CROSS REVIEW 2 『Outer Ego』
『声は、リスナーを作品の世界へといざなう装置』
文 : imdkm
『Outer Ego』はささやかなブレスから始まる。歌声が響き出す。ほんの一瞬、アカペラなのかと勘違いしてしまう。歌声の存在感のおかげだ。次いで、バッキングの中核となるシンセが徐々に音量を上げて存在感を増すにつれ、豊かなリヴァーブをまとったサウンドの層と歌声が混じり合っていく。あたかも覚醒からまどろみへと意識を持っていかれるみたいに、声は音楽のなかに溶け込んでいく。どこに向かっているのか、というかそもそも動いているのか止まっているのかも不確かなまま歌声は漂い続け、冒頭を飾った“Shine”の幕が降りる。
こうしてはじまる本作のなかで、とりわけ印象的に響くのがYuto Uchinoの歌声であることは偶然ではないだろう。サウンド面では、2019年のEP『Wash Away』のように飽和した歪み感を活かしたアプローチも聴かれるが、総体としてはもっと明晰さの方向に舵を切っている印象がある。リヴァーブは飽和するかわりに無限の空間に吸い込まれていって、ひとつひとつのサウンドはその輪郭を失うことがない。この明晰さがかえって夢と現実、外界と内面の境目をあいまいにした、内省ともサイケデリアとも言える小さく広大な世界を描き出す。しかし、アルバムを通じてもっとも雄弁にこのアルバムの主題――「自分の中にある精神世界と外にある世界を行ったり来たりするアルバム」とのYutoの言葉がある――を伝えているのは、さまざまなニュアンスと距離感で響く声だ。
あるときは声のなまなましさを強調し(たとえばアルバム終盤、“Safe-Place”の声)、またあるときには甘やかでスムースな響きを残しながらサウンドに溶け込み(たとえば“Loss Farewell”)、またあるときはリスナーを包みこむ(たとえばバックのコーラスやダブルトラックが印象的な“See You Again”)。本作で声は『Outer Ego』という物語を語り伝える主人公であると同時に、リスナーを作品の世界へといざなう装置でもある。ときに声の語りに耳を傾け、ときに声そのものに溶け込みながら、リスナーもまた主観(内面)と客観(外界)をうつろってゆくのだ。
『Outer Ego』にさきがけて配信されたアコースティック・アルバム『Acoustic Versions』も、タイトルをいい意味で裏切るような単なる弾き語りではない音作りがヴォーカルをはじめさまざまな箇所で聴かれる作品だが、Yutoの「歌」の魅力を存分に聴かせる『Acoustic Versions』に対して、『Outer Ego』の声はよりニュアンスに富んだ役者のようだし、そのパフォーマンスをきわだたせる演出がはりめぐらされている。対比しながら聴くと興味深いだろう。
imdkm
ライター、批評家。ティーンエイジャーのころからビートメイクやDIYな映像制作に親しみ、Maltine Recordsなどゼロ年代のネットレーベルカルチャーにいっちょかみする。ダンスミュージックを愛好し制作もする立場から、現代のポップミュージックについて考察する。単著に『リズムから考えるJ-POP史』(blueprint、2019年)。
【Twitter】
https://twitter.com/imdkmdotcom