自由に活動をするためにも、権利は自分たちで持つのが一番
大黒メロン(RAYプロデューサー/以下、大黒):楽曲を作るときはどのような流れで作るんですか? Buffalo Daughterも曲作りはわりとセッション的な作り方になることがありますよね?
大野:曲を作るときは、バッファローでもそれぞれテーマやアイデアを持ち寄って「こういう曲にしよう」と相談しながら作っています。そこは同じなんですけど、2BDでは「ドラムなしでもいい」という感覚が大きいです。バッファローでは必ずドラムを入れていたんですけど、2BDではドラムがなくても聴かせる音楽を作ろうという意識があります。
吉永:バッファローは繰り返しの美学があって、リフやシンセのフレーズの繰り返しが特徴ですね。2BDも繰り返しはあるけれど、楽曲ごとにテーマを決めていて、それに対してシンセや他の要素でアプローチしています。
大野:実際、2BDでふたりでやっているとドラムの在り方が変わるんですよ。バッファローでベースを弾いているときはリズム隊の気持ちでやっている部分もあるんです。2BDのときは歌もあって、シンセもベースもどっちもメイン。集中するポイントが3つあるので大変なんですけど、自由度はバッファローの時よりも高いです。

吉永:長く続けているバンドは持ち曲が増えるので、お客さんが聴きたい曲をやることが多くなって、実験的な要素は減ってしまうじゃない。でも2BDは始まったばかりなので、まだまだ自由にできるところがありますね。
内山:なるほど。新しいアプローチを探求する姿勢はRAYとも通じている気がします。私たちもアイドルというフォーマットの中で、シューゲイザーをやったり、民族音楽にチャレンジしたり、自分たちにしかできないことを常に探しています。好奇心を持って表現していく姿勢は、2BDさんにも共通しているのかなと思います。
吉永:30年やっていると、時代や社会情勢の影響を受けたりするんですけど、その時々でやってみたいことが出てくるし、試すようにしています。結局フォーマットに収まるとつまらなくなるので、新しいフォーマットを作り続けることが大事なのかなと思っています。それが自由に音楽をやることなんじゃないかなって。

内山:なるほど。おふたりが30年以上活動していて、いちばん思い出深いことってどんなことですか。
大野:アメリカツアーかな。2ヶ月くらい行っていて、本当に長かったんだよね(笑)。Buffalo Daughterを始める前、ハバナ・エキゾチカというバンドをやっていたんですけど、事務所やマネージャーががっちりついていて、自由がないなと感じていたんです。結局ハバナ・エキゾチカは解散して、1993年頃にBuffalo Daughterとして活動をはじめたんですけど、最初はなかなかお客さんもいなくて。そんななか、バッファローのメンバーの山本ムーグが「バッファローの音楽を好きな人は、日本ではこれくらいかもしれない。でも世界にはいろんな都市に、同じようなものを好きな人が絶対いるに違いない」「だったら、日本で活動するより、世界で活動したら、いっぱいのお客さんになるかもしれない」って言い始めたんですよ。
内山:それからどうやって海外でも活動することになったんですか?
大野:それで、Luscious Jacksonというバンドが来日したときに私たちの音源を渡したら、ルシャスのジル・カニフさんから「あなたたちの曲がすごく好きだったから、私たちが作っているファンジンでインタビューしたい」ってFAXが届いたんですよ。それがきっかけでニューヨークでライブをやったときに、ビースティー・ボーイズのマイクDさんから連絡があってレーベルと契約することになって。それでアメリカツアーにつながりました。

内山:すごい! 本当に夢のある話ですね。英語はもともと話せていたんですか?
大野:全然話せなかったです。だからツアーをしながら覚えていった感じですね。ツアーマネージャーやスタッフも、ほとんど日本語が話せる人はいませんでした。
内山:契約とか大変だったんじゃないですか?
大野:言われてみると、大変だったかもしれない(笑)。
吉永:でも私たちは最初から「原盤権は必ず自分たちで持つ」と決めてたんですよ。権利を持っていないと自由に活動できないと思って。出したいときに作品を出せるように、最初からそこだけは徹底していました。人に権利を持たれてしまうと、やりたいことがすぐできないし、何をされるかわからない。自由に活動をするためにも、権利は自分たちで持つのが一番だなと、当時から思っていましたね。
