【連載】〜I LIKE YOU〜忌野清志郎──《第9回》高橋 Rock Me Baby (前編)

INTERVIEW : 高橋 Rock Me Baby((株)フォーライフ ミュージックエンタテイメント / (株)ユイミュージック)【前編】
忌野清志郎の長きにわたる活動の中で、この連載でも度々話題に上る作品が『COVERS』(1988年8月15日)だ。RCサクセションによるはじめての洋楽カヴァー・アルバムとなったこの作品は、その内容と発売をめぐり社会的な騒動へと発展した。今回ご登場いただく高橋 Rock Me Babyさんは、当時のRCサクセションの所属レコード会社〈東芝EMI〉の宣伝担当として、まさに騒動の渦中に身を投じた人物だ。『COVERS』騒動、『コブラの悩み』、そしてさらに騒動を巻き起こすTHE TIMERS(ザ・タイマーズ)の出現。あの時あの瞬間、本当は何があったのか? そのとき忌野清志郎はなにを思っていたのか? 前後編にわたりじっくり読んでほしい。
企画・取材 : 岡本貴之 / ゆうばひかり
文・編集 : 岡本貴之
撮影 : ゆうばひかり
ページ作成 : 鈴木雄希(OTOTOY編集部)
協力 : Babys
16歳くらいのときにRCをはじめて知って彼らに夢中になって、いまもそのままです
──高橋さんと清志郎さんとの関わりから教えてもらえますか。
高橋 Rock Me Baby(以下・高橋RMB) : 当時、〈東芝EMI〉の宣伝プロデューサーをしていた近藤さん(現・岡村靖幸の所属事務所〈V4 Inc.〉の代表を務める近藤雅信氏)と出会って、1988年に〈東芝EMI〉に入社できました。そこからのお付き合いになります。16歳くらいのときにRCをはじめて知って彼らに夢中になって、いまもそのままです。
──〈東芝EMI〉入社後は具体的にどんな仕事をされていたのですか。
高橋RMB : 近藤さんのアシスタントとして、清志郎さんのメディア活動のディレクション、ブッキング、イメージング等を主に担当していました。

──当初からかなり重要な役割を担っていたんですね。
高橋RMB : 近藤さんがすぐにいろいろな仕事を任せてくれましたので。すごい勇気だと思います。入ったばかりの人間に任せちゃうなんて。
──当時はすでにRCサクセションも忌野清志郎も確固たる存在でしたもんね。しかも、入社当時はこの連載でも度々話題に上る『COVERS』騒動のときですよね。
高橋RMB : 渦中でした。
『COVERS』は社会とロックが対峙した中でも世界的に極めて稀なケース
──『COVERS』発売中止の際に出た「素晴らしすぎて発売できません」という新聞広告は、『シングル・マン』(1976年4月21日)再発当時に宗像和男さんが書いたコピー「こんな素晴らしいレコードを廃盤にしていて申し訳ありません」から影響されているんじゃないかっていうお話を森川欣信さんがおっしゃっていたんですけど、それは事実なんですか。
高橋RMB : あのコピーは清志郎さんが考えたものです。いま思うと森川さんのおっしゃるように影響はあったかもしれませんが、当時はあの騒動の最中でしたので、『シングル・マン』のコピーにはフォーカスを絞られることもなかったのだと思います。
──いずれにしても、高橋さんは騒動の渦中に身を投じることになったわけですね。
高橋RMB : せっかく清志郎さんにお会いできると思っていたのですが、『COVERS』が発売中止になって、〈キティレコード〉から出ることになって。とても複雑な胸中でした。

──もしかしたら〈東芝EMI〉から清志郎さんがいなくなってしまうかもしれない、という。
高橋RMB : それは思いました。あれだけの社会を巻き込んだ騒動になって、海外からも注目されるニュースになりましたので。近藤さんは、『COVERS』のテープを聴いた瞬間に「絶対売れる!」と直感したそうです。その思いを清志郎さんに話したら、「君だけだよ、そう言ってくれたのは」と、とても喜んで、後日、近藤さんのもとに素敵なFAXがきたという伝説があります。そういう関係をもってはじまったプロジェクトが、ああいうことになって。社会とロックが対峙した中でも、世界的に極めて稀なケースとなりました。前例がなかっただけに、国内だけじゃなく、海外からも非常に注目が集まりました。
でも清志郎さんと近藤さんは、いつも前例がないことをやってきたおふたりで、しかも逆境に強かったので、その後のTHE TIMERS(以下・タイマーズ)につながっていく物語を、見事に音楽としても、ビジネスとしても大成功させた。ロックンロールという音楽が音楽以上に語られるとき、僕はこのときの清志郎さんと近藤さんのことを思い浮かべます。
──ただ、そもそも対峙するという意識で作ったアルバムではなかったわけですよね。
高橋RMB : そうですね、そういうつもりで作ったわけではないと思います。
──『COVERS』は〈キティレコード〉から出ることになったわけですが、その時期には高橋さんは清志郎さんとどのように関わっていたのでしょうか。
高橋RMB : 清志郎さんと近藤さんにはとても強い信頼関係がありました。僕はその関係の真下にいましたので、おふたりの精神的なポイントの切り替えを1番身近に感じることができました。
──“精神的なポイントの切り替え”というのは具体的に言うと?
高橋RMB : 社会的な事件になったことと、ユーモアのある仕掛けをしていこうという音楽的な挑戦とはまったく別の次元だと思います。RCが過渡期の中で、メンバーの気持ちをもう少し真ん中に集めようとしてはじめた『COVERS』で、次の景色を切り開いていこうという気持ちが清志郎さんにはありました。社会的な事件になったからといって、清志郎さんと近藤さんの中ではそのことは忘れていなくて、RCサクセションの新しい道を探して “精神的なポイントの切り替え”をするタイミングを狙っていた。僕はそれをおふたりの真下で感じていました。
「からすの赤ちゃん」は清志郎さんのお母様の遺品から出てきた歌

──その次のアルバム『コブラの悩み』(1988年12月16日)は『COVERS』発売時の野音ライヴ音源ですけど、ライヴでやっていたはずの「ラヴ・ミー・テンダー」や「サマータイム・ブルース」は入ってないですよね。それはどうしてなんでしょうか。
高橋RMB : 『コブラの悩み』はアナログ・レコードの最後の時代で、A面の最後とB面の最後にそれぞれスタジオ・ヴァージョンを収録しました(「からすの赤ちゃん」と「君はLOVE ME TENDERを聴いたか?」)。この時点でもうライヴ・アルバムの枠を飛び越えた独特の立ち位置のアルバムになり、ひとつのレコード作品としてリリースするというフォーメーションになったのです。新曲「心配させないで…」も入れて、RCのニュー・アルバムとして発表しました。だからどこにもライヴらしいセールス・メッセージは入っていません。
──「心配させないで…」って、あのときに初披露されたんですか? 『コブラの悩み』にしか入ってないですけど、すごくいい曲ですよね。
高橋RMB : 「心配させないで…」は、『コブラの悩み』にしか入っていないです。いい曲ですね。それと、A面の最後の「からすの赤ちゃん」は、清志郎さんのお母様の遺品から出てきた歌で、清志郎さんはお母様がこの曲を歌唱しているソノシートを聴いたそうです。そのときのご遺品の中から、お母様が書かれた短歌も見つかったらしく、そこには、自分のお父さんと出会う前の恋人を戦争に取られて、ずっと帰ってくるのを待っている気持ちが切々と書かれていたと。それを読んだことは、清志郎さんの後の活動に影響を与えているんじゃないかと思います。
──ちなみに、タイトルの『コブラの悩み』ってどんな意味なんですか?
高橋RMB : あれは、清志郎さん曰く近藤さんのことです。『コブラの悩み』の意味についてお聞きしましたら、「コブラみたいに、およそ悩みそうにないやつが悩む時代になっちゃったんだよ。近藤ってコブラに似てるだろ?」って(笑)。それで『コブラの悩み』と命名したと。
ザ・タイマーズの出現と「デイドリーム・ビリーバー」
──その後、ますます世間を騒がせることになるタイマーズが登場するわけですけど、高橋さんは宣伝担当として、メンバーの格好をしていたりしたんですよね。
高橋RMB : あれは、近藤さんのアイデアですね。タイマーズと同じルックスをしてプロモーションしようということで。コア・スタッフ全員でコスプレをしてPR活動をはじめました。タイマーズは1988年の11月に、近藤さんに連れられてはじめて観ました。全編生楽器で、激しいビートのバンドを観たのははじめてでしたので、とてもインパクトがあったことを憶えています。当時も以前も、タイマーズのようなサウンドのバンドはいませんでした。


──アコースティック編成時代のRCとの共通点も感じませんでしたか?
高橋RMB : いま考えると共通点を感じますが、当時はすべての概念が吹き飛ぶくらいのインパクトでしたので、そこまでは考えが及びませんでした。初期のRCは生楽器を使ってビートを出して歌っていて、はじめて日本語にリズムにつけたバンドだと思います。もともと言葉が持っているリズム感から抽出していたといいますか、相当なリズム感を持った人じゃないと歌えない。リズムを強調する歌をやり出したのは、あの世代の人たちからで、RCは特にリズムが強いバンドだと思います。
──タイマーズはそういうビートを持ったバンドでありながら、いまだに毎日テレビCMから「デイドリーム・ビリーバー」(1989年10月11日)が流れているわけですけど、この曲を最初に聴いたときのことを教えてもらえますか?
高橋RMB : 近藤さんが清志郎さんからテープをもらって、すぐに会議室で〈東芝EMI〉の主要メンバーで聴きました。そこには、『コブラの悩み』の会議のときにネガティヴな意見を持っていた役職者や、普段からあまりロックになじみのない営業の方など、様々な立場の人たちが集まり、コアスタッフは近藤さんと熊谷さんと僕だけでした。近藤さんのプレゼンテーションの後に僕がカセットのプレイ・ボタンを押しました。とてもいい曲でした! 聴きおわったあとに一瞬シーンとなり、そのあとすぐに満場一致で、「これは売れる!」って全員が拍手となりました。石坂さん(石坂敬一。当時の〈東芝EMI〉統括本部長 / 後にユニバーサルミュージック代表取締役会長等を務めた人物・故人)が、「清志郎は〈東芝EMI〉の宝だ! これはカヴァーじゃない! 清志郎のオリジナルだ! 必ず日本のスタンダードにしろ! ヒットさせろ!」という号令で、全員が大きな声で「ハイ!」と返事して(笑)。気迫や気合いを体現して、タイマーズの伝説へのスイッチが入りました。
清志郎さんは21歳くらいにヒットを出したことでメジャー・グラウンドで音楽的に挑んでいけたのだと思います
──高橋さんご自身はどう感じましたか。

高橋RMB : 抜群に良いと思いました。独自のヒット曲を作った! と。1980年にRCがエレキ編成になって浮上してブレイクしたのも、21歳くらいのときに「ぼくの好きな先生」で1回売れたときにつかんだヒットの五感みたいなものがとても大きかったのだと思います。いまは音楽も多種多様で様々なスタイルでのブレイクがあると思いますが、当時の日本は歌謡曲がほとんどで、ロックやポップスは端のほうにいました。ヒットの法則やヒット曲の定義が確立したころで、売れるにはひとつの道しかないような王道主義の時代でした。そんな中、王道ではないスタイルで、しかも僅か21歳くらいで、シングルヒットを出せた。人生で大きなターニングポイントのひとつになったことは、90年代のナンバー「お兄さんの歌」(1992年11月11日 忌野清志郎&2・3's『GO GO 2・3's』収録。1993年1月20日にシングル・カット)にもさらっと書きこまれています。
──エレキ編成でブレイクするまでの、いわゆる“暗黒期”が語られがちですけど、その前に売れた経験が大きいと。
高橋RMB : 冗談でよく言っていました、「10年間売れなかったから」と。でもそんなことない。1972年に売れています。まぎれもないヒット曲でした。
──確かに、以前たまたま知り合った還暦過ぎの方に訊いたら、当時阿佐ヶ谷の商店街で「ぼくの好きな先生」が流れてたって言ってました。
高橋RMB : その証言も裏付けていますね。当時、商店街であのような曲が流れるなんて。ユーミン(松任谷由実)から聞いたことがあるのですが、彼女のデビューの頃(1972年)、名古屋でのキャンペーンの際、メーカーが間違ってエレクトリック・ピアノじゃなく電子オルガンを用意してしまって、仕方がないのでそれを弾きながら、アーケードで歌ったりしていたと。そんな時代背景において、曲が商店街に流れているなんて、ヒット曲であったという証明ですね。サザンオールスターズの原由子さんが、3人時代のRCが大好きだったと記事で読んだことがありますが、「ぼくの好きな先生」の影響力はすごかったのだと思います。
──その経験があったことが、のちにブレイクするときに活かされているんですね。
高橋RMB : いつも売れたいと思っていたと思います。『シングル・マン』は、曲を23歳くらいのときに作って、24歳のときにレコーディングして、リリースされたのが25歳のとき。まだそんな年齢で、あんなに独創的なアルバムを作ってしまった。21歳くらいにヒットを出したことで、メジャーグランドで音楽的にも挑んでいけたのだと思います。どんなときでも、ヒット曲を作れる自信と強靭な精神力、タフな創作意欲がつらい時代を支えていたのだと感じます。
【>>>後編(6月15日公開予定)では、タイマーズ「FM東京事件」について、そして高橋さんが好きな3曲とアルバム1枚を語ってもらいます。お楽しみに!!】