【連載】〜I LIKE YOU〜忌野清志郎──《最終回》 角田光代
INTERVIEW : 角田光代 (作家)
約半年間にわたり、さまざまな方に忌野清志郎について語っていただいたこの連載も、今回で最終回。最後にご登場いただくのは、『対岸の彼女』『空中庭園』『八日目の蝉』等の作品で知られる直木賞作家の角田光代さん。10代からの清志郎ファンとして知られており、清志郎の著作にも多数寄稿している。そんな角田さんは、どのようにその存在と出会い、どんな魅力を感じていたのだろう。また、2009年5月2日に彼がこの世を去って以降、約10年の月日をどのような想いで過ごしてきたのだろうか。角田さんの人生に於ける「忌野清志郎」とは。その言葉は、多くの清志郎ファンの気持ちを代弁してくれている気がした。
企画・取材 : 岡本貴之 / ゆうばひかり
文・編集 : 岡本貴之
撮影 : ゆうばひかり
ページ作成 : 鈴木雄希(OTOTOY編集部)
協力 : Babys
「何が起きているかわからないけれども、すごいものに触ってしまった」
──角田さんは、以前から清志郎ファンとして知られていますが、いつ頃清志郎さんの音楽と出会ったんですか。
角田 : 1986年にRCサクセションの日比谷野音ライヴを観に行ったのがはじまりです。もちろんRCのことは知っていましたし、「い・け・な・いルージュマジック」(※1)がすごく流行っていたので忌野清志郎も知っていたんですけど、イロモノだと思っていたところがあって、あんまり印象がなかったんです。ただ、19歳のときに友だちから「チケットが余ったから」って誘われて、野音に連れて行ってもらったことがきっかけで好きになったんです。
※1 「い・け・な・いルージュマジック」
1982年2月14日発売の忌野清志郎と坂本龍一のコラボシングル。
資生堂1982年春のキャンペーン・テーマ曲としてチャート1位を獲得する大ヒットとなった。
──1986年の野音ライヴですね。
角田 : そうです。たしか、アルバム『the TEARS OF a CLOWN』(1986年10月12日)になったときのライヴだと思います。
──そのライヴを観て、イロモノ的に見ていた清志郎さんの存在が角田さんの中でどのように変わったのでしょうか。
角田 : 「カッコイイ!」と思ったんですよね。ちゃんと覚えてはいなくて、あえていま言葉にするとズレがあると思うんですけど、たぶん「本物を見ちゃったよ!」みたいな、ビリビリ痺れちゃったような、「何が起きているかわからないけれども、すごいものに触ってしまった」みたいなところがあって。それで一瞬にして好きになったんです。
──それまでは、曲もほとんど知らなかったわけですよね。
角田 : はい、全然知らなかったですね。
本当の自分とも出会うし、私が本当だと思えたものと出会える感覚があった
──振り返ってみると、清志郎さんの何がそんなに19歳の角田さんをビリビリさせたんだと思いますか?
角田 : 私はずっと、高校まで同じ学校に行っていて。ほぼ女子校で、ほとんどそこから出たことがなくて。自分が好きなものっていうのを、その狭い世界内で規定していたようなところがあったんです。たとえば、18歳のときに『ピンク・フラミンゴ』(1972年に公開されたジョン・ウォーターズ監督作のカルト映画)を観たんですけど、高校時代までだったらそういう情報って入ってこないし、もし入ってきても汚らしいものとして入ってくるんですよ。高校時代にテレビで見た清志郎がイロモノに思えたというのは、そういうことだと思うんです。私の素の意見というよりは、みんながそう思うであろう意見。みんなに受け入れられないだろうものは、自分で判断するより先に見ないようにしていたんです。
だから高校を出てようやく外の世界に出たときに、まっさらな気持ちで好きだと思えるものを見つけなくてはならなくなった。『ピンク・フラミンゴ』なり、メイクをしてヴォーカルが歌うRCなり、私ははじめてそれらを好きだと思う自分を自覚したんです。それらがある世界がリアルだと思えたんです。いままでの自分の狭い世界、だれかの意見というものが、その世界の前に崩れてしまったんです。いや、かんたんにいえば「なんだ私、べつにピーター・ラビットとか、好きじゃなかったじゃん!」てことなんですけど。
──(笑)。
角田 : 本当の自分とも出会うし、私が本当だと思えたものと出会える感覚があって。それは年齢的なものもあったと思うんですけど。そのひとつがRCだったのかなって思います。
──そこから、RCのレコードを遡って聴いていったわけですか。
角田 : 全部のレコードは買えなかったので、「友&愛」(レンタル・レコード店)で借りてきて(笑)。
──ありましたね、「友&愛」(笑)。
角田 : 借りてきたレコードをカセットに録音して。ウォークマンが出はじめの頃だったので、それで聴いてました。
自分の世界が言葉と音楽によって広がっていく感じでした
──ちなみに、RCと出会う前はどんな音楽を聴いていらっしゃったんですか?
角田 : サザンオールスターズです。15歳のときから、東京・神奈川でやるサザンのライヴは、ほぼ行ってました。19歳からはRCのライヴに行くようになったんですけど、最初は清志郎を好きな人がまわりにいなかったんですよ。はじめてつきあった男の子と、いちばん親しかった女の子の、二人だけで。彼らと一緒にファンクラブに入りました。そこからはチケットが取りやすくなったので、ずっと行ってましたね。
──著書『これからはあるくのだ』(文春文庫)に収録されているコラム「わたしの好きな歌」で「スローバラード」のことについて書いていらっしゃいますが、同様に青春時代のライヴや曲に対するエピソードなどがあれば教えてください。
角田 : (RCを)聴きはじめたのが19歳で、そこから大学に行ってる時期なんかはすごく時間があるわけで、本当にず〜っと聴いていたというか。他にもいろいろ聴いてはいたんですけど、RCだけは歌詞にすがるような気持で聴き続けていたんですよね。
──すがるように、というのは生活の中で嫌なことがあったり、寂しいときに、清志郎さんが歌う歌詞で自分の心の隙間が満たされるようなところがあったのでしょうか。
角田 : あ、逆かもしれないです。自分の中がそんなに広くなくて、満たされるほどの隙間もないんですよね。ただ、歌の方が自分の持っている世界より広いので、一生懸命聴けば、世界の輪郭がクッキリするというか。自分の中にはまだ狭い世界しかないんだけども、外界の言葉を一生懸命追うことによって、世界が言葉と音楽によって広がっていく感じでした。
──そこが、小説家としての角田さんを形作っていったところもあるんですか。
角田 : それはありますよね。具体的に言うと、清志郎の歌詞で〈ガード・レールけとばして 見上げる空〉ってあるじゃないですか?(「エンジェル」)あれって、自分では目にしていても、それを切り取って美しいとは思わないんですよ。でも、その歌詞を聴いたことによって光景が出来上がってしまって、尚且つそれを美しいと思う。その世界は、清志郎の歌詞が作ったものですよね。そういう、自分の中にない景色なり世界なりがいっぱいあったんです。だから、私は実際の自分の目で見た現実よりも、そっちで世界を構築してしまったなっていう気がします。
──野音のライヴを観たときから、ガラッとそうなって行ったわけですね。
角田 : そうですね、はい。
自分の世界がなかったんでしょうね。そういう力を借りないと、作れなかったんだと思います
──角田さんが小説家を志したのは小さい頃からとのことですから、清志郎さんの音楽と出会った頃にはもう小説を書いていたんですよね。直接的な影響はどんなことがありましたか。
角田 : 私が19歳ではじめて文芸誌に応募した小説が、最終選考にまで残ったんですけど、ほぼRCの歌の一節が引用されているんですよ、ダサいくらいに(笑)。
──(笑)。清志郎さんの歌の世界に憑りつかれたようになっていたんですかね。
角田 : それはつまり、自分の世界がなかったんでしょうね。そういう力を借りないと、作れなかったんだと思います。
──じゃあもう、青春時代は忌野清志郎と共にあった感じですか。
角田 : 正確に言えば、22、3歳でブルーハーツが出ていたり、ボ・ガンボスやストリート・スライダーズがいたりして、ず〜っとRC一筋ではないですけど、ファンクラブに入ってずっと定期的にライヴに行き続けていたのはRCだけです。都内でやっているRCのライヴには全部行ってました。
──RC活動休止後も、途切れなくライヴには足を運んでいたのでしょうか。
角田 : 一時期、RUFFY TUFFYの頃とかはちょっと興味をなくして、観に行ってないですね。
──興味をなくした、というのは?
角田 : 曲を聴いても何も心に響かなくなってしまって。
──2000年以降になると、かつてのRCのようなホーンセクションが入った編成になりましたよね。そこからまた聴くようになりました?
角田 : そうですね、そのあたりからはまた聴くようになりました。
──やはり、角田さんの中では忌野清志郎イコールRCということでしょうか。
角田 : う〜ん、でもRCって90年に活動休止してますよね。だからほんのちょっとしか観てないんですよね。曲として考えるとRCの方が印象が強いですけど、やっぱり表現者としては、忌野清志郎っていう人の方が印象深いのかなって思います。
「忌野清志郎は音楽の人だったけれども、でも、言葉の人でもあった。」
──角田さんは、「エリーゼのために」(角川文庫)の文庫版解説で、「忌野清志郎は音楽の人だったけれども、でも、言葉の人でもあった。」と書いてますよね。
角田 : はい、はい。
──最も影響を受けた歌詞、言葉ってどんなものですか。
角田 : 「ダーリン・ミシン」とか「エンジェル」ですね。選んでいる言葉の珍妙さというか(笑)、斬新さ。〈赤いコールテンのズボン〉とかを、他の人が書いたり歌ったりしたらとってもダサいと思うんですけど、“こんなにザ・日本"的なものを、言葉自体を解体して新しい意味を提示させることができるんだっていう。
──他の音楽を聴くときにも、清志郎さん的な匂いのある人たちを好きになった感じなんですか? ブルーハーツの甲本ヒロトさんやボ・ガンボスのどんとさんなんかはまさにそんな感じのヴォーカリストだと思いますが。
角田 : 清志郎の感動をもう一度、とは思っていないんですけど、他の何かを知りたいというときに、いろいろ教えてもらって聴いたりしているうちに、逆に気付いたというか。自分がなんで「これは好き、これはダメだ」って思うかというと、「やっぱり曲じゃないや、言葉だ」ということには気付きました。あと、ちゃんとした歌詞でも、自分と何かが共鳴しないと、割と受け入れられないんだなっていうことが、成長するにつれてわかってきましたね。
タイマーズが遅刻してきたりするのは正直面倒くさいなって思ってました(笑)
──角田さんがRCを聴きはじめた1986年から少しすると、清志郎さんは『COVERS』(1988年8月15日)『コブラの悩み』(1988年12月16日)『THE TIMERS』(1989年11月8日)等、激動の時代に突入していきます。この時期はどんな思いで聴いていらっしゃいましたか。
角田 : ちゃんと、「カッコイイな」と思って聴いていました。好きなバンドが新しくやっていることとして、ライヴも相変わらず観に行ってました。
──新聞広告で発売中止が出たりという、一連の騒動についてはいかがですか。
角田 : やることが全部カッコイイなって思って見てました。タイマーズもカッコイイと思って見てたんですけど、ライヴを観に行くと、登場するまでに1時間くらい遅れてくるわけですよ。そうするとこっちは、すごく狭い空間の中で1時間待たされるわけなので、そういうのは楽しいと思わなかったですけど(笑)。タイマーズはイタズラがすごく好きで、学祭でも大麻に見立てた火のついたタバコを投げ捨てたりとか、センセーショナルにいろいろやっていて。CDが発禁になるとかは良いんですけど、遅れてきたりするのは正直面倒くさいなって思ってました(笑)。
──(笑)。タイマーズはいまもセブンイレブンのCMで「デイ・ドリーム・ビリーバー」が使われていますけど、当時もシングルで出た「デイ・ドリーム・ビリーバー」で好きになってライヴを観に来たら「原発賛成音頭」とかをやっていて、引いてた女性ファンがいたみたいですね。
角田 : あはははは(笑)。それはそうですよね。
『忌野旅日記』の解説は、気負いすぎて1回全部ボツになったんです
──お仕事で清志郎さんに関わることになったのはいつ頃が最初ですか。
角田 : 『忌野旅日記』(新潮文庫)の解説を書いたのが最初です。デビューして3年目くらいだったので、すごく緊張しました。清志郎が好きだって言いまくってたので、仲が良かった新潮社の編集者が「じゃあやらせてあげる」って、依頼してくれたんですけど、気負いすぎてエッセイみたいな文章を書いて渡して、全部ボツになって。
──えっ⁉ そうだったんですか。
角田 : そのときに、芥川賞の候補になってたんです。それで編集者が「あなたがもし、芥川賞を獲っていたら、“忌野清志郎大好きー!”っていうエッセイで良いけど、まだ無名の新人が自分の思いだけが溢れたエッセイを書いてきたって、解説とは認められない」って言われて。それで1回ボツになって書き直したんです。
──そのときに清志郎さんと会ったりはしていないんですか。
角田 : 会ってないです。もう、一番会いたくない人ですから、好きすぎて。
──でも、引き合わせようとする人もいたわけですよね?
角田 : いましたね。もっと後になってから、「会いたいならご紹介します」っ言われることもありましたけど、「いや、絶対会いたくない」って言っていて(笑)。「誰に会いたくないって、一番清志郎に会いたくない!」って。
──(笑)。ずっと断っていたんですか。
角田 : はい、もちろんです。
好きすぎて「一番会いたくなかった」清志郎との唯一の対面で……
──でも、清志郎さんと対面する機会が後に訪れたんですよね。
角田 : 2005年か2006年だと思うんですけど、清志郎さんが早稲田大学でやったライヴに、高橋さん(高橋 Rock Me Baby)が呼んでくださって観に行ったんです。私、人生で寝坊したことが本当にないんですけど、その日はなぜか寝坊したんですよ。本当にビックリして。起きたら、いますぐ出ないと間に合わないような状況で。顔も洗わずに服を着替えて出たんです。
それで、ライヴは観ることができて素晴らしかったんですけど。そのときに、一緒にいた高橋さんと宗像(和男)さんに「ちょっと用があるから待っていてほしい」って言われて。そうしたら2人が列についていたので、この列のどこかについていればいいんだろうって思って並んでいたら、その列の先に清志郎さんがいたんですよ。面会する人たちの列だったんです。そこから人がどんどんいなくなって。どこで待てばいいかわからないまま、会うことになってしまった。
──会うつもりじゃなかったのに(笑)。
角田 : そうなんですよ。その後、高橋さん、宗像さんとご飯を食べに行ってトイレに入ったときに鏡でその日はじめて顔を見たら、目ヤニがビシーっと付いていたんですよ。寝坊して顔も洗わずに行ったから。「もう死にたい!!」って思いました(笑)。
──ははははは(笑)。
角田 : 恐ろしいことですよね、本当に。
──まさかそんな日に限って(笑)。いきなり清志郎さんと話さなきゃいけなくなったわけですよね。どんな言葉を交わしたんですか。
角田 : それがですね、緊張で耳が「わぁ〜〜〜〜ん」ってなって、なにか喋っている図だけは見えるんですけど、言葉が聴こえてこなかったです。でもたぶん、当時私がテレビで「課外授業ようこそ先輩」っていう、学校に戻るドキュメンタリーを撮ってもらって(2005年10月5日にNHKで放送された「課外授業ようこそ先輩」)、清志郎さんがナレーションをしてくれたんですよ。おそらく、そのことについて何か言ってくれた気がします。
──もちろん、角田さんのことは以前から知っていたわけですよね。
角田 : ナレーションをお願いしたりとか、「情熱大陸」で清志郎さんの曲を使わせてもらったりしていたので。自然に知ったというよりは、知らざるを得なかったとういうか(笑)。
──その後は、お会いになる機会はなかったですか。
角田 : だってもう、そもそも会いたくないですから。こんなに強く「会いたくない」と思う人は他にいなかったですね。
──〈完全復活祭〉では「チャンスは今夜」で大勢の女性の中の1人としてステージに上がってますよね。
角田 : 「チャンスは今夜」で、大勢の女性にステージを歩いてもらいたいからって、宗像さんに誘っていただいたんです。あの日も、清志郎さんと会ってお話したとかではないです。ただよくわかりもせず挙動不審にステージを横切るだけですけれど、現実ではないような気がしていました。
──結局、お会いになったのは1回きりだったわけですね。それも本来会うつもりじゃなったという。
角田 : そうですね。でも、会わせてくれた高橋さんと宗像さんには感謝しています。
“不在"という感じはないですね
──『KING』リリース以降、忌野清志郎 & NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNSでの活動はどう感じていましたか。
角田 : 2004〜2005年くらいから、「やっぱりいいな」って思ってまた聴きはじめて、野音のライヴにも行くようになって。そうしたら、20代の頃から見続けている人に会場で何人か会ったり、宗像さんのような新しい知り合いが増えていくのが、感慨深かったです。
──これだけ清志郎さんファンである角田さんにとって、清志郎さんが不在のこの10年はどのような月日だったのでしょうか。
角田 : じつは私は、あんまり亡くなったと思っていなくて。それこそ、日常的に会っていたりするくらい親しかったり、一緒に仕事をしたり、ご飯を食べたりする仲だったら、不在感ってものすごいと思うんですけど、1回しか会ったことがないですし、その1回も夢だったかもしれないっていうくらいの感じで。もともと普段から会っていない、単なる一ファンなので、亡くなったと思わないでいられるんですよね。「ただライヴをやらなくなっただけ」って、自然に思っているというか。「不在」という感じはないですね。
──ライヴDVDをご覧になったり、CDを聴いたりということは多いですか?
角田 : いや、していないですね。
──それはもう、脳内再生できるということでしょうか。
角田 : 曲に関してはそうですね、脳内再生ができますね。新しく出た太田さんのCD(太田和彦氏所蔵の音源を元に2013年5月2日にリリースされた『悲しいことばっかり』)とかは聴いたりしていますけど。後の曲は、聴かなくても鳴っているような感じだし、映像ももともと観ていないですね。
──それだけ角田さんの深い部分に清志郎さんの存在があるということですね。
角田 : そうですね、はい。
全部、本当に驚くくらい、滑らかな日本語のイントネーションを崩さないで歌詞ができている
──では、好きな3曲を挙げてもらえますか。
角田 : 「エンジェル」「ダーリン・ミシン」「激しい雨」の3曲です。
角田光代が選ぶ忌野清志郎の3曲
①「エンジェル」
②「ダーリン・ミシン」
③「激しい雨」
──まず、「エンジェル」について選んだ理由をお願いします。
角田 : 「エンジェル」は、日本語の美しさが際立っていて、世界の作り方がものすごいと思いますし、良い歌詞だなと思います。昔、好きな歌のトリビュートで小説を書くという仕事があって、そのときに「エンジェル」を選んだんです。なので、自分の中で非常に印象深いです。
──先ほども少し語っていただきました「ダーリン・ミシン」についても改めて。
角田 : 〈赤いコールテンのズボン〉みたいな“ダサい日本語”をものすごくカッコイイロックの言葉にしたという意味で衝撃的な1曲ですし、とてもキュートな曲だと思います。
──歌詞はもちろん、メロディや演奏も好きだから聴いてこられたと思うのですが、メロディとサウンド面に関してはどんなところに魅力を感じているのでしょう?
角田 : メロディのことはよくわからないんですけど、不快なメロディじゃないから聴いてるわけですよね。声がちゃんと聴こえるとか、歌の歌詞の音が気持ち悪くなっていないところが良いと思うんです。「ミシン」が「ミシン」(語尾が下がる感じで)みたいな発音になっていないところとかが、私にはとても大きい気がします。
──なるほど、言われてみれば確かに、メロディに合わせてイントネーションが変になっている歌詞がないですね。だから喋っているように歌が聴こえるというか。
角田 : そうですよね。全部、本当に驚くくらい、滑らかな日本語のイントネーションを崩さないで歌詞ができていますよね。
──それに、ライヴで歌っても、明瞭に言葉が聴こえてきますよね。
角田 : すごいですよね。
まさに自分が過ごしてきた20代30代のことを見事に1つの歌にしてくれた「激しい雨」
──3曲目の「激しい雨」は、最後のオリジナル・アルバム『夢助』(2006年10月4日)収録曲ですね。
角田 : 「もう、この人の歌は聴かなくてもいいのかもしれない、自分は他のものを探して生きて行った方がいいのかもしれない」って思っていた頃に、『夢助』のような作品をもう1回聴きたいって戻れたことがものすごくうれしかったんです。そのときに、「激しい雨」の〈RCサクセションが流れてる〉っていう歌詞を聴いて、まさに自分が過ごしてきた20代30代のことを見事に1つの歌にしてくれた気がして。総決算的な意味でも好きです。
──この曲も歌われた〈完全復活祭〉はどんな思いでご覧になっていましたか。
角田 : 復活するって絶対思っていたので、うれしかったし、続いていくんだろうなって思って観てました。それに、(オープニング映像で)すごくユーモラスにしていたじゃないですか? 全然頑張った様な感じでもなく、悲しい感じでもなく。すごく笑わせるようにしてたから、偉いなあ、この人はずっとカッコいいなあって思いました。
──では、アルバムを1枚選んでください。
角田 : やっぱり、『the TEARS OF a CLOWN』ですね。はじめて行った時期のライヴが音源で残っているというのは、すごく幸せなことだと思います。
角田光代が選ぶ忌野清志郎のアルバム
生きていくって、自分が自分の好きな世界をこうやって選んでいくことなんだなって
──最後に、若い音楽リスナー、アーティストに向けて清志郎さんのどんなところを特に知って欲しいかメッセージをお願いします。
角田 : 入口がいっぱいあるから、自分に合う入り口があればいいなって思います。でも、いまはじめて知って好きになってもライヴに行けるわけではないと思うと、それが良いことなのかどうなのかはわからないですね。ただ、小説なんかはそうじゃないですか? 作者に会う前提というのはないので、亡くなっていようが生きていようが、何か新しい世界に触れるっていうことがプラスになると思うので、そういう風に考えると良いかもしれないですね。RC、もしくは忌野清志郎の音楽の世界を知るっていうのは。
私が20代前後の頃に、まわりは誰も清志郎を好きじゃなかったんですよ。それこそ、恋人と友だち1人くらいしか好きな人はいなくて。やっぱりイロモノ扱いされていたし、「えっああいうの聴くの?」みたいな感じだったので、大人になったときに「こんなにファンが多かったんだ⁉」ってビックリしてしまって。でもよく考えてみると、歳を経るごとに清志郎が好きで聴いていたっていう人の割合がどんどん増えていくんですよね。それはファンの数が増えたんじゃなくて、自分が忌野清志郎が好きな人たちで出来ている世界が好きで、選んでそこに行っているんだっていうことがわかってきて。
いま、自分の生きている世界では、清志郎のことを知らない人がいないんです。他の音楽って、そんな風に人生と一緒に語れないっていうのかな。たとえば、ボ・ガンボスもすごく好きでしたけど、ボ・ガンボスファンがまわりにいないことと、年齢を経てボ・ガンボスの世界に近づいていくとかっていうことで語れるバンドではないと思うんですね。でも、生きていくって、自分が自分の好きな世界をこうやって選んでいくことなんだなっていうのを、私は忌野清志郎の音楽で教えられつつあるんですよね。
清志郎を好きな人には、老若男女関係なく共通点があると思う
──教えられた、ではなく、教えられつつある?
角田 : そうなんです。この連載で、以前宗像さんと森川(欣信)さんの対談の話に、堀内丸恵さん(集英社代表取締役社長)とか鈴木志郎康さん(詩人)のお名前が出てきましたけど、じつはすごく個人的に納得してしまって。志郎康先生は、私が大学生の頃の詩の先生で。私はゼミの最終の宿題レポートが「太宰治と清志郎の共通点」についてなんですよ。それを志郎康先生がA評価をつけてくれたのは、志郎康先生も清志郎のことが好きだったんだっていうことが、この連載の対談を読んだことでわかってビックリして。
集英社の社長さんの堀内さんともこの前飲んで、「なんて良い人なんだろう、なんてしっかりと自分の言葉で本音を話そうとしてくれる人なんだろう」って思っていたら、対談に名前が出てきて、それも納得してしまったんです。あと、太田和彦さんとも以前、対談をする機会があったときに「じつは、僕が“キザクラの青年”です」って言われて、打ちふるえたりとか(笑)。なんかすごく、人の層がおもしろいです、清志郎ファンは。
清志郎を好きな人には、老若男女関係なく共通点があると思う。そしてそういう人たちと関わることのできる世界が、十九歳の私が「本物」だと思えた世界なのだなと、だんだん思うようになりました。そういう人と人との結びつけ方をしているミュージシャン、バンドマン、アーティストって、忌野清志郎しかいないと思います。