INTERVIEW : 秋田昌美(Merzbow)
日本が世界に誇るノイズ・ミュージック。クールジャパンと言われるはるか以前70年代末、インダストリアル・ミュージックの流れを受けつつ日本で独自の進化を遂げていったそれはジャパノイズと呼ばれ、世界にも認知され注目を集め続けている。そしてその中心といってもいいのが、Merzbowこと秋田昌美が作り上げたノイズ・ミュージックである。ハーシュ・ノイズ、パルス、圧倒的な音量といった極致を追求したノイズ作品は300タイトルを超え、日本だけでなく海外でもリリースされている。それゆえ、網羅することは困難な状態にあるが、配信というツールを使い、少しでも作品への地図を作ろうというのが、このプロジェクトである。
秋田昌美を語るにあたって、その音楽性だけでなく、彼が触れてきた文化的な影響は注目すべき点である。しかし、シュルレアリスムからの影響、80年代・90年代に研究を深めたスカムカルチャーや性文化といった部分に言及したものが、2000年代以降、極めて少なくなっている。それはなぜか、インタヴュー内で尋ねたところ、秋田が貫くヴィーガン・ストレイト・エッジへの思想の転換がそこにはあった。そこを起点に、過去の自分自身の研究などは否定するとまで言ってのける。ただ、ひとつだけ否定するものではないもの、それは秋田が人生をかけて追求し続けているノイズ、そのものであった。とある夏の平日、秋田に直接話を訊いた。
インタヴュー & 文 : 西澤裕郎
普通の意味ではあまり音楽を大切にはしていなかったですね
ーー秋田さんは、シュルレアリスムやスカム・カルチャーなど様々な文化的影響を文章でもアウトプットしてきてらっしゃいますが、一番最初に興味を持ったものは、やはり音楽なのでしょうか。
秋田昌美(以下、秋田) : 僕は70年代からロックを聴いていたし、バンドもやっていました。執筆活動をするようになったのは、プログレなどを中心に扱っていた80年代初頭の「FOOL'S MATE」で、海外のインダストリアル・ミュージックについて書きはじめたのがきっかけです。だから元は音楽から出発しています。
ーーその当時聴いていた音楽として、キング・クリムゾンやフランク・ザッパなどの名前を出されていますが、そのなかでもプログレッシヴ・ロックに対しては強い思い入れがあったようですね。
秋田 : ただ、最初に聴きはじめたのは普通のロックからですね。ジミヘン、クリーム、ヴァニラ・ファッジといったアート・ロックですね。もちろんビートルズとかストーンズとかも聴いていました。当時はメインストリームもアンダーグラウンドも区別がなかったからロックは何でも聴いていました。クリムゾンは最初の解散をするまでは、熱心に聴いてました。
ーーメルツバウとしての活動は79年にはじまりましたが、最初は肉体性をともなったバンド・サウンドとは真逆な方向を指向していました。それはなぜだったんでしょう。
秋田 : もともと最初はドラムを叩いてロックの即興演奏をずっとやっていたんです。そのうちにフリー・ミュージックの影響を受けて、どうやったら自由な演奏ができるかってことを考えたんです。そしたら楽器っていうのは自分の手癖にとらわれてしまうという部分で不自由だと思って。じゃあ、楽器を使わないでみようってことになり、メルツバウをはじめることになったんです。
ーー当時としては、インダストリアル・ミュージックの影響が大きいのかと思いますが、その点はいかがでしょう。
秋田 : 76年くらいにパンクが出てきて、ニューウェイヴとかオルタナティヴ・ミュージックも生まれ、その流れのなかにスロッビング・グリッスルとかキャバレー・ヴォルテール、SPKといったインダストリアル・ミュージックのバンドがあったわけですけど。僕の場合は、フィールド・レコーディングのような形で身の回りの音を録音して、ソロでテープを作っていました。当時、ソニーのウォークマンが出たり、カセットテープがメディアとして新しい時代だったんです。それでカセットテープ向けの音楽を作ろうと思ってやったんです。
ーーそこでは、どういう音を録ってらっしゃったんですか。
秋田 : まあ、工事現場に行って録音をしたり、電車の音とかもそうだし、自転車にカセットレコーダーをのせて走ったり、台所や風呂場でもよく録音してました。
ーーそれを多重録音のような形で重ねていったと?
秋田 : 当時は簡単なMTRのようなものが出始めたばかりだったので、それでダビングしていたくらいです。むしろ、録音中にポーズ・ボタンのオン・オフを繰り返して音をカットアップするのが面白かったですね。
ーー「どこか音楽に対する冒涜のような気持ちがあった」と過去に発言されていますが、自由なことをやりつつ「これは音楽なのか?」という自問自答もあったんですか。
秋田 : そうですね。自分で作品を作りながら、それが自分に心地良いものっていうよりも、むしろ「なんだこれは?」みたいなものが作れたほうが自分にとっては楽しかったというか。周りと比較すると、普通の意味ではあまり音楽を大切にはしていなかったですね。
ーーそれは実験精神のようなものだったんでしょうか。
秋田 : まあ、実験といってもアカデミックな形ではなくて、パンクとかそういう感覚だと思います。ダダイズムというか。フリー・ジャズとかそういう人たちみたいに、演奏行為にすごく真剣になるとか、そういうものとも全然違ったし、パンクみたいに生き様っていうか、そういうのとも全然違ったし。何かもっとひねくれたものでしたね。
とくに日本ではほとんど理解されなかった
ーー秋田さんを形成しているであろうダダイズムとかシュルレアリスムに触れたのは、いつくらいのことなんですか。
秋田 : 中学の頃から、ランボー、ロートレアモン、アンドレ・ブルトンとかを読んでいました。70年代にそういうものが日本でもすごく流行ったんですよ。澁澤龍彦とかがそういうものを紹介していたし。あとは「暗黒舞踏」とか、オカルトとかもそうですね。「FOOL'S MATE」では、ロックとシュルレアリスムやオカルト、現代美術とかを無理矢理結びつけたような文章をいっぱい書いていました。最初のアルバムは「FOOL'S MATE」がやっていたレーベルから出したんですけど、とくに日本ではほとんど理解されなかった。海外でわりと受け入れられたんです。
ーーそれは、日本人と海外の人の性質の違いなんでしょうか。
秋田 : インダストリアル・ミュージックをやっていた人間は日本にほとんど皆無で、だいたい海外のアーティストが多かったというのもありますよね。当時、僕はメールアートっていうのをやっていて、手紙を出しまくっていました。「FOOL'S MATE」の編集部に、海外からいろんなファンジンとかが届くんですよね。そこにある、おもしろそうな連中をみつけては手紙を書いていました。
ーーそこで相互作用で作品ができるといった感じだったんでしょうか。
秋田 : 当時、メールアートをやっている音楽家っていうのがいっぱいいて、テープを送り合って作品を作ったりしてました。エクスチェンジド・ミュージックって言われていたんですけど、それはドイツのP16.D4やS.B.O.T.H.I.といった連中がさかんにやっていて、僕も彼らの活動に参加するようになりました。S.B.O.T.H.I.とはコラボレーションのアルバムを作ったり、日本で一緒にコンテンポラリー・ダンスの音楽をライヴでやったりしました。
ーー肉体性とは違うところからはじまったメルツバウが、ひとつのスタイルを作り上げたのはいつくらいのことでしょう。
秋田 : 80年代は録音が主でライヴはほとんどやっていなかったんです。わりといろんなスタイルで作品を出していたんですけど、今みたいなスタイルのようなものができあがってくるのは90年代以降だと思います。
ーー80年代は試行錯誤の時期だったと。
秋田 : やっぱり、機材が固まってくるのはライヴを頻繁にやるようになってからなんですね。ある程度、再現性が必要になってきますから。
ーーライヴをやることでメルツバウが定まったというのは、逆説的でおもしろい話ですね。ライヴをはじめたのにはきっかけがあったんですか。
秋田 : 89年にヨーロッパ・ツアーに行ったんです。オランダ、ドイツ、フランスと。翌年にはアメリカ・ツアーに行って。ライヴだと楽器がコンパクトになっていくんです。そこでいつも使う機材っていうのが決まってくるというか。
ーー当時は、どんな機材を使用されていたんですか。
秋田 : その当時は、MTRとコンタクト・マイク、簡単なエフェクター、ディストーション、リング・モジュレーター等でした。当時はほとんど楽器は現地でみつけるというか、鉄板とかを拾ってきて、コンタクト・マイクをつけて演奏したりしていました。
ーーちなみに、同時代に活躍されていた非常階段とか灰野さんなどとの交流は、すでにあったんでしょうか。
秋田 : 非常階段とは、アルケミーが僕のアルバムを出したのがきっかけで、1990年代以降だと思います。もっと以前、80年代でノイズの連中っていうと、ハナタラシとか、KK NULL 、暴力温泉芸者、ゲロゲリゲゲゲ、などでしょうか。KK NULLとはMERZBOW NULLというライヴを活動の中心にしたユニットをしばらくやっていました。灰野さんとの付き合いは古いんですよ。最初に一緒に演奏したのは83年くらいかな。もちろん、それをやる以前から灰野さんの演奏はロストアラーフなどで何度も見ていました。
この世界はすごく動物にとって苦痛に満ちたものだってことがわかりました
ーー当時、ノイズに破壊行為的な過剰なパフォーマンスが付随していく動きもありましたが、メルツバウは音楽に先鋭化していったのでしょうか。
秋田 : 一時期、パフォーマンス系の人たちとライヴで一緒にやることもあったんですけど、メルツバウとしては基本的にそういう方向性はなかったですね。特に、彼らの一部がステージで動物を虐待したり、生き物を粗末にするようなパフォーマンスを行うことに対して僕は全面的に反対です。
ーーそれが今のヴィーガン・ストレイト・エッジにも繋がっているのかと思うのですが、そうした思想はいつくらいから持ちはじめたんでしょう。
秋田 : ヴィーガンになったは2003年です。
ーーそのきっかけは?
秋田 : たまたまチャボを飼いはじめて、肉食ということがいやになって、アニマルライツについていろいろ勉強したんです。最初は肉をやめて、次に魚をやめてベジタリアンになって、それから乳製品をやめて、動物性の製品を使用することをやめてヴィーガンになりました。
ーーさらにお酒もタバコもやめられて、意味通りのストレート・エッジな生活スタイルへ変わったわけですよね。
秋田 : 基本的には酒もタバコも製造行程を知ると、動物実験をしていたり動物性原料を使っていたりすることがわかるんですね。やめるって行為は、そこから繋がっています。それまではタバコや酒に依存していました。
ーーそれを断ち切るっていうのには、なにか大きな筋がないとできないことですよね。
秋田 : やっぱり自分の場合はアニマルライツっていうものがあったから、それを貫くという目的が重要だったんです。たぶん、なんの理由もなくやめるっていうのは、難しいんじゃないかと思います。
ーーそこまで強い意志がある元にはチャボを飼ったというきっかけがあったわけですね。
秋田 : はい。それまで、自分自身日常的に鶏に接する機会っていうのがまったくなかったので、フライドチキンとかを食べていても鶏の全体像ってイメージできなかったんです。鶏を飼ってはじめて、それが一つの生命だってことがわかってくると、いままではなんだったんだろうって思いはじめて。人間は動物を殺して死体を食べているわけですよね。ポール・マッカートニーが言ってましたけど「と殺場がガラス張りだったら、誰も肉を食べなくなるだろう」って。自分にとってはチャボを飼ったことで、すごく気づいたことが多かった。気づくということが重要なんです。だから、気づけば簡単に変われるって思います。
ーー生活スタイルが変わることで、秋田さんの視点も変化しましたか。
秋田 : やっぱりヴィーガンになったころは、まったく見る世界が変わったように感じたというか。この世界はすごく動物にとって苦痛に満ちたものだってことがわかりました。人間はなんて残酷なんだろうと。人間社会に対する強い憎悪がわいてきました。今ではヴィーガンのライフスタイルは自分にとってあたりまえになっちゃったんで、普通の生活をしているだけなんですけど。
ーーノイズって、一般的には暴力的な音楽のように捉えられることもあったり、ましてや耳馴染みのいいものではないですよね。日常生活がシンプルになっていくなかで、ノイズは日常に対する批評のような意味合いも出てきたのでしょうか。
秋田 : 日本だとノイズとかハードコアとかデスメタルとかいうと凶悪なイメージだけでとらえられますが、欧米の場合はノイズにしろハードコアにしろ昔からアニマルライツを重んじていたし、ストレートエッジにしてもハードコアの流れのなかで出てきたものです。グラインドコアでもアニマルライツを積極的に推進している連中が多い。そういう一見暴力的な連中がヴィーガンだったりベジタリアンだったりってことは欧米では普通にあるんです。
ーー音楽と生活スタイルは、相関関係にあるわけではないと。
秋田 : 「暴力的な音楽」と言うのは音楽的既成概念を破壊したり、社会に対する怒りであったり、といった様々な衝動の現れであって、現実の暴力とは違うということです。
ーーヴィーガンになることでそれ以外の思想についても何か変化はありましたか?
秋田 : やっぱり僕はヴィーガンになってから、それまでやっていたサブカルチャーみたいなものは、ほとんど全部捨て去ったというか、ほとんど全否定しています。サブカル映画とかも、見直してみると、動物虐待が横行していて。もう見ることができなくなったんです。ウィーン派のような動物虐待を行うパフォーマンス・アート等、それらの全てに今は反対しています。
ーーヴィーガンになることで、自分で掘り下げてきた文化的作品に対しても否定というか反転したわけですか。
秋田 : そうですね。シュルレアリスムでもバタイユに一時心酔していましたけど、動物供犠(くぎ)だとか闘牛だとか、そういうものが出てくるせいで彼の思想は今は完全に受け入れられませんね。動物の権利を侵害しているものは全てダメだっていうことになるから。僕の中ではアニマルライツが思想を判断する際の優先順位の一番目ですね。
ーーそのなかで、メルツバウのやってきた音楽は否定すべきものでない?
秋田 : そうですね。
うまくツボにはまるっていうか、その瞬間を探っている感じ
ーー90年代以降、コンピュータの導入はメルツバウの活動において転機になったのでしょうか。
秋田 : 現在はコンピュータをライヴでは一切使ってないんですけど、90年代終わりから2000年代半ばまではほとんどラップトップだけでやっていました。日本でもラップトップを使うっていうのは今ではほとんど当たり前ですけど、当時はノイズ・シーンの中では誰もやってなかったですね。僕は海外で一緒にライヴを行うことが多かったmegoの連中やZbigniew Karkowskiなどの影響でコンピュータを使い始めたんです。それで当時はノイズ・シーンからはデジタルになったと言ってバッシングされた。でも、テクノとか音響系、エレクトロニカの方では逆に受け入れられたんですよ。
ーー今は使わなくなったのはなぜなんでしょう。
秋田 : 最初の頃はコンピュータの音に新鮮味があったんですがだんだん面白みに欠けてきたというか。そういった音的な問題で使わなくなりました。
ーー画一化じゃないですけど、均一化したノイズになってしまうというかそういうことでしょうか? 今、ライヴで使っている楽器は秋田さんが作られたものですよね?
秋田 : そうですね。今はアナログ機材の方が出したい音が出せる。楽器はもともと90年代に作ったもので、その後改良を加えています。ただ中にコンタクト・マイクが入っているだけなんですけど。
ーー中心の円形のものは何でできているんですか。
秋田 : あれはフィルムケースです。それにバネが張ってあって、その中にコンタクト・マイクが入っている。下についているのは、もともとは蛍光灯の枠です。
ーーそうなんですね。ほかには何を使っていらっしゃるんですか。
秋田 : あとは、ファズ、ディストーション、ビット・クラッシャー、トーン・ジェネレーター、オシレーター、サンプラー等です。
ーーメロディのあるポップスとは違って、ノイズの演奏における納得できるポイントというのが僕にはわからないのですが、メルツバウにおいて、それはどこにあるのでしょうか。
秋田 : ライヴの場合だったら大音量が出ないと駄目だというものもあるし、全部即興でやっているわけじゃなくて、ある程度こういうことをやろうと決めてやっているから、それができれば満足ということです。
ーー構成みたいなものがあるんですね。ライヴは、どういう点に焦点をあてて演奏されているのでしょう。
秋田 : ライヴの場合、大体パルスみたいなループが低音で鳴っていて、その上に中域、高域といろいろな音をかぶせていくんです。それで音をガーッとかき混ぜて、やっぱりツボを探っているっていうかね、音の流れをコントロールしながらうまくツボにはまるっていうか、その瞬間を探っている感じですかね。
ーースタジオの場合は違いますか?
秋田 : スタジオで録音する時はライヴで使えないような色々な楽器が使えるというのと、別に大音量でだけやる必要性もないので色々なスタイルのものが出来ます。
ーーそういえば、灰野さんは1回に2枚のCDをかけて音楽を聴いているとインタヴューで語っていましたが、秋田さんは他者の音楽はどれくらい聴きますか。
秋田 : 聴きたい時にしか聴きません。まったく聴かなかったり、ずーっと聴いていたりまちまちです。十代の頃に聴いていた音楽を聴くことが一番多いんですけど、あとは新しく発見したもの。ネットで聴いたとか、ライヴにいってもらったレコードだったり。
ーー配信第一弾となる今作のセレクションは、どういった意図で選ばれたものなのでしょう。
秋田 : 『Turmeric』以外は、わりと世間に知られているメルツバウのタイトルという理由で選びました。日本の動画サイトへの無断アップロードも多い作品なので、日本でのデジタル配信をちゃんとやっておく必要があると思ったのもこれらを最初に選んだ動機です。『Turmeric』は最近邦訳が出たポール・ヘガティの「ノイズ / ミュージック」という本で紹介されていたからです。
ーー秋田さんが、メルツバウとしていま一番興味持っているものはなんでしょう。
秋田 : この間、石橋英子さんとデュオで演った時にひさしぶりにドラムを叩いてみたんです。その時、ハイハットにコンタクト・マイクをつけてノイズが出るようにした。考えてみると、80年代にはよくこういうやり方で演奏していました。あと、家ではEMS Synthi-Aにギターを繋いで演奏したりしています。これは、Heldonの「Zind Destruction」みたいなギターの音が出ないかと色々試しにやっているんです。今後は何か最近あまりやっていなかったことをやりたいですね。
ーーでは、最後に今後のメルツバウの活動について教えてください。
秋田 : OTOTOYさんにお願いしている、日本でのデジタル配信をちゃんとやりたいなっていうのが当座のやりたいことです。新しいアルバムのリリース予定はいくつかあるので、それは従来通りやっていきたいなと。また、過去の作品もいくつか再発の依頼がきているのでそれも行いたいと思います。
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