10月のはじめに発売されたシングル『6月の歌』から約1ヶ月間、どきどきして待たれていたでしょうか。曽我部恵一、2年半ぶりのニュー・アルバム『超越的漫画』がついにリリースです。どんなアルバムか、ここで簡単にご紹介するよりも、今回はぜひ読み進めていってほしいと思います。というのも、このアルバムに関しては、2人のライターにじっくりと紐解いてもらいました。1人はレヴューで、もう1人はインタヴューで。デヴューから20周年の曽我部恵一、いまだ語るに尽きない彼の音楽を、ぜひお楽しみください。
曽我部恵一 / 超越的漫画
【配信価格】
WAV 単曲 250円 / アルバム購入 2,000円
mp3 単曲200円 / アルバム購入 1,500円
【Track List】
01. ひとり / 02. すずめ / 03. リスボン / 04. うみちゃん、でかけようよ / 05. あべさんちへ行こう / 06. もうきみのこと / 07. そかべさんちのカレーライス / 08. 6月の歌 / 09. マーシャル / 10. バカばっかり
REVIEW : 言うならば曽我部流ミュージック・コンクレート
ソロ名義としては『PINK』以来、2年半ぶりとなるニュー・アルバム。歌や演奏だけでなく、ミキシング作業の現場すら映し出す生温かい感触は、より古拙な世界へと舵を取ったかのよう。モノラル・ミックスによる、はっきりとした定位での密着した音像が、“伝える”という真摯な姿勢を明快に押し出し、そこに乗る言葉も粘着性を帯びているという、まさしく聴き逃せない1枚である。
1曲目「ひとり」での科白や、収録曲最後の「バカばっかり」で撒き散らされる怒号は、額面としてはパンク・スピリットとして捉えることが可能だが、それだけでなくどこか原初的な音楽への執着があるようにも思える。ダイレクトな激情表現。もしかしたら祝詞や唱和といったものと同様に機能していくことが、これらの作品の果報なのではないかと深読みしてしまった。加工処理された音の演出も、単なる装飾ではなく支柱としての必然を感じる。しかしながら楽曲自体は、ファンクの律動やフォークの叙情、ガレージ的混沌を、あくまでポップに衒いなく聴かせてくれるといった印象。シンプルなコード・ストローク中心のギターにそれは顕著であり、トレブルを抑えた腰のあるサウンドが、ツボを外さず進行していく。思念のような歌詞に、曽我部の透き通る声質と節回しがフィットしてくる瞬間の快感も健在。“歌もの”とテキトーに格納したくはない、正真正銘の“歌”を聴くことが出来る。過去のキャリアだけで十分信頼に足るとはいえ、シンガー・ソングライターとしての力量に改めて気付かされた。
一方で、大胆かつフリーキーな側面も無視できない。例えば、ピッチ・シフトされたコーラスとのハーモニーが不気味な、1分台前半の小曲「あべさんちへ行こう」。6曲目「もうきみのこと」の転調やカット・アップによる急展開には思わず膝を打つ。グツグツ煮込んだ歪みやモジュレーションとの絡みが功を奏す9曲目「マーシャル」の喧騒は、脳内で十重二十重に響く一種のサイケデリア効果をもたらしてくれるはずだ。
リリースに際しての合格ラインなんて端から設けていないような無垢な態度を思わせるのと同時に、しっかり意図した編集が絶妙な角度で入刀されている。その枝葉からは、貪欲な創作欲求や、潜心が窺える。意匠や形態を変えたとしても、どうしたって曽我部恵一のパーソナリティーが浮き彫りになってくる特異な一貫性。固有名詞を交えた極私的な描写も手伝っているからだろうか。言うならば曽我部流ミュージック・コンクレート。先に“ミキシング作業の現場すら映し出す”と書いたが、さらに目を細めれば、今作をバイブルとした若き後進の影までがちらつく、実にイマジネーション溢れる作品だ。(text by 肥後幸久)
INTERVIEW : 曽我部恵一
「曽我部さん、そこまで歌にしちゃうんだ!」。『超越的漫画』を聴いてまず思ったのはそんなことだった。それはファズ・ギターを掻き鳴らしながら、バカばっかりだと連呼しまくる「バカばっかり」に限った話ではない。たとえば「リスボン」はこんな感じだ。〈リスボン / ああなんていいひびき / 行ったことはないけど〉。もはやここに共感もへったくれもないだろう。曽我部恵一がそう思ったから、それを歌にした。つまり『超越的漫画』はそういうアルバムなのだ。
近年の曽我部といえば、震災の直後にリリースされた前作『PINK』、全編が弾き語りの『けいちゃん』、そして昨年に出た曽我部恵一BAND名義での2作と、それぞれ作風はまったく違えど、どのアルバムも言葉をギュッと詰め込んだ濃密な楽曲が目立っていた。それを思うと今回のアルバムはリリックが気持ちいいくらいにラフなのだ。それでいてソングライティングにも制限なし。ロックンロールから黒っぽいグルーヴのソウル・トラック、アコースティックの甘いラヴソングまで、曽我部の歌声をいろんな角度から味わえるのがたまらない。とにかくこのアルバムでの彼はすべてにおいて遠慮も加減もないのだ。
さて、そうなるとやっぱり気になるのが、この『超越的漫画』というタイトルだ。そこで今回のインタヴューは、まずここ数年の動きを振り返りつつ、このタイトルが示唆するものを曽我部本人の発言で紐解くところからはじめてみようと思う。あきらかにこれまでとはモードが切り替わった感じのある曽我部だが、やはりそれは2013年という時代と無関係ではなさそうだ。
インタヴュー&文 : 渡辺裕也
レコーディングでも歌うたびに歌詞が毎回違ってたくらい
――昨年は曽我部恵一BANDで2枚のアルバムを出しましたね。あの2作を聴くと、初期といまではあのバンドの在り方もずいぶんと変わってきたような気がしたんですが。
曽我部 : たしかにそこはどんどん変わってきていますね。組んだころに思っていた、「とにかく毎日どこかでロックンロールを演奏する」というところからは外れてきたというか。
――具体的にはどう変わったんですか。ソカバンって、そのロックンロールがコンセプトだったと思うんですけど、音楽的な意味ではどんどん制約がなくなってきているように感じるんですよ。
曽我部 : やっぱりソカバンの基本はギターとベース、ドラムのロックンロールなんですよね。でも、自分がそこに固執していく理由がちょっとわからなくなってきちゃった。そんな流れもあって『曽我部恵一BAND』と『トーキョー・コーリング』が出来てきた。ロックンロール一本じゃない自分の中にある音楽を全部ソカバンとしてやってみようと。でも、実際にやるとやっぱり無理は生じてきた。
――なるほど。その経験があったからこそ、今回のアルバムに着手したところもあるんですか。
曽我部 : もちろんそれもあるとは思うけど。曽我部恵一BANDをロックンロールをやるためのバンド、ライブをやるためのバンドとして固定してしまうのがいやだったんです。だったらバンドはいったんお休みにして、ひとりでやりたいことを片っ端からやっていこうと。だから、原点に戻った感じかな。ソカバンに最も集中力があったのは、やっぱり『キラキラ!』(ファースト。08年リリース)のときですよね。あのころは「1、2、3!」で始まるロックンロールしかやりたくなかったから。
――そのあとの曽我部さんはフォークな時期もありましたよね。アルバムでいうと『けいちゃん』。あるいは「サマー・シンフォニー」のシングルもそうだったんですが、あのころといまではあきらかに違うモードだと感じます。
曽我部 : そうだね。あのころは、ボブ・ディランやヒップホップをもう一度捉えなおす時期だった。そうやって言葉の音楽を自分で煎じ詰めていったら、「満員電車は走る」みたいなところにたどり着いた。
――ああ、あの曲はそういう流れで出来たんだ。
曽我部 : で、そこでまた「なんか言葉が多いよなあ」って感じてきたんだよね。
――その気分が今回のアルバムには反映されていると。
曽我部 : 今回はノートに歌詞を書き留めてもいなかった。歌詞が浮かんできたら、もうそれは心のなかにあるわけだから、それを煮詰めたり推敲したりはしなかった。レコーディングでも歌うたびに歌詞が毎回違ってたくらいで。そのくらいの方がいまはいいんですよね。
倫理的なことを考えて笑わなかったりすることって、大人はよくあるじゃないですか
曽我部 : 最初はこのアルバムもそうしようという話だったんです。でも、なんか違うなーと思って。それでテキトーに漫画を描いてみたら、いいなって思って。タイトルもそうですね。「なんか漫画っぽいな」と思ってさ。
――曽我部さんのおっしゃるその「漫画っぽい」とは、つまりどういうことですか。
曽我部 : だって、漫画っぽいじゃないですか、この世の中が(笑)。内田裕也さんが歌ってる「コミック雑誌なんかいらない」っていう曲があるでしょ。〈俺にはコミック雑誌なんかいらない。俺のまわりは漫画だから〉っていうさ。なんかそういう感じ(笑)。真剣に捉えるのもアホくさい。
――別にシリアスなものじゃないってこと?
曽我部 : シリアス過ぎたらつまらないというか、そのシリアスなのもギャグというか。
――つまり、世の中の雰囲気がシリアスになりすぎているということ?
曽我部 : それはあるかもね。何かを表現する人たちは特にそうかもしれない。まじめにしなきゃいけない、みたいな空気がどっかにある。それは自分もそうで。『曽我部恵一BAND』とか、なんか自分でもシリアスな感じがしちゃったし。もちろんそれはそれでいいんだけどね。やっぱり真面目すぎるとつまらないから。
――さっきの「言葉が多いな」っていう感覚も、つまりはそういうこと?
曽我部 : そうそうそう。道徳の授業じゃないんだからさぁ。皮肉というか、嘲笑というか。「バカじゃないの?」みたいな。子供ってそうじゃないですか。大人が喧嘩している様子を、小学生がうしろから指差してクスクス笑っているっていう。それくらいのスタンスがすごく大事なんじゃないかなって思う。「そこって普通だったら笑うところでしょう」みたいなところを、なんか倫理的なことを考えて笑わなかったりすることって、大人はよくあるじゃないですか。
――ちゃんと空気を読んでいるというか。
曽我部 : そうそう。みんな空気を読むんだよね。時代的にそうなっちゃうのかな。それに対して、「なんか堅苦しい世の中だな。こんなの嘲笑ってやれ。全部ギャグだ」みたいな気分だった。
曽我部 : あれは、まず先に「うみちゃん、でかけようよ」っていう曲が出来てね。うみちゃんというのは俺の次女なんだけど、この子が超インドアで、家で漫画ばっかり描いてて。だから、たまに水族館とかに誘ってみるんですけど、家族みんなが行くと言っても「いい。うみは家にいる」って、 1日中ずっとパジャマで絵描いてる。そういうところがすごくおもしろくてさ(笑)。それであの曲を書いたんだけど、それに呼応するというか、オチみたいな曲があったらいいなと思ったんです。そこでまあ、俺も安倍政権に対して思うことはあるからさ。「じゃあ、あべさんちに行くか!」と(笑)。
――あべさんって、その安倍さんのことだったんだ(笑)。
曽我部 : 行けばなにか美味いものでも出してくれるんじゃないかってね(笑)。
――ようやくわかりました(笑)。じゃあ、今回のアルバムは全編がそういうノリで作ってるんですか。
曽我部 : まあ、そうだね。言ってしまえば、このアルバムはプロテスト・ソング集なんだ。それも社会のど真ん中で旗振って煽動するんじゃなくて、独りでブツブツくだまいてるようなスタンスかもね。
――たしかに「ひとり」は少し引いた立場から歌った曲ですよね。そこからの展開もすごく寓意性の強い作品だと思うんですけど、最後の「バカばっかり」だけはかなり直接的というか、曽我部さんの気分がそのままストレートに歌われているように感じました。
曽我部 : だれもがひとりなんだよ。あともうひとつは、「バカばっかりだと思ったら大声でそう言おうぜ!」っていうポジティヴなメッセージでもあって。つまり、生きたいように生きようよってことです。だって、日々生きているなかで、「ホントこいつアホだな」「ムカつくな」と思うときって、誰しもあることじゃないですか。でも、実際はそれを置いといて、「あの子と僕の海辺でのある時間が~」みたいなことしか歌わなかったりする。まあ、俺がそうなんだけど。
――あははは(笑)。
曽我部 : 「このコンビニの店員、ホント腹立つわ」と思ったとして、「それと歌は別。歌は歌」って感じでしょ。まあ、これは歌に限ったことでもないですよね。そのときに感じたことを置いといて、こう「伝えた方が好ましい」っていうところで、物事を表現しちゃう。それをやめたいなと思ったんです。まずは自分が感じたことをそのまま歌う。それをやらないと話にならないと思うんですよ。それが人に伝わるかどうかはどうでもいいというか、むしろ伝わらなくてもいいんじゃないかなって。
――伝わる必要もないんだ。
曽我部 : たとえば、〈与党も野党も政治家も芸術家も被害者も加害者も部外者もバカばっかり〉と俺が歌ったときに、みんながその通りだと思わなくたって、俺はぜんぜんいいんだ。「ああ、曽我部はこう思ってるんだな」と伝わればそれでいい。「この人は正しい」と思われる必要なんて全くない。この人の魂を自分の歌で救ってあげよう、みたいのは嘘っぱちだと思う。だれかの魂とかを音楽で救えるわけがないからね。
――曽我部さん自身も救われたことはない?
曽我部 : ないよ。じゃあ、ジョン・レノンが自分のことを助けてくれた? ピストルズが俺を救ってくれた? 音楽ってそういうもんじゃないよね。そういう考え方ってホントにおかしいと思うんだ。歌う側にしても、「大丈夫だよ。君のそばにずっといてあげる」みたいにいうけど、いれるわけないから(笑)。みんなひとりだよね。究極的には親も子供もみんな他人。自分を救えるのなんて自分の力だけだよ。だから、もし俺が「○○のためにやってる」みたいなことを言ってたら、それは嘘だと思ってください。そんなことはまずないから。自分のスケベ心というか、「これ、いいな。楽しそうだな」というところでしかやってない。世のため人のためは一切ないね。
なんで一瞬の美しさばかりに主題が向かうんだろう。それが不思議なんだよな
――じゃあ、今回のアルバムを作っているときの曽我部さんはどんなことに関心が向いていたんでしょうか。
曽我部 : 毎朝コーヒー飲みながらゆっくり新聞を読むんですけど、それだけが日課でしたね。世界中の出来事をゆっくり読むの。たとえばこれを作りはじめたころだと、アルジェリアで日本人の人質がとられて殺された事件があったり。いまだったらシリア情勢や汚染水問題もそう。このアルバムは2013年の頭くらいから録り始めたんですけど、そのあいだに世の中ではけっこうドラスティックな変化がありましたよね。
――つまり、そういう変化に揺さぶられながらこのアルバムを作っていたということ?
曽我部 : というよりも、こういう世の中に自分がいることを認識したいんです。その規模は世界でも世田谷区でもなんでもいいんだけど。あくまでもそこが舞台だからさ。それが自分の歌う姿勢なんです。
――そういえば、曽我部さんのブログで知ったんですけど、あのブログとは別で誰にも見せない日記をつけているそうですね。
曽我部 : その日記については「人に見せない」という大前提の基に書くのがすごく大事なんだ。知り合いにも家族にも絶対に見せないことを書く。それってすごくおもしろいんだよね。だから、「その日記ではこういうことを書いてる」とかは絶対に言わないよ(笑)。ただ、正直なことを書いてます。
――なんでその日記を始めようと思ったんですか。
曽我部 : 練習ですね。自分のなかにあるものを外に出す練習。その流れで今回のアルバムも作り始めたんです。だから、これも最初は人に聴かせるつもりで作っていたわけじゃないんだ。だって、人の耳を意識しちゃうと、怒られそうなことは絶対に言わなくなるじゃない? むしろ作り始めたころは「誰にも聴かせてたまるか」くらいの感じだった。でも、作っている途中で「これこそ人に晒すべきなんじゃないか」と思って。やっぱり自分のなかに制約はあったんだよね。「これはあえて歌わなくてもいいだろう」みたいな。「バカばっかり」なんて、以前はそういう曲だったと思う。「ひとり」もそうかな。「それよりもっとポジティヴで人の心があったかくなるようなことを歌おうよ」みたいなところがあったと思う。
――歌にならなかった気持ちがたくさんあったということですね。
曽我部 : そう。日記を書いてみてよくわかったよ。だって、世のため人のためを思って毎日を過ごしているわけじゃないでしょ? 駅に行って「人、多すぎるな」とか「湿気が酷いな」とかさ。人が思うことの比重って、絶対にそっちの方がでかいはずだよね。でも、なんでそこが歌にならないんだろう。なんで一瞬の美しさばかりに主題が向かうんだろう。それが不思議なんだよな。
――その疑問が自分にも向けられたんですね。
曽我部 : とにかくなんでもありにしたいんですよ。「やりたいことはなんでもやれよ」って、いつも自分に言ってます。三軒茶屋にフジヤマっていうレコード屋さんがあるんだけど、そこに江戸アケミさんの「やっぱ自分の踊り方で踊ればいいんだよ」という言葉を掲げた看板があって。レコーディング中は勇気をもらいによくそれを見に行ってました。あと、渋谷駅を通るたびに、あの岡本太郎のでっかい絵を見て力をもらいましたね。ドス黒い色の絵で、喫茶店に飾ってある綺麗なヨーロッパの絵みたいに誰かを心地よくさせはしないんだけど、「これが芸術だ」って信じて。それがかっこいいなって。喫茶店に飾ってあるヨーロッパの夕暮れどきみたいな風景だって、自分のなかには絶対にあるんだ。でも、いまはそれよりもっとエグみのあるものを出したい。それを見せ合うことが、人類平和や明るい未来のために大事な気がするよ。
――無意識で人が隠してしまう部分に関心があるってこと?
曽我部 : ある。女の子と付き合うときなんかは絶対にそうだよね。最初は大抵うわべじゃないですか。いいとこみせたいっていうか。それがなくなってどうしようもなくなったときが見たいんだよね。なんというか、人間の業みたいなものが僕は美しいと思うんです。でも、そこにバイアスをかけていって、きれいな夕日が沈む光景ばっかりにしている。それが世の中なんだよね。
――それが嘘くさい?
曽我部 : 嘘だとか本当だとかそういうんじゃなくて、その方がみんな安心だからそうしてるんだよね。でも、これから変わってくると思うよ、絶対に。
曽我部恵一の過去音源はこちら
LIVE INFORMATION
2013年11月3日(日)@今治市民の森 野外ステージ
2013年11月9日(土)@名古屋Live & Lounge Vio
2013年11月21日(木)@渋谷WWW
2013年11月23日(土)@丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
2013年11月30日(金)@代官山 蔦屋書店(インストアライブ+サイン会)※観覧フリー
2013年12月2日(月)@心斎橋 PANGEA
2013年12月14日(土)@兵庫 HMV三宮店 イベント・スペース(インストアライヴ)※観覧フリー
PROFILE
曽我部恵一
1971年8月26日生まれ。乙女座、AB型。
ソロと並行して、曽我部恵一BAND、サニーデイ・サービスとして活動。