突然変異のポップ・ミュージック──岡村詩野が改めて考える「aiko論」
1998年のメジャー・デビューからいまもなおJ-POPシーンの中心で輝きを放ち続けるaiko。先日新シングル「青空」をリリースしたタイミングで、メジャー・デビュー以降のシングル、アルバムが配信開始となった。aikoの過去作もチェックしやすくなったこのタイミングで、いまいちどaikoの魅力を考え直すべく、音楽ライター、岡村詩野による「aiko論」を掲載。aikoの音楽のどこがすばらしく、魅力的なのか。20年以上シーンの中心にいることができた要因をじっくりと探ります。
通算39枚目となるニューシングル
昨年リリースされた4枚組ベスト・アルバム
突然変異、だからこそ魅力的なaikoのポップ・ミュージック
文 : 岡村詩野
現代のどんな音楽家にもルーツやお手本がある。たとえ作り手自身が無意識であったとしても、そしてそれを作り手がいかに拒絶しようとしても、受けている影響元というのは様々な側面から外部に認められるものだ。まして構成やメロディ、コードなどに一定の形式が明確にあるポップ・ミュージックの場合、それが優れた作品であればあるほど──この場合の「優れた」というのは、商業的成功という結果を伴った作品ももちろん含まれるわけだが──先達への理解とその継承、そして再構築、もしくは再解釈が鮮やかに結実した形として評価されていく。言い換えると、ポップ・ミュージックはお手本からいかに学び、そこをいかにダイナミックに上書きしていけるのかによってその歴史が回転、プログレスする性質の強い音楽と言っていい。
そしてその過程で、お手本にあたる存在の作品、作り手もまた、その都度で表情を変えていく。新しい時代の優れた作り手による再定義が、歴史そのものにニュートラルな息吹を注入していくことで、過去は過去のまま終焉することなく生き続けていき、決して古びることはない。それは延命という意味ではなく、過去は常に新たな刺激を受け、未来は常に過去に左右されるということでもある。とうの昔に新作が出なくなっているはずのザ・ビートルズが、恰もニュー・リリースがあるかのように、時代に応じて常にまったく異なるフレッシュな評価を受け続けているのは、つまりはそういうことだ。そういう意味では、「過去の偉人たちがやり尽くしてしまったからもういまの時代にポップスとしてやれることがない」というような言説は、謙虚さの現れといえば聞こえがいいが、ポップ・ミュージックの本質的なすばらしさをまったく理解していないとも言える。
だがしかし、どうしてもこの人に対しては「例外」という結論に辿り着いてしまう。もちろん、過去に学んでいないわけではないだろうし、むしろ過去との刺激的な関係性の上に成り立っている理想的な作り手であることは万人が認めるところのはずだが、それでも思う、彼女は「突然変異」なのではないか、と。aiko、突然変異のポップ・ソングライター。
先ごろ、サブスクリプション・サービスと配信サービスでの楽曲公開・販売を解禁して話題騒然になったaikoだが、いまもCDでしっかりとリリースされているし最新シングル「青空」も、しかもパッケージのケースとトレイは毎回異なる色味になっていてカラフルだ。aiko自身、CDというフォルムに愛着があると言われていて、これまでデジタル販売・配信になかなか動かなかったのも彼女のそうしたこだわりゆえだとも言われているだけに、デジタル解禁はなかなかにビッグ・ニュースだと言っていいだろう。aikoがデジタル解禁に踏み切った理由にはあまり関心がないが、あらゆる種類の楽曲が一望できる現代の最も大きな音楽俎上であるサブスクリプション・サービス / 配信サービスに彼女の作品がズラリと並ぶことには大きな意味を感じないではいられない。なぜなら、決して短くはないポップ・ミュージックの歴史上において彼女が決して「突然変異」ではない結論を見出す絶好の機会でもあるからだ。
「突然変異」とはいえ、彼女の楽曲には誰もが気づいている大きな特徴がいくつかある。まずひとつはメロディの動きが極めて大きいことだろう。その代表的な曲が1999年8月にリリースされたシングルで、2000年3月に発表されたセカンド・アルバム『桜の木の下』にも収録されている“花火”だ。実にもう20年以上前に発表されている作品にも関わらず、Spotifyでは解禁からまだ1ヶ月程度で既に48万回以上の再生回数を叩き出している人気曲だが、まさにこの曲でaikoらしい旋律の推移のダイナミズムがハッキリと実感できる。
この曲のアレンジ自体は、1990年代の洋楽主流のひとつだったメアリー・J・ブライジなどに代表されるヒップホップ・ソウル調のビートと、スライド・ギターとピアノによるアーシーなアメリカ南部サウンドとが合流したような形で、当時としてはベックあたりの音作りが起点になっている。だが、そこに乗っかるメロディは音符の動きが活発でとても“忙しい”。たとえば、Aメロの「(~あなたの事)考えてて」という箇所の、「か」から「ん」への移動は同じ音でもオクターブが一気に跳ね上がっている。しかも、音声に乗りにくい「ん」のために音程を確保しづらい。aikoの歌をカラオケで歌うのに苦労するのは、メロディのダイナミックな動きに対し、歌詞や言葉の乗せ方がイビツだからでもある。しかも、鍵盤で旋律を辿ってみるとわかるが、「かんがえてて」「ええ」の最後の「え」では最初の「か」に再び戻ってくる。僅か一小節の間で1オクターブを1往復するようなジェットコースターぶりだ。
だが、実際はそれほど広いレンジの中でメロディを動かすことはなく、せいぜい1オクターブの中で自在に組み合わされているのがおもしろい。Bメロの「三角の目をした~」から「やめれば?」までも、見事に1オクターブの中で完結させている。だが、半音を効果的に挿入しているから音符が派手に動き回っているように感じる。そのBメロのコード進行は、「三角の(B♭) / 目をした(B♭m) / 羽ある(Am) / 天使が(Dm7) / B♭(恋の) / 知らせ(B♭m) / 聞(Am)い(Dm)て(D7)」というもの。マイナーで微妙な動きをつけることによって、肌で感じるほどには決して広くはない音域に揺らぎをもたらしているのだ。
サビになるともっとわかりやすい。「夏の星座にぶらさがって」の一小節は音符の動きは一切なくず、コードもB♭のまま。ただ、跳ねるビートを利用し、自身のヴォーカルでも「なつぅ⤵︎」「せぃ⤵︎」「ざ⤵︎」と語尾をスライド・ダウンさせるラップ的唱法を取り入れることによって、サビに強烈にリズミックな聴感を与える。だから、超絶に忙しく慌ただしい曲に思えて、いざ採譜をしたらむしろ五線譜上は極めて平板かつ整然としているに違いない。楽譜に起こされたメロディだけではこの曲の良さは絶対に伝わらないのだ。
一方、Spotifyでは130万回以上の圧倒的な再生回数を誇るもうひとつの初期の代表曲“カブトムシ”は一聴すると対照的な曲だ。彼女自身、当時のインタヴューで「私にしてはメロディの動きが少ない、ロングトーンで歌う曲」と語っていて(『What's In?』2000年3月号)、さらに驚くことに「最初はもっともっとテンポの遅い曲だった」という。だが、オクターヴ超えの突飛でダイナミックなメロディの動きよりも、むしろ自然にメロディの推移に乗っていける、滑らかな階段状の動きが大きなうねりを作っている曲だ。とくに「~誘われたあたしは」の部分はキッチリほぼ1音ずつあがっていく展開で、歌っていても比較的音程をとりやすい。歌い方にも大きなクセがなく、高い歌唱力そのままを生かして高揚感をもたらしていく箇所だろう。
けれど、その箇所のコードをみると、「誘われた(Fm7) / あたしは(Fm7)」と1コードで通されている。階段を一段一段あがっていくようなメロディに対し、たとえば4つのコードに分解できるところをFm7で固定させたアイデアはなかなか粋だ。
こうしたテクニックから思い出されるのは、たとえばaikoも影響を受けたとされるキャロル・キングだ。キャロルがもともとジェリー・ゴフィンと組んで商業作家として活躍、ソロ・アーティストとしてデビューするまで、言わば“ブリル・ビルディング・サウンド”を代表するプロのソングライターだったのは有名な話だが、彼女の楽曲を聴くと、少なくとも初期のaikoの作品にかなり反映されていることに気づく。たとえば、代表曲“You've Got A Friend(君の友達)”の構造はaikoの“カブトムシ”に少し似ている。サビ後半の「Winter, spring, summer or fall」の箇所は、メロディが小刻みに動く、音程を取りやすい(わかりやすい)形で描かれているが、一方でこの2小節はA♭のみの1コード。音符の動きは活発ながらコードは固定という構造はまさに“カブトムシ”のサビに似ているとは言えないだろうか。
他方、aikoの楽曲のコードそのものは♭(半音下げ)を多用する傾向にあることから、ジャズのブルー・ノート・スケールの影響を受けていると言われている。この半音下げの傾向と、歌唱時の発音の語尾が下がるクセとはもちろん無関係ではないだろうが、ともあれ、結果として彼女の曲が多くの場合に特有の哀感を伴うのは♭をメジャー・スケールの中に効果的に挿入しているからかもしれない。そういう意味で、aikoの音楽は、あくまで♭多用のコード面ではブルーズやソウルなどのブラック・ミュージックの派生形として捉えることも可能だ。そういう意味ではイントロから♭が連発される“花火”が、ヒップホップ調のビートと合体しているのは筋が通っていると言えるし、たとえばメアリー・J・ブライジの“Mary Jane(All Night Long)”(1994年発表作『My Life』収録)などと繋げて聴いてみるとコードも曲調もかなり近いことに気づく。
ポップ・ミュージックの豊かなメロディ展開とフォルム、そしてジャズやブルーズのコードなどが合流…… そこから見えてくるルーツは、やはりキャロル・キングのようなポップ・ミュージックとしてのブルーアイド・ソウルだ。とりわけたとえばダスティ・スプリングフィールド、ローラ・ニーロ、カーリー・サイモン…… ヴォーカルからしてソウルフルなスタイルを追求していた、1970年代にひとつのピークを迎えた彼女たちの作品は、そういう意味ではaikoの楽曲面での源流のひとつであると言える。中でも、1969年に発表されたダスティ・スプリングフィールドの『Dusty In Memphis』を聴けば、aikoの作る曲が、ヒップホップ・ソウル / スワンプ調の“花火”ではないが、こうしたアメリカ南部タッチの音作りにフィットする理由もわかるだろう。そういえば『Dusty In Memphis』をトム・ダウドやジェリー・ウェクスラーとともにプロデュースしたのは、ローラ・ニーロやカーリー・サイモンにも関わっていたアリフ・マーディン。晩年にノラ・ジョーンズのデビューに関わっていたのにも納得する。
最新シングル“青空”はソフトかつ切れ味のあるファンク・タッチの曲で、ジャクソン5の“I Want You Back”を少し連想させるギター・リフとビートが印象的だ。シンセサイザーとホーンを効果的に配するなどのアイデアは、この曲でアレンジャーに起用されたTomi Yo(石崎ひゅーい、あいみょん他)によるものかもしれないが(Tomiは尾崎豊や玉置浩二などを手がけたプロデューサーの須藤晃を父に持つ)、ともあれ、久々にブラック・ミュージック指向…… それも1980年代のAORやフュージョンの流れを感じさせる曲調に仕上がっているのはとても興味深い。そういえば、aikoは先ごろ発表された東京スカパラダイスオーケストラの“Good Morning~ブルー・デイジー”にゲスト・ヴォーカルとして参加していたが、ホーンと絡むaiko…… という姿は、曲調はそこまで南部っぽくはないものの、やっぱり筆者に『Dusty In Memphis』の好相性を思い出させた。
aikoは歌い手としては決してソウルフルではない。母音にアクセントをつけながらテヌート気味に歌うヴォーカル・スタイルは日本の伝統的な歌謡曲との親和性も見てとることができる。丁寧にポップ・ミュージックの形式を学んだような曲に対し、アレンジやリズムは圧倒的にブラック・ミュージックが合うのに、歌はといえば歌謡曲。だが、そのミスマッチこそがおそらくデビューから20年以上、まったく古びれないaikoの作品の「突然変異」とさえ思えるハイブリッドなおもしろさではないかと考える。つまり、このままブラックボックスのように「ルーツ不明」のままにしておいた方がいいということだ。彼女が作り手として、そうした作風を自身で解明しながら制作したり、個性に自意識が働き過ぎてしまったとき、おそらくaikoの魅力は薄れていく。せいぜい外野がこうして勝手にパンドラの箱を開けているのが最も幸せなことなのだと思う。aikoの手のひらの上で転がされながら。
だがしかし、それこそが歴史的に見ても随一の摩訶不思議な音楽、ポップ・ミュージックの真理ではないか、と思うのである。