対談連載『見汐麻衣の日めくりカレンダー』
残された作品がつなぐ、亡き父との対話──ゲスト : 上村汀(上村一夫オフィス代表)

シンガー・ソングライターの見汐麻衣が、いまお会いしたい方をゲストにお迎えする対談連載、『見汐麻衣の日めくりカレンダー』。「大人になったと感じた時のこと」をテーマに据え、逆戻りの「日めくりカレンダー」をめくるように、当時のあれこれを振り返ります。
第6回目のゲストは、〈上村一夫オフィス〉代表の上村汀さん。昭和の絵師と称され、『同棲時代』、『修羅雪姫』(原作・小池一夫)、『しなの川』(原作・岡崎英生)など、叙情的な名作を多数く残した漫画家・上村一夫の唯一の息女であり、現在は〈上村一夫オフィス〉で残された原稿の管理や作品を広める活動を担っています。
「父との記憶があまりない」という共通点を持つふたり。家庭や大人への眼差しをどう受け止め、どのように育ってきたのか。そして現在、亡き父と共に仕事をしているとも言える汀さんにとって、生前には叶わなかった“あること”が、作品を通して果たされているといいます。
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【第6回】ゲスト : 上村汀

文 : 石川幸穂
写真 : 安仁
「父親との記憶がほとんどない」
見汐麻衣(以外、見汐):実は私、汀さんのお父様(上村一夫)の漫画が昔から大好きで。高校生の頃から愛読していて……、というのを知っていたヤングブギーズの堂岡さん(堂岡タケシ)が、2013年に「上村一夫原画展『離婚倶楽部』で演奏しない?」と声をかけてくれて、汀さんに初めてお会いしたのはそのときでした。
上村汀(以外、上村):あれは、私もタケちゃん(堂岡タケシ)に提案していたんですよ。「見汐さんどうかな」って。
見汐:本当ですか? 嬉しい。
上村:ヤングブギーズが『嘘ごっこ』(2003年)のジャケットに父の絵を使ってくれたのがタケちゃんと知り合うきっかけで。そのあと、前野健太くんから阿久悠トリビュート曲「花のように 鳥のように」の配信用ジャケットに『同棲時代』(*)の絵を使いたいと連絡をもらって、こういう音楽をやっている人たちがいるんだと知ったんです。それで、なんで父の作品が好きなのかを調べたら、サニーデイ・サービスの曽我部さんが『若者たち』のブックレットに、『同棲時代』を挙げてくれていたことから知った人が結構いたんです。私は前野くんをきっかけに、三輪くん(三輪二郎)や豊田さん(豊田道倫)を知って聴くようになって、埋火も知ったんです。『菊坂ホテル』(*)をこういう曲にするんだ、と驚いて。面白いと思ってタケちゃんに「見汐さんどう?」と提案したんです。
*編注
『同棲時代』:『漫画アクション』1972年3月号〜1973年11月号にて連載。広告会社勤務の今日子とフリーのイラストレーターである次郎の同棲生活を描いた物語。自由で不安定な暮らしの中で愛と性の狭間に揺れ、今日子の心は次第に追い詰められていく。
*編注
『菊坂ホテル』:『月刊小説王』1983年9月号~1984年9月号にて連載。美人画で有名な画家・竹久夢二や文豪・谷崎潤一郎が滞在した菊坂ホテルを舞台に、そのホテルの娘である八重子(やえこ)の目を通して、時代を代表する文化人達の人間模様を描いた大正浪漫劇画。また、見汐麻衣が活動していたバンド、埋火が発表したアルバム『ジオラマ』(2011年)には同タイトル曲が収録されている。
見汐:あの日がなければ今日には繋がっていません。
上村:今年になってからスナックで再会したときは、当初の印象より柔らかく女性らしくなっていて。年月が経ったんだなぁと思って。
見汐:東京砂漠に揉まれながら、なんとかやっています……!

見汐:今日は汀さんとお話できる機会をいただいて、勝手ながら自分との共通項、シンパシーのようなものを感じてたところがありまして。私は幼い頃に父が家を出てしまったので、父に対する記憶があまりないんです。もちろん汀さんとは状況も時代背景も違うと思うのですが、「父との思い出が少ない」という点で「父親」という存在についてお話をしてみたい、伺ってみたいと思っていました。
汀さんが過去の対談で、お父様と一緒に暮らしていたのにほとんど記憶がないと語られていたのを拝読して、少し驚きました。職業柄特殊な環境でもあったと思いますが、「親子で暮らしているからといって、それが必ずしも家族の形ではないのかもしれない」と考える時間が増えていく中で「家族の形って何だろう」と思ったんです。同時期、汀さんのブログを拝見していたら、上村一夫さんの命日にあわせて、1974年の『潮』に寄稿されたお父様の文章が掲載されていたのを読んだんです。少し抜粋させていただきますね。
「父親と母親では、たとえばきびしさのひとつをとってみても、あきらかに異質のものがある。
男には、ある哀しさ、もしくはロマンがあるのではないかと思っている。
(中略)
“親”といい“子”といっても、所詮は他人なのだからこそ、ひとしお愛し合うんだという認識がほしい。それには自分たちの息子や娘を、きっちり信じてあげることが親子関係の大前提でしょう。両親が、無言のうちにそれを教えてくれた気がします。」
見汐:私には父の記憶、父との思い出が殆どないけれど、「もしかしたら父もこういうことを考えていたのかもしれない」とふと思ったんです。数少ない父との記憶の中のひとつなんですが、当時暮らしていた町に初めてマクドナルドができて。父に連れていかれたんですが、父が家を出た後のことだったので多分、久しぶりに会ったんですね。その時「麻衣とゆっくり話す場所も時間もないから、今日は誘った」と言われたことを鮮明に憶えていて。私は6歳とかだったのかな。正直話すこともないんですが、互いに黙ってハンバーガーを食べながらふたりで外を眺めたりして時間は寡黙に過ぎていくんですけど、父が自分の近況や思っていることを思い立ったみたいにふと口にしたりするんですよ。それがなんか、お父さんというより、親近感の湧く男の人という感じで。我が子に接する感じでは全くなかったんですよね。でも、その接し方が私も全く嫌ではなくて。今読ませて頂いた部分を目にした時、父とのその記憶がパッと浮かんで余計に印象深くて……。そういう会話……、話なんかは家でもされていたんですか?

上村:それはほとんどなかったですね。とにかくすれ違いの生活だったから。父が『同棲時代』で売れたのが1972年、ちょうど私が小学校に上がった頃です。その前は少し遊んでもらった記憶もあるけど、会話の内容というよりは後から写真で見る記憶くらいしか残ってなくて。学校に通い始めてからは、私が登校する頃に父が帰ってきて、寝ている間にまた出ていくような生活がずっと続いていて。忙しい頃は月に400枚以上描くような生活で、徹夜は当たり前で土日もほぼ休みなしでした。家で会えたときには「今度いつ帰ってくるの?」と聞くくらいで、会話どころじゃなかったんですよね。あの人、私が何歳なのかも知らなかったと思う。
見汐:そうなんですか? 誕生日も?
上村:誕生日も一緒に祝ったことないです。
見汐:食卓を囲んで夕食を一緒に、ということもなかったんですか?
上村:父が食べ物を食べている記憶がないんですよね。強いて言えば下北沢の焼肉屋に何度か行ったことがあるくらい。旅行も、父の取材に母と一緒について行った一度きりです。たまに日曜日に休めても、普段帰ってこないから母が怒っていて、家にいても父は居心地が悪そうでした。
見汐:じゃぁ、普段はお母様とふたりで生活しているような感じだったんですか?
上村:母子家庭のような感覚でしたね。母は「夫がいるのに帰ってこない」という怒りを常に抱えていて、母子家庭よりも怒りが強かったかもしれません。いまだに父に対して怒ってますから。父がいないのが当たり前だったから、母も諦めて出かけちゃうし、私も遊びに出掛けてました。だから父が家に帰ってきても構う人が誰もいないんですよ。でも、たまに日曜日に「行くか?」って声をかけられて、一緒に下北沢の本屋に行くことがありました。それぞれ好きな本を見て、父は資料用の本を何冊か手にして「何か欲しいものある?」って。私は『りぼん』を買ってもらって帰る。それくらいのやりとりでしたね。
