【連載】〜I LIKE YOU〜忌野清志郎──《第1回》 ロック・フォトグラファー 有賀幹夫(前編)
連載開始にあたって──ライター・岡本貴之
ときに軽やかに、抒情的に、あるときは攻撃的に。音楽シーンのみならずお茶の間にまでその存在が浸透したロック・スターであった忌野清志郎(いまわの きよしろう)。今もなお、CMソングとしてテレビから毎日流れてくるその歌声は色あせることがありません。
2009年に旅立ちおよそ10年の歳月が流れようとしている今、忌野清志郎とその音楽の魅力を改めて掘り下げ、世代を問わず多くの人に伝えたい。そんな思いから、ライター・岡本貴之と、リアルタイムで清志郎の活動に触れる機会がなかった20代のフォトグラファー・ゆうばひかりの企画・取材により連載記事をスタートさせます。タイトルはあれこれ考えた結果〈【連載】〜I LIKE YOU〜忌野清志郎〉としました。取材対象者の方々1人1人の中にある、大好きな清志郎さんへの想い。そして長く愛される連載であることを願って、RCサクセションの楽曲「I LIKE YOU」から拝借させてもらっています。また、連載開始にあたり、忌野清志郎事務所・Babysさんからご協力頂きました。
この連載を通して、マニアックなファンの方だけでなく、「忌野清志郎という名前だけは知っている」「名前も知らない! コレなんて読むの?」という若い世代の音楽ファンにもその魅力を少しでも、いやたくさん知ってもらえれば嬉しく思います。是非、おつきあいください。まずは、シーズン1として10回にわたり、その活動の歴史を知るべく時代ごとに忌野清志郎と仕事を共にしたスタッフの方々にお話を伺っていきます。
INTERVIEW : ロック・フォトグラファー 有賀幹夫
記念すべき第1回にご登場頂くのは、日本で唯一のザ・ローリングストーンズ・オフィシャル・フォトグラファーであり、忌野清志郎写真集『NAUGHTY BOY KING OF ROCK'N ROLL』を手掛けたことでも知られるロック・フォトグラファーの有賀幹夫さん。RCサクセションを撮ることを1つの目標としてカメラを始めたという有賀さんにとっての忌野清志郎とは。清志郎さんゆかりの地・国立で、その魅力について前後編にわたり語ってもらいました。
企画・取材 : 岡本貴之 / ゆうばひかり
文・編集 : 岡本貴之
撮影 : ゆうばひかり
ページ作成 : 鈴木雄希(OTOTOY編集部)
協力 : Babys
こんなかっこいいロックンロール・バンドが日本に出てくるんだったら、俺は写真で生きて行けるかもしれない
──有賀さんは日本で唯一のザ・ローリングストーンズのオフィシャル・フォトグラファーとして知られていますが、最初からストーンズを撮りたいという夢があったそうですね。
有賀幹夫(以下、有賀) : 大学1、2年くらいのときにジョン・レノンが暗殺されたのがすごくショックで。その翌年にボブ・マーリーも亡くなったでしょ。世界を変えたスーパーヒーローがこんな形で亡くなるんだって思ったときに、「こうなったらいつかストーンズを撮りたいな」って、ストーンズを撮影することを目標に設定して写真をはじめたんです。
──ストーンズを撮ることになる前に、清志郎さんのバンド、RCサクセション(以下、RC)を撮影するようになるわけですよね。もともとRCのファンだったんですか。
有賀 : 僕は3人組のフォーク時代のRCは全然知らなかったんです。だけど、チャボさん(ギタリストの仲井戸“CHABO”麗市)たちが入って「ステップ!」(1979年7月21日発売のシングル曲)でロック・バンド編成になって出てきたときに、「こんなかっこいいロックンロール・バンドが日本に出てくるんだったら、俺は写真で生きて行けるかもしれない!」って思ったんです。大きな夢としてはストーンズを撮影することだったけど、もっと身近な日本人として「RCを撮れたら最高だな」っていう夢もカメラをはじめた、もう1つのきっかけになってますね。
──「ステップ!」以前のRCは全然聴いてはいなかった?
有賀 : うん、まったく聴いてなかった。フォーク系は一切聴いてなかったし好きじゃなかったので。だから、「ステップ!」で色んなメディアに出てきたときに“新人バンド”として観て衝撃を受けたというか。日本もキャロルとか四人囃子とかサディスティック・ミカ・バンドとかすごく良いバンドもいたんですけど、やっぱり短命で終わっていたんですよね。それと、キャロル以外はみんなお茶の間まで浸透はしていなかったし。だから写真を撮って生きていこうと思ったときに、RCが出てきたことで「これはいける!」って。
──清志郎さんが書く曲にハマったというよりは、被写体としてカッコイイなと感じていたんですかね?
有賀 : いや、まずバンドとしてRCが好きだった。だから最初は“忌野清志郎”っていうキーワードはなかったですよ。「ロックンロール・バンドのRCが撮りたい」っていう気持ち。「日本にもストーンズみたいなバンドがついに出てきた!」っていうイメージですよね。
1986年8月日比谷野音〈the TEARS OF a CLOWN〉が“ベスト・オブ・RC”で、いまだにここが絶頂期だなって思うんですよ
──実際にRCを撮るようになったのは1986年8月の日比谷野音ライヴからですよね。これはどこから話がきたのでしょうか。
有賀 : 雑誌の「宝島」が当時、いつも門戸を開いていて若手カメラマンにも仕事を振ってたんです。それで何かのきっかけで「宝島」とレコード会社が連動して1986年8月のRCの日比谷野音4daysライヴ、後にライヴ・アルバムとビデオになった〈the TEARS OF a CLOWN〉(1986年10月12日)のライヴをオフィシャルで撮れることになったんだよね。それがカメラをはじめて5、6年目ですね。
──その頃のRCは一時期のブームも落ち着いて確固たる存在になっていました。失礼ながら当時の有賀さんはまだ無名のカメラマンだったわけですよね。
有賀 : うん、全然無名ですね。ただ「宝島」ではちょこちょこパンク系のバンドを撮影したりしてはいて。それにレコード会社とかにも常々「RCが撮りたい!」っていうアピールをしていたからね。それで野音のRCの撮影に繋がったんです。当時「宝島」は良かったですよ。まあその頃カラーで撮ったフィルムは戻ってこなかったんだけど(笑)。だから手元にある野音ライヴのモノクロ写真を写真集『NAUGHTY BOY KING OF ROCK'N ROLL』でもたくさん使ってるんですけどね。
──もともと「宝島」で仕事をするようになったきっかけはなんだったんですか?
有賀 : (写真を)持ち込みしたんだと思うよ、やっぱり。他のところには持ち込みしたりはしなかったんだけど、「宝島」はRCを推してたし、パンク・バンドとかも載ってたから、1番良いなと思ったんだよね。
──そして初めて撮ったのが1986年8月の野音ライヴで。RCの野音といえば数々の名ライヴがありますけど、この〈the TEARS OF a CLOWN〉のときのライヴもセットリストも良いしパフォーマンスも最高にカッコイイですよね。
有賀 : この頃がRCの中でも最高にカッコイイんじゃないかな? その前にもライヴはお客さんとして観てましたけどね。チャック・ベリー、サム・ムーアと競演したイベント「THE DAY OF R&B」(1982年8月横浜スタジアム)が最初だったかな。あんまり邦楽アーティストのライヴは観なかったんだけど、そのときのRCはイケイケだったから。外タレ・バンドの来日みたいなイメージで観に行った。RCもそういう見せ方をしていたしね。
──撮影時の野音ライヴは前年にリリースしたアルバム『HEART ACE』(1985年11月21日)の曲が中心になってますよね。この時期のRCの音楽についてはどう感じていたのでしょう。
有賀 : このライヴは本当に“ベスト・オブ・RC”で、いまだにここがRCの絶頂期だなって思うんですよ。その後は清志郎さんがソロを出して、『COVERS』(1988年8月15日)に突入してっていう流れになるわけだけど。僕が憧れたロック・バンドの完成形がこの時期のRCだったから、そこを撮れたのはすごく嬉しかったですね。本当にこのときのRCはロックンロール・バンドとして最高でした。ステージングも選曲も。「ヒッピーに捧ぐ」(『シングル・マン』収録)とかシブい曲もやったりして。清志郎さんのパフォーマンスもすごかったから。正直、その前に出たライヴ盤の『THE KING OF LIVE』(1983年12月5日)があんまり好きじゃないっていうか、なんかやたら長いなあと思って(笑)。それにポップ度が薄まってたんだよね。でもこの野音ライヴは最強のポップ感になってRCが戻ってきたと思うんだよ。同じライヴを収録したアルバムでも『ラプソディー』(1980年6月5日)は尖がってて、『THE KING OF LIVE』のときはやたら長いなあ〜っていう感じ(笑)。『the TEARS OF a CLOWN』が1番コンパクトで、選曲も最高だし、いまだにRCだったらこのアルバムが1番好きかな。
──ビジュアル的にもこの時期の清志郎さんはめちゃくちゃカッコイイですよね! 実際に撮ってみていかがでしたか?
有賀 : そりゃあもう、最高でしたよ。清志郎さんがいてチャボさんがいて。やっぱり“日本のミック&キース”っていうイメージが強かったから。クールなギタリストにやんちゃなヴォーカルっていうかさ。『NAUGHTY BOY KING OF ROCK'N ROLL』にもこのときのライヴ写真を載せているんだけど、良く撮れていると思いますよ。
当時は話す機会があってもできなかったと思う。あまりにもファンだったから(笑)
──ちょっと話が飛びますけど、『Amplifier Book Vol.1 〜1987年の忌野清志郎〜』(三栄書房)にブロックヘッズとのライヴの際のセットリストと共に撮影指定曲が書いてあります。RCの野音のときはどうでしたか?
有賀 : 野音はオフィシャルの撮影だったから、全曲撮れた。取材で来たカメラマンは頭3曲とかだけだったけど、全曲撮れるのがオフィシャル撮影だから。僕はまだ25、6歳だったけど、最高でしたよ。
──その時に清志郎さんにはご挨拶されたりしたんですか?
有賀 : いやいやいや(笑)。RCはメンバー、スタッフ以外は楽屋とかに全然入れなかったから、ライヴの時間に合わせて会場に行って撮って帰ってくるだけですよ。そこはすごく厳しかったから。それに、話す機会があってもできなかったと思う。あまりにもファンだったから(笑)。
──好きすぎて喋れないくらいのファン(笑)。「ステップ!」で好きになったとおっしゃいましたが、それからは過去作も遡って聴いてみたんですか。
有賀 : 『シングル・マン』(1976年4月21日)は聴きました。「なんじゃこれ!?」って思いましたよ。衝撃でしたね。ただ、最初期の2枚のアルバム(『初期のRCサクセション』(1972年2月5日)『楽しい夕に』(1972年12月5日))は全然聴かなかった。やっぱり、ロックンロール・バンドとしてのRCが好きだったから、そこまで深く初期のフォーク時代は聴いてないです。でも『シングル・マン』は「スローバラード」が収録されているもとのアルバムという意味でも好きですね。
──ところで、RCを撮影するにあたって、おおくぼひさこさん(仲井戸“CHABO"麗市の妻で写真家)や岡部好さんといったそれまでRCを撮影してきたカメラマンの方を意識していましたか?
有賀 : いや、全然しなかったけど、おおくぼさんが1983年にロッキング・オンから出した『RCサクセション写真集』はすぐ買いました。でも僕はとにかく洋楽ばかり聴いていたし、例えばミュージシャンの誰々はカメラマンの誰々がずっと撮ってる、とかいうのとは一切関係ないところからこの業界に入ったところがあるので。その当時は日本のカメラマンの方は意識していなかったですね。
──外国の方だと影響を受けた方はいらっしゃいますか?
有賀 : クラッシュの『The Clash: Before & After』を撮ったペニー・スミス(イギリスの女性フォトグラファー / クラッシュのアルバム『London Calling』のジャケットで有名)とか、雑誌『ローリング・ストーン』日本版が70年代に出てたんですよ(1973年創刊)。数年で廃刊になっちゃったけど。いま出てる『ローリング・ストーン』日本版(2007年に復刊)みたいな感じではなくて、海外の『ローリング・ストーン』をそのまま翻訳して、あとは日本独自のドキュメンタリー記事が出ていて。そこで1975年のストーンズ大特集とかを載せていたんです。75年のストーンズのUSツアーだとアニー・リーボヴィッツ(アメリカの女性写真家)が撮っているんですけど、それをそのまま掲載してたからそれを毎号買ってすごく見てたんですよね。そこですね、最初に影響を受けたのは。あ、あともう1つあった。ショーケン(萩原健一)のライヴ盤LP『熱狂雷舞』に、15、6ページくらいのモノクロのブックレットがついてたんです。それがカッコよくてね。「俺もカメラマンやりたいな」って思ったのもあったなあ。だからやっぱり日本人のカメラマンからも影響受けてますね(笑)。
──そのモノクロの写真が後々撮るライヴ写真にも影響を与えているかもしれない?
有賀 : あと、ペニー・スミスがモノクロばっかり撮ってたからね。やっぱり、ペニー・スミスの影響が大きいんじゃないかなあ。モノクロで撮ったクラッシュのカッコ良さですよね。
清志郎さんを神みたいに言うつもりはない
──清志郎さんもロック・バンドのヴォーカリストとして海外のアーティストに引けを取らないカッコよさがあると思いますけど、有賀さんにとって清志郎さんを撮影するときの魅力ってどんなところにありましたか。
有賀 : パフォーマーとしてすごいじゃないですか? 動き回るし。でも、「♪お前の匂い〜チャチャチャチャッ」(「Sweet Soul Music」での鼻をつまむステージ・パフォーマンスを真似ながら)とかキメポーズもあって、撮り甲斐はあったなあ。でも俺はRC時代の清志郎さんしか(ライヴは)撮ってないけどね。僕はRCが好きだったんだよね。最初に「ステップ!」を聴いたときの衝撃が最後まで尾を引いてたから、RCが活動休止になってからはあえて清志郎さんもチャボさんのソロも聴かなくなっちゃったもん、あまりにもRCが好きすぎて。
──それくらいRCに思い入れがあったんですねえ。
有賀 : それくらい衝撃でしたからね。写真を撮りはじめさせられるくらいの衝撃を持っていたから。あとは「自分が大事」っていうのもあって。どういうことかというと、やたらアーティストを崇める業界人も多いんですよ。僕はそれがすごく嫌で。清志郎さんの魅力にこっちも取り囲まれているんだけど、そこをどこかで断ち切るときは断ち切らないと、自立できない気がするんですよね。だから、自分は清志郎さんを神みたいに言うつもりもないし。だからRCが活動休止になったときには「ここで俺は清志郎を乗り越えよう」っていう感じであえてその後のソロを聴かなくなったんですよね。あまりにもRCが好きでね。
──仕事をしていく上で、RCが止まったからといって自分も一緒に止まるわけにもいかないですもんね。
有賀 : そうですね。仕事の被写体として目標にしてたし、撮らせて頂いたものは大事にしてきたから、写真集をつくらせていただいたり写真展を開かせていただいたりする時期は後々来たんだけど、でも何かにずっとしがみついちゃダメじゃないですか? 清志郎さんだって、ソロになってからは固定のカメラマンを付けずにガンガン変えていったしね。そういう意味でカメラマンというのは、好きな被写体と関われないときもくるから。だけどそのときはカメラマンは「自分が大事」って思ってないと、「終わったな」ってなっちゃうわけじゃないですか(笑)。
──そういう意味でいうと、有賀さんのお名前をネットで検索すると「日本で唯一のザ・ローリングストーンズ・オフィシャル・フォトグラファー」って出てきますけど、そのことについてはどう思っていらっしゃいますか。
有賀 : ストーンズはバンドがずっと続いてるからね。ストーンズがないとこっちもヤバいかもしれないですね。ストーンズ側からは日本ですごく頼りにしてもらってるし、そういうのがあるとこっちも支えになるから。
──写真をはじめるときの1番の夢でもあるわけですしね。
有賀 : それもそうだし、だってストーンズは一度も解散もしてないんだもん。
──そうでした、そういえば(笑)。
有賀 : 活動休止もしてないしね。そこがストーンズの良さなんだよなあ。特にここ5年はいままで以上にライヴツアーに力を入れているからね。
──さきほどの話にも出たように、“ストーンズの有賀幹夫”っていう見られ方をすると思うんですが、ご自身ではどう受け止めていらっしゃるんですか? 写真家としては、有名アーティストや人だけじゃなくてもっと広くいろんなものを撮れるんだよっていう気持ちも……。
有賀 : (食い気味に)ないない、全然ない。
一同 : ははははは(笑)。
有賀 : “ストーンズの有賀幹夫”っていうのがプレッシャーだったときもあったけど、いまはストーンズ側が頼りにしてくれていたり、ありがたいことだと思ってますね。10年くらい前、もっと中に入り込めないかってあがいてた時期はつらかったけどね。ストーンズも「ここまではOK、ここからはNG」っていうのが決まってるんですよね。やっぱり、イギリス人とかアメリカ人の方が有利っていうのもあるから、なんとかそこを越えられないかってあがいた時期はありましたけどね。いまは落ち着いたところでまあいいかって(笑)。
ミック・ジャガーから清志郎さんの2ショット写真公開OKの連絡が来たときは泣いた
──そのストーンズが1990年に初来日した際に、有賀さんはミック・ジャガーと清志郎さんの2ショットを撮影されていますよね。このときの様子を教えていただけますか。
有賀 : これは、清志郎さんがホテルまでミックに会いに来て。僕はストーンズ側のカメラマンとしてその場にいて2ショットを撮ることになったんだけど、あくまでも「記念写真」ということでずっと出せなかったんですよ。
──それが清志郎さん亡き後、公開されるに至ったのはどういう経緯があったのでしょうか。
有賀 : これは色んなところでお話してますけど、奇跡の展開だったんです。もとは、「ロッキング・オン」の追悼特集号の話なんですよ。清志郎さんが2009年5月2日にお亡くなりになって、追悼号が出たのが1か月後くらいだったと思うんですけど、編集者の井上貴子さんからご連絡いただいて。ロッキング・オンの編集部に僕が撮った80年代のRCのライヴ写真があるんだけど、掲載したいので許可をいただけますかっていう掲載確認の連絡だったんです。もちろん喜んでって返事をしたんですけど、井上さんは僕もよく存じ上げている方だし、「そういえばこういう写真もありますけど」って、清志郎さんとミックの2ショットを送ったんです。そうしたら「えっ!?」ってビックリされて。これはもちろん載せたいけど、清志郎さんの事務所とミック側の許可が必要だって言って。月曜日にそのメールのやりとりをしていて、本はものすごく巻きで作ってるから、木曜日までに清志郎さん側とミック側の許可が取れれば載せられます、と。清志郎さんの事務所はすぐにOKを頂いて。
問題はミック側ですけど、ミックのアシスタントに火曜日にメールしたんです。「日本の偉大なシンガーが悲しいことにお亡くなりになってしまいました。ミックからもすごく影響を受けたし、こういう写真を僕も90年に撮っているんだけど、これをいま作ってる追悼号に掲載させてもらえませんか」って。そうしたら、それはミックにしか判断できないから、また追って連絡するっていうメールが来て。ストーンズ側はイレギュラーなことはすごく嫌がるし、この件はそこから外れているわけです。だからこれは返事がいつになるかわからないなって。そうしたら、翌朝に「ミックがOKを出したからその写真は使っていい」って連絡が来て。もう泣きましたよ。だって、ミック・ジャガー相手に1つの確認事を求めて火曜日に送ったものが翌日に返事をもらえるなんて。本当に感動して泣きましたね、あのときは。
──それがロッキング・オン追悼増刊号『ROCKIN’ON JAPAN 特別号 忌野 清志郎1951-2009』に掲載されたんですね。
有賀 : その後に、ラフォーレ原宿でやった『個展 忌野清志郎の世界』で使われて、それから写真集をつくることになったのかな。
──あ、じゃあこの写真が公開されたことをきっかけに、有賀さんご自身も『NAUGHTY BOY KING OF ROCK'N ROLL』を創ろうと思われたということですか。
有賀 : もうこれだけの早さでOKが来ちゃってるし、写真展と写真集は一気にやりたいっていう気持ちでしたね。そこまでの自分は清志郎さんとの関わりでいえば完全にファンだし、プロとしても80年代のある時期にオフィシャルでちょっと撮影をしたやつ、くらいな感じでしたよ。だから僕は清志郎さんを撮ったカメラマンというよりも、「RCファン代表」っていうくらいの気持ちでしたよ。
【>>> 2月23日掲載の後編に続く…… 次回はより深く楽曲の魅力について掘り下げます〜】
ザ・ビートルズと忌野清志郎の展覧会「ONTEN 〜LOVE&ROCK ビートルズ × 忌野清志郎〜」大阪で開催中!
期間 : 2018年2月10日(土)から4月8日(日)まで
会場 : ATC(大阪南港)特設会場ITM2F
「ロックスター忌野清志郎展」では、忌野清志郎のギターや、愛用のアンプなどの楽器類をはじめ、特徴とも言えるカラフルなステージ衣装、オレンジ号と呼ばれる自転車などの愛用品、そして東京・タワーレコード新宿店のオープン記念に書かれた9mの大作の絵画など、ミュージシャン、サイクリスト、アーティストとしての“イマーノワールド”を余すことなく堪能できる展示となっている。ロック・フォトグラファー有賀幹夫が撮影した清志郎のとミック・ジャガーの2ショット写真も展示される。
>>> 「ONTEN 〜LOVE&ROCK ビートルズ × 忌野清志郎〜」についてはこちらから