自分の発している言葉に責任を取れていないのはダメだなと思っていて
────それを踏まえて、(2014年からの)8年間を締めくくるアルバムとして『LOOP 8』を作ったわけではない?
大柴:そうじゃないんですよ。アルバム最後の曲“LOOP 8”は、これまでのアルバム・タイトルを全部繋げている曲なんですけど、そこを経て最初のアルバムに戻ったときに、じつはこの旅のスタート地点がもう既にゴールだったんです。
──その8年間、テーマを持ってちゃんとブレずに帰結するってすごいことだと思うんですけど、どうしてそうできたんですか?
大柴:いや、めちゃくちゃブレてますよ(笑)。ただ、真面目にブレたんで。というか、ブレちゃダメだとは思わないんです。真っすぐ歩くことがブレていないとするならば、俺は全然歩けてないです。だって、想像もできないようなことが起こるんだもん。そこで心を強く持てと言っても無理ですよ。主観的に「俺はブレてない」と思っても、人から客観的に見てブレてんなって思われたら意味がないし、そこの感覚はすごく大事だと思うんです。ブレないようにすると、絶対こんな作品できないんですよ。色んなところにブレてフラフラ寄り道しながら全部自分のなかで道として出来てるから、そこをちゃんと舗装してあげることが大事というか。
──“さよならグローリーデイズ“は過去の自分を歌っていると思うんですけど、それこそこれまでの道のりを舗装している?
大柴:“さよならグローリーデイズ“はまさにそうですね。8年前の自分は、「一瞬の花火」みたいになりたいと思って曲を作っていたんですけど、「この先も音楽をやりたいな」と思ったんです。でも自分が40歳になって例えば20歳のミュージシャンと比べたときに、同じようにキャーキャーやって「俺もヒット曲生むぜ!」ってなっていいかっていうとちょっと違う気がしていて。俺は“栄光の日々“(グローリーデイズ)はいつだっていまだなって思うし、いまがいちばんカッコイイ自分でいたいなと思うんですよ。その考え方でいくと、“Like A Rolling Stone”(転がる石のように)じゃないですけど、「誰にも見向きもされなくなったときに、あなたはどう思うんですか?」って自分に問いかけたり、誰かの人生に問いかける曲があってもいいんじゃないかと思ったんですよね。これは色んなことをやってきた人間じゃないと絶対にわからない位置で書いた曲で、「わかってくれたらいいな」っていう感覚なんですけど。
──さきほどおっしゃった、メジャー時代のご自分の気持ちも入ってますよね。
大柴:入ってますね。大阪から東京に出てきた時の気持ちとか。いまと全然違うし、想像もしていないですから。
──それを振り返ったら、“なに( ゚д゚)しとん︖“が出てきたわけですか。エスカレーターについての歌詞は笑っちゃいましたけど(笑)。
大柴:これはあるあるなんですけど(笑)。大阪人にはふたつあって、上京してすぐ東京に染まる奴と、ずっと関西弁丸出しで行く奴がいるんですよ。そういう彼氏彼女がいたらおもしろいなと思って書きました。
──大柴さんってあんまり関西人っぽさを出してないですよね?MCで関西弁で喋ったりしないでしょ?
大柴:しないですね。俺は基本的にニュートラルでいたいと思ってるので。そうじゃないとこんな曲書けないですよ。どっちかに染まってたら「やっぱすきやねん」ってなっちゃうし、俺はそっちじゃないというか(笑)。自分は大阪の端っこの枚方市の出身なんですけど、大阪にも京都にも近いので大阪人でも京都人でもないというか、あの地域って汽水域みたいに文化が混ざり合うところで、自分の属性がわからない人が多い場所なんです。そういうところ出身だから、簡単に東京のなんでもないところにパッと染まれるんです。ただ、妹には「すぐ標準語になってキモい」とは言われましたけど(笑)。〈そのラップっぽいやつマジ痛い キモい〉っていうのはそこから来てると思います。
──「家族愛」についても考えることはありますか?
大柴:最近はすごくあります。うちの親父が74歳から抽象画を描きはじめて、海外の絵画コンクールで賞を獲ったりしてどんどんファンが増えて東京とか海外で個展をやったりしているんですよ。親父はもともと、性的な事柄をはじめて純文学に落とし込んだ作家の吉行淳之介に憧れて、官能小説を書いていて。俺が最初に書いた曲“さよならミッドナイト“も、しっとりしたバラードにいきなり〈テーブルの上に 缶ビールとコンドーム〉みたいにセクシャルな言葉が入っていますけど、この曲がポンって売れたので、親父もそういう部分をちゃんと継承しているみたいなんですよ。
──今作は、前作に比べるとすごく素直に曲を書いているような印象を受けました。
大柴:ああ、本当ですか?確かに、前作みたいにすごくコンセプティブに強烈なメッセージを込めて作ったアルバムとは違いますね。結局、意味がないというか。最初に収録されている“がらんどう“も、めちゃくちゃ意味がありげな歌詞を歌ってますけど、じつはあんまり深い意味は込められていないんですよ。〈ITs A FAKE〉〈whats the TRUTH?〉って、聴いてる人に委ねるというか。“ベーコンエピ“もそうですけど、意味がありそうでそんなになくて。曲全体的というよりは、断片的に捉えて欲しいなって思うんです。この曲を聴いて、若い人たちへのメッセージだと思ってくれてもいいんですけど、自分の感覚としては、単純にパンを食べて「美味しいな、おかんはこんなオシャレなパン食べたことあんのかな。そういえば最近実家に帰れてないな」とかそんぐらいの曲なんですよ。でも、そこに色んな言葉が入っていると、自分で考える余白がなくなっちゃうというか。前作の『光失えどその先へ』は、結構余白がない感じで作ったんですよね。
──情報が詰まっている感じはありましたね。
大柴:それで言うと、今回はスカッスカなんです(笑)。すごく断片的に情報が入ってる。
──だから1曲目が“がらんどう”。
大柴:そうです。このアルバムは外側をちゃんと作っているように見えて、中身はなにもない。それは、聴いた人が想像して入れて欲しいなって。いままで8年間、自分が頑張ってテーマ性を持って、愛とか生活とか光を失ってもその先があるとか、意味がある曲を真面目に作っても、周りの人からするとハッキリ言って「そんなこと知らんがな」っていうぐらいだと思うんです。そういう客観性は持っているんですよ。そんなこと関係なしに聴いてもらって、「あ、これ好きだな」って手繰り寄せてみると、じつは信じられないぐらい伏線が張られていて、「ええ~!」ってなるみたいな。そういうちゃんとした線だけはめちゃくちゃ引いたけど、あとは好きなように聴いて欲しいです。
──“ベーコンエピ“にはそれがすごく表れていますね。こういう歌詞が入っているとやっぱり戦争のことを連想しますけど、それも平凡な日常があるからそう思うわけで。
大柴:これね、ロシアとウクライナの戦争が起こる3ヶ月ぐらい前に書いた曲なんですよ。
──そうなんですか?
大柴:そうなんです。結構ざわざわしました(笑)。ちょうど1年半ぐらい前にできた曲で、そのときはそんなことは起きてなかったので。
──でも90年代に歌ったとしても、その時々でなにかしら連想するものはあったと思いますし、そう考えると世界は変わっていないのかもしれないですね。
大柴:変わっていないですよね。僕は(忌野)清志郎さんが好きなんですけど、清志郎さんが生前「地震のあとには戦争がやってくる」って言っていたんです。でも、それをそのまんま言っちゃうと、すごく露骨になるし重たくなっちゃうじゃないですか? だから、〈WAR IS OVER 戦争反対〉からテーブルの上の〈ベーコンエピ〉っていう落差を歌った方が、人はなんの意識もなく聴いてくれるんじゃないかなって思ったんです。俺がなにを思っているかなんて、世の中的にはどうでもいいんですよ。ただ、人が興味を持ってくれたときに、自分の発している言葉に責任を取れていないのはダメだなと思っていて。だから今回、入り口はめちゃくちゃ広くしたんです。でも出口はちゃんと狭くしたので(笑)。そこらへんはちゃんと作りました。