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このコーナーは、『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』と題し、音楽やカルチャーに関わるもの達が、原発に対してどのような考えを持ち、どうやって復興を目指しているのかをインタビューで紹介する。
日本中が騒然となった2011年3月11日の東日本大震災から約10ヶ月。今や、多くの人々が日常を取り戻し、各々の場所で新年を迎えた。けれども決して忘れてはいけないことは、故郷に帰ることが出来ない方がいるということ。まだ仮設住宅に住んでいる方がいるということ。そして、日本中に散らばった原子力発電所は止まっていないし、福島第一原子力発電所の事故も収束していないということ。2012年最初の『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』では、2010年福島県双葉郡に移転し、2011年3月11日よりいわき市に避難し、仮事務所にて活動を続けるNomadic Recordsの代表取締役、そして我々と同じく大の音楽好き平山“two”勉氏の赤裸々な言葉で今の福島を伝える。再生も復興もこれから。我々は2011年を忘却せずに、2012年を彼らと共に生きていく!
(インタビュー : 飯田仁一郎(Limited Express (has gone?) 文 : 水嶋美和)
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第五回 : 平山“two”勉(Nomadic Records) インタビュー
――情報が錯綜し、どの情報を信じていいか分からなくなってしまった今、福島県いわき市の現状を、現地で活動するNomadic Recordsの音楽プロデューサー平山“two”勉さん(福島県富岡町出身)に語ってもらう今回のインタビューは、とても意味があると思っています。OTOTOYに来る音楽好きに、同じ音楽好きである平山さんの言葉ならダイレクトに届くと思うのです。
平山“two”勉(以下、平山) : 震災直後、真っ先に動き出したのはミュージシャン達でしたね。東京を始め各地と被災地のミュージシャン達の繋がりで、救援物資を届けたり、炊き出しをしたり、フリー・ライヴをしたり。瓦礫撤去などのボランティアに積極的にいく人もいました。自分も一時期club SONIC iwaki(福島県いわき市にあるライヴ・ハウス。以下、SONIC)に避難させてもらってたので、SONICを拠点にしたそういう動きも見てました。
――避難する前、平山さんはどこにいたんですか?
平山 : 最初の爆発の時(3月12日)は、まだ地元の(福島県双葉郡)富岡町に居ました。原発からは9kmしか離れていないので、もしかしたら被曝しているかもしれませんね。翌3月13日にいわきの親戚の家に避難したんですけど、そこでテレビを見る他何もできないのがもどかしくて、SONICで場所を借りてインターネットで救援物資の募集をしたり、連絡網を作って地元の人達の安否確認の情報を収集、発信したりしてました。
――SONICは、原発から何kmぐらい離れているのでしょうか?
平山 : 40kmぐらいです。当初はいわきも屋内退避の指示が出ていたので、街中はゴースト・タウン化してました。避難していった人も多かったし。今規制されているのは20km圏内で、中に通じる道にはどこも検問があって、自由には入れないようになっています。
――平山さんも避難してからは、入っていませんか?
平山 : 4月22日の20km圏内警戒区域指定までは、取り締まりが緩かったので、何度か入りました。当初地割れが酷くてそっちの方も恐かったですね。それ以降は地元住民の一時帰宅と、中に会社がある人は仕事関係のための公益立入というのが許可されているんですよ。それで自分は合計10回ぐらいは入りました。
――中はどういう状況でしょうか?
平山 : 道路の陥没や海沿いの瓦礫は4月中旬ぐらいまで放置されていましたね。津波で行方不明になった人の捜索も3月後半に一斉捜索が始まるまで放置されていたんです。未だに見つかってない人もいます。それから徐々に自衛隊が片付け始めて、今は仮ではありますが瓦礫もだいたい片付いて道路も通れるようになってきました。でも津波で壊された家が避難してる間に無断で片付けられて、戻ってみたら何も無くなっていたという人も周りにはいたんです。
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――泥棒が多発しているという話を聞きました。
平山 : 商店やスーパーのガラスが割られて物が盗まれていたり、一般家庭にも泥棒が入ったりしていましたね。薬局や猟銃店での盗難もニュースになりました。ウチは幸い無事でしたが、知り合いは結構やられてます。許せないですよね。人の弱みにつけこんで… 。
――今、20km圏内はゴースト・タウンになっている?
平山 : 富岡駅は津波で流されて、どこの家も地震被害の修復は手つかず。電気と水道は止まったまま。夜は真っ暗でゴースト・タウンには違いないです。でも主要な道路や信号(点滅)は復旧し始めてます。そういう最低限のところは復旧し始めたんですね。富岡のNTTに設置されているライヴ・カメラ(※1)でも確認出来ます。原発関係の車が頻繁に通ってるのが見えますよ。たまに動物も登場します。
――20km圏内に住んでいた方々は、将来的に戻れると考えておられますか?
平山 : 半々ですかね。住んでる地域の線量にもよります。解除されても戻らない人は多いでしょう。11月に第一原発がある双葉郡大熊町で町長選があったんです。2人が立候補して、1人は「町内を除染してみんなで戻ろう」、もう1人は「もう除染しても住むのは難しいだろうから、みんなで他の場所に移住しよう」という公約で立ったんです。勝ったのは前者の「みんなで戻ろう」という候補でした。でもその後に色々と動きがあって、町長から「比較的線量の低い町南部を除染してそこに町を作る」という話もでてきた。そうすると、そこで引っ越しするならわざわざ線量の高い圏内じゃなくてもいいじゃないですか。それでまた喧々諤々と同じ町内の人同士で対立してしまったり、他の町から「大熊町は何を考えているんだ」と言われてしまったり、同じ福島県人同士でもう切ないですよ。20km圏内でも今度の4月までには「帰宅困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」に線引きするようなので、そこでまた問題がでてくるでしょうね。放射線量で線を引くので分断される町がでてくる筈です。
――平山さんの意見としては、どうでしょうか?
平山 : 両方の道を確保、支援するべきだと思います。年輩の方は地元で死にたいって人もいる。うちの両親も富岡にお墓の土地は買ってあるし。ある程度の年齢で子供がいないのであれば、それなりに安全が確保された時に、帰りたい人は帰ってもいいでしょう。でも子供や若い女性はどう考えても帰るべきじゃないですよね。除染といってもどこまで継続的効果があるかわからないわけですから。だから大熊町長選のように2つの選択肢を対立させるんじゃなくて、尊重し合いながら進めていけば、そんな軋轢は生まれないと思うんです。ただ、町として過疎化は避けられないですよね。高齢者と原発関係者だけの町に… 。人の命、安全を第一に考えれば、当然、現実的にやむを得ない。国や自治体がどう決めた所で、移住するのは個人の選択ですから。自分は戻れるのなら戻りたいと思ってます。
――20km圏内に残された動物たちもニュースになっていましたね。
平山 : 犬猫以外に牛やダチョウも街中をうろついてます。12月の時点でもまだいて、一時帰宅する人はエサをもっていったりしてますよ。牛と車の事故というのも数件起こってます。ペット救済に関してはNPO団体がいくつかあるんですけど、団体同士が情報を共有できていないから、効率的に救えない状況だとも聞いてます。だいぶ減ってきましたけどね。そこは国がリーダー・シップをとらないとどうにもならない。
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――ペットはわかるんですけど、ダチョウはどこから来たんですか?
平山 : 大熊町にダチョウの牧場があったんですけど、可哀想だと思ったのか、誰かが柵を壊して放しちゃったんですよ。そこから南下して来ました。しばらく富岡に落ち着くのか、寒くなるからさらに南下するのか、どうなるんでしょうね。動物の救済に関しては国や自治体の対応があまりにも遅くて、残念すぎます。家畜にしても、もっと早い段階なら今程被曝する前に救い出せた筈です。
――いわき市に避難した人がたくさんいて、人が増えすぎて困っている状況にあると伺いました。そこに対して県や国はどのように対応するのでしょうか?
平山 : 仮設住宅にしろ、借り上げ住宅にしろ、これまではまず住居を何とかする事だけで国も自治体も精一杯だったと思うんですよ。いわきの津波被害者も沢山いたわけですから。ただ一時避難という前提なので、長引けば長引く程色んな問題がでてくるのは避けられない。その対応は… 方向性がまったく見えてこないです。
――平山さんは、仮設住宅に入っているのでしょうか?
平山 : うちは借り上げの方ですね。一般のアパートで生活しています。
――自主避難の方と強制避難の方とで、補償される金額にすごく差があるというのは本当ですか?
平山 : それは意味合いがちょっと違いますね。強制避難は20km圏内や飯館村など線量の高いところからの強制で、自主避難というのはそれ以外の、例えばいわきや福島、郡山等、避難指示は出されてないけど、放射線の影響を考えて自主的にという意味なので。簡単に補償の内容を比べる事はできません。でも自主避難者も補償するって方向を政府が出しましたね。当然のことですけどね。それと、40km圏やら何km圏やらやその外側の人も補償しようって話になって、そうなるとちょっとでも線引きの外に住んでる人が不公平じゃねえかって話に発展して、福島は一律平等に補償しろとか、難しいですよね。
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――当面の一番大きな問題は何でしょう?
平山 : いわきに限って言えば人口増加に伴う住宅難、職業難と来る3月の進学の問題。そして医療従事者の負担増なんかですね。勿論、農業と再会のメドがたっていない漁業も。ただ福島といっても凄く広いので、会津地方、中通り、そして浜通りの第一原発以北では、それぞれ抱えている問題が違ってきてるんです。外から見る以上に状況は複雑です。
――なぜ、多くの方々がいわき市に移るのでしょうか?
平山 : やっぱり福島の他の地域より温暖だし交通の便もいい、更に双葉郡の人にとって元々馴染みのある地域なんですよ。近くて土地勘もあるし、線量も地域によるけど東京と変わらないくらい低い。今、福島県内外に避難している人でいわきに来たがっている人が沢山いて、もしこの先、仮設住宅なり借り上げ住宅なり住める場所が増えたとしたら、いわきの人口は更に増えていくでしょうね。そうするとさっき言った問題は余計に深刻になるのは目に見えています。ただ、同じ浜通りでも第一原発の北側にある南相馬は逆に人口が減ってるんですよ。線量が高く、鉄道も分断されていて高速道路もない。まったくいわきと違う状況で、問題はより深刻です。それもいわきに人が流れてくる一因といえるでしょう。
音楽を楽しむという以上に、音楽を通して色んな思いを共有する
――前に畠山美由紀さんへインタビューしたのですが、彼女は宮城県気仙沼市の出身で、母校の小学校に歌いに行ったそうなんです。そこで盛り上げようと思って歌ったら子供たちも一緒になって歌って、盛り上がった。だけど福島では、盛り上がる曲よりも「テネシーワルツ(1948年に作られたアメリカの歌曲。テネシー州の州歌)」の方がしっくり来たと話してくださったんです。(畠山美由紀 インタビュー)
平山 : 肌で感じてしまうものがあったんでしょうね、きっと。ACIDMANがSONICで東北人在住者限定のライヴをやった時も、雰囲気がいつもと全く違って、逆にお客さんの方からひしひしと伝わってくるものを感じ取ってました。あそこに集まった人達は、それぞれ色んなモノを背負ってきてたわけですから。ただ表面的には5月くらいから普通にロックしてますよ。夏には箭内道彦さんの「LIVE福島」や大友良英さんの「プロジェクト FUKUSHIMA!」もあったけど、それ以前から音楽に関しては平常になりつつありました。でも単純に音楽を楽しむ、陽気にというのとはまた違うかもしれないです。陽気の中にも何かひきずっているものがあるんです。暗い影が抜けきらないというか… 。福島でのフェスに関して言えば、音楽を楽しむという以上に、音楽を通して色んな思いを共有するという気持ちの方が見てる側にとって強かったと思います。あれだけ泣いてる人がいるフェスというのは他にないですからね。それは双葉郡の人は勿論、どの地域の人も、こういう事態になって、傷ついた故郷を思う気持ちが以前とは比べようもないくらい大きくなったという事だと思います。例えば自分も6月に南相馬の鎮魂祭で、坂田明さんがサックス1本で独奏した「ふるさと」を聞いた時には号泣してしまいました。さっきの畠山さんといえば「わが美しき故郷よ」を初めて聞いたときも、あの時と全く同じ感覚で涙がこぼれてしまいましたね。曲の素晴らしさもあるんですが、自分にとっては帰れないかもしれない故郷という思いがこみ上げてきて…。本当の意味で盛り上がったり、笑い合えるのはまだ時間がかかると思います。
――再生に向けて、目指すところがまだ明確に見えていない状況なのでしょうか?
平山 : これもまた地域によって復興への道筋が違ってきますけど、「見えていない」と言った方が正確かもしれませんね。まだ何も収まっていませんから。冷温停止とか言っているけど周りの地域の線量は一向に落ちていなかったり、メルトスルーした核燃料があったり、汚染水が漏れていたりするわけで。それが本当に収まれば、やっと復興への道筋が見えてくるんだと思います。だからさっき「ひきずる」という言い方をしてしまいましたが、背負って生きていかなきゃいけない覚悟がいると思うんです。この土地でこれからも頑張っていくという覚悟、子供がいるから福島から出るという覚悟。それはもうしょうがないし、市町村ではなくそれぞれが決めるべき道。しかしそこでも避難する、しないで住民同士の軋轢が生まれてしまうという…。福島県内には夫は仕事があるので福島に残り、妻子は他に避難というパターンの世帯がすごく多いんです。
――家族がばらばらになってしまうんですね。
平山 : そうです。
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――覚悟を決めて残る人と避難して行く人の割合はどれくらいでしょうか?
平山 : 双葉郡でいえば半々でしょうか。若い人ほど戻らないでしょう。ここでは線量の高さと帰るという人口は多分反比例してくると思いますね。原発から離れれば離れるほど、これからもやっていこうという気持ちになれる人が多いのかもしれない。線量の高い地域の人からは諦めの声も聞こえます。福島県全体では県外避難が10万人を越えてるとも聞くし、今後も増えていくだろうと。でも避難したいけど事情があってできなかったり、避難したくないけどさせられたり、地域と立場で全く変わってくるので全体の割合というのは一概にはいえませんが。
――平山さんは、国からの補償は十分貰えていると思いますか?
平山 : 最低ラインだと思いますよ。ただ「これでいいか? 」と言って出された額に文句を言ってもまた交渉が滞ってしまうし、東電にしても国にしても自分にしても、どこかで区切りを付けないと一向に先には進まないので。自分の様に動ける世代ならば、補償をあてにする前に自分から動いて行かなければいけないと思います。しかし何十年もそこに住んできた高齢者や、うちの両親のように長く商売をやってきた人達にとっては、もっとそれなりの補償が必要ではないでしょうか。
――では、平山さんがその中でレーベルを続けていこうと思えるモチベーションはどこにあるのでしょう?
平山 : 3年前に東京から帰ってきた時には骨を埋める気でいました。そして拠点を福島に移してから、今関わっているバンドたちと出会って、彼らのやる気や覚悟を目の当たりにすると、自分も福島でレーベルを続けていこうと思えたんですよね。こういうことがあったから、逆に意地でも福島でやってやると。幸せな事に応援してくれてる人も沢山いて、すごく支えられています。沢山の新しい出会いにも感謝したい。そういう人達に報いる為にもね。あと、音楽に関していえば、以前から福島の地域性が育ってくればいいなとずっと思ってたんです。アメリカならニューオリンズ、シアトル、シカゴとか。日本でも沖縄や福岡にも独自の音楽性、カラーみたいなものが感じられますよね。いわきのシーンにもそういう地域の特色が出てくればいいなと。例えば「日本のマンチェ」みたいな。そして「いわきの、福島のバンドはいいよね」って言われたい。独自性はまだ見えないですが(笑)。
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――震災以降、バンドマンが抱える難しさは感じますか?
平山 : 難しさというと?
――やはり東京でバンドをするのと、いわきでバンドをするのとでは気持ち(覚悟)が違うんじゃないかなと思ったんです。
平山 : なるほど。2月にNomadic Recordsから出るいわきのnotice itに関して言えば、ボーカルの政井大樹は津波に流されて、肉親を亡くしたり… 。でもメンバー同士で励まし合いながら、5月にライヴ活動も復活して、レコーディングというモチベーションを上げる材料を自分達で用意して頑張ってます。彼らが震災前と何が変わったかというと、やはり意識じゃないでしょうか。自分達は福島のバンドなんだっていう自覚。この土地に根ざしていくんだという。それは仙台の雨ニモ負ケズからも感じます(雨ニモ負ケズ インタビュー)。でも大体今まで通りやってるんじゃないですかね。そうしてて欲しいという思う部分もある。しかし、中には今でも第一原発で働いてるバンド・マンもいて、積算線量などから揺れる心情も聞いたりしてるので、ずっとここで頑張れ、とは自分からは言えない場合もあります。
――平山さんがレーベルとしてこれから一番やりたいことって何でしょうか。
平山 : 福島を含む東北から発信したいという気持ちは元々ありましたけど、震災を経てその思いは倍増しましたね。「絶対にやってやる、このまま潰れないぞ」って思っています。状況は厳しいし、レーベルとしての力不足も痛感してるので、まだまだですけど。
音楽のありがたみや価値は、他のどの地域の誰よりももうわかっているはず
――震災以降、ライヴ・ハウスに人は増えましたか? 減りましたか?
平山 : 一時期復興バブルみたいな、有名なアーティストがガンガン来てくれていた時期は、当然ありがたい事に増えてましたね。でも今は以前とあまり変わりないような。震災直後は、ライヴ・ハウスが再開してそこでライヴを見ていると、うるさい音楽なのに見ているだけでしばらく泣けてきたんですよ。それがもう感覚的にも営業的にも平常時に戻ってきましたかね。
――それは、平山さんも望むことですよね。
平山 : そうですね。音楽に関してはもうだいぶ前にスタート・ラインに戻ったと思う。なのでこれからは、土台を作る為にも若い世代にもっと音楽を聴いて、ライヴを見て、積極的にバンドをやってもらいたい。これは福島にレーベル活動の拠点を移した時からずっと考えていたことなんですけど、それを再確認して、行動していきたいと思います。
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――それは、彼らにとって音楽を希望にしてほしいということ?
平山 : うーん、それは大げさかもしれない。
――もっと自然なものとしてあればいい?
平山 : そうですね。普段の生活の中に、当たり前に音楽が増えていけばいいと思います。でも、こういう経験を経たからこそ、そのありがたみや価値は、他のどの地域の誰よりも彼らはもうわかってる筈です。
――今、地域によって情報や関心のギャップが激しいですよね。西に行けば行くほど地震や原発に対して関心が薄くなっていって、東京でも、マスコミをずっと追っていると他のニュースが入ってきて、どんどん関心が薄くなってしまう。いわゆる「時代が流れていく」ということなんでしょうけど。でも過去のことにしてはいけない。そこにとてもジレンマを感じているんですけど、平山さんはどうでしょうか?
平山 : 福島では震災や原発に関係のあるニュースが今でも毎日のように流れてくるし、新聞にもそれに関連した記事が溢れているんですけど、たまに東京に出ると温度差とか時差を感じますね。話の中で「そんな当たり前のことも知らないの?」と思うことも多々あります。逆に「福島に来てみたら皆普通に生活していて拍子抜けした」とか。表面的な所だけをみてもわからないのは無理ないですけど。でも、だからといっていつまでも嘆いているだけというのも嫌じゃないですか。それだけだと精神的にも病んできますし。被害者意識だけでは何も生まれてこない。そういう思いもあって、自分の出来る事として、我が町の現状を知ってもらう為にも「富岡インサイド」(※2)というウェブサイトを立ち上げました。福島全体ではなく、富岡町に限定してますが、現状を「知ってもらう」、情報を「共有する」、それを通して人と人が「繋がっていく」というのが趣旨です。
――「富岡インサイド」は平山さん一人で作ってるんですか?
平山 : 色んな人に情報を貰っていますが、基本的に一人で作っています。写真や動画を時系列で並べて、町の変化を記録したり、オフィシャルにはない富岡町関係の情報を掲載したり。短いスパンではなかなか状況の変化はわからないかもしれないけど、これを1年後に見た時には「ここまで復興したのか! 」と思えるかもしれない。そういう復興への足跡を記す事もある意味被災者義務だと思ってます。そこに辛い辛いって嘆きながら、感情を入れて伝えてしまうと、逆に敬遠されて他の人を情報から遠ざけてしまうこともあるでしょう。だから、事実を事実として伝えるための作業をやっていかなくてはいけない。そう思って作っています。まめに更新しているので、見て頂けたら幸いです。
(2011年12月8日取材)
※1 NTT富岡ライブカメラ(http://www.nttfukushima.com/live/tomioka/Default.html)
※2 富岡町支援応援情報サイト/富岡インサイド(http://www.tomioka.jpn.org/)
Nomadic Records's History
代表取締役 : 平山“two”勉
1999年9月9日、ノストラダムスが地球が滅びると予言した日にノーマディック・レコードは誕生。インディーズという名のフィールドに参入し、ちょびっと注目の的となる。同時に1999年から1年間、渋谷FMにてインディー系の音楽番組「Emotional Cool」を企画、製作。現在も大活躍中のBump Of ChikenやSnappers,Herman.H&Pacemakers、木下理樹(ソロ時代)、スネオヘアー等もゲストに出演し、当時この手の番組としては最も熱く濃い内容で高い評価を集めていた。2000年7月には独立法人化し、三軒茶屋を本拠地とする。音楽レーベルとしてはそれぞれが誰にも似てない、個性派ぞろいのアーティスト達を生み出し、あえてレーベル・カラーをいうならそれぞれが唯一無二であるという事! 以降、様々な栄光や試練を経ながらも、更なる世界征服を目指して疾走している。業界最小単位の規模でありながら、現在も第一線で活躍するACIDMAN、the ARROWS、今村寛之(STARBOAD/ex.POWER&GLORY)、金澤ダイスケ(フジファブリック/ex.Sunflower)、okuji(winnie/ex.planet fisherman)、トマソン(オトナモード/ex.シルバニアスリープ)、板持良祐(your gold my pink/ex.cutie pies)、中野 真一(Apricat Spectra/ex.BobLife)などを生み出した発掘と育成の奇跡のレーベル。2010年福島県双葉郡に移転。2011年3月11震災によりいわき市に避難/仮事務所にて活動。
>>>Nomadic Records official website
★Nomadic Recordsよりnotice itのファースト・アルバム『綴る光 夜を游ぐ』を配信中!
>>notice it『綴る光 夜を游ぐ』特集ページ
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連続記事「REVIVE JAPAN WITH MUSIC」
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- 第二回 : 中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)インタビュー
- 第三回 : 山口隆(サンボマスター)インタビュー
- 第四回 : Alec Empire(ATARI TEENAGE RIOT) インタビュー
OTOTOY東日本大震災救済支援コンピレーション・アルバム
『Play for Japan Vol.1-Vol.6』
『Play for Japan Vol.7-Vol.10』
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