チャン・ギハ(チャン・ギハと顔たち) INTERVIEW
まさに会心の出来。デビュー作『何事もなく暮らす』の大ヒットを経て一気に高まった期待をさらに飛び越えていくような、理想的なセカンド・アルバムが完成した。タイトルは『チャン・ギハと顔たち』。この堂々としたセルフ・タイトルからも彼らの自信が窺えるだろう。やっぱりこのバンドは本物だった。
例えば、ジミ・ヘンドリックスやクリーム辺りからの影響を基に、ウネウネと粘りつくようなサイケデリック・サウンドを生み出したシン・ジュンヒョン。そして同じく70年代に登場し、ファズを効かせたスカスカのガレージ・サウンドで一気に韓国ロックの地図を塗り替えてしまった3兄弟バンド、サヌリム。チャン・ギハと顔たちがこういった先人達の築いた韓国ロックから多大な影響を受けているのは聴けば明らかだし、その歴史を引き継ぐ存在として彼らを捉えても間違いではないだろう(ちなみに今作でギハとの共同プロデュースを務めている長谷川陽平は、05年からサヌリムに4人目のメンバーとして正式加入している)。なんにせよ、現在の日本で旋風を巻き起こしているKポップとはまったく違う文脈で、韓国にはこんなにも豊かな音楽的土壌があるのだ。今これを聴かない手はないでしょう。こんなにも斬新で且つユーモラス、そして刺激的な音楽は、今このアルバムを置いて他にはない。最高です!
インタビュー&文 : 渡辺 裕也
韓国大衆音楽の懐かしい未来がここに! チャン・ギハと顔たちの2nd Albumが到着
チャン・ギハと顔たち / チャン・ギハと顔たち
【トラック・リスト】
01. 何をそんなに驚いてる (ムォル クロッケ ノルレ) / 02. いわゆるそんな仲 (クロッコ クロン サイ) / 03. ひどいことを言うなと (モジルゲ マラジ マルラミョ) / 04. テレビを観たよ (TVルル ボァンネ) / 05. 会いたい人もいないのに (ポゴ シップン サラムド オムヌンデ) / 06. 真夜中の電話帳 (キップン バム チョナボノブ) / 07. 俺たち 今会おう (ウリ チグム マンナ) / 08. あの時のあの歌 (クッ テ ク ノレ) / 09. ひたすら歩く (マニャン コンヌンダ) / 10. 俺が何か言われたわけでもないのに (ナル ボゴ ムォラ クロン ゴット アニンデ) / 11. テレビを観たよ(もう一度)(TVルル ボァンネ(タシ))
韓国語固有の情緒が入った何かを維持しながら、西洋のものを受け入れる
――前作『何事もなく暮らす』は、単純に作品として素晴らしかったというだけでなく、主に70年代以降の韓国インディー音楽と出会う窓口になってくれたという意味でも、個人的にはとても大きな作品でした。
チャン・ギハ : (日本語で)オー。ソウナンデスカ。
――例えば、サヌリム、ソンゴルメ、シン・ジュンヒョンと言ったバンドからの影響をあなたは公言されていますよね。あなたからすればリアル・タイムで聴いていたわけではないこれらのバンドに、あなたは何をきっかけとして出会い、どういったところに惹かれていったのでしょう。
チャン・ギハ : 私はチャン・ギハと顔たちを結成する前に別のバンドでドラムを叩いていたんですが、その時の主軸メンバーが模範としていたバンドが、サヌリムだったんです。当時は確か2002年頃でしたね。まだ20歳か21歳だった私は、サヌリムも含めて韓国の音楽にはまったく関心がなくて聴いたことがなかったんですけど、メンバーに紹介してもらったものを聴けば聴くほどにどんどん関心が高まっていきました。「韓国語でロックをやるというのはこういうことか! 」と思ったんです。韓国のロックもジャンルで言えば西洋のものと同じなのかもしれないけど、その時に聴いた韓国の音楽は西洋のものとは何かが違うと私は感じたんです。現在の韓国音楽にはもっと積極的に西洋の音楽を模倣しようとしている傾向があるとするなら、あの当時の韓国の音楽には、韓国語の持つ固有の情緒が入ったなにかを維持しながら、西洋のものを受け入れようとしている感じが伝わってきました。私はそれがかっこいいと思ったし、自分でもそれがやりたいと思ったんです。
――そのあなたがドラムを叩いていたというヌントゥゴコベイン、あるいはそのサイド・プロジェクトであるチョンノンシルオブ(青年失業)で活動されていた当時にも、あなたと近い志を持った音楽仲間は周囲にいたのでしょうか。それともそういったかつての韓国ロックに連なる音楽を作ろうとしていたのは当時あなただけだったのでしょうか。
チャン・ギハ : あなたが今おっしゃってくれたそのふたつのバンドに関わる人達の中で、自分はここまで成長してきたんだと思っています。当時は何も知らなかった私にそれらの音楽を聴かせてくれたのが彼らなんです。自分が今後やるべき音楽について考えさせられたのもあの頃でした。だから孤立はまったくしていませんでしたね。自分自身に音楽的な栄養を与えてくれる人に囲まれて自分は音楽活動をしていました。
――では、リアル・タイムで聴ける音楽にもなにか刺激的なものはあったのでしょうか。
チャン・ギハ : 特にはなかったですね。2000年以降の流れとしては、むしろロックよりもヒップ・ホップの方が大きかったと思っています。その中で言えば、Leessang(リッサン)、Dynamic Duo(ダイナミック・デュオ)といったアーティストでしょうか。私は韓国語を英語っぽく発音するラップにはそれほど惹かれなかったんですが、韓国語固有のリズムや韻を活かしたラップには関心があったんです。いま挙げた二組は、そうした韓国語の響きを活かしたラップを聴かせられたという点で、とても刺激的でしたね。
前作と同じやり方ではだめだと思いました
――前作を出した時と現在ではあなた達を取り巻く状況もずいぶんと変わりましたよね。そうした環境の変化はあなたの社会に向ける視点にも影響を与えたのではないでしょうか。
チャン・ギハ : 社会への見方が変わったというより、一枚目のアルバムを作った時、自分はまだ軍隊に行っていたし、学生でしたから。一方で今回のアルバムを作った私は経済活動をしていて職業を持っている社会人ですよね。そういう意味では変化した部分もあったかもしれません。
――新作からは曲同士が詞の内容で連なっていくような、コンセプチュアルな流れを感じたのですが、作品全体の構想はどのくらいの期間をかけて固めていったのでしょうか。
チャン・ギハ : このアルバムに入っているのはすべて2010年に作った曲です。1年間かけて、自分の中から浮かんできた重要だと思えることを歌詞にして作ったのがこの作品に収められた楽曲なんです。つまりどれもひとりの人間が同時期に作った曲ということですから、そういう意味では歌詞の世界観に一貫した情緒が入っているのかもしれませんね。でも最初に全体のコンセプトを決めたわけではありません。曲が出来上がっていくうちに自然とコンセプトが立ち上がって、このような曲順に並んでいったと言った方が正確ですね。それは前作にしてもそうです。
――あなたの歌には、例えばテレビや携帯電話といったモチーフが数多く登場しますね。そこを通して複雑な感情を描いていく手法はあなたならではのものだと感じているのですが、これらはあくまでもフィクションの要素が強いのでしょうか。
チャン・ギハ : 私は想像を巡らせて歌詞を書くことがあまり得意ではありません。そのせいで私の行動範囲の中にある事象を歌詞に登場させることが多くなるのだと思います。私はいつも自分の経験をもっと効率的に利用しようと思っているから、自然と歌詞の中に携帯やテレビなんかがでてくるのでしょうね。
――メンバー編成が変わったことは楽曲制作において影響を与えましたか。あるいは演奏面、アレンジに関してなにか参照点になったものがあったら教えて頂きたいです。
チャン・ギハ : 前作は編曲がほとんど終わった段階でメンバーに来てもらって、そこから作業を始めるというやり方だったんですが、それらの楽曲をライヴで演奏していくうちに、曲によって少しずつ新たなアレンジが加えられていったんです。そこでバンド音楽というものはメンバー間の相互作用によってもっと面白くなるということに気がついて、2作目を作る時は前作と同じやり方ではだめだと思いました。ライヴを通して感じたことを次のアルバムに反映させなくてはいけないと考えたのです。そこで今回はメンバーと共に編曲作業を行って、レコーディングも別録りではなく、合奏形式でやりました。ライヴを積み重ねていくうちに培った私たちなりのノウハウやお互いの呼吸の合わせ方が、今回の作品には大きく反映されていると思います。
――つまりあなたからすれば、今回のアルバムこそがチャン・ギハと顔たちというバンドのデビュー・アルバムだという意識なのですね。
チャン・ギハ : それが100%正確な解釈ですね。だから今回はセルフ・タイトルにしたんです。
――これまでギタリストとしてもあなたのバンドに関わってきた長谷川陽平さんが今回はプロデューサーとして参加されています。アルバム制作において彼は主にどのような役割を担っていたのでしょうか。
チャン・ギハ : 簡単に言うと、私が持っている大きな絵のディテールを活かしてくれたのが長谷川さんです。私の中に「この部分でこんな音が出したいんだ」というイメージがあっても、私はその音を出すためにどんな機材が必要なのかがまったくわからないんですよね。そこで長谷川さんにアドヴァイスを求めると、彼はすぐにその音が出せる方法を教えてくれるんです。今回のアルバムで長谷川さんが演奏に参加しているのは4曲程度なんですけど、彼は自分が演奏に加わらない編曲作業を行っている時もわざわざスタジオに来てくれて、私達にいくつもの提案を与えてくれました。彼の「こんなサウンドを加えたらどうかな」という提案に従ってちょっと音を変えただけで、それまでの悩みを解決する糸口が現われることは度々ありましたね。それに、彼はミュージシャンとして先輩にあたる方でもあるんですけど、そんな彼の提案に私達が「それは違う」と言った時も、すぐにそれを取り下げた上で、すぐに「じゃあこれはどうだい? 」と別のアイデアを与えてくれるんです。長谷川さんとの作業は本当にスムーズでした。
――前作『何事もなく暮らす』がリリースされてから、韓国インディー音楽に対する日本での関心は大きく高まっているのですが、あなたから見てあの作品が出る以前と以後でインディー音楽の状況になにかしら変化したことがあれば教えてください。あるいはあなた達に共鳴するようなバンドはあれから現れましたか。
チャン・ギハ : そうですね。前作が出たことによってインディー音楽への関心は高まったとは思います。今までそういった音楽に関心がなかった人にも浸透していった手ごたえはありますし、インディー・バンドの数も着実に増えてきていると思う。変化といえばそれくらいでしょうか。あと、私達と共鳴するようなバンドでしたね。それに関しては、ひとつもいないと思います。
彼方よりの未聴取ポップ/ロック・ミュージック
チャン・ギハと顔たち / 何事もなく暮らす
70、80 年代の韓国ロック/フォークのエッセンスを受け継ぎつつ新たに発展させたユニークな音楽性、日常の出来事と心象風景の間を往き来しながら独自の言語感覚で綴られる歌詞、さらには視覚的なインパクトも強いライヴ・パフォーマンスが爆発的な人気を呼び、近年の韓国インディーズでは異例の大ヒットを記録したチャン・ギハと顔たちによるデビュー・アルバム(2009年発表)国内盤。
宇宙人 / お部屋でミステリーサークル
高地より突如現れた4人組「宇宙人」のファースト・フル・アルバム。これまでライブも数えるほどしかないほどに地下活動を続けていた彼らだが、昨年「FUJI ROCK FESTIVAL '10」の出演が話題を呼び、2011年にその存在が徐々に明らかになってゆく。今作はミドリやあふりらんぽを輩出した関西の老舗インディー・レーベル「GYUUNE CASETTE」よりリリース。
透明雑誌 / 僕たちのソウルミュージック
台湾版ナンバーガール!? 2006年から活動する台湾の4ピース・オルタナティブ・ロック・バンド、透明雑誌。Pixies、Weezer、Sonic Youth、Superchunk、Cap’n Jazz等のUSオルタナティブ・ロックのパイオニア達、そして日本ではナンバーガールからの影響を公言する彼等の初期衝動に満ち満ちた魂を揺さぶる甘酸っぱい青春の破壊音!! これが、僕たちのソウルミュージック!!!!
チャン・ギハと顔たち PROFILE
チャン・ギハと顔たち(チャンギハワ オルグルドゥル)。韓国のロック・バンド。2002年からヌントゥゴコベインのドラマーとして活動する傍ら、サイド・プロジェクトのチョンニョンシルオプ(青年失業)では、ヴォーカルやソングライティングも担当していたチャン・ギハが、2008年5月、ブンガブンガレコードより、自身で全ての作詞・作曲・編曲・演奏を行った初のCDシングル『サグリョ コピ(安物のコーヒー)』を発表。時を同じくして、チョン・ジュンヨプ(ベース)、イ・ミンギ(ギター)、キム・ヒョノ(ドラム)を伴い、「チャン・ギハと顔たち」名義でのライヴ活動も開始。間もなくその独特の音楽性と歌詞世界、さらにはライヴ・パフォーマンスが爆発的な人気を呼び、このシングルによって第6回韓国大衆音楽賞で3冠を達成(「今年の歌」「最優秀ロック」「ネットユーザーが選ぶ今年の男性ミュージシャン」の3部門)。 2009年2月にはファースト・アルバム(1集)『ビョルリルオプシ サンダ(何事もなく暮らす)』をリリースし、4万枚以上を売り上げる韓国インディーズでは異例の大ヒットを記録。まさに時の人となり、多くのテレビ・ラジオ出演をこなす一方、精力的な公演活動も繰り広げる。同年12月の第24回ゴールデンディスク賞(韓国版グラミー賞)では、ロック賞を受賞。2010年7月、イ・ジョンミン(キーボード)がバンドに正式加入。同年11月に初来日を果たし、ZAZEN BOYS、トクマルシューゴ、ヒカシューらとも共演。2011年6月、ライヴでのサポート・メンバーでもあるソウル在住の日本人ギタリスト、長谷川陽平とチャン・ギハの共同プロデュースによるセルフタイトルのセカンド・アルバム(2集)を発表。
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