「その日わたしは その日わたしは なくても生きていけるものに 生かされていた」
クラシックやトラッドに根ざしたサウンドに、やわらかいながらもはっとする言葉で歌うシンガー・ソングライター、湯川潮音が、3年ぶりのフル・アルバム『濡れない音符』をリリースした。おおはた雄一が作詞作曲した「にじみ」、world's end girlfriendと共作曲したドラマティックな「笛吹きの少年」を含む全11曲を収録。プロデュースには初のフル・アルバム『逆上がりの国』以降、たびたび湯川の作品を手掛けている鈴木惣一朗(ワールド・スタンダード、ソギー・チュリオス)を迎え、いまの"湯川潮音"が表現された作品が完成した。
湯川潮音 / 濡れない音符
【配信価格】
WAV、mp3 ともに 単曲 250円 / まとめ購入 1,800円
【Track List】
01. りゆう / 02. 羽のように軽く / 03. かかとを鳴らそ / 04. にじみ / 05. ラストシーン / 06. 光の中の家 / 07. ニューヨーク / 08. 砂の鳩 / 09. 60年後の灯台守 / 10. 笛吹きの少年 / 11. その日わたしは
※まとめ購入の方には歌詞ブックレットが付いてきます。
INTERVIEW : 湯川潮音
とてもさりげなく、しかしこれまでとはどこかが違う。湯川潮音のニュー・アルバム『濡れない音符』を聴いてそう感じた方はきっと少なくないと思う。2010年に前作『クレッシェンド』をリリースしたあと、およそ半年間にわたってニューヨークで生活していた湯川は、人知れず苦しい時期を迎えていたのだという。どうしても自分の書くことばに納得できない。そんな状況からなかなか抜け出せず、ひたすらもがきながらも、彼女のよき理解者である鈴木惣一郎らの協力を得ながら時間をかけてかたちにしていったという『濡れない音符』は、結果としてシンプルながらも骨格の美しいメロディと、彼女の日常とそのなかで生まれた実感を素直に綴ったリリックがぐっと響いてくる作品に仕上がった。ピアノを中心とした室内楽編成の演奏も実に心地よく、聴き込むほどに深い味わいのあるアルバムだ。
「長いトンネルからようやく抜け出せた」と晴れやかな表情で語る湯川。彼女はどのようにしてこのスランプを克服し、この作品に辿り着いたのだろう。本人のことばからこの3年間をゆっくりと紐解いていきたい。
インタヴュー&文 : 渡辺裕也
私のことを知らない状況でちょくちょく歌わせてもらえたのは、自分をまっさらな状態にするいい機会にもなって
――湯川さんは前作『クレッシェンド』を出したあと、しばらくニューヨークで生活していらしたそうですね。
湯川 : はい。2010年の12月ごろにチケットを取って、2011年の4月に発とうと決めていて。そうしたらあの震災があったんです。そこでどうするべきかちょっと迷ったんですが、やっぱり行くことにして、それから半年くらいのあいだはいろんなところを旅していました。
――なぜニューヨークという場所を選んだんですか。
湯川 : 「曲づくりは日本でやって、録音はイギリスでやる」というパターンが自分のなかで出来ていたんですけど、たまには空気の入れ替えをしたくなったというか。あと、『クレッシェンド』の録音もイギリスでやってるんですけど、そのときにちょっと強制送還に遭ってしまって…。
――え! それはなぜ?
湯川 : ちょっとした不幸だったというか(笑)。録音するという目的を伝えずに入国したら、バックの中に譜面やレコーダーがあることをチェックされて、嘘をついたことになっちゃって。それでイギリスには入国できなくなってしまったんです。
――それは災難でしたね。
湯川 : すごいショックでした(笑)。それで、じゃあどうしようかなと考えていたら、そのころはちょうどブルックリンの音楽シーンが気になっていたのもあったし、そっちに行ってみたらどうかなと思って。以前はそこまでアメリカの音楽に興味がなかったので、これもいい機会かなって。
――これまでにロンドンを制作の拠点としていたのも、音楽的なところで興味の沸く場所だったから?
湯川 : そうかもしれませんね。高校を卒業してすぐアイルランドに留学したんですけど、そのころはアイリッシュ・トラッドにすごく興味があって。その流れからブリティッシュ・フォークに出会ったり。イギリスの古い音楽に好きなものが多かったんですよね。あと、クマ原田さんというベーシストでプロデューサーの方との出会いもあって、あっちで一緒に音楽をやれる人が増えたのも大きかった。それに私、スタジオにこもって録音するのが苦手なんですけど、あっちだとふつうに暮らしながら録音できるんです。スタジオがそのまま庭とつながっていて、気分によっては機材を外に出してフィールド・レコーディングしてみたり、キッチンやお風呂場なんかで録ってみたり。そういうところをいつも楽しんでやっていました。
――なるほど。ちなみに湯川さんはブルックリンの音楽のどんなところに興味を持ったんですか。
湯川 : ブルックリンの人たちって、その人にとって重要なものであれば、他人から見たらガラクタみたいなものでもちゃんと大事にして演奏している印象があって。そういうおもちゃ箱みたいな感覚がいいなと思っていたんです。たとえばダーティ・プロジェクターズもそうですよね。発想が柔軟というか、友だちが何人か集まったからなにかおもしろいことやろう、みたいな感じがある。「あなた、ピアノ弾けるの? じゃあ弾いてみてよ!」みたいなところから音楽が生まれていく。そういうグルーヴ感がよくて。
――たしかにブルックリンにはそういうコミュニティがあるようですね。湯川さんもそんな輪に加わっていけたんですか。
湯川 : はい。パンク・バンドのヴォイス・トレーナーをやったりしてました(笑)。あと、日本で1度対バンしたことのあるココロージーのふたりがホーム・パーティに呼んでくれて。それで行ってみたら、デヴィッド・バーンとか、有名な人がたくさん来てて。そこでバンドが演奏してたり、ベッドで寝転がってたり、冷蔵庫から勝手にピザを出したりしてるんです(笑)。自分がそのなかに入りたいと思ったら受け入れてくれるし、ほっておいてほしければほっとかれる。そういう街でした。トップ・ミュージシャンもすごくフラットで、みんなと一緒に演奏したりしながら友達になっていく。そういう流れがすごく楽しかった。
――いいですねえ。今回のアルバムに入っている曲は、そのブルックリンで生活していた時期につくっていたものもあるんですか。
湯川 : それが、曲づくりはけっこう苦戦していて。ノートもたくさん持っていったんですけど、何冊分書いても納得がいかなくて。それはやっぱり震災直後というのもありました。迷いや不安もあるなかで旅をしながら、ちょっと翻弄されているような感じで日々を過ごしていたので。
――その「書いても納得がいかない」というのは、主にリリックのことですか。
湯川 : そうです。これまでと同じように書くことはできるんだけど、それがいまの自分には合っていない気がしてしまうというか。どうしても「これだ!」と言えない。それでつくったものをぜんぶ消してっていう作業を何度も繰り返していました。「言葉ってなんだろう」というところまで思い悩んでいましたね。
――そこまでいってしまうと、なかなか振り切るのが大変そうですね。
湯川 : 旅に出ることを決めたのは、それをすべてひっくり返したかったというのもあったんですけど、なかなか大変でしたね。あっちでもライヴはけっこうやってたんですよ。セントラルパークでストリート・ライヴをやったり、教会跡地みたいなところで現代アートの展示をするから、そのオープニングで歌ってくれと頼まれたり。そういうだれひとりとして私のことを知らない状況でちょくちょく歌わせてもらえたのは、自分をまっさらな状態にするいい機会にもなって。
家をつくっていく作業って、なんか自分を再構築しているような感じだったんですよね
――ニューヨークに滞在している期間に、その作詞に関する悩みはケリがつけられたんですか。
湯川 : それがだめで、日本に帰ってきてからもしばらく続いたんです。それでどうにかしなきゃと思って、帰国後すぐ鈴木惣一朗さんに電話をして。
――それは鈴木さんに助けを求めたということ?
湯川 : それもあったんですけど、そのころの自分の状態が、惣さんと一緒に『逆上がりの国』(04年にリリースされた湯川のファースト・フルアルバム)を作ったころと似ていたんですよね。それで、「これはいま、惣さんのところに戻るときなのかな」と思って。本当に手探りの状態だったんです。でも、『逆上がりの国』はそういうところから引っ張り出してもらったアルバムだったので。
――そのころに立ち返ってみようと。とはいいつつ、『逆上がりの国』のころと現在ではやはり湯川さんの経験値とスキルもまったく違いますよね。そうなると鈴木さんとの関わり方もいくらか変化しているんじゃないかと思ったんですが。
湯川 : 今回は惣さんから最初の段階で「潮音ちゃんが“これでいきます"というところまでぜんぶやってから僕に渡してくれ」と言われていたんです。アレンジも含めてだいたいの作品のストーリーができたら、そこに色づけする作業を僕がやるよ、と。やっぱり10年前に一緒にやってるから、お互いが出るべきところと引くべきところをわかってくれているんですよね。私、あまり近づきすぎるとすぐに衝突しちゃうんです。惣さんからも「もう泣きたくない」と言われましたし(笑)。
――泣かせてたんですか(笑)。でも、それって『逆上がりの国』の頃から、湯川さんは自分の作りたい音像がはっきりイメージできていたということですよね。
湯川 : そうなんです。私、ものすごく頑固なので(笑)。自分が思っていることを曲げられないというか、仕上がりかけていたものをひっくり返してゼロにしちゃうようなことを平気でやっていたんです(笑)。いまはいくらか柔らかくなったと思うんですけど。
――つまりそれは、自分の作品に他の人が関わることへの抵抗があったということ?
湯川 : そうですね。特に『逆上がりの国』のときは人に委ねることが本当にできなくて、とにかく自分の大切なものを守ろうという気持ちばっかりでした。でも、それがイギリスで録音しながらいろんな人と交流していくうちに、自分から手放してみることのおもしろさも少しずつわかってきて。
――共同作業を楽しめるようになってきたんですね。一方で湯川さんはセルフ・プロデュースできるスキルもこの10年間で着実に身につけていますよね。だからこそ、鈴木さんも今回は「色づけだけ」という関わり方だったんだろうと思ったんですが。
湯川 : そうですね。スタジオに入る段階でアレンジのベーシックはほぼ決まっていました。コンサートをしながら、曲も少しずつ育てていたので。あと、この話はちょっと長くなるんですけど…。
――まったくかまいません。ぜひ。
湯川 : (笑)。日本に帰ってきてまず考えなきゃいけなかったのが、住む家をどうしようかということだったんです。
――それはアメリカに発つ前に住居をはらっていたということ?
湯川 : そうなんです。で、そんなときにうちの祖母が、昔に住んでいた家がもうボロボロだから取り壊すと話していたので、「だったら、私がその家に住む」と言って。でも、それが本当にひどい状態だったんです。それで大工さんに見てもらったら、ちゃんと直すとかなりかかると言われちゃって。で、ちょうどそのときなんですけど、私の履いていた靴下に穴が開いていたんですよね。それを見たその大工さんが、私のことを売れない演歌歌手なんだと思ったらしくて。
――あははは。
湯川 : どうやら「歌手=演歌」という方だったみたいで(笑)。それで「なんとか他の現場の廃材を磨いて使おう。その作業を自分とふたりでやるなら、ほとんど材料費だけでいい」と言ってくれて。それでそこからの半年間、ふたりでずっとその家だけを作ってたんです(笑)。
――売れない演歌歌手に大工さんも情が移ったんですね(笑)。今はもうそこで生活されてるんですか。
湯川 : もう、ものすごく居心地のよい空間になりましたよ。で、そこで初めてピアノを買って。すごく古いピアノなんですけど、それをぽろぽろ弾き始めたのが、いまから半年くらい前のことで。その家を作っていたときは音楽のことも含めてほとんど何も考えてなかったんです。でも、あとになってみて思うと、その家をつくっていく作業って、なんか自分を再構築しているような感じだったんですよね。その大工の親方は私のことを「お嬢」と呼ぶんですけど、親方は「お嬢と俺の仕事は一緒だよ。どっちもなにもないところからつくっていく作業だから」と言ってて。「光の中の家」という曲はそこから生まれたんです。
――親方、ステキですね。でも、なんで湯川さんはその家を立て直すことにこだわったんですか。もし住むのが難しそうであれば、別の選択をすることも出来たと思うんですけど。
湯川 : それはやっぱり、父親が育った家というのもあるし、せっかく脈々と継がれてきたものがなくなってしまうのはもったいないと思って。あと、単純に内装の面影がすごくモダンだったし、手を加えればいい感じになりそうだったんですよね。まあ、それにしては予想もしなかったほど大変な作業になっちゃったんですけど(笑)。
――もしかすると、湯川さんは自分のホームみたいな場所を求めていたりしたんじゃないかなと思って。言ってしまえば湯川さんは今までそういう場所を持たずに海外と日本を行き来してきたわけで。
湯川 : ああ、たしかにそうですね…。うん、そうだったのかもしれない。その家はスタジオとしても使えそうだし、実際にいまそうなりかけているんですよね。それに、自分ひとりになれる場所があればいいなと私もずっと思っていたし。
どうしても荒れ果てた道を行きたくなってしまうんです
――あと、もうひとつ大きいのがピアノですよね。今回のアルバムって、ものすごくピアノの存在感が強い作品で。やっぱり湯川さんといえばギターのイメージがあるんですけど、ピアノもよく弾かれていたんですか。
湯川 : いや、ほぼ触ったことがなかったんです(笑)。ニューヨークにいるときは、もっとギターを勉強しようと思って人から教わったりもしていたんです。でも、曲づくりが難航していくうちに、ちょっとギターと距離を置きたくなって。そんなときにたまたま見つけたのがそのピアノだったんです。すごく見た目もかわいかったので。自分の出したいコード感がうまく出せないところは、藤原マヒトさんに協力してもらって、一音一音をあてはめてもらいました。今回はその作業にけっこう長い時間がかかったんですけど、そのおかげでアルバムの骨組みがだいたい出来上がって。
――ピアノで曲をつくりはじめたことでようやくこのアルバムの音像が浮かんできたんですね。では、詞の方はどうなったんですか。
湯川 : それが日本に帰ってきてからも結局1年くらいはずっと悩んでしまって(笑)。しばらくはずっとラララで歌ってました。
――長いスランプですね。そういうことって過去にもあったんですか。
湯川 : なかったんです。だから抜け出し方もわからなくて。結局2年くらいはそういう時期が続いてしまいました。「なんとか抜け出さなきゃ」って、ずっとひとりでもがいてた。それが、今回参加してくれたおおはた雄一さんと延本文音さん(GOOD BYE APRILのベーシスト)に相談して、自分の窓口を広げてみたら、ようやくといった感じで。
――なるほど。詞を共作することが抜け出すきっかけになったんだ。では、どういう流れでそのふたりに相談することになったんですか。
湯川 : おおはたさんは引っ越し先で家が近所だったんです(笑)。それでお茶しようということになって、まるで昭和にタイムスリップしたような喫茶店に連れていってくれて。で、そのときにわかったんですけど、私とおおはたさんは同じノートを使って詞を書いていたんです。そのせいもあって、おおはたさんはその日、間違えて私のノートを持ち帰ってしまって。それがもう、すっごく恥ずかしくて(笑)。しかもツアーがあったりでしばらく返してもらえないという。
――それはつらい(笑)。
湯川 : でも、それがしばらく経っていくうちに、不思議と「別にあのノート、見られてもいいな。むしろ見てもらいたいな」みたいな気分になってきたんですよね(笑)。だんだんと諦めも入ってきて。それで実際に返してもらうとき、おおはたさんの前でそのノートをぜんぶ読んだんです。くだらないメモも含めてぜんぶ。それにおおはたさんも「あ、いまのいいね」とかコメントしてくれたりして(笑)。そこからですね。
――ひとりで抱えていたものを人に明かしたことで気持ちが楽になったんだ。なんかそれはわかる気がします。
湯川 : うん、そういうことですね。自分がただ日記として書いていたことを「それ、歌になってるじゃん」とか言われて、「ああ、これでいいんだ」って。それで実際に曲をつけてみたり。
――いいきっかけを掴みましたね。では、延本さんは?
湯川 : 知り合いに歌詞を悩んでいることを電話で相談したら、おもしろい子がいるよと言われて、延本さんの書いた歌詞だけが送られてきたんです。それで読んでみたらすごくおもしろくて。なんといえばいいかな。噛むほどに味がするというか、さまざまな視点から物事を見ていて、しかもそれをちゃんと言葉にできているんですよね。それってすごい才能で。それで実際に会ってみたら、やっぱりちょっと変な人でした(笑)。でも、彼女も私のことをそう思ったんじゃないかな。マネージャーさんからも、10年前の潮音ちゃんに似ていると言われてましたね(笑)。だから、ぶつかりそうになることもあったし。1日に何度も電話して、けっこうこまめにやりとりをしました。
――さきほどの「光の中の家」にしても、新作の歌詞には湯川さんの実生活がとても素直に反映されている印象があるんですが、湯川さんは最終的にこのアルバムを通してどういうことを言葉にしたいと思ったんですか。
湯川 : これは結果論かもしれないですけど、いままでの作品では、手触りや色、あるいは形みたいなものを表現していたとしたら、今回はその中身にぐっと迫ったような感覚があって。たとえばこのコップのなかに虫がいるとしたら、それを顕微鏡で覗いて羽の皺まで見ていくような感じですね。これまでの歌詞よりもグッと細部に寄って、もっと言葉の核心に迫りたかったんだと思います。
――こうしてようやくアルバムがかたちになって、どうでしょう。音楽家として次のステップに進めたような手ごたえは感じましたか。
湯川 : どうだろう。でも、あの長い空白の時期を乗り切れたのは、単純にうれしくてしょうがないんですよね。母親も、もう死んじゃうんじゃないかってすごく心配してたし(笑)。でも、どこかでこういう時期を乗り越える必要があったんだと思います。
――サウンド面に関しても、新作には過去になかった要素がたくさんありますよね。それはもちろんピアノもそうだし、やっぱりブルックリンで吸収したものが大きかったんだろうなって。
湯川 : それはすごく大きいと思います。あっちでは安い値段でたくさんコンサートが観れたし。それは有名な人だけじゃなくて、たとえばそのへんのパブに入ると誰かがライヴをやってたり、道端で変な楽器を演奏している人のまわりにどんどん人が集まっていって、それがひとつのグループになっていったり。そういうものを近くで感じられたのは、間違いなく自分のストックになったと思います。
――ちなみに、ニューヨーク以外でいま行ってみたいと思っているところはありますか。
湯川 : それは本当にたくさんあって。今はすごくアルゼンチンに行きたいですね。ブルックリンで私が泊まっていたところは、アルゼンチンの人たちが経営していたところで、フアナ・モリーナも泊まりに来ていたんですよ。この先に長い休みが出来たら、ぜひ行ってみたいですね。
――湯川さんは自分の興味が沸くものをどんどん発見できる方なんですね。キャリアが長くなってくるとフットワークが重くなる人も多いと思うんですけど、湯川さんはずっと軽やかで。
湯川 : 慣れるのが苦手なのが大きいと思います(笑)。そもそも私がこういうポップ・シーンのなかで音楽をやろうと思ったのも、ずっとクラシックをやってきた私みたいな人がポップスの世界に入ることで、なんらかの選択肢がふえて、幅が広がるひとつのきっかけになったらいいなっていう気持ちがどこかにずっとあるからなんです。なにかの破片になりたいというか。均された場所があまり好きじゃないから、どうしても荒れ果てた道を行きたくなってしまうんです。そのせいでボロボロになったりもするんですけど(笑)。
RECOMMEND
京都を拠点に活動するシンガー・ソングライターYeYe。2011年のデビュー盤『朝を開けだして、夜をとじるまで』以来となるセカンド・アルバム『HUE CIRCLE』。妹尾立樹(LLama、sistertail)、浜田淳(Lainy J Groove)、田中成道というライヴ・メンバーの3人、Turntable Filmsの井上陽介らゲスト・ミュージシャンの参加に加え、エンジニアとしてWATER WATER CAMELの田辺玄を迎え、彼女の歌声を確かな中心としながら、チェンバー・ポップ、ソフト・サイケ、ダンサブルなエレクトロ・ポップなど、様々なカラーを堪えたサウンドがなだらかに移ろっていく、表情豊かなポップス・アルバム。
約2年振りとなる新作を、ウッフフククとnobleによるレーベル・コラボレーションでリリース。サックス、クラリネット、ファゴット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロなど多彩なアコースティック楽器を、奏者を招いて録音しているのは今作の特徴のひとつ。また数曲のミックスとマスタリングを、コーネリアスのサウンド・プログラマーとして知られる美島豊明が担当。色とりどりの美しい鳥達や、咲き微笑む花々、昆虫達が奏でる、カラフルで瑞々しいオーケストラ。センス・オブ・ワンダーを刺激する、生命力に溢れた自由で愛らしいチェンバー・ポップ。
アルゼンチンの女性シンガー・ソングライター、フアナ・モリーナが前作『Un Dia』以来約5年ぶりとなる通算6枚目のオリジナル・アルバム『Wed 21』をベルギーのレーベル、Crammed Discsからリリース。山本精一やEYE (ボアダムス)を魅了し、デヴィット・バーンやファイストと共にツアーを周り、2011年にはフジ・ロック・フェスティバルにコンゴトロニクス vs ロッカーズの一員として参加した彼女が本作で鳴らすのは、これまでになく芳醇で、これまでになく生々しいリズムをもったサイケデリック・ミュージック。
LIVE INFORMATION
インストアライヴ
2013年11月8日(金)@タワーレコード 梅田NU茶屋町店 イベントスペース
2013年11月9日(土)@タワーレコード 名古屋近鉄パッセ店9F イベントスペース
2013年11月25日(月)@DAIKANYAMA T-SITE内 GARDEN GALLERY
2013年12月1日(日)@タワーレコード 新宿店7F イベントスペース
クリスマス プラネタリウム ライブ chime
2013年12月25日(水)@北とぴあ プラネタリウム“スペースゆう”
濡れない音符 発売記念 演奏会
2014年1月9日(木)@横浜市開港記念会館
PROFILE
湯川潮音
1983年東京出身。小学校時代より東京少年少女合唱隊に在籍、多くの海外公演などを経験。2001年ポップ・フィールドではじめて披露された歌声が多くの話題を呼ぶ。翌年のアイルランド短期留学から帰国後、自作の曲も発表し本格的な音楽活動をスタート。以降、美しいことばの響きを大切にした歌詞、クラシックやトラディショナルを起点に置いた独自の世界観で音楽を紡ぎ続けている。2011年からのNYでの生活を経て帰国後、2013年初頭より、教会や講堂、洋館など、独特の趣ある会場で開催する「Tada,Imaコンサート」を継続して開催、好評を得ている。オリジナル曲での音楽活動をスタートして10年目をなる今秋、3年ぶり、10枚目の作品となるフル・アルバムを発売。