1988年、高橋幸宏プロデュースのもとデビュー、今年10月にデビュー25周年を迎えた高野寛。キャリア25周年記念の第一弾として、カヴァー・アルバム『TOKIO COVERS』、1999年リリースの『tide』(「Bye Bye Television」と「偽りの中で」を追加収録)、トッド・ラングレンやピーター・ポール&マリーのカバーなども収録した2000年リリースのライヴ・アルバム『Ride on Tide』の3作品が同時リリースされることになった。OTOTOYでは『tide』、『Ride onTide』の2タイトルをHQD配信。この機会に、日本のポップ・ミュージックを語るうえで欠かせない名盤を高音質で、じっくり堪能していただきたい。
高野寛 / tide
【配信価格】
HQD(24bit/48kHzのWAV) アルバム購入 3,000円
【Track List】
1. 新しいカメラ / 2. フルーツみたいな月の夜に / 3. 黒焦げ / 4. オレンジ・ジュース・ブルース
5. Phenix(翼なき僕達に) / 6. 皆既日食 / 7. 暮れてゆく空 / 8. Everlasting Blue
9. No word, No think / 10. Bye Bye Television(※追加収録曲) / 11. 偽りの中で(※追加収録曲)
高野寛 / Ride on Tide
【配信価格】
HQD(24bit/48kHzのWAV) アルバム購入 3,000円
【Track List】
1. 相変わらずさ(1999.7の月編) / 2. 夢の中で会えるでしょう / 3. 二十歳の恋 / 4. フルーツみたいな月の夜に / 5. オレンジ・ジュース・ブルース / 6. Wailling wall / 7. 皆既日食 / 8. Phenix / 9. 夜の海を走って月をみた / 10. Bye Bye Television / 11. AMBIENT1/1~Another Proteus / 12. 何も知らないで生まれて / 13. 黒焦げ / 14. All over, Stating over / 15. ベステンダンク / 16. 500マイル / 17. On & On
INTERVIEW : 高野寛
今年デビュー25周年を迎えた高野寛は、ほかに類を見ない、実はかなり特異な存在ではないかと思う。ポップ・メイカーとして一流の才能を持ち、YMOやムーンライダーズら大先輩からも信頼され、若い世代からも頼れる兄貴として慕われる高野は、日本のポップ・シーンの懐の深いところをしっかりと掴んでいる印象だ。
だが、一方で高野寛は貪欲でわがままなクリエイターでありリスナーでもある。今回、25周年を記念してリイシューされる『Tide』とライヴ・アルバム『Ride on Tide』からは、彼のそんな作り手としての貪欲さと、いい意味でのわがままさ、表現者としての道を求める信念が伝わってくる。スタジオ作業のAtoZと格闘しながら自分のスタイルを模索してきた高野が、初めて自分主導でミュージシャンをセレクトし作り上げたアルバム『Tide』。たったひとりでステージに立つことにまったく臆することなくネイキッドな姿を曝け出した弾き語りライヴ盤『Ride on Tide』。
そして、その2作品と同時にこれまで提供してきたカヴァー曲に未発表カヴァーも加えた『TOKIO COVERS』も新作として届け1られる。ビートルズ、ストーンズ、YMO、細野晴臣、ムーンライダーズ、トッド・ラングレン、くるり…… などなど実際に交流を持っているアーティストの曲も多く含むここからは、彼の一切ブレない趣味指向はもちろん、宅録に始まり、今なおスタジオに入ると没入してしまうという彼の頑固ぶりも感じ取ることができるだろう。来年以降も25周年記念プロジェクトは続くそうで、新作のリリースも予定されているという。あらためてここで、歴史を受け継ぐ折り目正しいポップ・メイカーと、そこから逸脱しようとするアウトサイダーという正反対の顔を持つ彼の真実を、彼の生の言葉によっておさらいしておこう。
インタビュー&文 : 岡村詩野
今だったらギター1本で表現できるという揺るぎないものがある
ーー高野さんは今年から京都精華大学で教鞭をとっていらっしゃいますよね。キャリア25年の今でも学生っぽい瑞々しさや初々しさを残している高野さんが、大学で若者に音楽を教えている。なかなか興味深いと感じています。
高野寛(以下、高野) : ねえ、おもしろいですよね。今回旧作2枚のリイシューと『TOKIO COVERS』を作っていてあらためて感じたんですけど、僕ってアマチュアイズムが抜けない人間なんだなあって(笑)。これはムーンライダーズの方々も昔からよく話してらしたことでもあるんですけど、アマチュアイズムって、一見ネガティヴなようで、僕の中で商売抜きにして楽しむってことに置き換えられるんです。そう考えると、大学生のとき、宅録をしていた自分と今の自分って変わらないんですよね。機材が進化して環境が多少変わりましたけど、それはそれで、「コンパクトでこんなに便利な機材ができたんだ!」ってワクワクする気持ちって、学生のころと同じなんですよね。機材の進化とともに一緒に成長してきたって感じです。で、それが片輪。あくまで創作の面です。もうひとつはライヴの方なんですけど、そっちは25年間でつちかってきたものが大きな自信になっている。今だったらギター1本で表現できるという揺るぎないものがあるんですね。
ーー創作面では永遠のアマチュアイズム、でも、ライヴではしっかりキャリアを生かしてプロとしての表現力、技術を身につけた。そのきっかけになったのが、今回リイシューされた『Ride on Tide』(00年)だそうですね。弾き語りツアーの模様を収録した高野さん初のライヴ・アルバムですが。
高野 : そう。弾き語りって表現力はもちろんなんですが、場を読む能力とかMCのセンスってものすごく重要なんですよ。芸といっても過言じゃないんです。それまでって、歌が上手ければいいだろう、演奏が良ければいいだろうって思っていたところがあったんですけど、あのとき、たったひとりでステージに立つことで、僕なりのエンターテインメントを作らないといけなくなった。当時はまだ今みたいにライヴ・ハウスじゃないカフェとかレストランとかで生演奏を聴かせることがまだまだ少なかったわけですけど、自分ひとりしかステージにいない状態で、演奏にメリハリ、緩急をつける作業がなかなか難しくて。そもそもライヴに対する感覚が学生のころとかは本当に今と違ったんですよ。
ーー学生のころはどういうライヴをやってらしたのですか?
高野 : マニアックでしたね。大学時代、一回だけソロ・パフォーマンスをやったことがあるんですけど、ラップスティール・ギターを床に置いて、ギターをエフェクターにつないで演奏するという、インストのフリー・スタイルのものでした。ほとんどインプロでしたね。
ーーおもしろそう。今の高野さんからはまるで想像できないですが。
高野 : それはフレッド・フリスとかの影響でした(笑)。ラップスティールをスティックで叩いてノイズを出したり、ホースを振り回して音を出したり… そんなことばかりやってましたね。要はエンターテインメントを意識したことがなかったんです。プログレ、ニュー・ウェイヴ、テクノとかの影響が強かったんで、お客さんを楽しませるということをほとんどど考えてなかった。作品の発表の場、という意識だったかもしれないな。それでソロとしては大したライヴ経験もないのにメジャー・デビューしたわけですよ。だから、デビューしたときは、“まず、ちゃんとライヴをやる”というところからスタートしたんです。
自分が影響を受けてきたアーティストの道程をなぞっているとも言える
ーー当時、どういう部分にもっともとまどいました?
高野 : 自分が客として観にいっていたライヴと、自分のライヴの客層の違いに、まずとまどいましたね。あまりにも違い過ぎたんで(笑)。当時、僕は、なかばアイドル的な扱いを受けていたところもあるし、「虹の都へ」「ベステンダンク」を聴いてライヴに来てくれる人も多くて。そういうファンの方にとって僕の全体像に対するイメージって、やっぱりアート・パフォーマンス的なのとは違うわけじゃないですか。そこに折り合いをつけるのが難しいと感じていた時期は確かにありましたね。「ベステンダンク」が出たあとのツアーでは、しょっぱなにギター・ソロを延々とやる、みたいなことをやったりして(笑)。そりゃあ、お客さんはどん引きですよね。でも、あえて引かせるためにやる、みたいなところはありました。引いてほしくてやっている、みたいな感じだったんですよ。
ーー本来の自分はこれなんだよ、ということを伝えたくて。
高野 : そうですね。今にしてみればなんて傲慢な態度だと思うんですけど、これについてこれないならいいよ、くらいの捨て鉢なところがあったと思います。91、2年ころのことかな。でも、おもしろかったのは、こないだくるりの岸田繁くんと呑んでいて、彼が初めて観た僕のツアーはまさにそのころのものだったみたいで、それでロックに目覚めたと話してくれたんですよ(笑)。「これがロックか!」と思ったんだって。その一言でむくわれた気がしましたね。
ーーそうやって荒療治することで、徐々にお客さんの理解も変化してきた実感はありました?
高野 : 本当に“徐々に”でしたけどね。だって、それこそ岸田くんが観に来てくれてた時期って、アルバムの半分くらいがインストで(『AWAKENING』)、賛否両論どころか、否の方が多い、みたいな時期でしたから。おそらく今だったらもっと自然に受け入れてもらえていたと思うんですけど…… それこそサカナクションとかはそういう作品を作ってますからね。でも、まあ、当時はまったく受け入れてもらえなかったですね。ただ、自分が影響を受けてきたアーティストの道程をなぞっているとも言えるんですよ。トッド・ラングレンは「ハロー・イッツ・ミー」「アイ・ソー・ザ・ライト」のヒットのあとに『魔法使いは真実のスター』みたいなアルバムを作っちゃったし、YMOはブレイクしたあとに『BGM』『テクノデリック』を作ったりとかしていたわけで(笑)。
ーーリスナーを裏切っていく作業。
高野 : そうです。ただ、その裏切りの意味を力技で伝えていくだけのポテンシャルが当時の僕にはまだなかったんです」
ーーただ、一方でどうしても、優れたポップ・ソングを作れる貴公子というイメージも抗えなかったと思うんです。レコード会社もファンもそこの部分を求めていたと思うんですが、当時はどのようにしてそのバランスをとっていたのですか?
高野 : いやあ、そりゃあ現場では言われましたよ。「ベステンダンク」みたいなヒット・シングルをよろしく、みたいに(笑)。
ーー90年代はシングルも多く発表していましたよね。その多くにタイアップもついていた。
高野 : そうなんですよね。田島(貴男)くんとやった「Winter's Tale~冬物語~」なんかはすごく楽しんでやってましたけど、結構キツいなと感じていた時期でもありますね。自分としては、アクみたいなものを取りのぞいて精製して音楽を作っていきたいという思いもあったんですけど…。でも、そんなころに阪神淡路大震災があって。電気を使わないでライヴをやるということにトライしたことでライヴへの意識がまた大きく変わったんです。そのあとしばらくはまだ折り合いをつけ切れていなかったんですけど、90年代後半になると時代の空気もまた変わってくるんですよね。
なるべく日常に近い感覚で音楽を作る方がいい
ーーそうですね。それこそくるりら新しい世代からのつきあげも出てきたころでした。今回リイシューされる『Tide』はそうした新時代の空気を受けた作品という印象です。あのアルバム以前と以降とではかなり印象が変わっていますし。
高野 : そうなんです。それまでって、僕は年上の先輩ミュージシャンとの交流が中心だったんですけど…… それこそ幸宏さんがそうですよね。同世代も田島くんくらいでした。でも、そのころから自分より下の世代でおもしろいと思えるひとたちがたくさん出てきたんです。リトル・クリーチャーズ周りとかクラムボンとかフィッシュマンズとか。そういうひとたちと知り合って、ライヴもいっぱい観に行って飛び入りしたり、対バンしたり…。人脈が大きく広がったんですけど、そういう関係の中で作ったのが『Tide』だったんです。若い世代にはクラブ・カルチャー以降って感覚もあったし、洋楽と邦楽の境目が本当になくなったんだなって感じもしたし。日本語の歌なんだけど、それまでの歌謡曲の流れにとらわれてないなって気がしたんですよね。山崎まさよしくんなんかは、それまでのアコギ奏者とは全然違うグルーヴ感があったし。僕自身、そこで仕様は同じなんだけど、自然とヴァージョン・アップした実感がありました。
ーーソングライティングにも変化が生じました?
高野 : そうですね、それも自然に変わったと思います。フェス前夜のおもしろさですよね。今はこれだけフェスがありますけど、まだフェスではなくイベントのようなカタチで、そこに集っている若いコたちの刺激が自分のソング・ライティングにも少なからず影響を与えたんじゃないかと思います。TOKYO NO.1 SOUL SETとスチャダラパーとかも含めてクラブ系がより解放された時期だったのかもしれないですね。それまで、僕は当時としては国内最高峰のスタジオで録音させてもらっていたんです。ちゃんとしたコンソールがあって、大きく重い扉でガチャって中に入るようなプロ仕様のスタジオ。まあ、すごく緊張感をしいるスタジオなんですよ。もちろん、その緊張感が良さにつながることもあるわけですが、その当時の若手はそういう緊張感を嫌ったんです。昔ながらのプロ仕様を嫌ったんですね。なるべく日常に近い感覚で音楽を作る方がいい、という解釈。そこが新しいなと思いましたね。
ーーでも、高野さん自身、もともとは宅録だったわけですよね?
高野 : そうそうそうそう(苦笑)。デビューしてもなんかスタジオに馴染めないなと思っていたのはそこだったんだ! って思いました。彼らは自然なカタチで日常に“ハレ”を持ち込もうとしていた。自分もそういうところに出発点があったわけだから、そりゃ共感するわけです。
ーークラムボンが環境のいい小淵沢のスタジオで合宿レコーディングしたり、中村一義くんが自宅にスタジオをしつらえて録音してみたり… の時代。
高野 : そう。中村くんの影響も強いですね。自分のやってきたことは間違ってなかったんだ、これでいいんだ、ということに確信を持てるようになった時代であり、その最初のアルバムが『Tide』だったということだと思います。それまでって、どこかで宅録出身であることを否定的に思っていたのかもしれないですね。
僕はテクニックにどうしてもとらわれていたんで。そこをリセットさせられましたね
ーー若手と交流するようになったことで、具体的に最も気づかされたのはどういう点でしたか?
高野 : そうだなあ…… 彼らが普通にできてることが、自分には実はできてなかったということですかね。僕のほうが10年キャリアは長いんですけど、若い彼らの方ができてるって思えることが多かったんです。とたえば、歌や演奏に対する意識。僕はあまりにも素晴らしい先輩方とずっとやってきたんで、「ああいうふうにならないと!」と常に上を見てテクニックを磨くことを考えていたんです。でも、彼らは自然に目の前に目線を置いているんです。技術以上に、表現することを意識して歌を歌ったり演奏したりしていた。すごく上手に表現する。表現力が豊かなんですよ。僕はテクニックにどうしてもとらわれていたんで。そこをリセットさせられましたね。あと完成度にもとらわれていたな。厄介ですね、完成度って(笑)。
ーーそれは、完成度の高さをファンに求められる部分と、自分自身、完成度が高くありたいと願う部分の両方ですか。
高野 : そうですね。そういうのを求めるのが好きな自分もいましたからね。でも、クラムボンの連中とかは技術もあるけど、プロセスとかを大事にしていた。表現することのおもしろさを楽しんでいる感じだったんですね。それでいて、一緒に音を出すと、相手がどういう音を出しているのかをちゃんと聴いている。音の空気をつかみ取る感覚、音で会話する感覚があるんですよね。自分の曲をライヴで披露するために一流の方々とやってきた、という僕のそれまでのライヴの感覚とは全然違ったんですよ。逆に言えば、それまでの僕はそういう上の世代のうまい方々に守られてきていたんだと思う。でも、世代は下だけど実際にライヴを見て「このひとたちいいな」と思えた人と一緒に音を出してみると、こんなに違うんだ! ってことに気づかされたんです。
ーー自分の手で動かしていくことの醍醐味を『Tide』前後であらためて知ったわけですね。
高野 : そう。ミュージシャンがホームページを持つようになったのも90年代後半のことだったと思うんですけど、自分で発信することのおもしろさっていうのが自分のメディアを手に入れることとうまくシンクロしていったんですよね。それまで僕はある意味孤独な、同世代の仲間もあまりいないし、という感じで活動していたんですよ。同世代って田島くんくらいだったんでね。それだけに、クラムボン、スーパーバタードッグ、ポラリス… 当時はラブライフでしたけど、彼らのつながりというのが羨ましくもありました。僕は渋谷系にも乗りそこなった男なんで(笑)。
ーーフリッパーズ・ギターやオリジナル・ラヴよりメジャー・デビューは早いじゃないですか!
高野 : まあ、そうなんですけど(苦笑)。なんかうまく自分の旬というかバイオリズムと合わなかったんですよ。サンプリングとかリメイクとかパッケージにこだわるとか、そういうおもしろさを渋谷系のひとたちが伝えていたころ、僕はワールド・ミュージックにハマっていたんですよ。みんながソウルを聴いているときに僕は民族音楽を聴いていた、みたいな(笑)。
音の作り方がこんなに変わったのに、自分の好みの音って本当に変わっていない
ーーただ、そのころは世界的にみても、デヴィッド・バーンがルアカ・ボップ(注1)を、ピーター・ガブリエルがリアル・ワールド(注2)を立ち上げたりっていう流れもありましたよね。ベックやビースティ・ボーイズも、ブラジル音楽とのシンクロを見せ始めました。高野さんの場合は、そのころのリスナー体験が後に宮沢和史さんらとのGANGA ZUMBA(注3)にもつながっていったわけですよね?
高野 : そうですね。つながってますね。そういうところにシンクロ、共感していたんですよ。ちょうど細野さんもエスニックなものに傾倒されていた時代ですしね。そもそもサンプリングにすごく抵抗があったんですよ。DJがレコードを素手で持ってこする、ということにも最初は「うわ~……」みたいなね(笑)。レコードは大事にしようよ、みたいなね。もうその時点で乗り遅れてたわけですけど。でも、そういうことを口に出すのがはばかられたころだったんですよ(笑)。まあ、もともとギタリストとしてデビューしたかった人間なんでね、僕は。でも、『Tide』以降は…… まあ、もちろんそのあともまだ紆余曲折があったんですけど…… ようやく自然に自分自身のルーツをカタチにしていくことができるようになった感じですね。でも、実際の根っこはそんなに変わってないんですよ。今回『TOKIO COVERS』の制作のために昔の音源やこれまでのカヴァー曲などを自分であらためて聴いていたら、ああ、変わってないなあってあらためて実感しましたね。指向も手法も。
ーー高野さんは上の世代と下の世代のちょうど繋ぎ役でもありますよね。今でもYMOのサポートなどですぐさまお呼びかかかる。そういう役目を担っていることについてはどう捉えているのでしょうか。
高野 : サポートをさせていただくこと自体はとてもありがたいです。ソロをやろうとしていたときにサポートのお仕事が入るとスイッチの切り替えが難しい。ソロはクリエイティヴィティのチャンネルになるから周囲が見えなくなる。ダメ人間になるんです(笑)。でも、サポートはきっちりと仕事しないといけない。そこらへんは難しいですけど、でも、やっぱり楽しいし勉強になりますからね、ありがたいですよ。今は僕のやってきた役目を小山田(圭吾)くんがやってる感じですけど…… いやあ、でも、初めてフリッパーズ・ギターを知ったときは、21世紀にまさか自分と小山田くんがYMOのサポートをすることになるとは思ってもみなかったですね(笑)。
ーーちなみに、プロトゥールズを使ったのはいつのことだったのですか?
高野 : 自分で買ったのは『Tide』のあとなんですよ。それまで宅録していた音源もちゃんと自分の作品でいかされたことがなくて、2004年の『確かな光』でようやく自分でプロトゥールズを用いて作った音源をミックスして使ったって感じです。その後も変遷あって、今はラップトップだけで録音しています。今回『TOKIO COVERS』で、1991年から今までの音源をランダムに並べてみて、録音の道具や方法はこんなに変わったのに、選曲の趣味や自分の好みの音ってずっと変わっていないんだなということに気づかされたんですよ。カヴァーする時、まずは自分の記憶に一番濃く残っている曲を選ぶわけですけど、原曲の印象を振り払って、曲のコアを取り出して、自分で自分の色を塗っていく、という作業。曲そのものと向き合う作業なんですよ。僕はやっぱりポップなものに反応するところがあるから、メロディ部分をしっかり残した形で自分の色をつけていこうとしている感じですね。でも、こうやってまとめたことで、自分自身、ここからまたさらに自由になっていけるような実感があるんです。
ーー新作のアイデアももうたまってきているわけですね。
高野 : そうですね。25周年なんで25曲入りにするかな、とか(笑)。今までやってきたことを、これからさらに解放していけそうな気がするんですよ。デビュー曲なんか、もう今のライヴではアレンジも歌の感じも違うんで、そうやってすでにある曲もどんどん変えていければいいなと思っています。
(注1)ルアカ・ボップ
トーキングヘッズのデヴィットバーン主宰によるレーベル。70年代西アフリカの天然サイケデリックなダンスホール楽団の音源を集めたコンピ『World Phychedelic Classics 3: Love's A Real Thing』などのリリースはフェラ・クティの影響といえよう。
(注2)リアル・ワールド
元ジェネシス、ピーターガヴリエルによるワールド・ミュージックを主としたレーベル。アジア、アフリカの辺境音楽をヨーロッパに紹介し様々なミュージシャンに大きな影響を与えた。
(注3)GANGA ZUMBA
THE BOOMの宮沢和史を中心としたバンド。メンバーにはマルコス・スザーノとフェルナンド・モウラなど宮沢自身のソロ・ツアーで出会ったミュージシャンなどによって構成されており音楽性も中南米を感じさせるサウンドとなっている。
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ジャンルや規模を問わず、あらゆる場面で活躍し続ける彼が、リラックスした雰囲気の中、純粋に歌を届ける、2012年9月27日(木)に行われた今回のVACANTでのライヴ。自ら「ライフワーク的」と語る、等身大の彼の音楽を、DSDならではの高音質で記録。ライヴ前とライヴ後に行なったインタビューと共に、じっくり堪能していただきたい、渾身の一作です。
高野寛+伊藤大助 / 太陽と月、ひとつになるとき -EP
2012年の1月に高野寛とクラムボン伊藤大助で結成された2人組バンド。ライヴ会場で限定販売していた音源3曲に、新曲「太陽と月、ひとつになるとき」の新録が加わった4曲入りEPを、OTOTOYではHQDでお届けします。2012年10月31日には1stライヴ・アルバム『TKN+DSK Live2012』のリリースも予定されているので、そちらもお楽しみに!
クラムボン / 2010
クラムボンの8thアルバム。 オリジナル・アルバムとしては2007年の『Musical』以来、実に3年ぶりの作品で、エンジニアにtoeの美濃隆章をむかえ、山梨県小淵沢のnone to cat studioにてレコーディングされました。OTOTOYでは、全曲高音質のHQD(24bit/48khzのwavファイル)で販売。メンバーのミトが「最大限の音が入って、最大限のエネルギーやパッションがみんな入っている! 」と語る、スペシャル高音質作品群。スタジオ直送の音を、徹底的に細部まで味わってみましょう。
LIVEスケジュール
高野寛 Live Tour 【from 1988 to 2013】~HT debut 25th Anniversary 1st season~
2013年10月12日(土)@徳島 第二倉庫 アクア チッタ
2013年10月13日(日)@愛媛 若草幼稚園
2013年10月14日(月 祝)@香川 高松 umie
2013年10月25日(金)@岩手 盛岡 カフェ ポルトボヌール
2013年10月26日(土)@宮城 仙台 SENDAI KOFFEE CO.
2013年10月27日(日)@栃木 黒磯 SHOZO 音楽室
2013年11月2日(土)@奈良 法徳寺
2013年11月3日(日)@鳥取 カフェ ダール ミュゼ
2013年11月4日(月・祝)@島根 松江 清光院下ギャラリー
2013年11月9日(土)@東京 下北沢 mona records *sold out
2013年11月14日(木)@福岡 cafe Teco
2013年11月16日(土)@大分 日田リベルテ
2013年11月17日(日)@鹿児島 GOOD NEIGHBORs
2013年11月28日(木)@愛知 名古屋 TOKUZO
2013年11月30日(土)@兵庫 姫路 ハルモニア
2013年12月1日(日)@広島 尾道 やまねこカフェ
2013年12月13日(金)@岡山 城下公会堂
2013年12月14日(土)@大阪 中之島デザインミュージアム
2013年12月15日(日)@静岡 浜松 Esquerita68
2013年12月20日(金)@宮崎 日向 nap cafe
2013年12月21日(土)@熊本 長崎書店
2013年12月22日(日)@福岡 TAGSTA
高野寛presents「One by One」vol.5 《guest : Be the Voice》
2013年12月6日(金)@神戸 cafe fish
2013年12月7日(土)@京都 Flowing Karasuma
高野寛 Live 【2014 to next】~25th Anniversary 1st season : FINAL~
2014日1月19日(日)@東京 ザ・ガーデンルーム
PROFILE
高野寛
音楽家。1964年12月14日 静岡生まれ B型
1988年、高橋幸宏プロデュースによるシングル『See You Again』でデビュー。現在までに16枚のシングルと、ベスト盤を含む15枚のオリジナル・アルバムをリリース。代表曲は「虹の都へ」(オリコン2位を記録)、「ベステンダンク」(オリコン3位を記録)など(共に トッド・ラングレンのプロデュース)。田島貴男との共作シングル『Winter's tale』(1992)を初めとしてコラボレーション作品も多数。司会を務めた「土曜ソリトン side-B」(NHK教育・1995~96)はコアなサブカル的テーマを取り上げる番組として人気を博す。90年代後半からギタリスト/プロデューサーとしての活動も始め、2001年以降、GANGA ZUMBA(ガンガ・ズンバ)、pupa(ピューパ)、高野寛 + 伊藤大助 等、バンド/ユニットでの活動も精力的に行う