DJ TASAKA & JUZU a.k.a. MOOCHYによるHIGHTIME Inc.始動──ハイレゾ先行配信
東京のDJカルチャーにすでに20年以上のキャリアを持つ2人のDJ、DJ TASAKAとJUZU a.k.a. MOOCHY。彼ら2人によるユニット、HIGHTIME Inc.の1stアルバムがこのたびJUZU a.k.a. MOOCHYの主宰レーベル〈CROSSPOINT〉からリリースされた。『Alchemist Now!』と題された本作は、ハウスやテクノといったイーヴンキックなダンス・ミュージックをひとつの起点にしながらも、まさにその名の通りさまざまな多様なスタイルが溶け込んだダンス・サウンドを展開している。OTOTOYでは本作をハイレゾ先行配信中。実はそのDJキャリアのそれ以前からの朋友というふたりのインタヴューを行なった。またDJ TASAKAの2015年のアルバム『UpRight』も配信開始(CDと同等音質で1200円!)。
砂原良徳のマスタリング、ハイレゾ版(24bit/48kHz)配信中
HIGHTIME Inc.[DJ TASAKA + JUZU a.k.a. MOOCHY] / Alchemist Now!(24bit/48kHz)
【Track List】
01. FUEGO
02. SO REAL
03. TAO
04. SUN PALACES
05. MILAREPA
06. BRO
07. BACK 2 JUNGLE
【配信形態 / 価格】
24bit/48kHz WAV / ALAC / FLAC
AAC
単曲 250円(税込) / アルバムまとめ購入 1,300円(税込)
INTERVIEW : DJ TASAKA + JUZU a.k.a. MOOCHY
一般的に言えば、テクノのDJ TASAKAと、そして過去にはドラムンベース、そしてワールド・ミュージックへのアプローチを含めてまさに独立独歩を歩み続けるDJスタイルを持つJUZU a.k.a. MOOCHYのふたりによるユニット。長い活動のなかで、これまで明確な交わりはなかったため、少々驚く人々もいるかもしれないが、実は彼らはダンスフロアより以前に、同じ学校の同級生として出会っていたのだ。彼らはお互いが持ち寄る音楽やさまざまなカルチャーで刺激し合い、気づけばふたりともシーンに名をはせるDJになっていたという。この先に生まれたHIGHTIME Inc.は、まさに彼らの2人の歩いてきた道筋がそのまま、その基礎となる雑多なダンスフロアとストリートから培った多様性の持つエネルギーに溢れている作品と言える。テクノ、エレクトロ、ジャングル、ヒップホップ、ハウス、さらにはさまざま国から響いてくるその土地の音楽たち、これらが混ざり合い、それはどこにもない、ここにしかない響きを纏って響いてくる。それは中学の彼らが魅了されたDJカルチャーの根源的な楽しさ、そのものとも言えるだろう。
音楽に没頭する2人の中学生
──今回の資料からも10代からお二人が付き合いがあるというのはなんとなく話に伝わっているとは思うのですが、馴れ初めってなんなんですか?
DJ TASAKA(以下、TASAKA) : 中学1年生だね。
JUZU a.k.a. MOOCHY(以下、JUZU) : 新宿のとある中高一貫校の男子中学校に進学して、そこで出会って。
TASAKA : すでに音楽の話してたね。
JUZU : そう7〜8割は音楽。当時は洋楽好きな人と邦楽好きな人がいて。もちろん洋楽派は少数。ランDMCとエアロスミスとかはもうベスト・ヒットUSAにも出てたから、ヒップホップというのはひとつあったかな。ただ、自分にはヒップホップの衝撃的な出会いみたいな記憶はないんだけど。本当に音楽だよね、音楽以外はないと思う。
TASAKA : おすすめ順に楽曲を編集したテープを持ってきて…… あれ貸してたんだっけ、あげてたんだっけ?
JUZU : あげてた。自分でラベルのデザインもして。
TASAKA : 最近、お互いもらったやつとか作ったやつが出てきてるんだけど。でも、お互い音楽に対して、すごいガッツがあったと思う。俺はターンテーブルを1台だけ手に入れて、しかもテクニクスじゃないやつ。それと小さいミキサーを抱えて、日曜はMOOCHYの家に行くというのをずっと続けてた。
──すごい(笑)。
TASAKA : そんなに近いわけでもないのに、電車乗り換えてタンテまで持って行っていたんだっていう。MOOCHYはギターをやってて。MOOCHYのパンクのレコードで試しにスクラッチしてみるとかしてたのをこの間思い出した。
──そこで聴くのはヒップホップ以外だとパンク?
JUZU : 俺は小学6年生に友だちのお兄ちゃんがやっているパンク・バンドのライヴでみんな暴れているのを観て衝撃を受けたのが始まりで、そういう音楽に触れていて。あとは中学校に入ってから洋楽聴くような友だちから、また次のインプットがあるという。ベスト・ヒットUSAでU2とか、シャーデーも中1とか中2でシングルCDで買ったりとか、とにかくスポンジのように聴けるものを全部聴いてた。だから自分がパンクだとかそういう意識はいまでもないし。
TASAKA : それ昔から特徴なんだよね。MOOCHYの家に行くと、シャーデーとかもあるんだけど「なにこの鋲付きの革ジャンの…… 」みたいな、そういう深いところを自分で掘ってた。
JUZU : ボサノバもおふくろのレコードであったり。その後、高校1年のときに、悪さのしすぎで真面目にならなきゃいけない時期があって。じゃあ、そのときはまじめに音楽をやるとしたら、というところでグラインド・コアをやろうと思って。世の中に幻滅して、売れるとかそういう発想はなくて、とにかくエナジーをぶつける対象としての音楽があると。グラインド・コアをやる前からクラブで遊んだり、DJみたいなことはやっていたんけど。
TASAKA : ほぼ同時だよね。
JUZU : 10代から、そういうバンドをやっていたので、そっちからのイメージがつきがちだけど、当時は同時にヒップホップも、ハウスもテクノも聴いてたし。高1とかでKLFとか808ステイトも聴いていたし。あとはノイズ、インダストリアルの混じったエレクトロニック・ミュージックとかも好きだったから。そういうものをTASAKAとはお互い聴かせあってた。あとは〈ミロスガレージ:新宿花園神社にあったクラブ)もね。
TASAKA : 毎週火曜深夜に通ってたね。そういう悪さをしすぎて、のちのちさっき言ったように学校停学になるんだけど。親が寝たあと、そうっと2階から抜け出して行ってて。MOOCHYもそんな感覚だったと思うけど、もうひとり一緒に行ってたやつは親公認で行ってたんだよね(笑)。いま思うとすごい話だけど、そこへ行くとキャロン・ウィーラーとかジャクソン・シスターズとかアシッド・ハウスとかたまにハードコア・テクノもかかってたり、そこでもスポンジ状態でかかる音楽を吸収してた。
JUZU : 当時、そこでDJをやっていたのがECDだって知らなくて。ラッパーとして認識してたから。
──須永辰緒さんがDOC.HOLIDAY時代にやられていたパーティーですよね。
TASAKA : そうそう、ECDと2人でレギュラーでやってたのがその火曜日。
JUZU : パーティーの後半にはソウルとかダンス・クラシックもかかってて。
──わりとローティーンからハイティーンにかけての音楽体験って、その後の音楽人生が決まるじゃないですか? その時期をお二人で過ごして、補完しあうというか。
JUZU : KLFとENT(エクストリーム・ノイズ・テラー)がやったとか、なんか俺らの関係と世界が近いという感じがしたというか。当時の聴いている感覚からは、ダンス・ミュージックとバンドのそういう音が結びつく感じが当たり前の感覚というか。
TASAKA : アンスラックスとパブリック・エネミーとかもね。
HIGHTIME Inc.の“3人目のメンバー”
──田坂さんは明確にDJをやりたいっていうのがあったんですよね。
TASAKA : そうだね。タンテを1台ずつ、1年おきに揃えて。そこでネタのレコードをいっぱい買えるわけでもないし、タンテを持って、俺の知らない音楽もいっぱい持っている友人のところに通う生活を続けてた。自分の家にDJセット置いとかなくてよかったんじゃないかっていう(笑)。
JUZU : でもメインはアキトの家でしょう。
──さっき、おっしゃってたもうひとりというか、親公認で深夜遊びをしていた方?
JUZU : そう。去年死んじゃって。
TASAKA : シスコ(渋谷、新宿、上野、さらに札幌や大阪にもあった輸入レコード店。2007年に実店舗閉店)のヒップホップを担当していた人間で、マイアミ・ベースとかヒップハウスも掘ってて、大阪シスコ時代のTuttleさんと同僚として交流があったり。
JUZU : 人脈としてはヒップホップ最高会議の千葉くんとか、あそこらへんだよね。
TASAKA : 彼の存在もHIGHTIMES Inc.の作品を作り上げようっていう原動力にはなったと思う。
──どんな方だったんですか?
TASAKA : 下田アキトって言って、当時俺らより自由にレコードを買えるお小遣い持ってたやつというか。
JUZU : たしか、父親が40歳過ぎでできた子で、親から孫みたいな感じで扱われてたよね。個人的には感性が違うところもあったと思うけど、お互い否定できないなんかがあったというか。その頃は、ヒップホップとかをおもしろいと思うやつがこの3人しかいなくて、数少ないシンパシー持つ仲間だったんだと思う。
──その3人で遊んでいたと。
TASAKA : 3人プラス、そのときどきに巻き込まれた連中、音楽はあまり興味ないけど夜遊びに興味あるみたいな連中とも遊んでたりして。
JUZU : その3人で補完しあうっていう感覚はあって。俺は、バンドというか、不良というかそっちのつながりがあって、タサカとアキトはヒップホップのグループを高校1年でやりだして。
TASAKA : 高校一年の学園祭で俺とアキトのラップっぽい出し物の後に、MOOCHYのバンドのグラインド・コアのライヴが文化祭で行われるっていう。ヴォーカリストがシンナーの匂いを発しすぎて中止(笑)。
JUZU : 俺らが出てきて5分ぐらいで速攻中止。でも俺らの曲は速いからその間に、5曲以上終わってる(笑)。
TASAKA : あとは音楽以外でも、一緒につるんでたから街をぶらつくとかもあって。そういうところでいろんな出会いもあったんだよね。例えば、原宿のクラストコアの人たちがやっているお店があって。
JUZU : 〈DAED卍END〉だね。そこにはガーゼ・シャツとか鋲付きとか売ってたんだけど、そういう洋服は俺らには高くて買えない。でもそこにはクラストコアの人たちが作ったフリー・ペーパーがあって、そこには「反原発」とか「動物愛護」、「石油会社」「マクドナルド」の問題とかが書いてあって。そこで社会的な問題により関心がいくように。7割が音楽の話だけど、そういう時期から3割ぐらいは社会のこととか政治の話とかもしてたと思う。
TASAKA : 出会いのときからそういう社会的な話はわりとしていたと思う。メインはもちろん音楽の話を交換する仲間だけど。
──その直後というか、たぶん10代後半か20代頭ですでにテクノ方面でDJとかをTASAKAさんはやられたイメージがあるんですが。
TASAKA : それも考えてみると直接のきっかけはMOOCHYなんだよね。MOOCHYの不良仲間というか、彼の地元の中野の野方で、地元のバーでレギュラーでやっていた「野方ナイト」というイベントがあったんだけど。そのイベントを新宿で「大きめにやるぞ」というタイミングがあって。
JUZU : 大きくというか、自分たちで冠名をつけたパーティーかな。
TASAKA : それが「HIGHTIME Inc.」っていう名前だったんだよ。
──なるほど。
TASAKA : 自分の家とかMOOCHYの家で散々やっていたDJをオーディエンスの前ではじめてやる機会だったんだよね。1992年かな。〈3BOZE〉っていうクラブだよね。そこで気合入りまくりの初人前DJをやっていたら、「タサカちゃん、関東連だ!」って声がフロアの方から聞こえて(笑)。そのとき、サイプレス・ヒルをかけてたのをよく覚えてるんだけど(笑)。そしたらチンピラの人がガソリンを口に含んで、火柱あげてて(笑)。そのガソリン臭いフロアに向けて家で練習したミックスを披露するっていう(笑)。MOOCHYもDJだよね?
JUZU : そう。俺はスラッシュと(フライヤーに)書かれてたけど、なんでもかけてたと思う。感覚的には当時の〈グランド・ロイヤル〉とかの感じ。彼は当時からすでにヒップホップとかをミックスしてかけていたけど、俺はただ好きな曲をかけてた。
TASAKA : いわゆるオルタナというか。それが俺のデビュー(笑)。
若きDJとして頭角を表して行く1990年代後半
──その後、TASAKAさんは〈DUB HOUSE〉(1996年に浅草につぎ表参道にも出店したテクノ~ハウス系のレコード店。都内で初めて試聴が自由にできることがウリだった)でバイトをしはじめてって感じですよね。
TASAKA : そう、その店にもMOOCHY来てたよ。その頃もたまにつるんでたね。その頃のふたりを語る上で重要だったのが、渋谷にあった〈HIGH HOLE〉というお店。
JUZU : そこで〈RHYTHM FREAKS(1990年代中頃、MOOCHYが所属した伝説的なジャングル~ドラムンベースのパーティ / DJ / サウンド・システムのクルー)〉のはじめのころもやっていて。DJをやってもらったら俺の友だちの不良仲間にも田坂のDJはすごい受けて、結構よくやってた。
TASAKA : 「俺のDJ、こんなにガラの悪い人に受けるんだ!」と思ってた(笑)。それは自分のなかでエポックメイキングな出来事だったんだよね。毎週のようにDJやってたかな。
JUZU : 〈HIGH HOLE〉は6ヶ月しか続かなかった店なんだけど。宇田川町の、昔、MUROくんの〈SAVAGE〉があったところの前。
TASAKA : だからいまのテクニークの隣のビル。
──えっ、てことは地下じゃなくて、2Fとか3Fとかですよね。
JUZU : 2Fの窓開けっ放しで、分厚いサウンドシステムで。
TASAKA : もう低音でビルが揺れてたよね。
──若干端折りますが、そのあたりからテクノのTASAKAさんと、ジャングルのMOOCHYさんというか、いわゆるDJとしていろいろな場所でそれぞれのフィールドで活躍しはじめるっていうことですよね。その後も交流はわりと途切れたこととかないんですか?
TASAKA : 基本途切れたことはないと思う。
JUZU : 俺が福岡に7年住んでたり、頻繁に海外に行ってた時期とかはちょっと絶えたりっていうのがあったかもしれないけど。〈HIGH HOLE〉のあと、DJがそれなり仕事になるかなというところで、ドラムンベースが流行ってよくわからなくなった時期があって。で、21才のときに、そのままタイとバリに行って、エレクトロニックなダンス・ミュージックと民族音楽を足すというアイディアが生まれて、それを実践しはじめた頃にはサウンドシステムと一緒に〈Rhythm Freaks〉をやってて、400人~500人を集めていて。
TASAKA : それは俺も遊びにいってたな。
1997年、ドラムンベースと民族音楽などをミックスしていた頃のJUZU a.k.a. MOOCHYのミックスはコチラ
JUZU : そのぐらいから、DJっていう意識は結果的に出て来て。だからDJに憧れて、とか、DJになりたいとかそういうことは全く思わず。輩と遊んでいるうちに、引きずり込まれたいう(笑)。
TASAKA : なに人のせいにしてるんだよ(笑)。
──で、片やTASAKAさんは卓球さんと近いところで活動もはじまるという。
TASAKA : 〈DUB HOUSE〉で知り合って、卓球さんから「〈YELLOW〉のレジデントでやってみない?」って言われて、かな。自分で音源を作るというのはやってなかったけど。MOOCHYはもうやってたよね?
JUZU : 厳密にいうと高校の頃に楽器の練習用にドラムマシンとかは持ってたけど。本格的なのは、〈Rhythm Freaks〉の頃、ヤン富田さんのマネージメントをやっていた南部(仁)さんが自分のことを買ってくれていて。南部さんから50万円ほど融資をしてもらって機材を揃えて。そこでバッファロー・ドーターとかボアダムスのリミックスをやって。それより前から音源制作はやろうと思ってたんだけど、機械音痴で全然わからない上に、マニュピレーター的な人とか、機材扱える人とやってもうまく形にならなくて。このときに覚悟決めて自分でやるようになったのがが22才かな。
──ふたりで当時とかなにか作ろうというのは?
TASAKA : なかった。今回がはじめて。あ、1個、すごい前に一緒に音を鳴らしたことがあったの思い出した。まだサンフランシスコに住んでた宇川(直宏)くんがQバートとDスタイルを日本に連れてきたときのイベント。1997年のリキッドルームかな。出演者全員が4ターンテーブル、2DJのフォーメーションみたいなイベントがあって。高木完さんとEYヨさんのサウンドヒーロー、クラナカくんとアリくんがいた頃の1945、クワイエットストームとケンセイくんとかかな? そこに俺とMOOCHYがやって。録音とかはしてないけど、今回のHIGHTIMES inc.以外で、音のセッションみたいなものをやったのはそれぐらいかな。その記憶はあるんだよね。
──1990年代後半から2000年代にかけて、ちょっと短くまとめると、TASAKAさんはやはり石野卓球さん、あとはKAGAMIさんとのDISCO TWINSなど言って見れば電気グルーヴ周辺の活動、MOOCHYさんは、バンドのNXSや、J.A.K.A.M.名義での活動、そこへ通じていく、広くハワイや中南米、アジア、中東、アフリカでの現地のミュージシャンのレコーディングなど、DJとしての現場はありつつ、いわゆるワールド・ミュージック的な活動を行なっていくわけです。
JUZU : 1990年代くらいまでは旅という感じで行ってたんだけど、2000年代以降はほとんど音源をレコーディングしに行ってて。基本的には旅は好きじゃなくて…… 家にいたいんですよ。
TASAKA : 最近言ってたんだけど「俺、オタクだと思う」って(笑)。でもそういう部分あるよね。
JUZU : 旅じゃなくて、カルチャーとか、現地の音楽とか興味があるところに行くというところかな。311前くらいに東京に戻ってきて、それぐらいからまたよく話をする機会が出て来て。
TASAKA : 東京に帰ってくるまでは、たしかに1年に1回とかで「久々にMOOCHYに会う」っていうことが自分にとってイベント化してるってのは少しあったかも。
そしてHIGHTIME Inc.へ
──なんとなくの勝手なイメージですが、311以降の反原発デモみたいなものが再会のきっかけみたいなところはないんですか?
TASAKA : それはないかな。一緒にデモにいくみたいなことはないし、社会問題的な部分は、そもそもの共通認識としてとっくにあったものだし。
JUZU : さっき言った〈DAED卍END〉から、基本的な路線としては共通項としてそこはあって。むしろ単純に、俺が東京に戻ってきて距離が近くなったというのが大きいかな。そこに311が起きて、ふたりのなかに共通してある“パブリック・エネミー魂”みたいなものがまた立ち上がったというのはあったと思う。
TASAKA : なんか火がついたというのは、たしかにあるね。
──2011年以降で、HIGHTIMES inc.につながる音を作ろうというふうになったのは?
JUZU : 2015年に東洋化成と1月11日から、9月11日まで毎月11日に連続のアナログ・リリースの企画をやってて、そのあとCDでまとめてリリースするんですけど。それがアフリカ、セネガルやトルコ、エジプトなどでレコーディングした音なんかを使って、イスラムや古代文明に関しても勉強して作った部分があって。それはそれですごい勉強になって有意義なものだったんだけど、9月11日で、このリリースが1回終わった時点で、もう少しそういう“Dope”なテーマから外れた「パブリック・エネミーとデジタル・アンダーグラウンドをネタにしただけの音楽を作りたいな」というアイディアが浮かんで。徹夜明けでそのあたりを聴いて「これはひとりでやるよりアイツだな」と。それですぐにTASAKAに電話したらすぐに「いいよ」って。
──すぐに顔が浮かんだと(笑)。
JUZU : パブリック・エネミーとデジタル・アンダーグラウンドは俺にとって、TASAKA抜きには語れないものだったから。まずは俺がなにかネタを持って来て、それを交換しあって作ろうという。
TASAKA : まずは2曲を仕上げるというような意識で最初はいたかな。
JUZU : で、そうこうしているうちに、さっき言ったアキトが突然亡くなって。近年、ふたりともアキトとはあまり会ってなかったんだけど。そのとき、俺らも40歳を過ぎていて「人間、いつ死ぬかわからないな」というのが、ふたりにもリアリティを持てるようになって作るという方向により向いたというか。そこでレクイエムまではいかないけど、俺らなりに彼にデディケイトするという部分もこの作品にはある。往々にして音楽はなにかに捧げるという側面はあるけど。
TASAKA : 「いないメンバー」という感じはあるね。
JUZU : そこで「やつの命日までに」とか、締め切りを設定したりして作っていて。
TASAKA : そうやってデモを作っていて、やり直したりしていまに至るんだよね。
JUZU : TASAKAとは付き合いは長いんだけど、音楽制作というところではまだ2年ぐらい。お互いの間合いとかわかっているようでわかってない感覚、お互いが培ってきたセンスって似たようなところがあるけど、また全然違うポイントもあるし。じゃあ、ふたりともどこが最大公約数なのかっていうのを探るのも時間かかったなかな。音のクオリティだけじゃなくて。
TASAKA : リズムを俺が作って、MOOCHYが世界で録ってきたネタをかぶせる、みたいな始め方もあればそれ以外のやり方もあって、明確な担当は特に決めないという作り方。だから最初に出したテーマとなるネタは最初のカードというだけであって、次に来るのがドラムなのかシンセなのか、他の楽器なのかは双方ともわからないっていう。思いついたことはともかく議題にあげてぶつけ合うっていうスタイル。主にFacebookメッセンジャーでチャット状態でやって。
──資料に、基底のテーマとしては「ふたりともDJで使えるもの」っていうのがあったと、これはしばりみたいなものですか?
TASAKA : 「作ったもので人を踊らせること」、(DJとして)「使えるもの」「使いやすいもの」というのは本当に重要なことだなと、これは最近、MOOCHYが言ってたんだけど、本当にそうだなと思った。まずは作ったものをかけたいよね、もちろんかけまくっているし。
JUZU : 自分の初期のリミックスとか技術とかあまりにもなかったのもあるし、全然DJとして使えない音楽ばっかり作っていて(笑)。あとは〈Sound Channel〉から出していたものとかは、サウンド・プロダクションとしてドープなものをやろうとしていた部分があって、それはそれでいまになって集めてる29才のアメリカ人が韓国にいるとか、無駄なことじゃないとは思うけど。30才ぐらいかな、『Momentos』で現地のレコーディングを使った音源を出したりして、リリパとかあるんだけど、その音源自体は「パーティーのなかでかけられないじゃん!」っていうことを思うことになって(笑)。結局リリースした音源ではなくて、セッション・ライヴになって。そこからひとつ、便利な、利用できる、利用されるものを作るのも大事だっていう方向性が固まってきて。このプロジェクトは、フォーマットとして四つ打ちとかは、あまり決めてないけど「躍らせる」というのは必ずひとつあって。メディテーション・ミュージックをやるという方向性ではない。HIGHTTIME inc.っていうパーティがあった上でのこのユニットというのもあるから、パーティーっていうのはひとつテーマになってる。どっちかが禁酒しない限り(笑)。
TASAKA : いやそれはそれでいいでしょ。「今日くらいいいじゃん」みたいになるよ(笑)。
“クズ”から“純金”へ、『ALCHEMIST NOW!』
──いちばんはじめのネタってどんなものが多いですか?
TASAKA : それはひとつ共通していて、具体的には「人」っていうのがある。例えば「(ビースティー・ボーイズの)MCA」とか、そこから連想するフリー・チベットの運動からチベットの音源とか。そういうテーマになる「人」、それはMOOCHYと共通するイメージが浮かぶ人で、さらにその奥には3人目のアキトがいるんだけど。共通でリスペクトしている「人」と「その人を通して知ることができた文化」みたいなもの。それが取っ掛かりのネタになることが多い。
JUZU : 基本、ヒップホップだね。
──中高生当時、一緒に聴いてたものという感じなんですかね。
TASAKA : そうだね。
JUZU : ヒップホップっていう文化は、ラップだけじゃなくて、サンプリングもあって。過去の遺産、クズとまでは言わないけど過去の忘れ去られたネタを使って、 かっこいいものを作るというカルチャーでもあって。決して俺らふたりがヒップホップを作るんじゃなくて、ヒップホップのそういうカルチャーを実践するというか、俺らが自分たちでリスペクトする素材を自分たちなりのやり方で「ナウ」にするのかっていう。
──そこでタイトル『ALCHEMIST NOW!』があるんですね。
JUZU : はじめからあったわけじゃないく、数ヶ月前に決まったんだけど。
TASAKA : “クズ”から“純金”=「錬金術」っていうのを言われて、そこは音作りにも感化されたからよかった。でも日本語のタイトルだったら強烈過ぎるからなーってなって。
JUZU : さらに頭に映画『地獄の黙示録』のジャケが浮かんで、あのロゴいけるんじゃねーかと。それは本当に数ヶ月前に決まっただけで、テーマみたいなものはずっと裏にあって。サウンド自体は、誰かみたいな音楽を作りたいとか、理想があるわけじゃないから。お互い頑固な部分がすごいあって、「そこはダメ」「そこはいいじゃん」って部分があるから、お互いの納得するポイントまでには時間を要した。
──「BACK 2 JUNGLE」とかすごいですよね。イーヴン・キックから、ジャングルになってまたテクノ的なイーヴン・キックになるっていう。これはおふたりならでは感じもします。
JUZU : これは今回のロゴをやってくれている石黒(景太)くんから、「MOOCHY君絶対ジャングル作ってよ!」と言われて。
TASAKA : ひとに言われたのを汲み取っている部分もあるにはあるんだよね。原型は1日くらいでぱっと作って肉付けしていったんだよね。
JUZU : 現行のトラップとかも「どういう解釈をするのか」みたいな話はしてたよね。俺の方がナンパな感じで「トラップかっこいいじゃん」みたいな感じで。
TASAKA : そう、そういうところなんですよ、MOOCHYは、最初の頃からそうで、シャーデーが置いてあっても、その奥にハードコアがあるみたいなのと同じで、いまでも「チャラい」聴き方みたいな、流行りモノもちゃんと好きなんだよね。俺ももちろん好きだけど。
JUZU : やっぱりTASAKAは正統派なラインを知ってるからね(笑)。
TASAKA : 「え~それは~ちょっと」とか言ってても「聴いたらかっこいいじゃん」みたいな、でもそういう食わず嫌いなのは最近なくなったかな。
JUZU : 最近そういう感じもなくなったよね。例えば「MILAREPA」はMCAつながりでチベットと、トラップを詰め込んで、俺らなりに、例えば俺だったら土臭い感じを入れたくなるから、マリとかコートジボアールのネタとかを入れて、とかをやって。
TASAKA : あと今年はフジロックにお互い出たのも大きかったかも。一緒に行動したわけじゃないけど「あれどうだった?」みたいな。エイフェックス・ツインのベースがひとつ話題になって、あれはベースの鳴らせ方を進化させている音楽だと思ったというのはお互い合致して「まだまだベースにはやれることがあるだろう」っていう。
JUZU : とくにどこのシーンに合わせるということはないけど、フォーマットに落とし込むよりかは自分たちの感性に従って、自分たちが現場で使えるっていうジャッジしかないってところで今回はやったよね。それが、中国とか南米とか、アフリカでそのうちかかったら最高だけど。
TASAKA : あとはMOOCHYが誘ってくれて千駄ヶ谷の〈Bonobo〉でDJをやって。そこでの体験もでかくて。あそこって本当に都会の奥地というか、最深部の良い音の酒場でインターナショナル。だけど作りは日本民家っていう。そこで鳴らして気持ちよくなるものっていうのがひとつあったんだよね。営業時間外に制作もして。そこで気持ち良いものは良いものっていうか。
JUZU : 俺らも選んだわけじゃないけど東京で育って、自分の地元とかを肯定したいというか、〈Bonobo〉のかっこいいのか、かっこ悪いのかわからないけど、おもしろい感じはいいと思う。最新のクラブスポットというわけでは決してないけど、ある意味で最新。おもしろい人が集まるところだと思うから。俺らは俺らで子供の頃から、東京で勝手に遊んでたけど、スケボーとか。言ってしまえばその遊びは、都会のなかでいかに無機質なものを有機的なものにするっていうか。それもアルケミスティック(錬金術的)な考え方でもあるよね。HIGHTIME Inc.っていう名前も、かっこよくさせるというよりも、いい感じにさせるっていうところかな。でも、やってみてわかったけど、40すぎてても、俺ら発想がいまだ中学生だからそういう風になるっていうね。同じぐらいの40歳の人と「はじめまして」で、作っても、もっとなんかクールなものになってしまうと思う(笑)。お互いの素性を知っているからかっこつけきれないっていう。もちろんそこはセンスだけの問題じゃなくて、技術というところも大きくて。ふたりとも打ち込みをそこそこできたというのも重要で。
TASAKA : そうだね、話すというよりも作業していって。
JUZU : マスタリングはまりん君(砂原良徳)にやってもらったけど、ミックスは誰に頼むかっていう話もあったけど結局自分らでやって。とにかくこの作品の作業のやりとりは密にやったよね。お互いの厳しい視点が行き交うところで。
TASAKA : お互い鍛えられたと思うね。耳がいい人とやると鍛えられる。
JUZU : 「あのキックは下げろ」とか「あそこを2デシ(ベル)あげろ」とか、お互い、メッセンジャーでチャット状態でやりとりしてジャッジするっていう。でもそれもこのお互いの間柄じゃないとできないと思う。しつこ過ぎでしょ(笑)。浅い間柄だったら「もうこのへんで」という感じになると思う。アキトの存在もあったから、このふたりで妥協はしないっていう。
TASAKA : そこはそうだね。
関連過去作配信中
■DJ TASAKAのアルバム『UpRight』配信開始 & INDUSTRIAL JP提供曲も独占ハイレゾ配信
■JUZU a.k.a. MOOCHY、2015年リリースの2アルバム、J.A.K.A.M.名義のリミックス・アルバムなども配信中
PROFILE
HIGHTIME Inc. = DJ TASAKA + JUZU a.k.a. MOOCHY
10代からの友人であり、現在までそれぞれのフィールドを築きながらも、時折その活動をクロスさせてきた二人の、長年の交流から育まれた、超オリジナルなダンスミュージックユニット。 『お互いがDJでプレイできるトラックとはどんなものか?』をテーマに紡ぎ出す楽曲は、それぞれの音楽キャリア(HIPHOP,HOUSE,TECHNO,JUNGLE ,WORLD MUSIC etc)が高密度に凝縮されながらも、根源的なダンスフロアへの情熱として色鮮やかに爆発する。それらの楽曲を駆使しながら新たに創出するライブDJもまた、それぞれの雑多なセンスが絶妙にブレンドされた唯一無二のダンスミュージックとして放出される。