと知りたくはないんです。どうせ毎晩、再生数をチェックしに行って落ち込んだりはするんだろうけど(笑)。
──どうしても数値で評価が図られがちですからね。
ゆーきゃん : もちろん、チャリティのときはいくらの売上があって、何円自分が貢献できたかとても気にはなっていたんです。でも、この先はむしろ、それを知りたくないというか。
──いまは教員をやりながら、歌も歌われているんですよね。学校でなにかを教えることって、対価を得るためにというより、生徒たちや子どもたちが生きていくために必要な方向を導いてあげるような無償の行為でもあると思うんですね。ものを教えているということは、作品づくりになにか影響を与えていると思いますか。
ゆーきゃん : んー。むずかしいですが…… 真逆のことを2ついいますね……。まず、学ぶということは「世界を良くする」ことに直接繋がっていると思うんですよ。で、「うた」、あるいは芸術全般がそうです……。それもまた世界を良くするというか、世界をあるがままに肯定することでもありつつ、世界の罪をいちばんシンプルな形で告発するということでもある。どっちも世界を良いものに変えていくという部分で繋がっている。それから、もう1つは、世のなかに対して役に立つかどうかとは全く関係なくて、それ自体の喜びということです。学ぶということ自体の喜びと「うたう」ということ自体の喜び──簡単に「喜び」っていったら、ちょっとこぼれ落ちるものがあるような気もするんですけど、人は学ばずにはいられないし、人はうたわずにはいられない。そこはよく似ているなって思いますね。
──ゆーきゃんさんはコロナ禍で「小さいもの、いびつなもの、形容しがたいものがそのまま存在できる場所を守る必要があります」とコメントしていました。歌うことが、それを守ることに繋がっているという想いもあるんでしょうか。
ゆーきゃん : なにかを変えるために歌っている人がとても好きなんですよ。彼らの立ち振舞いから、ステージ上で吐き出される言葉まで、ある種の憧れを持って見ている。でも、いざ自分が歌って言葉を紡ぐという段になると、自分のなかから出てくるものに意味があるかどうかは分からなくて。明確にこれはこういう用途があるとか、こういう使い道があるとか、こういうメッセージが込められているとか、そんなふうに分類しきれないものもまた「うた」の対象であって、自分にはそういうものについてしか歌えないなっていうのはあらためて思っています。そして…… 分類不可能なものについて歌い続けることもまた、そういうものたちを守るためのステートメントなんじゃないかなあ。
──ゆーきゃんさんの歌詞は抽象的な表現で、分かりやすさという尺度でいろいろ測っちゃいけないなっていうのは、すごく感じるんですよね。
ゆーきゃん : ただ、その一方で、はっきりいえるのは、絶対に雰囲気では作っていないんですよ。自分のなかでは明確な感情の色合いがある。「それが何なのか?」っていわれたら答えられないんですけど、はっきりした色は自分のなかにあるんですよね。自分なりになにかを叫んでいるつもりではある。詞を書いているときはものすごく緻密なものを組み立てているつもりで、それをメロディなり、リズムなりと共に言葉を上手く編んでいっている。できあがって「これは鳥です」とか「これは馬です」とかはいえない。よく分からないものができあがってしまうという。そんな感じだなって思います。
──そのプロセスは、非常に興味深いです。ある種、歌はひとりでも感覚で作れるものでもあると思うので。
ゆーきゃん : きっと子どもの積み木とかと一緒なんじゃないかなと思います。子どもがブロックを3つも4つも積むのって理由があるわけじゃないですか。だけど、その理由を上手く伝える言葉を持ってないし、やがてそれも忘れてしまうというか。でも、積むときは絶対にこれが正解だと思って積んでいるんだろうし。
多様性、重層性こそが「うたを殺さない」環境なんじゃないかと思うんです
──今作では“サイダー”が再録されています。約10年以上前の楽曲ですが、どうして本作に収録しようと思われたんでしょう?
ゆーきゃん : あれが、ベストなコミュニケーション・ツールだと思ったんです。バンドメンバーのみんなは、それぞれ個人的には仲良しで、ゆーきゃんとは別の場所で一緒に演奏する機会もあったけど、このラインナップで集まるのははじめてだった。音を鳴らすにあたって、”サイダー”はみんながもっともよく知っている曲ですし、合唱コンクールの課題曲みたいなものだと(笑)。それで、演奏してみたら、おもしろかったんです。でも、いい曲ですよね……(笑)。なんていうか、この歌こそ、自分で振り返ってみても、なにがいいたいのか全く分からないんですけど。
──そうなんですね!?
ゆーきゃん : 京都出町柳の橋の上から見た夕焼けがすごく綺麗で、その景色を見たときの印象からできた曲だというのは覚えているんですけど、これが一体なにについて歌っているのか、なにを伝えたいのか、いまだに不明なんです。それでも、ゆーきゃんっていうものを知っている人の相当数が1番口ずさんでくれる曲ではあるみたいですし、ちなみに生徒も“サイダー”がいちばん好きだというんです。やっぱり“サイダー”なんだっていうのが、うれしいような、あれから自分が変わってないことを思い知らされるような、なんとも不思議な気持ちですが。
──“しずく”は、ポエトリー・リーディングで朗読されています。表現としてどうしてこうした手法を選ばれたんでしょう。
ゆーきゃん : これは犬のうた、パートナーの実家で飼われていたラブラドール・レトリバーが亡くなったときに書いた詞なんですけど、彼らは人間を信じることがものすごく上手いというか。人を信じる能力については、人間よりも長けている。この詞につける曲を考えたときに、少なくともメロディではないと思ったんです。白状しますが、これは、いままで書いたことのない感じの詞で、ぼくは、こんなにまっすぐな言葉を誰かに向けて紡いだことがなかった。だから、これに合うメロディが見つからない…… ということもあって、開き直りというわけではないのですが、最後までまっすぐいくのが正解なような気がしました。
──朗読しているのはどなたなんですか?
ゆーきゃん : のんこです。Turntable Filmsの元キーボディストですが、彼女は、もともと詩のフィールドで育った人なんですよね。そういうこともあって、真っ先に浮かんだんです。
──すごくハマっているというか、言葉がスッと伝わってきました。
ゆーきゃん : これ、正真正銘のワンテイクなんですよ。彼女、たしかレコーディングのときに名古屋で友だちの結婚式に出ていて、新幹線に乗って京都に帰ってきてその足でスタジオに来てくれて。テイクを回して、拍手が出て、5分で録り終わりました。
──そういう一回性の強さみたいなものも閉じ込められているのが力強くていいですよね。本作には、コロナ禍における都市の風景を切り取った様々なカメラマンの写真がブックレットに収録されています。どうしてそういう試みをしようと思われたんでしょう。
ゆーきゃん : それは飯田くんのアイデアです。ライヴハウスだけではなくて、日本中の小さな場所が厳しい状況に追いやられている、そのことを問題意識として抱えながら暮らしている、と僕が話したときに、飯田くんが「なら、日本中の写真を集めなあかんのちゃうか」と。リリースまで時間がなかったんですけど、ブックレットには、福岡と佐賀と青森と富山と京都と東京の写真が収められています。
──音楽と写真、ジャケットの絵も含めて、表現物という作品性を感じます。CDのブックレットにはゆーきゃんさんの書き下ろしの散文詩が掲載されています。今回、こうした文章を書かれようと思ったのは、どういう理由からなんでしょう?
ゆーきゃん : 音楽では表現できないことを重ねたいと思ったんです。歌詞は韻文なので、紙には散文を載せようというところが出発点で、さらにいうと「うた」の上に、別のものを積み重ねたかった。『うたの死なない日』において、音楽は下敷きで、その上にいろいろな表現がある、そういう多様性、重層性こそが「うたを殺さない」環境なんじゃないかと思うんです。土、石、花、草、そういったものの上にいろいろな木が生える、いろいろな動物が歩く、いろいろな鳥が飛んでくる。そんな感じのことをやりたいなと思ったんですよね。足田メロウさんの絵が扉絵になって、いくよさんという、京都の若い詩人がエピグラフを寄せてくださって、友だちの撮ってくれた写真が載っていて、曲のタイトルに対して「音楽」とは違った解釈をほどこした散文詩が載っている。そういうある種のメディアミックスを、CDという、この先なくなってしまうかもしれない情報媒体でやることに面白さがあるんじゃないかな、と。『うたの死なない日』とは、だから、あらゆる表現に対して、「これはどういう意味なの?」「なんでこういう表現なの?」って、みんなが考えて、話し合えることができる日なのかもしれません。今日みたいに。
編集 : 綿引佑太
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PROFILE
ゆーきゃん
シンガーソングライター。
USガレージ・フォーク / サッドコアの影響を受けた音楽性と、日本語の豊かな響きを生かした文学的な歌詞を武器にした、唯一無二な空気感をもつ弾き語りを身上とする。京都にて2002年より続くDIYフェス「ボロフェスタ」主催者のひとり。
■公式HP
http://akaruiheya.moonlit.to/index.html
■公式ツイッター
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