【連載】〜I LIKE YOU〜忌野清志郎──《第6回》山本キヨシ
INTERVIEW : 山本キヨシ(アムリタ・カスタム・ギターズ 店長)
1980年代後半、日本のロック界で確固たる地位を築いていたRCサクセション、忌野清志郎。その存在に憧れて音楽業界へと足を踏み入れた者も多かった。今回ご登場いただく山本キヨシさんも、そのひとりだ。現在は渋谷でカスタム・ギター・ショップ「アムリタ・カスタム・ギターズ」の店長を務めつつ、数々のライヴにも携わっている山本さんは、楽器担当スタッフとして忌野清志郎のライヴ、レコーディングには欠かせない存在であり、清志郎のステージのハイライトであった「マントショー」でも活躍したことで知られている。晩年まで最も清志郎の近くにいた人物の1人である彼が語る数々のエピソードからは、音楽家としても人間としても魅力的な忌野清志郎の姿が見えてくる。
企画・取材 : 岡本貴之 / ゆうばひかり
文・編集 : 岡本貴之
撮影 : ゆうばひかり
ページ作成 : 鈴木雄希(OTOTOY編集部)
協力 : Babys
※文中、作品の括弧内はオリジナル発売日
みんなに対してフラットだったというか、そういう部分が最高に信用できるなって
──山本さんは、最初はMOJO CLUBのスタッフからスタートしたんですよね。はじめて会った清志郎さんの印象っていかがでしたか。
山本 : 最初の頃は「三宅(伸治)のところのボーヤ」っていう感じだったと思いますけど、接し方は最初から最後までずっと一緒な感じでしたね。「偉人のうた」(『THE TIMERS』収録)っていう歌がありますけど、〈もしも 僕が偉くなったなら 偉くない人達や さえない人達を忘れないさ〉っていう歌詞に清志郎さんの人に対する接し方が表れてるなって。レコード会社のとても偉い人とかを約束の時間を過ぎても平気で待たせてたりとか(笑)、みんなに対してフラットだったというか。それは人としてできそうでなかなかできないと思うんですよ。そういう部分が最高に信用できるなって。
──山本さんはライヴやレコーディングで清志郎さんにずっとついていらっしゃる印象があるのですが、それと同時に「マントショーの人」っていうイメージもあります。いつからどのように始まったものなのでしょうか。
山本 : ジェームス・ブラウン(以下・JB)が元ネタですけど、ザ・タイマーズが復活したときにマントの代わりにゴザを使った「ゴザ・ショー」っていうのをやっていたんですよ。そのときにゴザをかぶせていたのは別のスタッフだったんですけど。それからしばらくして35周年記念のパルコでのライヴ(2005年3月2日〜3月5日に渋谷パルコ劇場で4夜連続行われた「2005 GOD Presents ROMANCE GRAY35」)で久しぶりにタイマーズをやったときにまたゴザ・ショーをやったんです。その頃は忌野清志郎 & NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS(以下・ナイスミドル)でソウル・ショー的な感じのステージをやり出していたので、そのまま自然にマント・ショーになって行ったんですよね。
──『KING』(2003年11月19日)以降に定番になったということですね。
山本 : そうですね。それと同時に、蔦岡晃(フェイスクルー 代表取締役)さんの前説の呼び込みもはじまったんです。あれは、誰がやるかスタジオでオーディションがあったんですよ。僕は活舌が悪くて、なにを言ってるかわかんないってダメだったんですけど(笑)。
JBが亡くなったときは「マントショーは俺たちが受け継いでいかないとな」って
──山本さんがマント・ショーに起用されたのはどうしてなんですか。
山本 : なんとなく、そういうことをやりそうな感じだったからですかねえ。あんまりきっかけは覚えてないですけど、自然な流れで僕がやるしかないよなっていう感じだった気がします。でも相応しいスーツがないから、最初は清志郎さんのスーツを借りて着ていました。野音のライヴのときに清志郎さんのピンクのスーツを借りて着ているのが翌年のBabysの年賀状になったりしたんですけど。ただ、さすがに毎回借りて着るわけにもいかないので、清志郎さんと福生のテーラー「Kブラザーズ」に行ったときに1着作ったんですよ。そのときは、ナイスミドルのメンバーの三宅さんや片山広明さんもスーツを作ったので、自分も作った方がいいかなっていう感じだったかもしれないです。
──全員でソウル・ショーをやっていこうというモードだったわけですね。
山本 : そうですね。マント・ショーに関していうと、元ネタのJBが最後に武道館に来たときに清志郎さんと一緒に観に行って。「ああ、こんな感じで行こう」って思った覚えがありますね。その後JBが亡くなったときは清志郎さんと「マント・ショーは俺たちが受け継いでいかないとな」っていう話をしてました。
──その後、マント・ショーから「ふとんショー」にまで発展したわけですよね。
山本 : 清志郎さんは普段からくだらないことばっかり考えてるというか(笑)。冗談ばかり考えている感じだったので。「ふとんを持ってきたら面白いな」っていう話から、本当にふとんを用意して、その後「こたつショー」にまで発展するんですけど(笑)。そういう清志郎さんの冗談を具現化するっていう。すべては清志郎さん発信ですね。
──それを誰も反対せずにみんなで実行するところが素晴らしいと思います(笑)。
山本 : 野音で鳩を飛ばしたこともあったんですよ。確かに思い浮かべるに、ライヴのはじまりに鳩を放ってバーっと飛んでいく光景ってイメージできるじゃないですか? でも実際にやってみたら音がデカすぎたり夏で暑すぎたりして、鳩がぜんぜん元気なくなっちゃって、結果的に2、3羽しか飛ばなかったんです(笑)。我々にしたら最高におかしかったんですけど。
──(笑)。それは、ザ・ローリング・ストーンズのハイドパーク・コンサートのイメージでやったんですか。
山本 : そうです、そうです。そういうすごいのを想像しているから、どんな感じで飛ぶのかなって見てたら「あ、いま1羽飛んで行ったけど……」みたいな。
「完全復活祭」のために新調したスーツを取りに行った帰りに撮った写真
──「忌野清志郎 完全復活祭」(2008年2月10日)のときは日本武道館のステージでふとんショーをやりましたよね。清志郎さんがふとんを跳ねのけたら山本さんは思いっきりふっとんでましたけど。
山本 : あのへんはわざと大げさにやってたんですけどね。いろんな人から「思いっきり転んでたね」って言われましたけど、そう思ってもらえたら成功ですね(笑)。
──リハーサルもしたんですよね?
山本 : もちろんです。位置をバミったりまではしていないですけど、「だいたいこの辺にふとんを敷こう」って。その辺はもう入念にやりましたね。
──あの日はものすごく特別なライヴだったわけですが。
山本 : 「完全復活祭」のために清志郎さんと福生まで自転車で行って、僕もそのときに、おめでたいライヴだからもう1着スーツを作ったんです。2007年12月24日にそのスーツが仕上がったんですけど、それを取りに行った帰りにクリスマスということもあって、ごくごく身内の食事会があったんですよ。僕も家族を連れて行って「木曽路」でしゃぶしゃぶをご馳走になったんですけど、店に入るときに「2人で新しいスーツを着て登場したらおもしろいな」って清志郎さんが言うので、スーツに着替えてみんなが集まっているところに入って行ったんですよね。それでおもしろいから写真を撮ろうっていうことになったんですけど、そのとき撮った写真が清志郎さんの遺影になっちゃって……。あれを見たときにはさすがに泣けましたね。
『ベトコン・ママ・デルタ No.1』に苦情が来たときは「次はもっとくだらない作品を作ろう!」ってすごく喜んでました(笑)
──たとえば、三宅さんも清志郎さんの運転手からはじまってボーヤからMOJO CLUBでデビューして清志郎さんともバンドをやるようになったじゃないですか? 山本さんは自分でミュージシャンとしてデビューしたいという気持ちはなかったんですか。
山本 : 小学生のときにRCサクセション、清志郎さん、チャボさん(仲井戸"CHABO"麗市)を見て「バンドで生活するなんてどんなに楽しいだろう」って思っていて。ギターを弾いて生活をすることへの憧れはありましたけどね。忌野清志郎&2・3'sのロンドンでのレコーディングのときに(『GO GO 2・3's』1992年11月11日)、朝の恒例行事として「マイクチェックしてこい」って言われて清志郎さんのブースに入って、僕がギターを弾いて歌うんですよ。でも2、3曲しかないから、レコーディング4日目に歌う曲がない、と。それでスタジオの上のアーティスト・ロビーみたいなところで仕事も何もしないでギターを持って、翌朝のスタジオで歌う曲を書いてました。
──ははははは(笑)。山本さんは清志郎さんプロデュースの『ベトコン・ママ、デルタNo.1』(1995年10月25日)というアルバムをリリースしましたよね。
山本 : これは、ロンドンで録っていた曲を清志郎さんが帰ってきたときにCDに焼いて持ってきてくれたんですよ。それからしばらくしていろいろ手を加えてリリースしたんです。いつも清志郎さんの冗談からいろんなことがはじまっていた感じですね。
──ところで、『ベトコン・ママ、デルタNo.1』ってどういう意味ですか?
山本 : 名古屋のホテルだったと思うんですけど、清志郎さんが「何かタイトルを考えた方がいいんじゃないの? 『ベトコン・ママ、デルタ No.1』みたいなさ」って言ったんですよ。
──みたいなさって(笑)。ますます意味がわからないですね。
山本 : 「なんだろうその意味不明な言葉は⁉」って思ったんですけど、「じゃあ、それでお願いします」って言って。
──『ベトコン・ママ、デルタ No.1』はアムリタ・カスタム・ギターズでも売ってるんですね。
山本 : 売ってますよ。当時はCDショップで忌野清志郎コーナーに置かれていたんですけど、清志郎さんの作品だと思って買った人から、発売元のUKプロジェクトに「あのふざけたCDはなんだ⁉」ってお怒りの苦情電話がかかってきたそうなんですよ。それを清志郎さんに話したら「次はもっとくだらない作品を作ろう!」ってすごく喜んでました(笑)。
──本当に、くだらないこと、ふざけたことが好きだったんですねえ。
山本 : そうですね、大好きでしたね。
LOVE JETSと「宇宙船クロヌマユミコ号」と「徹子の部屋」
──清志郎さんって、Kiyoshiro meets de-ga-show『Hospital』(1997年3月3日)とかLOVE JETS『ちんぐろ』(2003年7月2日)みたいな参加作品やサイド・プロジェクトですごくおもしろいことをやるし、良い曲を作りますよね。
山本 : Kiyoshiro meets de-ga-showのツアーもおもしろかったし、磔磔とかでライヴをやったり普段と違う活動で楽しんでいたと思いますよ。LOVE JETSはもともとベースのKANAME(PYE-RON)さんとドラムの阿部耕作(PRINCIPAL)さんがやっていたんですけど、ブルースとかソウルとは違う音楽の世界観じゃないですか? 新しいものっていうか、いつもの清志郎さんにはない、サンプラーとかを使うサウンド・メイクや無機質なリズムとかをおもしろがってやっていたと思います。神宮外苑あたりのクラブで1回ライヴをやったら、それがすごく良くて。清志郎さん的にもおもしろくてもっとやりたくなったんじゃないですかね。
──ジャケットは「徹子の部屋」で黒柳徹子さんと一緒に撮っているというすごいアートワークですね。
山本 : 「徹子の部屋」で思い出したんですけど、清志郎さんが最後に出演したときに「一緒に出よう」って言われて。ただ横に立っているだけだと思うんですけど。でもそのとき別のツアーの移動日で神戸にいて断っちゃったんですよ。あとで放送回を見たら、徹子さんが資料を見て「今日はマントを持った方はいらっしゃらないの?」って言ってたんですよ。いま思うと、ただの移動日なんだから新幹線に乗って行けば良かったなって後悔してます。
──レコーディングのことについてお伺いしたいんですが、そのときどきによってやっている曲調や音作りも違いますよね。そのあたり清志郎さんはどんなイメージを持って自分の活動を決めていたんでしょうか。
山本 : 僕の感じたことですけど、「いまはこういう活動をするからこうしよう」とか、「今回はこういうアプローチで」とかはあんまり考えてなかったと思います。たとえばLOVE JETSでライヴをやったときは、「こういうことをやるなら楽器の構成はこうしたらどうですか」とか提案したら、「じゃあシャブちゃん(※山本さんの愛称)好きなように自分で考えてやっていいよ」って言ってくれて。そのときはうれしかったですね。LOVE JETSはエフェクターをガッツリ使っていたので、「宇宙船クロヌマユミコ号」(※ステージ上に設置されていた謎の宇宙船)の中で僕がそれをコントロールしていたんですよ。PURAHA(清志郎)がステージを去っていくときに「バヒューンバヒューン」みたいな音が出るんですけど、それも僕が出していたんです、「宇宙船クロヌマユミコ号」から。そういうシステムとかも、「勝手に考えてやっていいよ」って言ってくれたんですよね。とにかく、すべてにおいてふざけているというか、根本が(笑)。
──それまでも、山本さんから楽器構成のアイデアの提案とかは常にしていたんですよね?
山本 : 映画(アルバム『RUFFY TUFFY』(1999年7月28日)のもとになった映画)のロケが九州で1ヶ月予定されていて、美術のひとりとして僕も楽器担当で一緒にいくことになっていたんです。おやじバンドが主役になる映画だったから、それに見合った楽器を用意してたんですよ。結局映画は頓挫してなくなってしまったんですけど、そのときにいろんなイメージを提案してみたりして。そのときまでは言われたことをやるだけで精一杯だったと思うんですけど。「ロックン・ロール研究所」ができるまでは清志郎さんのご自宅に楽器を置いていたので、リハーサルがあるときはまず清志郎さんのご自宅に行くんですけど、そうすると絵が描かれたメモが置いてあるんです。「今日はこれとこれを頼む」って。それを見て楽器を持って行ってセッティングしてました。
ORANGEの120WとフライングVの相性が良かったんです
──RUFFY TUFFYの活動で自分でギターを弾きながら歌うようになったときに、フライングVとORANGEっていう組み合わせを使うようになりましたよね。
山本 : ORANGEの80Wっていう珍しいモデルを手に入れて、それに相性が良かったのがES-340で、最初に使っていたのはその組み合わせだったんですよ。その後、ツアーの途中に清志郎さんと一緒に大久保の楽器屋に行ったんですけど、そこにORANGEの120Wのセットがドーンと置いてあって。入ってきたばかりで値段もついてなかったんですけど、弾いたら気に入って即購入して。「これ、機材車に乗るよね?」って言われて(笑)。さすがに乗りませんとは言えないので、頑張ってなんとか乗せたんですけど。
──その後、ES-340に代わってフライングVを使うようになったのは?
山本 : ORANGEの80W とES-340の組み合わせはすごく良かったんですけど、120Wとはどうもしっくりこなかったみたいで。フライングVとかレスポールとの相性が良かったので替えたんです。
──いまは結構いますけど、当時ORANGEのアンプを使っているミュージシャンってあんまりいなかったですよね?
山本 : 当時、ORANGEが復刻か何かで頑張り出してた時期ではあったんですよ。いまや大手が代理店をやってますけど。最近の若いバンドを見ていても使っている人が多いですもんね。清志郎さんはORANGE好きが高じて自転車も「ORANGE号」って名付けて乗っていたんですけど、ORANGEのオフィシャルのロゴを入れたいっていうことで、あれはちゃんと代理店に連絡して確認を取ったんですよ。
「Boys」は居眠りしてた僕とかのことを歌ってるみたいです。〈Boysは今頃 眠ってるんだろ 寝ぼけた仕事を するよりマシさ〉って(笑)
──レコーディング・アーティストとしての清志郎さんにはどんな印象がありますか?
山本 : はじめてお会いした頃は、レコーディングにものすごく時間をかけている印象でした。昼からレコーディングをはじめて、夜になって次の日のスタートを16時にしようってずらして行って、最終的に夜中23時にスタジオ集合になって昼夜逆転になったりしていましたから。たとえば『Memphis』のレコーディング前に三宅さんと根をつめてプリプロをしていたり。僕は2人が作業していたときにロビーで居眠りしちゃっていて。『Memphis』の1曲目「Boys」は僕とかのことを歌ってるみたいです。
──〈Boysは今頃 眠ってるんだろ 寝ぼけた仕事を するよりマシさ〉っていう歌詞ですね(笑)。
山本 : 〈楽してられんのも 今のうちさ そのうちケツに火がつくぞ〉って(笑)。
──周りのスタッフが居眠りしちゃうくらい、レコーディングをはじめると時間を忘れて集中しているわけですか。
山本 : そうですね、そんな印象でした。レコーディングがはじまったら帰れない、みたいな。リハーサルも長かったですしね。人によってはスタジオに出前を取ってごはんを食べる人もいますけど、清志郎さんはそんなこと考えられなかったですね。休憩らしい休憩も取らずにずっとやってましたから。休むっていう感じは全くなかったです。
──『Memphis』のときは、Booker T. & the M.G.'sとレコーディングするということでより一層力が入っていたということもあるんですか。
山本 : いや、『Memphis』に限らず、その当時はレコーディングに臨む作業を綿密にやっていたんだと思います。もちろん、Booker T. & the M.G.'sとレコーディングするというのは、気持ち的にはよりすごかったとは思いますけどね。
──山本さんは『Memphis』のレコーディングには行ったんですか?
山本 : いや、僕は行ってないです。アッキー(2・3'sのベース・中曽根章友)が行きました。
「俺は1番の忌野清志郎のファンだから。1度自分のライヴを観てみたい」
──その後、2・3'Sの1回目のロンドンでのレコーディングには行っているわけですね。そのときにはどうでしたか?
山本 : そのときも寝ないでやってましたね。それで部屋に戻ったらその日に録った音源を繰り返し聴くんです。ツアーのときは映像を繰り返し見てましたし。1度、清志郎さんが言ってたんですけど、「俺は1番の忌野清志郎のファンだから。1度自分のライヴを観てみたい」って言ってました。明石家さんまさんが、自分のテレビ番組を見て笑ってるっていうじゃないですか? 清志郎さんも感覚的には同じなんじゃないかなって。
──国内ではロックン・ロール研究所(以下、ロッ研)で『KING』『GOD』(2005年3月2日)で聴けるようなクラシカルなサウンドでレコーディングしていましたよね。あれは清志郎さん自身がエンジニアをやったり音作りを研究して行った結果ですか。
山本 : そうですね。あのサウンドは、要するに「ロッ研サウンド」だと思っていて。極端なサウンドだと思うんですよね。あんまりクリアな音にしていないというか。あれを聴くとロッ研の空気を思い出しますからね。清志郎さんはデジタルのクリアなエッヂが効いた音があんまり好きじゃなかったんですよ。ギター・アンプのサウンドを作るときも、“ロー・ミッドの質感”が1番重要みたいな。ハイのエッヂの効いた感じとかはむしろ嫌がるというか、独特なポイントを欲しがるというか、ああいうギターの音作りをする人は清志郎さん以外に僕は知らないですね。
──ライヴの使用機材をレコーディングでもそのまま使っていたんですか?
山本 : レコーディングのときは、ORANGEの15Wを使ってました。オールチューブでスピーカー1個でレコーディングに向いているアンプで。そのときに清志郎さんが使いたがっていた電源ケーブルがあって。抜き差しできるタイプなんですけど、直径3cmくらいのかなり太いケーブルで。1番気に入っていたのが、1本1.5mで20万円くらいのケーブルでした。それはエンジニアのzAkさんに紹介してもらったんです。とにかく高級電源ケーブルをたくさん持ってきてもらって、いろいろ試してましたね。
『夢助』は1番近い記憶でもあるし、思い出しかないです
──では、山本さんが好きな3曲とアルバムを1枚挙げてください。
山本キヨシが選ぶ忌野清志郎の3曲
①「MELODY MAKER」
②「僕とあの娘」
③「花びら」
山本 : 最近、『RAZOR SHARP』を聴いたらやっぱり良い音だなって。アルバムに入っている「MELODY MAKER」がすごく好きなんですよ。それと「僕とあの娘」ですね。あの曲もすごく好きです。人間の本質を見る感じというか、清志郎さんらしい感じがします。〈あの娘はズベ公で〉っていう言葉遣いも含めて。あと1曲は最後のアルバム『夢助』に入っている「花びら」ですね。
山本キヨシが選ぶ忌野清志郎のアルバム
──『夢助』のナッシュビルでのレコーディングには山本さんも同行しているわけですよね。
山本 : 行きました。『夢助』は1番近い記憶でもあるし、思い出しかないですね。(ナッシュビルに)行く前のことや現地に着いてからのこと、ひと晩経ってコーヒーを飲みに行ったこととか、そういうことも結構細かく覚えてますね。清志郎さん的にも体がきつかった時期ではあったとは思いますけど。
──その頃の体調について山本さんから見て気になったことはあったんですか。
山本 : あとから聴いてみるとやっぱり『夢助』のときの歌いっぷりというのは喉が開ききっていないような声に聴こえますけど、一緒にいたときには、まったくそんなことは思っていなくて。ただ、レコーディングのときに、「ちょっと上手く歌えないから今日は歌うのやめる」っていう日が1回あって。それまでそんなこと1度もなかったから、珍しいなって思ったんですよね。それは忘れられないです。「花びら」は、あの抒情的な世界観がいいなって。これはボトルネック・ギターをボブ・ブリットっていうミュージシャンが弾いているんですけど、すばらしいんですよ。スティーヴ・クロッパーのギターをメインに持ってきてるから、あんまり使われてないギター・ソロもあるんですけど、ボブ・ブリットのギター・ソロ・バージョンを出してほしいくらい、素晴らしいギタリストです。アルバムの1枚は、やっぱり『夢助』ですね。
音楽に興味があったら“日本最高のロックンロール・スター”の歌を聴いてみてほしい
──では最後に、若い音楽リスナー、アーティストに向けて清志郎さんのどんなところをとくに知って欲しいかメッセージをお願いします。
山本 : 僕が知る限り“日本最高のロックンロール・スター”の歌を、音楽に興味があったら聴いておいて損はないと思います。そこから何を感じるかは人ぞれぞれですけど。なんとなくネットを見ていてこの記事を読んで辿り着いたとしたら、それも縁ですから聴いてみてほしいです。世界中にこういうすばらしい歌が広がっていったらいいなって、ずっと思ってますし、『夢助』がどんどんセールスを伸ばすような世の中になってくれたらいいなって。そうしたら世の中がもっと良くなるんじゃないかって、そう思います。
【>>>第7回は5月2日に掲載予定。お楽しみに!】
INFORMATION
アムリタ・カスタム・ギターズ
魂を込めて全てハンドメイドで製作されたギターから、忌野清志郎率いるラフィータフィーのアルバム『秋の十字架』のアナログ盤、そして山本キヨシのデビューCD『ベトコン・ママ、デルタNo.1』まで売っている最高のお店
住所 : 〒150-0002 東京都渋谷区渋谷1-22-5 2F
TEL / FAX : 03-6418-6311
営業時間 : 13:00〜20:00
定休日 : 水曜日
【公式HPはこちら】
http://amritaguitars.com/