14年間の歩みを、最新の楽曲とともに振り返る連続企画
2012年3月、メンバーの脱退により新体制となったアンダーグラフ。そんな彼らが、2013年3月から4ヶ月連続で豪華プロデューサー陣とのコラボレーションによる新作を配信リリースすることが決定! OTOTOYでは、この4ヶ月連続リリースを記念して、アンダーグラフの軌跡を追うロング・インタヴューを決行!! 楽曲配信と共に4ヶ月に渡ってフロント・マンであり、作詞作曲も手がける真戸原直人のインタヴューを掲載します。1999年にアンダーグラフとしての活動をスタートしてから14年。最新の楽曲を聴きながら、彼らの歩みをじっくり振り返ってみませんか?
第一弾は、真戸原直人の音楽との出会いから、アンダーグラフ結成、城天でのストリート・ライヴ、上京、名曲「ツバサ」の誕生、そしてメジャー・デビューまで。バンドの大黒柱としてメンバーを引っ張り、一人でも多くの人へアンダーグラフの音楽を届けたいと願った真戸原のひた向きさにただただ感激する。長い期間彼らを追い続けてきたファンの方にも、卒業式で「ツバサ」を歌った世代も、そしてプロを目指す多くのミュージシャンたちにも、ぜひ読んでいただきたい。
インタヴュー : 飯田仁一郎(Limited Express (has gone?))
文 : 櫻井希
写真 : 雨宮透貴
INTERVIEW : 真戸原直人 (アンダーグラフ)
2013年3月6日(水)配信開始 第一弾「空へ届け」produced by 藤井丈司
2013年4月10日(水)配信開始 第二弾「第三次成長期」produced by 島田昌典
2013年5月8日(水)配信開始 第三弾「Mother feat. MICRO(HOME MADE 家族)」produced by 根岸孝旨
2013年6月5日(水)配信開始 第四弾「素敵な未来」produced by 常田真太郎(from スキマスイッチ)
〜最新シングル『空へ届け』について〜
アンダーグラフ / 空へ届け
【価格】
mp3、wav共に 単曲 250円
【Track List】
01. 空へ届け
「空へ届け」は藤井丈司をプロデューサーに迎えた暖かな楽曲
ーー3月6日に発売する4ヶ月連続配信リリースの第一弾『空へ届け』は久々の作品ですね。どのように作られたのでしょうか?
プロデューサーによってやり方は違いますが、藤井さんの場合は「真戸原直人というヴォーカリストはどんな歌を歌い、歌詞を書くのが魅力的か」ということを突き詰めていく手法でした。最初はもう少しアップ・テンポなものを作る予定だったんですが、作れども作れども藤井さんに「こういうのじゃない」と言われて、4曲目くらいにやっと「空へ届け」の原型のようなものが出来たんです。
ーー藤井さんとの付き合いは長い?
あるアーティストの作詞を頼まれて、その打ち合わせの時に初めて会いました。僕自身も人に歌詞を書く時は、そのヴォーカリストにはどういうものが一番良いのかを考えて制作しているので、藤井さんと似ているんです。その話を藤井さんにした時に、ぜひ一緒にやってみようという事になって、その後ある動画サイトのオーディションでグランプリをとった方に提供する曲を2つ程一緒に作りました。それが一年くらい前です。
ーーその時に初めて藤井さんと一緒に曲を作られたんですね?
そうですね。”一緒に”と言いつつ、スカイプでの打ち合わせで藤井さんに曲提供の話をされて、僕はすぐにメロディが浮かんだのでそのまま曲を提案したら、それが通ったので、すぐにデモを送ったんです。
ーー何故プロデューサーを立てようと?
「デビューする時は誰かを付ける」みたいな、プロデューサー神話ってあるじゃないですか。僕らも島田昌典さんとずっと一緒にやっていたこともあって、プロデューサーと組むのが当たり前になっていたんです。その後、自分たちのレーベル、Acorn Recordsでセルフ・プロデュースの2枚のミニ・アルバムを発表して、今、アンダーグラフが新しい体制になったタイミングなので、この時期だからできる挑戦をしてみようじゃないかと。色んな方と制作をしてみて音楽がどう作られているのかとか、改めて日本のプロデューサー陣ってどんな事を考えて音楽を創っているのかを知りたくなったからです。この機会だからという事と僕自身の勉強の為に近い動機でしたね。
ーー藤井さんと島田さんは全然違ったタイプでしたか?
そうですね。島田さんはどちらかと言えば、僕らが作ったものを壊さないようにするタイプでした。以前「プロデューサーと一緒に曲作りをして、方向性はブレないのか」と聞かれたことがあったんです。ただ僕は全くその感覚が無くて、自分がやりたいものに対してアイデアを貰って、それを受けて「この方向はどうですか」と出し続けるやり方がしっくりくるんですよね。
ーー様々な要求に対して常にアイデアを出して、作り上げていくと。
この人とは出来ないという事は無かったです。自分のやり方を試し、新たな事を吸収して、これからは吸収したやり方の良い所を取り入れて、良い音楽を作っていけたらと思うんです。
第一弾 音楽との出会い〜メジャー・デビュー篇
真戸原直人、音楽との出会い
ーーアンダーグラフ結成前に、真戸原さん自身はどんな体験で音楽に目覚めていったんですか?
小学校時代は野球しかしていなくて、本気でプロ野球を目指す程の野球少年でした。音楽も好きでしたけど、聴くだけという感じでしたね。小学校、中学校と野球を頑張っていたんですが、高校でなぜか野球をやらなかったんです。
ーーそれは何故?
今振り返ってみると、野球そのものはそこまで好きじゃなかったのかもしれないですね。あとは肘を壊した事もあって、現実的にプロ野球選手が難しいという諦めもあったと思います。それまで野球しかしてこなかったので、何をしたらいいのか分からなくなって。そんな時期に友達といざこざがあったりして、自分の思いをノートに書き込むようになったんです。そこから詩を書いて、ギターを弾き始めました。それにメロディを付けたらどんどん楽しくなって、プロ野球選手と同じ位夢がある、ミュージシャンをやってみたいなと思うようになりました。そんなに甘い世界じゃないから、何回も諦めているんですけどね。高校で諦めて普通の大学に行って、適当に1、2年過ごして、やっぱり自分はそんな人生で終わるのは嫌だなと思ったんです。それで3年生の時に今のバンドを組みました。
ーー自分で詩を書いたものに、メロディを付けてみるという試みが初期の段階であったということですが、コピーから始める方が、一般的な気がします。
コピーはしました。誰も教えてくれなかったけれど、ザ・ブームのメロディだけをコピーしてみたり。あとはビートルズとか長渕剛をコピーしたりしていました。ミュージック・スクールに行ったこともあったんですけど、すぐ辞めてしまったんです。
ーー最初にギターを持ったきっかけはありましたか?
中学校3年生の時にギターの授業があって、それまで触った事がなかったけれど楽しかったんです。そして、いとこがたまたま弾いていて、それを見て通販で買って、本を見ながら練習してました。
ーー誰かに習うというよりは、自分から覚えていったんですね。
そうですね。お兄ちゃんがいたわけでもないし、近所にすごい人がいたわけでもなくて。ただ野球少年だった頃から音楽は好きでした。ブルー・ハーツのライヴに行ったり、レンタル・レコードを借りて聴くのも大好きでした。
ーーなるほど。大学生になってアンダーグラフになる前にも紆余曲折があったようですが。
大学行ってから遊んでばかりで音楽も全然やっていなかったんですが、スマイルという好きなバンドのライヴを、当時付き合っていた彼女と見に行ったんです。その時「バンドってめちゃくちゃかっこいいなあ」と思って、「バンド組むか!」と決めたんです(笑)。
”アンダーグラフ”の始まり
ーー「組むか!」と思ったら、簡単にバンドって組めるんですか?(笑)
それまでも本気じゃなくて適当にはやっていたんです。でもそのライヴに感化されて、ちゃんとやろうと決意したんです。本気で音楽活動を始めたのが20歳を過ぎてからだったので、どちらかというと就職活動に近かったですね。週に何回かスタジオに入って、週に何回ライヴをやってとか決めて。
ーーどんなメンバーで始めたのですか?
もう今はアンダーグラフから離れてしまったのですが、元ギターの阿佐亮介は、幼稚園からの幼なじみです。あいつは高校を卒業して何もしてなくて、ギターを弾いているという噂を聞いていたので、バンドに誘う為に電話したんです。もう1人幼なじみがいたのでそいつも誘ったんですが、ドラムがいなくて。それで探していくうちに中学校3年生なのに結構上手そうな谷口奈穂子という女の子が加入して。
ーーメンバー集めには、そこまで苦労しなかったんですね。
組むには組めたんですが、当時はヴィジュアル系が全盛で近所のライヴ・ハウスに出る事は難しいし、大学の音楽サークルの部室に行っても閉鎖された空間というイメージがあって非常に入りづらかった。そんな中で、もっと色んな人に見てもらえる空間を探すうちに大阪の城天(※大阪城公園内で土日に開催されるストリート・ライヴ)を見つけて、コネクションを探してやっとライヴが出来るようになったという感じです。
ーーでもその頃は「やってみよっか」という軽い感じだったんですよね。オリジナルを始めたのはなぜですか?
友達と1回、コピー曲だけでライヴをしたら、お客さんも知っている曲ばかりなのでやっぱり盛り上がるんです。楽しかったんですけど、どこか面白くないなと思ってしまって、次のライヴは1曲だけオリジナルを交えてやってみたんです。アレンジの仕方もよく分からなかったけれど、見よう見まねの一曲を作ってライヴをしたら友達が褒めてくれたんです。それで味をしめて次はオリジナルを全曲しようという事になり、創り始めました。
ーーコピーをしていた時は、なぜ面白くないと感じたんでしょう?
今でもコピーって面白くないんです(笑)。アンダーグラフでも時々カヴァー曲を演奏したりしますが、リハで2回以上コピーをすると面白くなくなってしまうんですよね。「別に僕がやらなくてもいいんじゃないかな」と思ったりします。その友達は”僕らじゃないと駄目な曲”と言ってくれて、それがとても嬉しかったんです。
ーーオリジナルが、感覚的に出来たというのはすごい事ですね。
バンドでやっていたという点が大きかったと思います。それまでも1人ではオーディションに出していましたが、何も反応が無かったんですよね。自分で曲を作って自分を表すのはお金がかからないから、自分たちで作る程楽しい事はないかなと思いました。
ーーオリジナルになってから城天に行くという流れも、その頃はそんなに決められたルートというわけではないですよね?
そうですね。友達から、仕事場に音楽をしている人が沢山いるという話を聞いて、僕もバイトしに行ったんです。有名な方がいっぱいいて、話しているうちに「城天紹介してあげるよ」と言われて、出られる事になったんです。
ーーシャ乱Qが出て、ヒステリック・ブルーが出て、アンダーグラフも出たという言われ方をよくしますよね。当時の城天はどんな状況だったんですか?
シャ乱Qさんなどを擁するすっぽんファミリーというバンド集団が一番影響力を持っていました。それぞれのバンドごとに仕切られたスペースがあって、5、6個あるスペースのひとつで僕達はやらせてもらいました。ライヴをするのにも城天はタダだったし、色々な人達が立ち止まってくれるんです。人が集まってくれる事が一番いいなと思い活動を始めて、神戸の三宮などでもひたすらストリート・ライヴをしていました。
ーーゆずも出だした頃で、当時はストリートの盛り上がりがそれなりにあったんじゃないですか?
そうですね。その時の天王寺はコブクロさんが沢山の人を集めていました。
ーーなぜストリートを目指したんですか?
まずは回数を自分達で決める事が出来るというのと、ノルマも無いし、当時はストリート・ライヴができる場所がいっぱいあったんです。あとは僕らの音楽はライヴ・ハウスに見に来る子達だけに向けたものではないと思っていたので、積極的にストリートでやろうと思いました。当時は週に7、8回はやっていたんです。
ーーものすごい数ですね。その原動力は?
大阪でワンマン出来る位に人を集められればメジャー・デビュー出来ると思っていたんです。その考えが常に頭にあったので、ひたすらにライヴをし、チケットをさばき、人を呼んだんです。誰に聞いたわけでもないんですが、その目標がずっとありました。
ーーなるほど。1年後にワンマンをするとか、○○人埋めようといった、具体的な目標はあったんですか?
西九条ブランニューというお世話になっていたライヴ・ハウスがあって、そこでワンマンをして250人のキャパを埋めようという目標がありました。そこはGRAPEVINEを輩出したRoad on Stageというオーディションをやっていたんです。優勝したらそこでワンマンが出来るという約束があり、僕の中ではそこが一番メジャー進出に近いと思って活動していたんです。
「10年も20年もずっと聴いてもらえるような良い音楽を作ろう」
ーーストリートを始めてからは、だいぶ本気になりましたね。
そうですね。市内から離れた枚方出身の僕らは、大阪市内でライヴをするバンドはうまいし、真剣に音楽をやっているから負けないようにしようと意気込んでいたんです。でも実際はただ楽しいからやっているという人も結構いたんですよ。じゃあ真剣にやったもん勝ちだと思ったんです。グルーヴに巻き込まれるのではなく、人を集めてワンマンをするという目標だけに集中して、それに必要な事だけをしていました。
ーー当時はどのような音楽をしたい、という事は決まっていましたか?
こういうのをやりたいというのはなかったんですが、ロック・バンドではないなとは思っていました。城天という環境の中では難しい事でしたが、激しく盛り上がりたいのであれば違うバンドを見ればいい。だから良い音楽を届けようという思いがありました。周りはメロディックな激しい音楽をやるバンドばかりで、その中で僕達がバラードをやると音がかき消される時もありましたが、お客さんの方から「こういう音楽をしてるバンドもいるのか」と集まってくれることもあって、段々人が集まったんです。メンバーとは「青春時代の一瞬で終わる音楽より、10年も20年もずっと聴いてもらえるような良い音楽を作ろう」という話をずっとしていました。
ーー真戸原さんの中で「良い音楽」の核とは何ですか?
やっぱり日本で日本語で奏でる音楽なら歌詞ですね。昔から自分で歌詞を書いて歌っていたので、歌詞をちゃんと伝えたいという思いがありました。
ーー目標に向かうために、友達のバンドと一線を引くなんてことはありましたか?
付き合いのあった友人達はそういう感じではありませんでしたが、大阪には「飲んで騒ぐのが大好き」みたいな文化があって、それはバンドの世界でもそうでした。それに流されてしまったバンドマンを沢山見たんです。僕自身は本当にメジャーを目指すなら大学を捨ててでもやるという考えだったので、「目的を持ってやらないと駄目だ」と思っていました。
ーー城天でとにかく沢山のストリート・ライヴを行って、人を集めて、結果としては250のキャパは埋める事ができたのでしょうか?
そうですね、できました。でもワンマンでベースが辞める事になったんです。彼がバンドをずっと続けるという大変さを受けて、違う道を選びたがっているのならば、それを引き留める道はないと思いました。そうなったので次のベースを探していた時にスタジオで働いていた中原一真を見つけて誘い、そこから更に本格的になったんです。
ーーその頃には他のメンバーも「自分達はプロになる」という気持ちは揃っていた?
多分揃ってはいなかったと思いますが、僕が「もし一年でワンマンが出来ないなら才能無いから辞めよう」と勝手に期限を付けて言っていたんです。すると皆頑張るんですよね。ワンマンまでの道は、厳しくというよりは、楽しくやっていました。
ーー集めた250人の内訳は、友達というよりも、広まって客が来たという感じですか?
広まってはいなかったんです。1日1枚チケットを売ったのが250日分あったという感じでした。逆に言えばそのやり方以外ないと思いました。当時コブクロさんは既に厚生年金会館で2デイズをやっていて、地道にやっても僕らは250人で止まっていたので、どうしたらいいんだろうと悩んでいました。何かやり方が違うと思ったんです。プラスのアイデアとして、もっと大きな会場を埋めるっていう案もあったと思いますが、メディアへの露出もせずに音楽活動をするなら、ここまでが精いっぱいなんだと思いました。
大阪で感じた限界、そして東京へ
ーー目標としていた西九条ブランニューでの初めてのワンマン・ライヴでキャパ250を埋めて、次は東京に出てきますよね。そのタイミングに理由はありましたか?
誰一人、ワンマンにレコード会社とかの業界関係者が見に来なかったからです(笑)。ライヴが終わった時に店長に「次はソールド・アウト目指しなよ」って言われたんですが、大学を卒業して1か月程たっていたし、それは待てないと思いました。それで僕らは関西ではやれる事がないなと思い、先輩に手伝ってもらってCDを作って、それを持って東京のあらゆるCD屋に持ち込みをする旅をしたんです。でもね、唯一大宮の一店舗だけが置いてくれたんですけど、あとは、どこも置いてくれなかったんです。重い荷物を持って恵比寿で愕然としていました。
ーーそれで一旦、大阪に帰ったんですね。
そうです。インディーズ・バンドは機材車に乗ってツアーをしたりしますけど、お客さんが集まらない事は分かっているから、僕はやらないと決めていたんです。でもCDがだめなら、ライヴしかないと思って、何もわからないけれど有名らしいという事で、1回だけ下北沢にライヴをしに行ったんです。
ーー大阪ではやる事がなくなったから、下北沢へツアーを行ったという事ですか?
そうですね。あとは大阪へのこだわりを捨てようと思ったんです。東京でメジャー・デビューしかけていた友達に「東京で同じ事をやった方が大きい」と言われたこともあって、どうしようと思った時に「まずは下北沢だ」となりました。
ーーどこでやったんですか?
ガレージでやったんですが、対バンがすごく上手くて、その時点でやっと、単純に人を集めるだけじゃ駄目だと気づいたんです。大阪ではインディーズ業界の中では人を集めるバンドと言われたけれど、キャラが確立されている下北のバンドとの歴然とした差を感じ、焦りました。その後大阪に帰ってきた時に「東京に住んで取り組まないと無理だ」と悟ったんです。
ーー真戸原さんは、きっかけがあると思いきった動きをしますね?
そうですね(笑)。東京にCDを持ち込むのを手伝ってくれた先輩が、東京に出る為のお金を出してくれたんです。そのお金を基に、一軒家で3バンド、計11人で共同生活を始めました。機材を貸し合ったりとかもしていて、3バンドで助け合った方が、お金が無くても回していけると思いました。結局上京してすぐに、1バンドは解散してしまいましたが、浦和で共同生活をしながら下北沢でオーディションを受け続けて、あとは東京のあらゆる街で歌い続けていました。
ーー当時は、ストリート・ライヴの取り締まりは厳しかった?
今よりは緩かったと思います。渋谷でも西武が閉まってからやったりしていました。人が集まり出すと止められるんです。代々木公園、原宿、新宿の西口や吉祥寺でもやりました。新宿でビルのオーナーから思い切り水をかけられたのが、一番つらい思い出ですね。占いのおばちゃんと場所取りでもめたこともありました。
ーー上京した2000年には、ストリートか下北沢で演奏していたってことでしょうか?
いや、先に下北を目指しました。東京に来てまでストリートは無いだろうと思っていたんです。でもことごとくオーディションに落ちたり、ギャラのマイナス分を払わされてお金がすぐに無くなり、これは無理となったのでストリートで人を集めてから再出発を図ろうとしたんです。
ーー大阪と一緒だったんですね。
そうです。でも東京では人が全然止まってくれないし、デモをティッシュに入れて配ったりとか、色々な事をやったのに大阪よりも集まらないという状況が続きました。
ーー人が集まるようになったきっかけはありますか?
それを覚えてないんです。マネージャーに出会ってレコーディングをし出して、ライヴでのブッキングも少しずつ良くなってはいたものの、メジャー・デビューが決まるまでは人が増えていなかったし、ワンマンもやれていなかったと思います。
ーー1バンドは解散してしまったけれど、まだ2バンドで共同生活を続けていたんですよね?
そうですね。でも先に後輩のバンドがメジャー・デビューして、メジャー・デビューも決まっていない先輩と共同生活なんて、気を遣われかねないと判断し、僕達は逃げだしました。
ーー3人抜けても生活は大丈夫だったんですか?
月額でお金の割り当ては決まっていたんです。皆で細かくルールや担当も決めていました。メンバーの時給から計算して必要最低限のバイトの時間を確保して、それ以外は音楽をやろうと僕が決めていました。アルバイトばかりして東京生活が楽しくなくなって、音楽をやらなくなった、という人達の話をたくさん聞いていたので。
ーーそういうお金の管理や分配は、大阪時代から徹底していたんですか?
東京に出てからです。東京に出ると楽しい事が多くて、何をしに来たのか分からなくなってバイトばっかりやって、最終的にバンドを解散するというのは嫌だと思ったんです。その時も1年だけやって駄目だったら才能無いから帰ろうと決めていたんです。
ーーその時も期限があったんですね。
期限が無いとやっていけなかった。とはいえ、メジャー・デビューまで5年かかりました。1年くらいした時にインディーズで作ってもらったんです。何とか一歩前に進めた気持ちがして、そんな事の連続でした。
ーー11人の共同生活はなかなか異様で、すごい環境のように見えますね。
そうですね。24時間音楽がかかっていて、僕が寝ようとしても誰かが楽器を弾いてるので、僕も負けじと練習をしだしたり。今考えるとメジャー・デビュー出来なきゃおかしい環境ですよね。夢があったので全然辛いとは思いませんでした。空いている時間なんていらないと思うほどスタジオに入って練習していましたね。
初めてのレコーディングで生まれた5曲
ーーインディーズ時代の転機はありますか?
当時の僕達にとって、CDを出すという事は大きかったです。デモMDを一晩中ダビングし続ける事もあったので、何とかしてCDを出したかったんです。タワー・レコードにしかないCDは沢山あるけれど、小さな所にもあるCDはすごいものしかないじゃないですか。だからそこに置いてもらえる所まで行きたいと思ったんです。
ーーマネージャーやレーベルと出会えたきっかけは何ですか?
僕らが地道で厳しい事ばかりやっているのを見かねて、知り合いのバンドマンが「男のヴォーカリストを扱いたいと言っているけれど」と紹介してくれて、とりあえず会ってみたんです。そうしたら「レコーディングしてみるか?」と言われて、その一言でグインと心が揺れました(笑)。「レコーディングすか? ハイ!」と。
ーー当時の状況下でそんな事言われたら揺れますよね。それで、正式なレコーディングをしたと。
そうですね。その時に作ったデモが一番苦労したけれど、インディーズとメジャーを比べた時に「この作品からはプロだ」と言えるレベルの作品でした。デビュー曲の「ツバサ」という曲もそうですし、「真面目過ぎる君へ」、「四季」、「君の日、二月、帰り道」、デビュー前に書いた「アンブレラ」という曲の5曲を集中して作ったんです。「メジャー・デビューしたいのなら君が最高の曲を5、6曲を書いて」と怒られて、バイトも行かずに1か月ずっと制作したんです。それをデモとしてレコーディングして、それを持って初めてツアーをしました。
ーーツアーが出来たという事は、状況がだいぶ変わりましたね。
その頃は助けてくれる人たちがいて、5か所くらいのどこに行ってもお客さんがいるようなツアーを組んでくれました。大阪に帰る時は全部新曲で戻ろうと思い、インディーズの最後の方では新曲ばかり持って福岡、広島、大阪、名古屋、東京とツアーをしました。
ーー初ツアーの反応は覚えていますか?
覚えていますね。メジャー・デビュー出来るかもしれないという時期で、デモを配りアンケートを取ると、明らかに「ツバサ」の反応が良かったんです。何故なのか全然分からなかったけれどすごく褒めてもらえて、これでメジャー・デビューを具体的に目指すきっかけを貰えました。
ーーその頃のメンバーのモチベーションはどんな感じだったんですか?
ちょっとずつ進んでいるという感覚はありました。レコーディング出来るようになったとか、出会うはずの無い人と出会ってその人がメジャー・デビューをさせてくれようと頑張ってくれている感じとかから、一歩一歩前に進んでいると感じることができたと思います。
ーーアンダーグラフのインディーズ時代や大阪時代は、曲作りはどのようにされていたんですか?
東京に出てからはバイトと曲作りしかやる事がないので、弾き語りでデモを作ってスタジオでアレンジして、ドラムだけ録って家に帰ってMD-Rにベースとギターを入れてっていうのを延々とやり続けていました。2、3日で1曲完成させる勢いでした。それが毎日続くわけではありませんが、曲が出来たらすぐにライヴやストリートに出るみたいな感じで。
ーー他のバンドと比べて気合が入っていますよね?
一緒に住んでいたバンドも同じような感じだったので、他のバンドがどんなテンションで活動しているのかはわからないんです。友達に見栄を張って「東京でバンドをしに行く」と言ってしまったので、無理だったと言って帰るのは嫌でした。
ーーメンバーに対して尻を叩いたり、何のためにやってきたんだと喝を入れる場面もありましたか?
多少はありましたけれど、メンバーに向かう事はないですね。パワーがバンド内で分裂するよりも、僕が「頑張ってついてきてよ」と言う為には、前を走らなきゃいけない。
そして、メジャーへ
ーーメジャー・デビューの声がかかったのはどういうきっかけですか?
今の事務所の方が色んな所に音を届けに行ってくれて、一緒にやろうといってくれたレーベルがあり、それに乗っかったのがきっかけです。その時にはワンマンも出来そうだったので、ワンマンをして見に来てもらいました。
ーー当時の事務所、つまり今所属されている事務所の方が営業してくれたという事ですね。当時はアンダーグラフとして曲は沢山あったんですか?
そうですね。曲を書いて作って出し続ける事が使命というか習慣のようになっていました。曲が無いのが一番周りが困るし、言いたい事は溢れ続けるので。
ーー真戸原さんが曲を山ほど作る中で、「やっぱり俺の歌詞はすげえ」みたいに、自分の音楽性が確信に変わった部分はありましたか?
それはメジャー・デビューしてからです。「すげえ」というよりも、ここまでさせてもらえるようになったのかと。デビューしてから行定勲監督に「ユビサキから世界を」という映画を作ってもらったんです。僕がずっと見ていた映画の監督さんが僕の歌詞について語ってくれているのを聞いて、書いていてよかったと思いました。ニューヨークでライヴをしている自分だとか、ロンドンでレコーディングしていた隣がジミー・ペイジで、そんな環境で音を作っている時に、幸せだと感じました。瞬間ごとにそういうことはありましたが、自分の書くものがすごいというのはなかったですね。
ーーOTOTOYで掲載すると若い子が沢山見ると思いますが、メジャー・デビューまでで一番得た物は何ですか?
…… 僕には才能がないと思うんです。だから、頑張らなきゃと思うんです。才能がある人がバンドにいて、アイディアがポンポン出てくるわけではないので、僕らは皆が常に頑張らなきゃいけない。努力も半分以上必要という感覚はずっとあります。その努力を続けると何かがあるんだと思います。
(2013年3月4日OTOTOYにてインタヴュー)
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LIVE INFORMATION
live tour 2013 summer
7月14日(日) @大阪 心斎橋JANUS
7月15日(月・祝) @名古屋 ell. FITS ALL
7月25日(木) @東京 CLUB QUATTRO
PROFILE
アンダーグラフ
1997年に真戸原直人(Vo,G)、阿佐亮介(Gt)、谷口奈穂子(Dr)を中心に、前身バンドを大阪で結成。1999年に中原一真(Ba)が加入し、アンダーグラフとしての活動をスタートさせる。大阪城公園でのストリート・ライヴをはじめ、関西を中心に活動する。2000年夏に拠点を東京に移し、都内のライブハウスに出演。2002年にシングル『hana-bira』をインディーズからリリースし、その力強く繊細なメロディが各方面から注目を集める。2004年9月にはシングル『ツバサ』でメジャー・デビュー。女優・長澤まさみが出演したPVと共に話題となり、ロング・ヒットを記録。2006年には彼らの曲を原作にした映画「ユビサキから世界を」が公開され、大きな話題を集める。その後も初の海外レコーディング&ライブの実施、SUMMER SONIC 07への出演など、精力的に活動。2010年にはベストアルバム『UNDER GRAPH』をリリースした。2012年3月に阿佐が脱退し、3人体制で活動を続けている。