大柴広己と歩み続けてきたキーパーソンたちの鼎談──『JUNK HOPE』に宿る希望

紆余曲折を経ながらも、それでも音楽を手放さずに歩んできた大柴広己。エンジニアの倉本淳二、マネージャーの大中智史という長年の仲間とともに、レーベル立ち上げから数々の作品制作を重ねてきた。その関係は、偶然のようで必然とも言える再会の連続によって形作られてきたもの。最新作『JUNK HOPE』では、自宅制作を軸にしながらも他者の手を取り入れ、“ガラクタの中にある希望”をすくい上げる。なぜ彼らは、このやり方にたどり着いたのか。20年の軌跡と現在地をたどる。
テーマは「希望への渇望」。
歌とギターだけでここまで響かせる、⼤柴広⼰の現在地
INTERVIEW : 大柴広己×倉本淳二×大中智史

⼤柴広⼰というミュージシャンについて考えたとき、聴くものを一瞬で惹きつける歌声、卓越したギターの演奏、琴線に触れるメロディ、ときにユーモアを交えた歌詞、そしてそれらを自らの言葉で伝える饒舌さが浮かんでくる。また、多くのアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手掛けていることもあり、どちらかというと器用な印象もある。9枚目となるアルバム『JUNK HOPE』は、こちらが勝手に思い込んでいたそんな大柴のイメージが覆る作品だ。
今作は、デビュー20周年を迎えた⼤柴が抱えて来た葛藤や世の中への苛立ちも織り交ぜながら、生きるためのささやかな希望が描かれている。今回のインタビューでは、大柴の作品に長年携わっているレコーディング・エンジニアの倉本淳二、主宰レーベル「ZOOLOGICAL」でマネージャーを務める大中智史にも参加していただき、3人の関係が紡ぐアーティスト・⼤柴広⼰の過去と現在、音楽に託す思いを語ってもらった。
取材・文 : 岡本貴之
撮影 : 大橋祐希
節目ごとに何度も交差する、3人の始まり
――みなさんはもう長い仲なんですよね?
大柴広己(以下、大柴):だいたい10数年前からの関係ですね。もともとは2013年にシンガー・ソングライターの谷口貴洋をデビューさせるときに集まった3人なんですよ。当時、谷口はメジャー・デビューが決まってたんですけど、レコーディングの1週間前にその話がなくなってしまって。それでもレコーディング自体は進めなければいけないという状況で、以前から一緒にやっていた倉本さんと、当時大阪でライブハウスの店長をしていた大中が合流した形です。
ただ、倉本さんと僕の付き合いはさらに古くて、僕がデビューした20年前よりも前にさかのぼります。デビュー前も含め、これまでのアルバムはすべて倉本さんが手掛けてるんですよ。最初に出会ったのは19歳のとき、ソニーミュージックで育成契約をしていた頃ですね。東京で初めてレコーディングをするときにエンジニアとしてついてくれたのが倉本さんでした。
倉本淳二(以下、倉本):2002年ですね。当時はフリーでやっていたんですが、ソニーのディレクターから「いい新人を見つけたから、とりあえず曲を録ってみたい」と声をかけられて、それで初めて会いました。
大柴:そのときは「まずは軽くデモを録ろう」という話だったんですけど、僕は全然“軽く”なんて思っていなくて。大阪の学生だった自分にとっては、初めて東京でレコーディングする機会だったので、「これで売れるぞ」と本気で思っていたんですよ(笑)。肩で風を切るような気持ちで東京に行ったんですが、もちろんそんなにうまくいくはずもなくて。
終わったあとに倉本さんから「これがダメでもまた次があるから」と声をかけてもらったのを覚えています。その日がちょうど、自分の20歳の誕生日、2002年8月27日だったんですよ。

――デビューの話はどうなったんですか?
大柴:結局、その話は流れてしまいました。その後は「とにかく大阪で名前を売る」と決めて、年間150本くらいライブをやっていたんです。それがきっかけで、最終的に江戸屋からデビューすることになりました。
それから大学卒業後、2年ぶりくらいに倉本さんから電話がかかってきて。江戸屋と契約したことを話したら、「俺そこでエンジニアやってるよ」と言われて、「えー!?」って(笑)。
――倉本さんは現在「aLIVE RECORDING STUDIO」所属とのことですが、もともとは江戸屋が運営していた「銀座スモーキースタジオ」からキャリアをスタートされているんですよね。
倉本:そうです。銀座スモーキースタジオは僕が 21歳のときになくなって、その後はいろいろな現場を経験して回りました。ちょうど大柴がデビューするタイミングで、江戸屋に戻った形ですね。
大柴:それで一緒にデビュー・アルバム『ミニスカート』(2006年)を作ったんです。そのときも壁にぶつかりながらも、2年前の経験もあっていい作品ができたと思います。その後、また別のメジャーレコード会社が決まったんですが、そこでもいろいろあって、レコーディングが3、4回頓挫したんですよね。
倉本:まぁ、いろんな大人の事情があって、さっきまでこっち向いてたのに突然あっち行けって言われたりね(笑)。
大柴:そうした経験もあって、「もうやっていられない」と思い、2009年、27歳のときにレコード会社を離れてフリーになりました。
――大中さんはその時点ではまだ関わってないですか。
大中智史(以下、大中):まだ登場してないんですよ。
大柴:事務所を辞めてフリーになってからは、とにかく稼がないといけなかったので、いろんな地方を回っていたんです。その頃、大阪のライブハウス〈minami horie ZERO〉(現、SOCORE FACTORY)で店長をしていた大中が、僕のことをすごく呼んでくれていて。
大中:最初に大柴さんのライブを観たのは〈見放題〉で、広沢タダシさんのステージにゲストで1曲だけ出演したときでした。そのときに「めっちゃいいな」と思ったんです。それでオファーするようになりました。

大柴:大中のブッキングって若手のシンガーソングライターの中に僕が入ることが多かったんですよ。当時の僕は大阪でデビューして、中堅に差しかかるくらいの立ち位置だったんですけど、その中で10代後半や20代前半の子たちが「大柴さん」と慕ってくれるようになって。それまでとは違う感覚でしたね。
デビューを目指して突き進んでいた時期から、後輩ができて、自分を少し俯瞰で見られるようになった。そのきっかけをくれたのが、大中のイベントだったと思います。そういう環境の中で曲もたくさん書けるようになって、ライブも増えていきましたし、東京でのアルバム制作なども徐々にできるようになっていきました。
倉本:僕がまた大柴に会うのも、その頃なんですよ。
大柴:2010年くらいだったと思います。そのタイミングで、もう一度アルバムを作ろうという話になって、東京の蒲田にある日本工学院専門学校でレコーディングすることになったんです。そしたらまた倉本さんから電話がかかってきて、「俺、そこで講師やってるよ」って。「ええっ、なにそれ!?」って(笑)。
倉本・大中:(笑)。
――ターニングポイントで倉本さんが現れるんですね(笑)。
倉本:レコーディング・スタッフの中に、バンドのブッキングとかで学校に出入りしている知り合いがいて、そこから話を聞いたら大柴の名前が出てきたんです。「それ、よく知ってますよ」って。
大柴:知ってるどころじゃないでしょ(笑)。本当に2年おきぐらいに連絡が来るんですよ。
倉本:その間もまったく連絡がなかったわけではなくて、たまにデモを録ったり、飲みに行ったりはしていましたけどね。
――それだけ大柴さんの音楽が気になっていたということですよね。
倉本:そうですね。歌も上手いし、曲もいいし、ギターも上手い。ただ、それまでうまくいかない形で終わることが多かったので、それも気になっていて。江戸屋を離れたあとに再会したときには、昔のイケイケな感じが少し落ち着いて、大人になりかけている印象でした。そこからまた一緒にできるようになって、これは面白いなと。






























































































































































































































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