終わらないパーティーをやりたい、即興演奏集団・野流が流動する理由──【In search of lost night】
In search of lost night vol.09
In search of lost night vol.09
第9回 : 野流 Interview
音はどこからやってきてどこへ消え去ってしまうのだろう。ベッドルームで、クラブの片隅で、何気なく交わしたフロアの会話で、遣る瀬無く始めた散歩で…ふと浮かび上がったイメージ、あるいは手持ち無沙汰にいじったつまみによって導かれて? その真相をでっち上げるべく、この連載では、人に話を聞いたり記録を残したりすることにした。アーティスト、DJ、オーガナイザー、クラブ・スタッフ、レーベル・オーナーへのインタビューや、ある一夜の出来事のレポートなどを随時更新していく予定。ちなみに、2年ほど前にゆるゆると更新して止まっていた連載の復刻版です。
今回は、ライヴごとにメンバーを変えて活動する”即興演奏集団”、野流のコアメンバー3人に話を聞いた。展示、野外レイヴ、クラブ、福祉施設…場所を変え人を変え、活動するのはなぜなのか? そして今回連続リリースされた1.5thAL『Estuary』、2ndAL『For Damage』の制作についても尋ねている。ニューエイジ、スピリチュアル・ジャズ、サイケデリック・ロック、果てはアヴァンギャルドまで様々な表現を内包する野流のあり方は、自然な流れで生まれ変わり続けてゆく。掘れば掘るほど話は尽きないはずだが、ここではまずその活動の多様さと根幹を知ってもらえたらと思う。
INTERVIEW : 野流
野流の存在を意識しはじめたのは、下北沢〈SPREAD〉をはじめ都内のクラブ、オルタナティヴ・スペース、レイヴで名前を見るようになった昨年のことだった。みた人に話を聞くと、回によって印象が異なるようで、全く違うことを言われる。これは実際に観に行くしかないと思い、足を運ぶと、10人ほどの演奏者が20分ほど探り合うように空間的な演奏をしたあと、フュージョン、そしてクラウトロックに移行し、かと思えばアヴァンギャルドとしか言えないようなめちゃくちゃな瞬間もあった(記憶が定かかはわかりませんが)。誰かが演奏の指揮を取ったりするでもなく、なんなら途中で演奏者が遅れてやってくる、そんな音によって生まれたゆるやかな共同体が自由に演奏する姿がそこにはあった。
そんな無形の即興音楽集団が、4カ国のレーベルからセカンド・アルバム『For Damage』をリリース。( 〈Centripetal Force(US)〉、〈Ramble(AUS)〉、〈Cardinal Fuzz(UK)〉、〈造園計画〉 )『For Damage』は天にも昇る心地のスピリチュアル・ジャズで、前回インタビューでも引き合いに出されていた〈Leaving〉と、前作とは別角度から繋がりを感じるような音楽性に仕上がっている。今回アルバムのレコーディングにはAcid Mothers Templeの河端一、岡田拓郎、池田若菜、そしてコア・メンバーと関係の深いハードコア・パンクやサイケデリック・ロックのシーンからスカムな表現方法をとるアーティストが同時に参加。そうした一筋縄でいかない手法によって、ロサンゼルス的ニューエイジのリヴァイヴァルとは違った感覚が作品に宿っているのかもしれない。
インタヴューでは、野流がいまの形式になった理由の一つでもあるバンド的なマチズモへの嫌悪や、福祉施設でのワークショップについても話してもらった。とにかく情報量が多い野流だけど、少しでも気になる部分があれば、一度きりの音の流れを、目の前で感じに行ってもらいたい。
1.5thアルバム
取材&文 : TUDA
即興演奏の形態は偶然からはじまった
──野流のコア・メンバー3人に来てもらいましたが、まず水野さんとHyozoさんは“シベールの日曜日”というサイケデリック・バンドで一緒に演奏していたんですよね
Hyozo:シベールの日曜日のヨーロッパツアーに、水野さんの代わりに僕がサポートで行ったのがきっかけで、6年前に知り合いました。それからも2020年くらいにハードコア・パンク・バンドのやばいドラマーとスタジオでセッションやったり。同時期に僕は千葉の五井の方に住んでいて、織川一くんっていう創設メンバーとカセット・ショップ〈ゴヰチカ〉でセッションをやっていたんですけどね。
──〈ゴヰチカ〉のセッションが形になったものがファースト『梵楽/Bongaku』なんですよね。お店とはどういう出会いだったんですか?
Hyozo:織川くんが五井にカセットテープ屋があるのを見つけて。工場地帯のなかにあるんですけど、初めて行った時はDMして開けてもらうのに1時間くらい待って、そしたら軽トラから泥まみれの店主が出てきて開けてくれたんです。店に入ったら自分がリリースしたテープも置いてありました。色々話をしているうちにその店主は庭師で、テープ屋をやっていて、どっちも従業員を探しているということだったのでやることにして。そこから週4日は庭師で、1日はテープ屋みたいな生活が始まっていきました。
──2021年のお花見マサカーに出てましたよね? そのとき〈ゴヰチカ〉の商品を持ってきていたのを覚えてます。
Hyozo:マサカーに出るのはそのときで2回目でしたね。カトーさんが自分のことをどこからか見つけ出してくれて。野流を始める少し前くらいの時期だったんですけど。そのころは私生活的にもバタバタしてたし、活動も模索しつつ形になってない段階でした。
──そこから野流はどうやって始まっていくんでしょう
Hyozo:織川くんと毎週日曜日に集まって、オートハープやシンセで自分たちが気持ち良くなるためだけにセッションをしていました。そのときにやっていたものが、自分たちのなかでは音楽として成立しているし、アリなんじゃないかなと思っていた時期に、高円寺の〈OTO lab〉のオーナー石倉さんが録音しようと連絡をくれて。そのときはリリースの予定もなく音源を作ったんだけど、帯化の島崎くんに何気なく聴かせたら〈造園計画〉で出したいと言ってくれて、2023年の6月にカセットを出すことになったんです。そしたら思ったより反応があって、東洋化成の清水さんに声をかけてもらって、レコードの日にもLPを出すことに。
──『梵楽/Bongaku』以降は二人体制から即興演奏集団になっていったんですよね。
Hyozo:ファーストの収録をした時点で、織川くんとの二人体制はここが限界だなと思っていたんです。その後にちょうど、〈ツバメスタジオ〉が入居していたビルの解体イベントで水野さんを誘って即興演奏をする機会があって。ビル自体がツバメスタジオ以外は撤退してる状態だったから、全フロア使っていい状態になっていたんですけど、吹き抜けになっている建物の各フロアでそれぞれが音を出すっていう形での即興演奏で。最初はバラバラに音を出してる状態だったんだけど、だんだん演奏に関連性が出てきたりして、最終的に全員の即興演奏が渦巻いてすごくスピリチュアルな感じになっていった。そのときはkumagusuのプエルくん、帯化の島崎くん、んoonのJCさんとかがどんどん参加して行って。その出来事が、自分たちとしても未体験な領域で驚いたんです。それで、これを俺が毎回やっていけばいいんじゃないかなと。即興演奏の形態はそういう偶然から始まりました。
ツバメスタジオ:エンジニアの君島結が運営するレコーディング・スタジオ。現在は日本橋小伝馬町に移転し、定期的にイベントも開催されている。幾何学模様、the hatch、んoon、帯化などなど、さまざまなバンドがここでレコーディングをしている。行ったことはないのですが、インディペンデントに活動するアーティストの拠り所となっている印象。
こーすけ:僕はその日お客さんとして見に行っていました。階を跨いで演奏してるから、階段を上がったり下がったりすることで音がグラデーションで変わっていくんですよね。それぞれが微妙にリンクしていて、いい回でした。
──即興演奏でしかも人を固定しないいまの形は大変なこともありそうですが
Hyozo:そこまで面識のない人に連絡する難しさはずっとありますね。ただ、この形態にしたのって自分が長いことロックバンドをやっているなかで、そのホモソ性に嫌気がさしていたところからも来ていて。一人発言権のあるやつにみんながついていくみたいなことって、間違えた方向に引っ張っていくことになりがちで、最終的には組織としてダメになっていく。そういうのを何度か見てきて。それに、聴く側もバンド側に幻想を抱いてるじゃないですか。不動のメンバーがいて、切磋琢磨してぶつかり合い作品を出し…っていう、アイドルに抱いている物語の劣化版をお互いに引き摺っている。でも組織として音楽を作るために、ロックバンドの旧弊なシステムを維持する必要はないですよね。昔は自分もそういうものが好きだったし、憧れていたけど、憧れたバンドも終わっていった。そのとき結局終わるんだなって思ったんです。バンドって活動が終わったら、終わったパーティーだから。俺は野流をやることで終わらないパーティーをしたい。
──人数が増えてからはどういった活動をしていたんでしょう?
Hyozo:最初は五井の画廊でインスタレーションの横で即興演奏を始めました。あとは即興演奏を一緒にやるワークショップを地元や福祉施設でやったり。最近やれてないんですけどね。
──ワークショップ気になってました、どういう流れでやることに?
Hyozo:即興とかアヴァンギャルドな表現って、自分たちはそういうものとして聴けるけど、五井にいるほとんどは全くそういうものに触れたことがない人だったから、どうやって伝えようかなと考えて。楽器を触ってもらって出てくるものが自分たちと近しいということを感じてもらうしかないなと思って始めてみました。子どもから高齢の方まで参加して楽しんでくれてましたね。
──福祉施設でやるっていうのはどういう流れでそうなったんですか
Hyozo:自分の父親が市役所で働いていたのでそのツテもあってやることになりました。当初は市民団体として助成金をもらいながら活動できたらと思って準備していたんですけど、一歩手前でうまくいかなくなってしまって。
こーすけ:福祉施設でやったのが最後だったんじゃないかな。
水野:障害者施設のひとたちに楽器を配って、みんなで音を出して騒ぐみたいなことをやったのが最後だね。結構いいものができていたんじゃないかなと思います。