OTOTOY EDITOR'S CHOICE Vol.252
OTOTOY編集者の週替わりプレイリスト&コラム(毎週金曜日更新)
あの日、彼がくれた銅メダル
2023年はとにかく野球の年だったと思う。
WBCの日本チームの優勝、 阪神タイガースの38年ぶりの日本一、大谷翔平のメジャーリーグでの大活躍。普段は野球はそんなに観ていない僕でも、今年は特に野球の年だったなという感じがした。
そして、野球のことが話題に上がり続けた今年、僕はあの頃のことを思い出していた。今から20年くらい前、僕が野球少年だった頃のことである。
小学4年生の頃、僕は地域の野球クラブに入団した。地元は、ハイパー田舎で小学校は1学年1クラスしかない。小学校の部活は、野球、サッカー、バレー、バドミントンの4つ。しかし、「男は野球、サッカーの2択」という雰囲気があった。野球を選んだのも、サッカーがそんなに好きじゃなかったとか、そんな理由だったと思う。
練習は厳しかった。平日は夕方から日が暮れるまでグラウンドを走り回り、土日は朝から練習していた。当時は夏の間も水も飲めなかった。気合いと根性を軸にした、バッチバチのスパルタ・スタイル。しかし、なぜだか居心地は良かった。通っている学校の子だけではなく、隣町の学校の子と交流ができるというのが良かったかもしれない。
僕が入団したその年。チームは強かった。様々な大会で連戦連勝。メダルを何個も獲得していた。そして大きな大会で地区大会を突破。その後、県大会でも優勝。全国大会へと駒を進めたのである。
今考えると、よくもそんなに強くなったものである。チームのメンバーは当時の6年生が4人、5年生が8人、僕と同学年の4年生は5人と、たったの17人。練習場所は、普通の小学校のグラウンドと、整備もほとんどされていない河川敷。学校主導のチームではなかったため、指導には教員が入ることはなく、監督やコーチはおそらく素人の野球好きのおじさんがやっていたし、ノックやキャッチボールの相手は子どもの父親がやることもしばしばだった。20年ほど前の話である、念のため。
ただ、そんな状況においてもチームに一体感はあった。そしてそれを作り出していたのは、他ならぬ主将の佐藤君の存在だった。彼は小6の時点ですでに体格は完全にがっしりしていたし、佇まいにリーダーの風格があった。当たり前だが、打撃も守備のセンスも抜群。口数が多い方ではなかったと記憶しているが、チームのみんなを引っ張るパワーが確かにあった。そして、モーニング娘。と氷川きよしを愛するというキャラクターの良さもあった。
小4の頃、僕は泣き虫だった。基本スパルタなので、練習はしんどいしコーチから怒られることも多く、その度にビービー泣いていた。しかし、自分の親から「佐藤君はしんどいことがあっても、泣かないようにしているらしい」「試合で負けたり、悲しいことがあったときは、その場では我慢して自分の部屋でこっそり泣いているらしい」と聞かされ、僕は人前で泣くのをやめた。おそらく、僕は佐藤君に憧れを抱いていたのだ。
その年の全国大会の会場は地元から少し離れた、鳥取県だった。僕は当時入ったばかりで補欠としても活躍できるわけもなく、移動費や宿泊費等々の関係から、遠征メンバーから外れた。「入ったばっかりだし、その分いろいろ遊べるぜ」と思って納得していた。親から「どうやらベスト8に入った」「次は準決勝」「明日決勝みたいよ」と話を聞くとすごく嬉しかった。そして、「優勝した」と聞いたとき、僕は飛び上がって大興奮していたと思う。全国大会優勝。自分は活躍していないくせに、なによりそれが誇りだった。
しかし、そこからがしんどかった。ホクホク顔で帰ってきたメンバーは、「全国大会で優勝したんだぜ」と自信満々だった。全国大会の思い出で盛り上がるし、なかには「お前も来ればよかったのに」と言う子もいた。子供の無邪気な会話である。僕はなんとなく疎外感を感じていた。
秋からは6年生は事実上の引退という感じで、5年生を中心にチームは組まれた。しかし、全国大会を経験しているメンバーとそれ以外のものでは実力もメンタル面も全然違う。僕はとにかく声を出すだけの、応援要員になってしまっていた。「補欠で一番声のデカい者が試合に出られる」、そんな言葉に釣られてバカでかい声を出して応援歌を歌い続けた。おかげで大きい声を出せるというアビリティーを獲得できたものの、実力が足りず試合に出ても活躍はできなかった。
年が明けて春になった頃、6年生が最後に出る大会というものがあった。最後の思い出作りという意味合いだったのだろう。絶対勝つぞというよりは、どこか肩の力が抜けた感じの試合が続いた。とはいえ、僕はその大会も大きな声で応援し続けた。結局、全国大会優勝チームの最後の大会は、3位に終わった。
その大会の帰り、各自それぞれの車に乗ろうとしていたところで、駐車場で主将の佐藤君に声をかけられた。「これ、やる。お前、頑張って声出しとったけん」。そういって、彼は自分の銅メダルを渡してくれたのである。その銅メダルは何より輝いて見えた。なんとなく気にかけてくれていたのだろう。この1年の辛いことが報われる気がした。僕はしっかり受け取って、帰ったあと自分の部屋でこっそり泣いた。