【連載】〜I LIKE YOU〜忌野清志郎──《第11回》 蔦岡晃

INTERVIEW : 蔦岡晃(有限会社フェイスクルー 代表取締役)
忌野清志郎がヴォーカルを務めたRCサクセションは、1970年代の低迷期をタフに乗り越えると、エレキ・バンドとして生まれ変わり、80年代に大ブレイク。一度聴いたら忘れられない清志郎の歌声、派手なメイクとファッション、強烈無比なライヴ・パフォーマンスにより“THE KING OF LIVE"と呼ばれ、一躍脚光を浴びるようになっていった。今回ご登場いただく蔦岡晃さんは、RCの絶頂期からライヴ・スタッフを務め、清志郎の晩年にはライヴのオープニングに欠かせない役割を担っていた人物だ。長年、清志郎のライヴ・パフォーマンスを支え続け、現在も数多くのライヴ制作に携わっている蔦岡さんならではの視点から語る“KING"忌野清志郎とは。
企画・取材 : 岡本貴之 / ゆうばひかり
文・編集 : 岡本貴之
撮影 : ゆうばひかり
ページ作成 : 鈴木雄希(OTOTOY編集部)
協力 : Babys
はじめてRCのライヴで清志郎を観たとき“こんな人は日本にいないな"と思った
──蔦岡さんは、1979年にRCサクセション(以下・RC)のライヴを観て忌野清志郎の存在を知ったそうですね。
蔦岡 : 僕は、ファンからスタッフになったんですけど、最初にRCを知ったのは、『ミュージック・マガジン』に載っていた中村とうようさんのライヴ・レビューなんです。「下北沢LOFTにグラハム・パーカーを観に行ったつもりが、ドアを開けたらド派手な化粧で髪をツンツンに立てた男が歌っていて、ぶっ飛んだ」って書いてあって(※グラハム・パーカー&ザ・ルーモアが1978年の初来日時に下北沢LOFTのRCのライヴに飛び入りした)。それから、高校を卒業した頃に新宿をプラプラしてたら、「ワイズメンセクシー」というパブ兼ライヴハウスに「出演:RCサクセション」って書いてあって、そのまま観に行ったんです(1979年3月21日のライヴ)。
──曲を聴いたことはあったのでしょうか。
蔦岡 : 曲を聴いたことはまったくなかったです。だからそのライヴの1曲目「よォーこそ」がはじめて聴いた曲でした。10分尺くらいの曲でメンバー全員の紹介をしてキャラクターまでも言い切ってソロもあって、清志郎が「ガッタガッタ!」って締めるっていうあんな構成のライヴは観たことも聴いたこともなかったから、「ビーン!」と痺れて、こんな人は日本にいないなと思いました。言い表せない衝撃を受けましたし、あの日のライヴは生まれてからはじめての体験でした。ライヴを見れたお陰で私の清志郎ライフがあります!

──その後、ファンの立場からコンサート・スタッフになったのはどんな経緯があったのでしょう。
蔦岡 : 大学に行かずに通った音楽の遊び場みたいなところで、いろんな大人たちとの出会いがあって。そこで、コンサートの裏方を手伝わないかって誘われて、葛城ユキ、TENSAW、泉洋次 & SPANKYなど、日本のロックの夜明けみたいな人たちのコンサートの宣伝をお手伝いするようになったんです。いまのようにインターネットなどないので、チケットを配券して、ポスターを目立つところに貼ってもらったり、お金を回収したり。なんでもやる係ですよね。その間も清志郎を夢中で追いかけて、RCのライヴはアチコチ出かけて見続けていました。
そうこうしているうちに、RCをやっているイベンターのSOGOから、「おまえ、会社に入ってやる気ない?」って誘われて、「これはRCの近くに行けるんじゃないか?」と思って、ほぼ行ってなかった大学を辞めて仕事をはじめたんです。でもそこからは、会社の倉庫に寝るような毎日で、朝から晩までコンサートの準備をする生活になって。ライヴが終わったら清志郎はすぐ会場を出て帰っちゃうし、会場に来てもすぐにリハだし、清志郎は寝坊して遅刻してくるから全然話もできない。
──いつも寝坊して遅刻してきていたんですか(笑)。
蔦岡 : 15時からリハだったら16時にしか来ないみたいな感じでした、当時は(笑)。それで会場に入ったら楽屋でお灸をして、リハをして、メイクして、コンサートがはじまって……。終わったら即出だから、あっという間にいなくなっちゃって。僕らは残って片付けがあるから、喋る機会がまるでなかったんです。だから、ファンから清志郎のコンサート・スタッフになれたのに、半年間くらいは一言も直接は喋れませんでした。その頃はハワイでレコーディングした『OK』(1983年7月5日)が出る頃で、発売前にカセットで聴かせてもらえて、大ラッキーでした! でも「コレはいままでとまるで違うな…… 音圧も分厚くないし、「お墓」もカラッと明るいアレンジだし、どの曲にも内省的な清志郎の歌詞が見当たらないのはどーしてなんだろう……」という何か違和感がありました。
絶頂期のステージ上で「俺たち変わっていかなくちゃいけないんだ!」
──1983年6月8日、9日新宿厚年年金会館、25日、26日の渋谷公会堂からコンサート・スタッフになったそうですが、当時のRCはこのスケジュールを見てもかなりの売れっ子バンドですよね(1983年6月25日26日渋谷公会堂ライヴは『SUMMER TOUR '83 渋谷公会堂 〜KING OF LIVE COMPLETE〜』として映像化されている」)。
蔦岡 : 絶頂期ですよね。ひと月に厚年年金と渋公っていう2,000人以上のキャパで4日間コンサートをやって、武道館1日分のチケットを全部即完するんですから。その頃に忘れられないことがあるんですけど、あるときにコンサートのMCで清志郎が突然「とにかく俺たちは変わって行かなくちゃいけないんだ! いつまでもこんなことやってられないんだ!」って言ったんですよ。「どうしたんだろう、突然⁉」って思ったんですけど、よく見たらメイクがメチャクチャ薄くなってるし、衣装もさっぱりしていて、アクセサリーもほとんどつけていない。清志郎は当時、自分の格好を真似したファンがずっと追っかけてくることに、うんざりしていたんです。最前列にいるようなおっかけファンは全員いなくなってもいい、くらいの気持ちで「俺たち変わっていかなくちゃいけないんだ!」って言ったんだと思います。ファンの女の子たちは戸惑いながら「私たちの清志郎が変わっちゃう」って、泣いてましたね。
──それは、自分たちの音楽を理解してくれているかわからないような、ミーハーなファンに囲まれていた居心地の悪さがあったということですか。
蔦岡 : 音楽をちゃんと聴いてくれないことに、腹を立てていたんだと思います。ライヴで誰にも負けない良い演奏を聴かせるっていうことを心掛けていたと思うんです。とにかくライヴ中もワーキャー言うから、「バンドがいい演奏をしても聴いてないんじゃないか?」っていうのもあったと思うんです。自信を持ってライヴを届けているんだけど、ファンがそういう姿勢だとまったく折り合いがつかなくなるよっていうことだったんじゃないですかね。その辺りがRCは熱いのにクールでした。クールに態度で突き放すみたいな。

清志郎は不思議なひと、でした
──しばらく話すことができなかったという清志郎さんと話すようになったきっかけは覚えていますか?
蔦岡 : 1983年の武道館コンサートの前にゲネプロ(コンサート本番を模したリハーサル)を大きなホール会場でやったときに、チーフ・マネージャーの坂田さん(坂田喜策氏・故人)に改めて紹介してもらったんです。そのときはチャボさん(仲井戸“CHABO”麗市)にも紹介してもらったんですけど、2人の印象が違っていました。チャボさんはどっちかというと必要なことだけをキチンと話す物静かな印象でした。
──清志郎さんには、どんな印象を持ったのでしょうか。
蔦岡 : 僕が18歳で大好きになったあの清志郎が目の前にいる。ハニカミながら2メートルくらいの所に立っている。そしたらボソッ、と「ああ〜ツタオカ君っていうんだ、ヨロシク頼むね……」。グンと響く独特な声で言われて。時間が止まりました。コンサート・リハーサルだし、お客もいないホール。話したいことも、時間もいくらだってあるのにそれっきり「シーン…」みたいな。目を逸らしたくなるくらい。空中に「シーン…」って書いてあるくらいの(笑)。

それで「あれっ? 俺は清志郎に挨拶したんだっけ?」っていう気持ちになるくらいの間だったんですよ。その場から去るわけもなく、清志郎は目の前にいる。こちらはもっと去るわけにもいかないので、じっとしてました。たぶん一瞬の出逢いだったのに……。まるで僕の知らない僕を見ているかのような……。それから後は急に挨拶もガンガン、フツーにするようになって。だんだんいろいろとわかったんですけど、「いや〜さっきツタオカ君と盛り上がったんだよ」とか清志郎がスタッフやメンバーに言っていても、だいたいの場合、話なんて全然してないんですよ。「ボソッ」と、ヒトコト、フタコト。「シーン……」として、ただ2人でいるだけ。最初に逢って立ち尽くしたときに戻ってる。もうたくさん話してわかっているよ、みたいな。清志郎は不思議なひと、でした。
「先のことばっかり気にしてちゃダメだよ」
──80年代からライヴの現場で接してきた蔦岡さんから見て、清志郎さんはライヴに臨む上でどんな姿勢でいたと思いますか?
蔦岡 : 清志郎が心がけていたことがあったとすれば、「良い演奏をする、良い歌を歌う」ということだと思います。〈忌野清志郎 完全復活祭〉(2008年2月10日 日本武道館)の前に、喉が大変だろうし、タバコの煙に注意したり、いろいろ気を回していました。あるとき「どうですか、練習やり過ぎて喉はキツくないですか?」って訊いたんです。そしたら、「君はね、そんな事は考えなくていい。それから、武道館とか先のことばっかり気にしてちゃダメだよ。俺は明日どんな曲を練習しようかなとか、そんなことしか考えてないんだから。それをやっていけば、やがて武道館の日の朝になってるんだよ」って。清志郎はすごいなって思いました。自分が癌になっても伝えたいことをやる。やりたいことをやって歌ってる、そこにはやっぱり、「武道館に観に来てくれる人たちに対して良い演奏をしたい」という気持ちがあったんだと思います。それが答えなんだなって思いました。「今日と明日と明後日くらいのことくらいしか考えない」って、そういうことなんだなって思いました。僕の勝手な座右の銘です。

2008年2月10日 日本武道館「忌野清志郎 完全復活祭」オープニング秘話
──「完全復活祭」では、蔦岡さんがオープニングでライヴの口火を切る呼び込みをしましたよね。あれで蔦岡さんのことを知った人も多いと思います。
蔦岡 : あの日、「完全復活祭」で清志郎にやりたいっていうことを3つ言われていたんです。1つは、ライヴのオープニング映像です。病室でたまたまパソコンをいじったら、自分がパシャって写って、自撮りができるんだって気付いて撮りだめていたものがあるから、それをオープニングで流すことにして、と。2つ目は、ライヴのPAをエンジニアのzAkにしたいっていうこと。3つ目は、「キミにオープニングで呼び込んでほしいんだよね」って。

僕は忌野清志郎が望むことは何だってやろう! とそう決めていたので「ハイ、ハイっ‼」と即答していました。でも、待ちに待った武道館で関係ない人がステージに出てきたら、忌野清志郎しか見たくないファンが怒りますよってやっぱり断ったんです。それまでも呼び込みはやってましたけど、武道館は清志郎ファンの聖地だし、練習したところで自分は素人だから上手にできるわけがないし、その日はまさに“The Day Of KIYOSHIRO”ですよと。やめときましょうって言ったんですけど、「いや、困るね。これは決まってることだから」って言うんですよ。
──それで、セリフを書いて渡されたんですか?
蔦岡 : いや、それは最初にツアーで呼び込みをすることになったときに渡されました。でも、じつはその呼び込みは、清志郎が思っていたことと僕がやっていたことがまったく違っていたことが晩年にわかったんですよ。清志郎は〈モンタレー・ポップ・フェスティバル〉(1967年6月16日から18日まで開催された野外フェス)に出てくる、次の出演者を淡々と呼び込むMCみたいなイメージのつもりでいたと。それは最後のライヴになってしまった大阪の楽屋で言われたんです。でも最初は、「昔あった『イエスの方舟事件』のキレた宣教師みたいな感じでやってくれ」ってスタジオで言われてたんですよ。その人、犯罪者ですよ(笑)⁉ それでああいう風にやったら、「いや〜いいね、登場しやすいよ! みんな、彼に決まったよ!」って祀り上げられて(笑)。そこからツアーで僕が呼び込みをやるようになったんです。

──実際に超満員の武道館のステージに立ったときはいかがでしたか?
蔦岡 : DVDを観てもらえばわかりますけど緊張のあまり顔が真っ白! あの日を迎えるまで、300回くらい練習してますから。当日も武道館で、人に話しかけられてもセリフをず〜っとブツブツ反芻してました。清志郎よりも先に武道館のステージに出ていくなんて、本当にあり得ないんですっ!
──あの大舞台で、堂々としていて完璧な呼び込みだったと思いますよ。
蔦岡 : いやいや、堂々としてないですよ(笑)。ただ、うれしかったのは、「忌野清志郎〜!!」って呼び込んでステージ袖に戻ったら、清志郎がバシッ! とハイタッチしてくれたんですよ。お客さんに「こんなに集まってくれてどうもありがとう、感謝してますっ!」って言う前に、何も言わずとも「おまえも、サンキュー」っていうつもりでハイタッチしてくれたんだなって。それは、本当にうれしかったですね。そんな風にさり気なく清志郎は優しかった、です。
『KING』以降のライヴには「スゲー! あの清志郎が帰ってきたぁーっ!」みたいな感動があった
──清志郎さんのライヴは、アルバム『KING』(2003年11月19日)のリリースをきっかけに、そうした呼び込みを含めたソウル・ショーへと変化していきましたよね。バンド編成がRC以来の、ホーン・セクションが入ったものになりました(忌野清志郎 & NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS・以下ナイスミドル)。これは多くの清志郎ファンが求めていたものだったのではないかと思うのですが、清志郎さん自身がRC的なものをやりたいと言ったわけではないんですか?
蔦岡 : けっしてRCのようにするとかではなく、音楽的な編成としてホーンが3管にピアノにオルガン。清志郎はギターを弾かずにハンドマイクでステージを動き回り歌い上げる! そんな風に80年から90年までのRCでやっていたファミリーストーン的な“おれたち家族で転がって行こうぜ”みたいなことを音楽的にやりたかったんじゃないでしょうか。あきらめた訳じゃなく長い年月が過ぎてもう一度やってみようと、清志郎は思いついたんじゃないか、たずねたわけじゃないので僕がそう思ったのです。ナイスミドルがはじまったとき、とにかく一日中リハーサルしていました。自転車でやって来て、ズーッと黙々と練習してました。何も食べないし休憩もしないんです、清志郎は。同じ曲の同じフレーズを繰り返してバンドと染み込ませるように歌っていました。まるで若手のバンドマンみたいでした。清志郎はギターを弾かなくなったんですよ。「ウワー! これはカッコイイな」と。左手でマイク、右手でマイク・ケーブルを持って歌うっていう。2000年以降に見れなくなった清志郎の立ち姿。「スゲー! あの清志郎が帰ってきたぁーっ!」みたいな感動がありました。
──確かに、「帰ってきた!」っていう感じはすごくありました。
蔦岡 : そこで、「あ、そういうことなんだ、『KING』って」ということに気付いて。それでこのメンバーで、だから清志郎が『KING』なんだ、と。その時、清志郎たる『KING』が変身して『GOD』になるなんてことは1センチも考えてもみなかったです。何より清志郎がマイクをブン回してステージの端から端まで大きく魅せるショーアップをはじめたんだっ! ということにその喜びを感じました。

──「Baby何もかも」でマントショーをやって、しゃがみ込んだ状態から「雨あがりの夜空に」のイントロが鳴って、マントを跳ねのけて歌い出す、というパターンがありましたよね。ああいうライヴ・パフォーマンスができるようになったという意味で、『KING』はすごく重要なアルバムだと感じます。
蔦岡 : ありましたね! あれも「こういう風にやってみたいんだけどさ」っていう、清志郎の思いつきでした。その時に書いた曲を演奏したいのは、どのアーティストも同じだと思います。だから『KING』のときはその曲たちを演奏したがっていました。「Baby何もかも」がライヴ終盤の十八番になってフトンショーやマントショーにいくところとかに「雨あがりの夜空に」を合体させてさらにショーアップしたライヴに仕上げる重厚なモノになりました。「スローバラード」の梅津(和時)さんのうねるようなサックス・ソロのときにステージ中央に引っ張り込むようなアクションとか、RCのときにいくつも観たような気はするんだけど、すべてが新しくなっているから、その分、清志郎の歌がギューン、と入って来ました。素晴らしいバンドの誕生を目撃しました。
“ラブソング”と“明日を生きるための力”の2つを同時に歌う「君が僕を知ってる」
──では、好きな3曲を挙げてもらえますか。
蔦岡 : 1曲目は「雨あがりの夜空に」です。みんなに歌ってほしい曲だし、清志郎がいないこの世の中でも、これを歌えば絶対盛り上がる曲だから。はじめてライヴを観た日もやっていて、「盛り上がる曲だな〜!」って思いました。RC限定になってしまうんですけど、RCサクセションゴールデンエイジの僕としては、「よォーこそ」「スローバラード」「雨あがりの夜空に」の3曲になっちゃいますね。近年の清志郎の曲も入れたいんですけど…… あ、でも「君が僕を知ってる」は入れないと駄目だな。
──「君が僕を知ってる」はどんなところが好きですか。
蔦岡 : チャボさんが弾くフレーズを聴くたびに、清志郎とチャボさんの2人が、部室みたいな部屋でガチャガチャわいわいしながらあのフレーズを作ったりしている、見たこともない風景が必ず浮かぶんです。あと、歌詞の強さですね。どんな悪いことをしても、自分のことは君が知ってるっていう。ただのラブソングっていうよりも、明日を生きる力のために君が必要なんだ。そう歌っているんだと思うんです。“ラブソング"と“明日を生きるための力"の2つを同時に歌うっていう、その両方の歌詞が入ってるから好きです。でも、やっぱり3曲選べっていうのは厳しいなあ(笑)。

──無理言ってすいません(笑)。あと1曲は「スローバラード」でいいですか?
蔦岡 : う〜ん、「スローバラード」か「LIKE A DREAM」ですね。「完全復活祭」の最後の曲ですし。歌い終わって、竜平君とモモちゃん(長男と長女)が花束を渡したシーンが浮かびます。「家族は出すなよ、家族は!」って素の清志郎に言われたこととか。じゃあ、「LIKE A DREAM」「スローバラード」「雨あがりの夜空に」「君が僕を知ってる」の4曲にしてください。3曲だと選べない(笑)。
蔦岡晃が選ぶ忌野清志郎の4曲
①「LIKE A DREAM」
②「スローバラード」
③「雨あがりの夜空に」
④「君が僕を知ってる」
──数々のライヴで「スローバラード」を聴いてきたと思います。どんな思いを持っていらっしゃるのでしょうか。
蔦岡 : 2006年の〈ARABAKI ROCK FEST.06〉(以下、アラバキ)のときにやった「スローバラード」で、僕をはじめ舞台袖にいたスタッフ、ミュージシャンは全員泣いてたんですよ。梅津さんのアルトサックスのソロもキマっていて、清志郎の歌の溜める感じやどこまでも伸びていく歌声が神がかっていて本当に素晴らしかったんです。アラバキ会場を囲む暗い山々に響き渡るような神々しい瞬間でした。それで、翌年に清志郎が病気でアラバキに出られなくなってしまったときに、ウルフルズがトリの清志郎の代わりに沖縄から駆け付けてくれて「俺たちじゃ役不足だけど、やってきたぜ!」ってライヴをやったんです。トータス松本さんが「清志郎さん、待ってるぜ!」って歌ってる姿と、前年の「スローバラード」を歌う清志郎がめちゃくちゃ重なって。袖でまた号泣して…。たぶん、前年の「スローバラード」の素晴らしさをアラバキファンは周囲から聞いて知っていたんじゃないかなって思いました。それで清志郎をリスペクトしているウルフルズへの声援が半端なかった。そのときの「スローバラード」を思い出すだけで泣きそうになりますもん。
時代の終わりとはじまりに生まれた素晴らしいアルバム『BABY#1』
──では、アルバムを1枚選んでください。
蔦岡 : 『BABY#1』(2010年3月5日)です。清志郎が旅立って随分な時を経て………。1989年に小原礼さんとロスで作った音源が見つかったんです。それで新たに金子マリさんがコーラスしたり、ホーンを入れ直したり、竜平君が「I Like You」でコーラスを入れたりして数十年の時を経てようやく完成した作品です。時代的に昭和の終わり〜平成になるときに書いた「恩赦」っていう曲も入ってるし。時代の終わりとはじまりに生まれた素晴らしいアルバムですね。それに「メルトダウン」も入ってますから、やっぱり前年のアルバム『COVERS』とも大きく繋がっていきますしね。
蔦岡晃が選ぶ忌野清志郎のアルバム
──若手ミュージシャンの中には、清志郎さんに影響を受けていながら共演が叶わなかった人たちもいると思います。2013年の「ARABAKI ROCK FEST.13」で行われたトリビュートライヴでは「次世代が伝えるリスペクト」をコンセプトにOKAMOTO'Sと黒猫チェルシーがホストを務めて、奇妙礼太郎さんが「トランジスタ・ラジオ」を歌ったり、最後の「雨あがりの夜空に」ではチャラン・ポ・ランタンのももさんが最後のサビを歌ったりして盛り上がっていましたね。
蔦岡 : あのときは、OKAMOTO'Sと黒猫チェルシーに、曲構成も含めて全部お任せしようっていうことで、マネージメントにもお願いして、演者が決めて行けるようにして実現したライヴだったんです。ゲスト・ヴォーカルの出演者のチョイスもアラバキにいる出演者の中から自分たちで決めてもらったんですよ。一番すごかったのが、バンド(OKAMOTO'Sと黒猫チェルシーの合体バンド)が曲を完コピしていたことですね。TOMOVSKYが歌った「君を呼んだのに」は特別に歌力もスゴくて、曲のエンディングもバッチリキマってました。RC全盛期を忠実に演奏することで表現することに決めたんだなっていう、清志郎への愛、純粋で真っ直ぐさを感じました。
──蔦岡さんの周囲で、忌野清志郎から影響を受けているであろう若手ミュージシャンってどんな人がいますか?
蔦岡 : 僕が知る限りで言うと、a flood of circleの佐々木亮介さんとか。彼は〈中津川THE SOLAR BUDOKAN〉のときに、リハーサルで「トランジスタ・ラジオ」を弾いてたんですよ。それがキッカケで紹介してもらって話したら、「いつでも呼んでください。〈忌野清志郎ロックン・ロール・ショー〉に出たいですよ」って言ってくれました。あとはどんと(ボ・ガンボス)の息子のラキタとか。ドレスコーズの志磨遼平さん、奇妙礼太郎さん。でも30代以下のアーティストだと、あんまり思い浮かばないんですよね。もちろん、僕が知らないだけでたくさんいるんだと思います。親の影響で清志郎が好きになったっていう山﨑彩音ちゃんとかね。彼女は10代の感性の中で清志郎の体感したスピード感をわかっているシンガーのひとりです。そんな10代の歌手は本当にまれで、頼もしいです。
これを読んで「そんなに言うなら、何か1曲聴いてみるわ」となればとてもうれしい
──忌野清志郎いいよねっていう若者がリスナーにもミュージシャンにも増えたらうれしいですよね。最後に、そうした若い音楽リスナー、アーティストに向けて清志郎さんのどんなところをとくに知って欲しいかメッセージをお願いします。
蔦岡 : 僕は1979年にファンになったんですけど、2009年に清志郎は旅立ってしまった。出逢いからの30年で区切りとしてもう一度清志郎ナンバーを聴き直したんですよ。そしたら、どの曲を聴いても全部メッセージが詰まってるなっていう、歌詞の意味や深さに気がついたんです。忌野清志郎の世界観として内省的な歌詞の巧みな比喩がいまだに好きで離れません。思いのたけをバイクを飛ばしたり(「君を呼んだのに」)、バカでかいトラックに託したり(「ドカドカうるさいR&Rバンド」)、ラブソングなら温かい部屋のなかで彼女がミシンを踏んでいたりする(「ダーリン・ミシン」)、その風景や思いがギュッと全部曲に詰まっている。自分が曲の中で生きているというか、全部体験したこと、自分が感じたことをそのまま素直な感情で歌にしているんだなって。
それと、忌野清志郎って、すごく歌が上手い人なんです。それは、奥田民生さんも言ってました。どの時代を切り取っても歌に1ミリもブレがない。伝えたい言葉の一言ひと言がキチンと聴き取れるっていうのかな。歌がギターやベース、ドラムに埋もれずに音が楽器みたいに鳴っているんじゃなくて、言葉がキチンと聴き取れる歌手だっていうことが、改めてレコードを聴いてみるとよくわかるし、気軽に聴いてみてほしいです。
──気楽に聴いてもらうのが、1番いいですよね。そういう音楽だと思いますし。
蔦岡 : そうですね。でも〈ロックン・ロールの神様 俺にはついてる〉って平気で歌っちゃう人だから。何の遠慮もない。本当に思っているかどうかもわからない。2019年になると、自分も清志郎が生きてきた58年と一緒の歳になります。そして、その先は清志郎が感じられなかった世界を物凄いスピードで越えていきます。ますます「伝説の人」みたいになってしまうかも知れません。そうすると、堅苦しくて聴く前に皆が嫌になっちゃうかも知れない。でも、そんな風に敷居を高くしようなんて、少しも思ってないです。もしこれを読んで、「そんなに言うなら、何か1曲聴いてみるわ」となればとてもうれしいです。きっともっと、どんどん聴いてみたくなるはずなので、是非何か1曲、忌野清志郎を聴いてみてほしいです。応援演説みたいになっちゃいましたね(笑)。

次回は7月13日(金)に掲載予定です。お楽しみに!