2011年3月11日の東日本大震災から4ヶ月。復興に向けて動き出した日本には、大きな問題が残ってしまった。原子力発電所。高円寺や渋谷等では大規模な反原発デモが行われ、ライヴ・ハウスでも、原発反対の言葉が多く聞かれる。人々が原発について考えるようになったのは素晴らしいこと。けれど「原発反対! 」の言葉を発するだけでは、何も変わらない。「絶対安全」だったはずの原発で、メルト・ダウンは実際に起こった。放射能に汚染された大地をどうすればいいのか、手探りの努力が続く。原発問題も、復興も今からなのに、既に時間が経つにつれて、行動を続けるものと、止めてしまうものに別れてしまったようにも感じる。我々は新しい未来を作らなければいけない。
このコーナーでは、『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』と題し、音楽やカルチャーに関わるもの達が、原発に対してどのような考えを持ち、どうやって復興を目指しているのかを、インタビューで紹介する。ここに出てくる人たちは、行動を続けることを選んだもの達だ。「原発反対! 」の言葉を発した後、どのような行動を行うか、一人一人の胸に迫っていくだろう。
(インタビュー : 飯田仁一郎(Limited Express (has gone?) 文 : 水嶋美和)
第二回 : 中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)
中川敬(以下、中川) : いくつの頃?
――高1ですね。だから昨日のソウル・フラワー・モノノケ・サミットのライヴを見てても、すぐにうるっと来てしまいました。
中川 : 今回(東日本大震災)、やっぱりどうしても、記憶を重ねあわせてしまうよね。
――そうですね、どうしても。この「REVIVE JAPAN WITH MUSIC」の主旨なんですが、震災が起こってすぐにOTOTOYで東日本大震災救済支援コンピ『Play for Japan』を作って、東京でも原発反対のムードがすごい盛り上がったんですね。ライヴでアーティストが「原発反対! 」って言って観客が「うおー! 」っとなったり。デモも頻発して、その時に少し違和感を覚えたんです。「原発反対! 」と声を上げて終わってしまうのはまずいんじゃないか。その後、僕らはどう行動すべきなのか。そこを軸に置きながら、中川さんの今の活動を教えて頂ければと思います。まず、3月11日、震災が起こった時に中川さんが一番最初に思ったことは何ですか?
中川 : 大阪の北摂に住んでて。それでも、あの時は揺れたよ。テレビで震源地を確認したら東北で、「え? 東北なのにここまで揺れたん? 」っていう… 。そのままテレビを付けてたら、1時間後には、田園風景が津波に飲み込まれて行く、名取市の凄惨な光景が目に飛び込んできて… 、言葉を失ったな。ずっとテレビやTwitterで情報収集をしてて、夜には火の海になった気仙沼の映像が報道されて、何が起こってるのかよく飲み込めないまま、電源喪失状態の福島第一原発の情報も入ってきて… 。
――11日に震災が起こって、15日に「満月の夕(ゆうべ)」のラフ・ミックスをアップして、行動としては早かったですよね。
中川 : みんなそう言うけど、俺にとって11日から14日までの体感時間は、十日ぐらいあったよ。すごく長く感じた。13日あたりから「俺に何ができるのか? 」っていう思いが交錯し始めて。14日ぐらいかな? (七尾)旅人や曽我部(恵一)が自分の曲をネット上にアップし始めたりして、Twitterでは「中川敬、原発のRTばっかりしてへんと、さっさと東北に歌いに行け! 」ってな感じの勇ましいTweetがやって来たり(笑)。面倒やけどDMで「阪神大震災の時に初めて被災地に入ったのは震災の2週間後。あれは呼ばれて行ったんやで~」って説明したら「すいません、興奮してました」ってリプライが来たり(笑)。そういうのがいっぱい来るのもあって、自分の立ち位置を見つめ直さざるを得ない状況の中、ソウル・フラワーのTwitterのタイムラインに1996年テレビで演奏した「満月の夕(ゆうべ)」の動画が流れてきて。こんなのもあったな~と思いながら聴いてたら、コメント欄に「この曲を聴いて、やっと泣けました」っていう東北の被災地の人のメッセージが載ってて。それを読んだ後にもう一度この曲を聴いたら、なんか涙が止まらなくなってね。で、その後、妙にすっきりして、「さ、やれることからやっていこ! 」と思って、ちょうど初ソロ・アルバム『街道筋の着地しないブルース』に収録するための、1月に録ったばかりの「満月の夕(ゆうべ)」のセルフ・カヴァーがあったから、制作途中段階やけど、聴きたい人だけ聴いてくれたらいいと思って、メッセージを添えてアップしたんよね。(http://www.breast.co.jp/soulflower/sfu20110314.html)
――その後、被災地に行ったのはいつ?
中川 : 4月後半。スケジュール的になかなか行けなくて。3月後半に自主企画のイベント『闇鍋音楽祭』が大阪で2日間、東京で2日間、横浜で1日あって、まずはその開催がどうなるかという問題があった。3月18日頃から、数人の友人がボランティアで被災地に入り始めて、連日、被災地の状況を電話で確認しながら、沖縄の伊丹英子と『ソウルフラワー震災基金2011』を立ち上げる話をしたり。4月に入って「あ、ソロ・アルバムの制作、止まってるやん! 」ってなって(笑)、残り数曲をレコーディングしたりしてて。4月24日にアースデイのイベントで、ギターと三線持って東京に行くことは決まってたから、じゃあ大阪から車で向かってそのまま東北を周ろうかなと。高木克、奥野真哉、石田昌隆(音楽ジャーナリスト)や、あと、スケジュールが合致したスタッフの数名で。それが最初。
――被災地を訪れた時の最初の印象は?
中川 : 本当、言葉を失った。あまりの酷い惨状に、目の前の光景が現実として胸に落ちてくるのに相当時間がかかった。
――最初はどこへ行ったんですか?
中川 : 友人の上野祥法(ロフト・プロジェクト)が震災直後からボランティアで石巻に入ってて、彼に現地を案内してもらった。石巻の保育園に文具が足りてないっていう話を聞いてたから車に載せて持って行ったんやけど、先生の一人が「ソウル・フラワー・ユニオンの中川さんですか!? 」ってなって、いきなり記念撮影大会(笑)。なんか気持ちをラクにしてもらったよ。その後は女川に行ったんやけど、波止場から数キロのところまで壊滅状態で、俺らは1時間ぐらい言葉もなく歩いてた。するとBO GUMBOSの岡地くん(岡地明)から「石巻のラ・ストラーダっていうライヴ・ハウスに船が突っ込んでる。そこの店長に会ってくれないか? 」ってメールがきて、帰りに石巻で店長・相澤さんと邂逅。で、今度はTwitterで繋がってた仙台の若手バンドのメンバーと「今から会おうか? 」って話になって、直接仙台の状況を聞いて、次は、神戸長田のFMわぃわぃっていう阪神大震災の時に立ちあげられた災害FMの代表・日比野さんから「亘理町でも災害FMが立ち上げられたからそこに寄ってくれ」って連絡がきて、亘理町に行って、次は、白石のカフェ・ミルトンに立ち寄って。せっかくここまで来たのなら福島で岡地くんに会って帰ろうかって… 。関西人からすると大陸のような東北なんやけど、俺のポンコツ車で、見事に分刻みのスケジュールで周ることができた。
――その時、ライヴは?
中川 : 楽器は持って行ってたし、ボランティアにも「演奏しますか? 」って聞かれたけど、その時はしなかった。押しつけるものじゃないしね。でも結果的には良かったかな。まず徹底して人の繋がりを作ることができたし。
――なぜ歌わなかったんでしょう?
中川 : そういう気持ちにならなかった。ミュージシャンである前に人間、ホモサピエンス。被災して大変な人たちに、逆に気を使わせてしまうかもしれない。「遠くからエンタメさんがやってきました。さっそく今から演奏します~」っていうのもどうかな? って。やっぱり「呼ばれて、演る」っていうスタイルやね。阪神淡路大震災の時のソウル・フラワー・モノノケ・サミットでも徹底してそうしてたしね。被災地でゲリラ演奏はしてない。それと、その段階で、5月に演奏しに来る予定が決まり始めてたしね。
やっぱり俺らは音楽を演りに行かなあかんって心底思った
――ソロ・アルバムに関しては4月に数曲レコーディングしたとのことですが、震災の影響は受けましたか?
中川 : そうやね。結局3月11日より前に書いてた歌詞は白紙に戻して書き直したりした。
――どういう風に変わった?
中川 : 例えば、アルタンの「プリティ・ヤング・ガール」のカヴァーを「風来恋歌(ふうらいれんか)」っていうタイトルにして、日本語詞で歌ってるんやけど、元々の原詞は、風来坊が旅先で女性に恋をするラヴ・ソング。俺も当初は、ある程度そこに忠実に自分の歌詞を書いてたんやけど、曲を録り始める時にもう一度見直すと、もうちょっと大きな意味での別離の唄に変えたくなった。別に被災地のことを直接的に歌いこんでるわけじゃないけど、自分の頭の中に映り込む光景が、3.11以降、完全に変わってしまってね。で、それを録り終わった後にインストを2曲入れようと思って。うちの子供が4歳なんやけど映画の『男はつらいよ』にはまってて…。
――4歳で寅さん? すごい(笑)。
中川 : 「寅ちゃん」って呼んでる(笑)。震災が起こる前に家族で晩飯時に連日観てて「男はつらいよのテーマ」も入れようかなって冗談半分に言ったりしてたんやけど、歌詞の内容がアルバムに合わないからやめてた。でも、「風来恋歌」を録り終えて、何かインストを録ろうって思った時に、ふと頭の中に、失恋した寅次郎が北に向かう光景が降りてきた。70年代の、貧しくても笑顔を絶やさない、人なつっこい、半漁半農の、人間の尊厳に満ち溢れた東北の情景。そこから「男はつらいよのテーマ」をインストで録ろう! っていうことになった。
――では、実際に被災地で歌い始めたのは5月?
中川 : 4月末に「避難所暮らしが一カ月半続いて、みんな疲れてる。そろそろ唄や芸能の出番じゃないか」って、被災地から情報が入ってき始めた。そこで先述の上野が、山田洋二さんの事務所から『男はつらいよ』、手塚治虫さんの事務所から『ジャングル大帝』のフィルムを借りてきて、被災地で上映したりし始めて。その話を聞いて、「よし、歌いに行こう! 」。ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーのスケジュールは埋まってたし、モノノケ・サミットは人数多いから移動が大変やし、俺一人の弾き語りは音楽的に未知数過ぎる(笑)。これはリクオやな。ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザン。で、「一緒に周らへん? 」ってリクオに声をかけたら「行こか! 」って。
――アコースティックですよね?
中川 : うん。5月は6箇所回ったんやけど、後半の3箇所はPAシステムも何もなくて、俺の人生の中でここまで大きい声で歌ったことはないっていうぐらい、大声で歌ったよ(笑)。
――それにギターは負けないんですか?
中川 : 阪神淡路の時もメガホンで歌ったりしたんやけど、みんなすごい耳を澄まして聴いてくれる。そりゃベストな状況ではないけど、あれはあれでまた独特な音楽空間になる。まあ、ホモサピエンス、数十年前までPAシステムとか持ってなかったし(笑)。
――ニューエスト・モデルやソウル・フラワーのことを知っている方は居ましたか?
中川 : あくまで被災した人たちに向けたライヴやから、Twitterでの公表も3日前ぐらいにした。仙台や気仙沼から、30、40代ぐらいの、元々俺らを知ってくれてる奴らが、どの避難所にも数人ずつぐらい来てくれた。
――やはり年輩の方が多かった?
中川 : そうやね。阪神淡路の時と比較して最初に思ったのはそこ。常時若者が都会に出て行く土地柄やから、阪神淡路大震災が都市の災害だったっていうのを改めて感じた。しかも阪神淡路はもう16年前やから、当時の年寄りと今の年寄りは違う世代。当時は民謡とか戦前の壮士演歌の「通り」がよかったけど、今の年輩は、実は演歌世代、フォーク世代。そういうことって普段あんまり考えないよね。
――当たり前のことなんですけど、確かに考えないですね。
中川 : でも、みんなやっぱり民謡は好きやね。「斎太郎節」の時とか、みんな歌ってたし、若い子も知ってた。リクオが歌う石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」とか、俺が歌う「お富さん」とかは、タイトルを言うだけで避難所がどよめいたり(笑)。あと、やっぱり「アリラン」や「安里屋ユンタ」を演ると、阪神淡路の時同様、歌ったり踊ったりする人が現われる。普段出自の話なんてせずに暮らしてるけど、音楽が鳴り始めた瞬間に踊り方でルーツがそこに立ちのぼる。
――そこから6月、7月と何度も行かれてますが、具体的にはどこを周りましたか?
中川 : 6月にはラウズの西村茂樹も被災地にボランティアで入り始めて、上野と西村、ブッキング・マネージャーが2人になった(笑)。5月は石巻、女川、南三陸の志津川と歌津、6月はソウル・フラワー・ユニオンの仙台ライヴの後に、行けるメンバーだけで石巻、女川、気仙沼、陸前高田、大船渡の避難所で演奏した。
――その仙台でのライヴが神がかってたって、僕のTwitterのタイムラインで盛り上がってました。実際、やってみてどうでしたか?
中川 : 心から歓迎してくれて… 。ステージ上からみんなの顔を見て、感無量になったよ。みんな泣いてたな。みんな心に溜めてるものがたくさんあるんやと思ったね。でも、あんまり泣かれると俺も演奏しにくくなって、泣きたくなってくる(笑)。若い頃は「泣きの音楽」なんていややった。でもホント、泣くっていいな。心底に、澱のように沈殿した思いは、吐き出さないと次になかなか行けないよね、人間は。この話はなかなかMCでは出来ないんやけど、5月の一回目の避難所ライヴ、女川総合体育館でやった時、ライヴ自体はすごい盛り上がって… 、その後に60代後半ぐらいのあるおっちゃんが近付いて来て握手を求めてきて、「お兄ちゃんありがとうね、音楽っていいね」「音楽っていいね」って繰り返し言った時にうわーって号泣して。俺の手を握ったまま泣き崩れて、周りの人もびっくりしてて、「おっちゃん元気でいてよ。俺また来るし」って言うたんやけど、「ありがとう、ありがとう」ってずっと泣き続けてて。阪神淡路で200回以上ライヴをしたけど、初めての体験やった。後で聞いたら家族も仕事も家も全部なくした人らしくて… 。その時、せっかく古い流行り唄とか出来るんやから、やっぱり俺らは音楽を演りに行かなあかんって心底思った。「忙しい」「しんどい」とか言うてたらあかんよ! 音楽やりなさい、中川敬! って(笑)。それは、ほんま辛かった。日本男児って基本、我慢をする。避難所暮らしがずっと続いてて、プライバシーがないから余計に泣けない。
――中川さんは今被災地の方で活動をしていますが、世の中の情勢やみんなの意識は原発の方にかなり傾き始めていますよね。
中川 : 未だに何も収束していないし、今も福島第一原発は相当危ない。もっと被災地のことを考えたいって思うんやけど、どうしても意識は原発の方に向いてしまう。でも「復興」は「原発」と切り離せないよ。
――被災地はまだ決していい状況になった訳ではないのに、みんなの意識が原発反対に動き始めている。その中で、中川さんはどうバランスをとっていきますか?
中川 : いやいや、着地しないままでいるよ。ひとつだけはっきりしてるのは、人間、体一つしかないわけやからピンポイントでやっていくしかない。被災地で知り合った人のところに支援物資を送るとか、マスコミが取り上げない原発や汚染状況の情報を広める、とか。
――原発に対して、今ミュージシャンが動けることはありますか?
中川 : 俺はニューエスト・モデルの初期の頃から自分なりに原子力ムラに対して異議申し立てをやってきてて、自分史の流れの中で、今自分に出来ることを着実にやっていこうと思ってる。誰も彼もが、必ずしも、メッセージを歌に託すという表現形態でなくてもいいと思うしね。例えば、忌野清志郎さんのやり方とか、本当素晴らしい。こないだの『フェスティバル FUKUSHIMA!』のミチロウさんのスターリン246も素晴らしかったし、ニューエスト・モデルみたいな暗喩のメッセージもイイね(笑)。今、俺の場合、被災地とやりとりをしてるからかもしれないけど、一人一人の心のひだに寄り添うような唄って何なのか、自分なりに模索してる。それぞれがそれぞれのやり方をすればいいんじゃないかな。例えば、斉藤和義くんには斉藤和義くんのやり方があるし。俺は俺の作法でやる。受け身のロック・ファンが勇ましいヒーローを待望するような形ではなく、ひとりひとりが世の中を能動的に変えて行くような、そこに至る道筋に今興味がある。
――福島でも演奏はしましたか?
中川 : 7月、南相馬にリクオと克と演奏しに行った。ガイガーカウンター持って、いろんな場所の線量も測ってみた。南相馬には大熊町や双葉町から避難してる人も多くて、演奏終わった後に立ち話したおばちゃんも双葉町出身やった。「原発推進派が多い辺やんね? 」って聞いたら「そうなの。私もずっと安全なものやと思ってて、原発反対なんて考えたこともなかったよ~」って言ってた。「もう家にも帰れないわ。最悪よ! 」って。街中は子供や若者の多くが疎開してるから空気が独特やね。福島第一原発で未だに何が起こるかわからない状況の中で、それぞれ動けない事情があったりして… 。ここにきてもなお、「国策」に振り回されている。
――南相馬での演奏はどうでした?
中川 : スーパーの中で、集まったのは数十人ぐらい。手拍子する人もいれば、ずっと笑ってる人もいれば、考え事をしながら凝視してる人もいたし、いろんな人がいるよね。知的障害の女の子が「アンパンマン・マーチ」で大盛り上がりやったよ。ただ、いつであろうがどこであろうが、ライヴでは俺らも音楽をするしかない。被災地ライヴのMCでは、あまり今回の災害のことには触れないようにしてて、神戸の被災地でのエピソードを挟み込みながら演ってる。ライヴを観てる間は、辛い日常を考えずに済む時間を作りたいしね。
――実際、関西とは違います?
中川 : 一口では言えないね。一説には、東北人気質で大人しいとか聞いてたけど、例えば気仙沼ではすごい盛り上ったし。各地、漁師町気質っていうのもあるらしいし。終わった後で、あるおばちゃんに「「満月の夕」を聴いてちょっと泣きそうになったけど、なんとか泣かなかったよ! 」って笑いながら言われたり。ただ、やっぱり阪神淡路大震災の時は、やっぱり「関西人同士」やったんやな~、と思うところもあるね。苛酷な体験をした人がみんなにギャグを飛ばしまくってるようなノリは、「関西人気質」ということもあったのかもね。溜め込まずに、ズバズバ思ってることを言うようなところとか。
「音楽」は、単にそこで鳴ってる「響き」だけじゃない
――中川さんはいろんな被災地で活動をしてますが、中川さんのような活動を出来ない人はどうしたらいいですか?
中川 : いやいや、みんなに「出番」があるよ。みんな同じことをやる必要はないし、「活動出来ない人」なんていない。
――その活動とはどこからどこまでのこと?
中川 : 何でもあるんじゃない? 例えば、ネットで東北と繋がりが出来て、友人とのやりとりの中で自分が関われそうなものを探したり。「復興」と「原発」は切り離せないわけであって、「今は私、脱原発デモを頑張る」とか。自分の街に疎開して来た被災地の人のケアをするとか。活動的な人のバックアップをするとか… 。いやいや、ほんと無数にあると思うよ。世の中、いろんな性格の人がいて、それぞれがそれぞれにシックリくるやり方があるはず。昔から、困った時はお互い様。これは長期戦。みんなに「出番」が回ってくるよ。
――中川さん的にはどれぐらいの長期戦になると思いますか?
中川 : なってほしくないよ、もう。はよ終わって欲しいわ。心平穏に過ごせる日々が、一日でも早く、みんなに戻って欲しい。
――とはいえ10年、20年かかりますよね。
中川 : ひとつ言えるのは、今後日本列島で暮らしていくということは、この状況を引き受けざるをえないということ。「引き受ける」ということは、まず「知ること」やね。子どもがいるのなら、細かくまだら状にあるホット・スポット、食品の産地も調べながら購入するようにする。大手食品企業や各行政の体質も注視やね。もちろん、どうしてこういう事態になったのか、こんな「テロ」まがいのことを引き起こしたシステムについて具体的にちゃんと知って、声を上げていく。一人一人がこの社会をちゃんと引き受ける。動く。次世代の子どもたちにバトンを渡せるように。
――福島産の桃が安全基準を通ってても一箱100円で叩き売りされていたり、気仙沼の漁場が潰れてしまったり、次の生活の糧がない人がいっぱいいますよね。
中川 : 第一次産業の問題は深刻。賠償の道筋をはっきりつけなあかん。急がないと。そこがはっきりすれば、自主避難を選択出来る人も増えるし、次の人生に向かえる人も増える。みんなが次の段階に進めるような頑強なシステムを作らないと。それに、日本の食品の放射能暫定基準値もとんでもないからね。チェルノブイリ被災三か国の基準で、水が2ベクレル/リットル、野菜60ベクレル/kg、果物70ベクレル/kg。きっと、全摂取量を合せて年間1ミリシーベルトっていうことが考えられてるんやろうね。それに対して日本は500ベクレル… 。生産者であろうが消費者であろうが、声を上げていかないと好き勝手にされる構造に組み込まれてるっていうことを、否応なく突きつけられたのが、今回の3.11やね。
――その状況の中で、音楽はどういう風に復興に役立っていくと思いますか?
中川 : まずは、喜怒哀楽を出せる場所としての「音楽」。被災地のある場所でライヴをした時、俺は気付かんかったんやけど、ライヴ中に喧嘩があった。その二人は元々知り合いで「お前のところはあまり被害がないけど、俺は家が流されたんだ! 」ってことから喧嘩になって、最終的にお互い仲直りしたらしいんやけど、止めに入った人が「いや、良かったんです。やっと感情が出せたんですよ、彼らは」って言ってた。あともう一つエピソードがあって、4月に初めて女川に入った時に、「瓦礫」の中にターンテーブルを見つけて、写真に撮ってTwitterにあげたら、「これ、俺のかもしれない」っていう人が現れて、DMでやりとりして直接電話で話してみたら、それが女川の蒲鉾(かまぼこ)本舗「高政」の高橋正樹くんで、熱心なソウル・フラワーのファン。仙台でのライヴはほぼ見に来てくれてて、しかも大学生の頃に阪神淡路大震災の被災地にボランティアで入ってて、モノノケ・サミットの機材を運んだことがある、という(笑)。(日本経済新聞記事「ターンテーブルがつなげた思い」)音楽人同士の繋がりって、他の「趣味が同じ」っていうのとはちょっと違うんよね。例えば、酒を酌み交わしながら、いきなりバカ話を出来る関係になったり。他に南三陸志津川でも、トモちゃんっていう熱心なニューエスト・モデルのファンと出逢って、彼もギャグばっかり言ってるような男なんやけど(笑)、『ソウルフラワー震災基金』のことでお世話になってる。彼は、自分の家も店も全部流されて、遺体運びに始まるあらゆる苛酷な状況を体験して、今は仮設住宅で暮らしてる。女川の避難所ライヴを観に来た山崎君というソウル・フラワー・ファンの男は、潜水士で、震災以降、三陸沖の海中にずっと潜って、遺体や建築物の捜索をやってる。人と人を繋ぐ力。これも「音楽」の力やと思うよ。
――感情なんですよね、音楽は。
中川 : 「音楽」は、単にそこで鳴ってる「響き」だけじゃないねんな、俺にとって。「音楽は世界を変えない」って言い方があるけど、そういう風に言うのはもうやめようやないかってずっと俺は言ってる。もちろんそれは「メッセージ・ソング」の類いのことを言ってるんじゃないよ。「音楽」はそんな簡単な小さな世界に収斂されてしまうようなものじゃない。ホモサピエンスはずっと「歌ってる」よ。七万年ぐらい前に壁画を書き始めたわけやから、抽象概念をそのあたりでゲットして、そこからずっとこんなことをやってるんやな(笑)。歌ったり、笛吹いたり、太鼓叩いたり、踊ったり… 。で、人と人が繋がっていく。これはもう、否応なく!
(2011年08月20日取材)
連続記事「REVIVE JAPAN WITH MUSIC」
- 第一回 : 大友良英インタビュー
- 第三回 : 山口隆(サンボマスター)インタビュー
- 第四回 : Alec Empire(ATARI TEENAGE RIOT) インタビュー
- 第五回 : 平山“two”勉(Nomadic Records) インタビュー
- 第六回 : 小田島等(デザイナー/イラストレーター) インタビュー
- 第七回 : PIKA☆(TAIYO 33 OSAKA/ムーン♀ママ/ex.あふりらんぽ) インタビュー
- 第八回 : 箭内道彦(クリエイター/猪苗代湖ズ) インタビュー
EVENT SCHEDULE
ソウル・フラワー・ユニオン
『年末ソウルフラワー祭 2011』
2011年12月10日(土) @大阪 BIGCAT
2011年12月11日(日) @名古屋 クラブクアトロ
2011年12月17日(土) @恵比寿 LIQUIDROOM
2011年12月20日(火) @仙台 LIVE HOUSE enn2nd
『「ホモサピエンスはつらいよ」ツアー 横浜振替公演・2011大忘年会!』
2011年12月28日(水) @横浜 F.A.D YOKOHAMA
出演イベント
2011年10月9日(日) @静岡県富士宮市 朝霧アリーナ
『朝霧JAM』
2011年10月23日(日) @京都 KBSホール
『BOROFESTA 2011』
※蒲鉾(かまぼこ)本舗「高政」高橋正樹さんがこのインタビューをきっかけに、BOROFESTAにトーク・ゲストとして出演することになりました。
2011年10月28日(金) @下北沢 GARDEN
『GARDEN -REBOOT!! ANNIVERSARY EVENT-【ロックの庭 vo.1】』
中川敬
2011年11月26日(土) @新宿ロフト
『-SOUL FLOWER EARTHQUAKE FUND 2011 DONATION-「THE LOODS LIVING AFTER 311 TOUR」』
PROFILE
中川敬 NAKAGAWA TAKASHI
ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のヴォーカル/ギター/三線。前身バンド「ニューエスト・モデル」に始まり、並行活動中のチンドン・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」や、アコースティック・ユニット「ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザン」と、多岐にわたるバンド/ユニットのフロントマンとして、ライヴを通じて多くの人々を魅了している。また、トラッド、ソウル、ジャズ、パンク、レゲエ、ラテン、民謡、チンドン、ロックンロールなど、あらゆる音楽を精力的に雑食・具現化する、これらバンドの音楽性をまとめあげる才能をして、ソング・ライター/プロデューサーとしての評価も高い。
ソウル・フラワー・ユニオン
80年代の日本のパンク・ロック・シーンを語るには欠かせない存在であったメスカリン・ドライヴとニューエスト・モデルが合体する形で、'93年に結成。'95年、阪神淡路大震災を機にアコースティック・チンドン・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」としても、被災地での演奏を中心に精力的な活動を開始。'99年には、韓国にて6万人を集めた日本語による初の公演を敢行。トラッド、ソウル、ジャズ、パンク、レゲエ、ラテン、民謡、チンドン、ロックンロールなどなど、世界中のあらゆる音楽を精力的に雑食、それを具現化する祝祭的ライヴは、日本最強のオルタナティヴ・ミクスチャー・ロックンロールと評される、唯一無二の存在として、国内外を問わず高い評価を得ている。
オフィシャル HP
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オフィシャル myspace
ソウルフラワー震災基金からの報告とお願い
OTOTOY東日本大震災救済支援コンピレーション・アルバム
『Play for Japan Vol.1-Vol.6』
『Play for Japan Vol.7-Vol.10』
>>>『Play for Japan』参加アーティスト・コメント一覧はこちらから
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