シアターブルック Live Archives Disc2 販売開始!
祝! シアターブルック復活!!! 2007年12月の恵比寿リキッドルームでのライヴを最後に、活動休止期間へ突入した彼らが、昨年12月27日に同会場で行われた”Return To The Liquid”で2年ぶりに再始動。パワフルなロック魂は、2年間の個々の活動を経てさらに成熟。よりエネルギッシュなパフォーマンスに、会場のオーディエンスは熱狂しました。OTOTOYでは、彼らの復活を記念し、2005年に恵比寿リキッドルームで行われた情熱的なライブ音源を、『Live Archives』シリーズとして4ヶ月連続で販売。この音源が聴けるのはOTOTOYだけですよ。
Live Archives Disc2 (NEW!)
1.目覚めのLove song / 2.生理的最高 / 3.Reincanation / 4.September / 5.BABY
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・特典のアーティスト写真はこちら(アルバム購入後にダウンロードください。)
『Live Archives Disc1』 販売中
1.opening / 2.欲望の轍 / 3.大統領 / 4.幸せと踊る時 / 5.世界の終わり
・『Live Archives Disc1』のダウンロードはこちら
『Live Archives Disc3』 4月24日(土)販売開始
1.悲しみは河の中に / 2.世界で一番セクシーな一日 / 3.ありったけの愛 / 4.How do you do Mr.President
『Live Archives Disc4』 5月24日(月)販売開始
1.ドレッドライダー / 2.アンコールMC / 3.MAMA / 4.まばたき
購入特典 : メンバーのサイン入りアーティスト写真(photo by Naoaki Okamura)
『Live Archives』シリーズのアルバムをご購入頂いた方には、メンバーのサイン入りアーティスト写真をプレゼント。各アルバム、それぞれ異なるメンバーの写真となり、全部集めると4人揃います。さらに『Live Archives』シリーズを4枚すべて購入された方には、メンバー全員のサイン入り特製アーティスト写真をプレゼントします!
エマーソン北村 INTERVIEW
古くは、じゃがたら、ミュート・ビートを、現在は、シアターブルック、キセルや斉藤和義等を後ろから支え続ける、日本一のキーボーディスト、エマーソン北村へインタビューを試みた。5〜6年前に初めてお会いした時と変わらない柔らかい物腰で語られる物語からは、ミュージシャンとしてロック・スターや歌うたいを支え続けたその映像が垣間見える。シアターブルックのLive Archives seriesの特別企画としてであれ、エマーソン北村という素晴らしいミュージシャンにインタビュー出来たことを光栄に思う。
インタビュー&文 : JJ(Limited Express (has gone?)
文字起こし : 木村直大
じゃがたらにはキーボードっていうポジションはなかった
——キーボードとの出会いはいつ頃ですか?
子供の頃に、ヤマハ・エレクトーン教室に通っていました。全然小さい頃で、小学校前から中学生くらいまでかな。
——ギターとか他の楽器に興味は移りませんでしたか?
ギターとかには行かなかったですね。鍵盤やることとバンドやることの間には、断絶があるんです。バンドのキーボーディストを始めるのはパラフレーズというバンドが最初ですが、エレクトーン教室だった期間とは、まるまる高校生時代分の空白がある。その時期は、音楽だけに興味があったわけじゃないんですよね。 映画やお芝居が好きだったりとか。あとその頃は、ギターの地位が、前後と比べて一番低い時代だったのもあるかもしれないですね。
——そうなんすか?
ニュー・ウェーブ全盛だから。バンドで楽器をテクニカルにやるみたいなことの地位が低い時代だったかもしれないです。
——その頃にキーボードを持ってるってのは、特別だったんですか?
持ってるっていうことに対する感覚は、今とは違うかもしれないですね。なんかほら、バンドで音楽をやる為のコースみたいのが確立してなかったからじゃないですかね。今みたいに、バンドやりたい子はこのキーボードを買ったらいいとか、コンピューターでソフト音源を手に入れるっていう方法があります、みたいなマニュアルがなかった。当時は、お姉ちゃんから借りたキーボードでライブをやるとか、そういうのも普通にあったので、「キーボード買ったぜぇ」っていう ことの輝きはあったかも知れませんね。
——失礼だったらすいません。北村さんは、今はおいくつになりましたか?
全然失礼じゃないっす、俺はえっと、47歳。今年、48歳になるっす。1962年生まれ。
——上京のきっかけは、なんかあったんですか?
きっかけは、そのパラフレーズというバンドで上京しようって。東京ロッカーズが好きだったんですよ。俺も含めてそのパラフレーズっていうバンドの全員が、フリクションとか、常松正敏さんとかが好きで。ちょうど、東京ロッカーズの人が、札幌にツアーに来た時に、僕が学生時代にPAのバイトをやっていたスペース、札幌駅裏8号倉庫に来たんです。で、やっぱり話とかしたいじゃないすか。そんな感じで、繋がりが出来て。そして、東京ロッカーズのリリースをしてた TELEGRAPH RECORDSのイベントで東京に呼んでもらって、「じゃあ東京でやってみるか」っつーことになったんです。
——TELEGRAPH RECORDSからリリースはあったのでしょうか?
えっと、ケース・オブ・テレグラフって言ったかな。そのTELEGRAPH RECORDSのコンピレーション・アルバムに一曲だけ入っています。
——パラフレーズはその後どうなったんですか?
85年に東京に出て来るんですね。で、88年までは新宿ロフトとか、当時の渋谷屋根裏でライブをやってたんですけど、88年に一応解散っつーことになって。それで、もともと北海道にいた時から、じゃがたらとミュート・ビートはファンだったので、ちょうどその頃に東京ソイソースっていう、じゃがたら、ミュート・ビート、s-kenさん、現在札幌で飲み屋をやってる松竹谷清さんがやってたトマトスの4バンドが中心のイベントがあって、それが好きで通っていたんです。で、打ち上げに行ってじゃがたらのotoちゃんと喋ったりして、じゃがたらやミュート・ビートのメンバーとも付き合うようになったんです。「明日ライブだから車運転しに来てよ」みたいな感じで、繋がっていったんですね。当時はインディー・レーベルの勃興期で、otoちゃんとかは、インディーであるってことと共に、海外の人と共演するとか、いろんな夢を持ってやるべきだーみたいな事をずっと言ってて、そんな姿勢を勉強しましたね。
——じゃがたらに入ったきっかけは?
僕が入るまでは、じゃがたらにはキーボードっていうポジションはなかったんです。otoちゃん的には、ワールド・ミュージックの熱が高まってきてて、アフロとかファンキーなサウンドにキーボードを入れたいってことになってたから、じゃあ俺がやってみるか、みたいなことになって。
——入ってみなよー! みたいな感じだったってことですか?
そうっすね。ライブの現場に一緒にいる内に、ステージに立つようになったみたいな感じっすね。
——ーなるほど。ミュート・ビートは?
ミュート・ビートは、メンバーがこだまさん(こだま和文)と、トロンボーンの増井君(増井明人)、ベースの松永孝義さんと、ミキサーのDub Master X、ドラムが豪太さん(屋敷豪太)で、キーボードが朝本浩文さんだったんですけど、豪太さんがロンドンに行くので辞めて、ほぼ同時期に朝本さんも辞めることになり、キーボードが俺、ドラムは今井秀行君、それから現在Zi:LiE-YAのギタリストでもある内藤幸也君が加入したんです。
——ミュート・ビートとじゃがたらを同時期にやってらっしゃったのですか?
ぴったり同時期なんですよね。
——個性派の人達ばかりですよね、間違いなく(笑)。
そうなんすよー(笑)。
——ある時はこだま和文さん、ある時は江戸アケミさん…。
そうそうそうそう。でもその時はいっぱいいっぱいだったから、客観的に観る術はなかったですね。あと、ほぼ87年の後半から90年辺りまでという、バブルのピークの時代じゃないですか。だから皆もちろん個性的だったんすけど、やっぱりなんか、時代のプラスの面でも、マイナスの面でも、影響みたいなものもあったんじゃないかと思うんすけどね。なんつーか、まあイケイケ感っつーか(笑)。
——なるほど。
インクスティック芝浦でライブをすることが、物凄くキラキラした世界への入り口なんだみたいな幻想が充満してた。本気でそれを信じるにせよ、そんなのには背を向けるんだぜって思うにせよ、前提としてそういう空気感があったという点は、やっぱり今とは違うだろうなと思います。当然、俺は思いっきり背を向けた方だったんすけどね(笑)。
——じゃがたらにしろミュート・ビートにしろ、後期を支えたわけですが、どのような状況だったのですか?
メンバーだった年数で言うと、二年間強って感じですかね。じゃがたらもミュート・ビートもインディーズで80年代初頭から活動してますが、僕が加入した時はちょうどメジャー・レーベルと契約する過渡期っていうか、そういう時期でしたね。
——江戸アケミさんが亡くなった時って、どういう状況だったのですか
otoさんから電話がかかってきて… でもあまりにもバッタバタだったので、お葬式にいろんなタイプのミュージシャンが集まってカオス状態だったっつーのと、めちゃめちゃ冬で寒かったっていう記憶しかないっす。
タイジ先生ってさあ、やっぱり、ロック・スターなんす
——じゃがたらとミュート・ビート終了以降も教えてください。
そうっすねぇ、終了前から並行してるんですが、じゃがたらやコンポステラをやっていたサックスの篠田昌巳さんと、マンダラ・ツーでライブをやったりしていました。あと、88年にできた代々木 CHOCOLATE CITY(以下、代チョコ)っていうライブ・ハウスの立ち上げに参加してるんですよ。やり始めた人が友達だったので、そこでPA&店員っつーことで。で、ちょうど91年くらいから、なんか色々変なバンドが出て来たりするようになったので、代チョコにも深く関わるようになったんですね。
——どんなバンドが出てきたんですか?
えっと、SAKANA。
——確かに、初期の音は、ほんとうに変ですもんね(笑)。この前も、ちょうどライブで見て、素晴らしかったです。
SAKANAは考えると付き合いが長いんだよなぁ。代チョコは、ライブ・ハウスとして三つの性格があった。ひとつ目は、イカ天の時代だったので、そういうバンドや、それに触発されたバンドが出るんです。お客さんが凄い入るから、ギュウギュウに詰まった女子中高生の人員整理をやったり。2つ目は、SAKANAや渋さ知らズの不破大輔さん、それから割礼といった変なバンドがたくさん集まって来てたので、そういう時はとにかく自由にやるんです。で、3つ目は、昼にバンドもののライブをやるのに加えて、週末の夜中は、レゲエとかヒップホップのイベントをやり始めたんすよ。
——当時は、珍しかったんですか?
クラブ自体はもう既にあったけど、ライブ・ハウスでやるみたいなのは珍しかった。夜の部のライブが終わると、タクシー・ハイファイの人達が、スピーカーをがーっと搬入してきて、夜中サウンド・システムをやって。で、撤収して、次の日の朝10時から、昼の部のオーディション・バンドの子達が来る。だから、時間のない時はステージで寝てっていう、そんな生活でした。91〜2年前後の、29〜30歳くらいの時ですかね。
——なるほど、なるほど。
で、代チョコが、94年に色々あってなくなってしまったんですよ。なんで、ほんとにもう、ただの貧乏人みたいな感じになちゃった。まあ勿論、ハイポジとか、佐野史郎さんとか、朝日ちゃん(朝日美穂)とかのキーボーディストとして活動してはいたんですが。朝日ちゃんは、96年頃かな。あと、グリディー・グリーンの福岡史朗君とか。シアターブルックから声がかかったのも96年っすね。
——そこで、シアターブルックが登場するんですね。
何て言うんだろう、アーティストやミュージシャンだけやってた人とはものの見方が微妙に違う面が、俺にはあるんじゃねーかなぁと思う時があるんです。それってやっぱり、ライブ・ハウスの店員をしていたのが長かったからじゃないのかなあと思う。バンドの雰囲気って、演奏の音を聴く前から、搬入してる時の雰囲気で、ある程度わかる部分とかってあるじゃないですか? 自分がサポートでステージに立つ場合も、その音楽性やクオリティー、アーティスト自身の表現と いったことは当然大事なんですけど、一番好きだと思うのは、やってる音楽の内容がどんなにヘラヘラでも、人間性がどんなにダメダメでも、「ステージにしっかり立ってる人」なんす。
——なるほど。
サポート・ミュージシャンとしてアーティストをその人の背中側から見る場合にも、どうしても正面のPA席の方から見る見方が、混ざってしまうんです。やっぱり、代チョコがすげー大きかったっすよ。
——シアターブルックへは、どのように加入されたのですか?
単純にサポート・メンバーとして、レコード会社の人の伝手で誘われたんです。シアターブルックには、デビュー前から「ありったけの愛」っていう曲を出してしばらくする頃まで、別のキーボードがメンバーにいたんですよ。で、その人が急に出来なくなっちゃって、レコード会社的にもちょっと急ぎで探してるって感じで、誘われたのが最初です。
——中條卓さんや沼澤尚さんは、その頃はメンバーでしたか?
沼澤さんはまだいないんです。沼澤さんはね、97年。中條君はいたんです。中條君と俺とは、パラフレーズの時代から、別のバンドで対バンしたりする友達だったんです。それに加えて当時のシアターブルックには、すっごい沢山の人がいたんですよ。コーラス、DJ、サンプラーをいじる人、パーカッションやプラスαで何人か。とにかく大勢の人が沢山スタジオの中にいて、大きい音で、ワーってやってるというのが最初の印象でした。メンバーがガッチリと固まったのは、ほ んとに沼澤さんが入ってからかな。
——北村さんは、いつ頃正式メンバーに?
実はずっとねー、サポート・メンバーできていたんですよ。中條君だけ、デビュー時からのメンバーだったんです。エピック・ソニー時代もずっとその形でやってて、エピックが終了するわけっすよ。でまあ、何て言うんすかね、「これから四人がメンバーだよ」みたいな確認は特にすることもなく、既にその時には四人でライブをするってのが当たり前になってたので、そのまんま現在に至るってのが実のところなんです。
——この前のライブでも、2005年の音源(Live Archives Disc)でも、タイジさん(佐藤タイジ)の「最高のメンバーを紹介します」ってMCを聞いて、タイジさんは、メンバーをほんとに頼りにしてるんだなと思いました。
(笑)。タイジ先生ってさあ、やっぱり、ロック・スターなんす。だから、そのロック・スターな気持ちを、前面に出して欲しいと思ってます。僕とかは、沼澤さんや中條君もそうかもしれないけど、個人ミュージシャンとしてやることに慣れてるって言うか、それでしかやってきてないんですよ。俺も要するに、ミュート・ビートとじゃがたらが終了して以来、そうなんですよ。ミュージシャンとしてのやり方しかやっていない。
——それは、バンド・マンではないということですか?
そうっす。このバンドでガーッみたいなことはない人達なんですけど。でも、シアターブルックの場合は、97年からずっと同じメンバーでやってるんで、やっぱ集まるとなんか自然と出ちゃう部分があるんすよ。その自然と出ちゃうという部分が大事なんす。他のバンドには、方向性がどうこうとか、クオリティがどうこうみたいなことで辞めちゃう人っていっぱいいるじゃないですか? メンバー変えるとか。それがね、俺は好きじゃないんですよね。好きじゃないって言うか、勿 体ないんですよね。なんかそういうものが、意識はしていないけど、シアターブルックのメンバーには皆あると思うんすよね。
——うんうん。
メンバーが変わるって、単純に凄い勿体ないことだと思うんですよね。散々ご存知だと思うけど、なんかバンドとかって、バンド神話みたいな感じでやっているバンドなんて一個もないじゃないですか?
——そうっすねー(笑)。
最初は色々だったり、「もうこいつしかいない」とか思ってやった人と意外とあっさり別れたりとかね。逆にそういうことがないまま、シアターブルックは、成り行きで出来上がってるんですよ。でも、それをこう、難しく考えた方向性とか、レコード会社が変わりましたとかで、なんか無くしたくないっつう。それがね、俺はすげー基本なんですよ。
——シアターブルックのメンバー間って、強固だと思います。
うんうん。正直に言うと、他のメンバーやシアターブルックのファンが好きな音楽って、俺はかなり知らないんすよね。例えばフィッシュのようなジャムみたいな音楽も殆ど知らないし、ピンク・フロイドとかも殆ど知らないし。俺自身は、もっといなたい音楽のファンなので。それでもやってるのがなんか面白いなって思うし、やれちゃってる部分もあるんすよねえ。それはやっぱりメンバーの力による所もあると思うんです。
——北村さんのルーツってのはどの辺ですか?
二つあると思うんす。一つは、代チョコ等の現場で接してきた音楽。そもそもライブ・ハウスとかで演奏をしようと思ったきっかけの、パンク、ニュー・ウェーヴっすね。日本で言えば、じゃがたら、ミュート・ビートとか、東京ロッカーズだし、海外で言うと、ポップ・グループとか。もう一つは、エレクトーン教室をやっていた頃に好きだったような、当時のムード・ミュージックやジャズだったりとかそういう音楽。それが、二大ルーツなのかな。レゲエはもう完璧にニュー・ウェーヴから入ってますので。
それに応えて風景を作っていく
——ototoyでも先日配信リリースした、ソロ作について聞かせてください。
作ったのは、2003年っす。リズム・マシンとオルガンを使ったスタイル自体は、91年くらいからやってるんですよ。代チョコが、レーベルをやることになるとナツメグっていう名前になるんですけど、そこから、91年から93年ぐらいにかけて7インチを二枚と、CDを一枚作ってます。
——ソロをやろうと思ったのは?
俺の音楽から、サポートしてるアーティストやメンバーをマイナスしたら何になるかなみたいなことをやりたいなと思って。サポートの場合って、特に人の出入りが激しくて、同じメンバーでやりたいなあって誰もが思っても、そういう風にならないみたいな状況って凄いある。それを沢山経験して来てるので、じゃあ逆にもう全部ないとこから始めてみようと。北村っていう人は、一人だとこんなことが出来ますと。そして、それをこういう人と一緒に演奏すれば、こういう感じになるみたいな結び目を自分で持てたらいいなっていうのが、エマーソン・ソロの望みなんですね。でも特にまあ、そんなにガッチリやるという訳でもなく、家で地味にやっていたところ、2000年の秋ぐらいに高橋健太郎さんから、「エマーソン北村オルガンの夕べ」っていうイベントを高円寺のマーブルトロンでやるから、やれって (笑)。
——(笑)。
で、「えーっ」とか言いながらも、自分で貯めていたネタがあったので、やってみたのがきっかけなんです。そんな感じで、物凄い細いんですけど一応91年くらいから続いているわけで、でもスタイルは、何も変わってないんですよ(笑)。
——本作のEPは、三枚同時にリリースしたのですか?
えっーとね、一ヶ月置きの連続発売だったかな? 『Moonglow / You'll NeverFind』が最初。『Green Dolphin Street / Polka Dots & Moonbeams』が二枚目で、『Ram Jam / Midnight Confession』が三枚目なんすけど。まあ、一ヶ月のブランクなので、ほぼ同時発売と思って貰っても構わないんすけど。
——では、最後の質問をさせて下さい。今回リリースとなった、Live Archives Discの2005年恵比寿リキッドルーム。この時のことを、覚えていますか?
この日のライブとしては覚えてないっすけど、シアターブルックがジャムの方向に一番振リ切れてた時期なので、その頃のライブの感じってのは凄い覚えてますね。
——シアターブルックにとっては、その頃はどういう状況だったのでしょうか?
シアターブルックはこの年にアルバムを発売してるんですけど、全体としてはインディーというか、もう自分らでやる方向に向かうしかないかなーみたいな状態の時だった。大変だったけど、俺とかは、大変な状況は基本なので、出来る時 にライブをやるってことが大事だから、そんなものかなとも思ってたんす。その感じが、ジャムに走るっていうことと、今から思うと関係しているのかもしれないなあ。でも、ジャム「っぽく」やるのと音楽的に本当にジャムすることの違 い、単に空気感とかソロの集まりじゃなくて、きちんと人の演奏を聴きながらそれに応えて風景を作っていくっていうことを、聴く人に示せている、という自負みたいなものはあるっす。
——なるほど。
今作ってるシアターブルックのアルバムは、締まってます。もちろん、シアターブルック的なサイズ感での話なんすけど… 。多分、凄くいいと思う。今と比べると、Live Archives Discは、凄くゴチャゴチャしてるとも思うんすけど、その時はその時の良さがあるし。
——あれはあれで、超かっこいいいですよ。そして、新しいのも楽しみにしてます。
はい(笑)。
エマーソン北村
80年代末に「Jagatara」や「Mute Beat」に参加して以来、常に個性的なシーンでアーティストのサポートを続けてきたキーボード・プレイヤー。少ない音数でグルーヴを出す確実な演奏と、レゲエやニュー・ウエーブなどD.I.Y.な音楽を出発点としながらもフォークからアバンギャルドにいたる幅広い音楽を理解する愛情あるその姿勢が、メジャー/アンダーグラウンドを問わない多くのアーティストやリスナーから支持されてきた。更に、バンド・サポートでの活動と並行して、古いキーボードとリズム・マシンだけの一人プロジェクト「エマーソン北村ソロ」も行なっており、全国のカフェから大きなフェスさらにはフランス・パリまで、ライブの足跡を残し続けている。
official web
THEATRE BROOK LIVE SCHEDULE
- 4/29(木、祝)LIQUID HEAVEN ver.6@恵比寿LIQUIDROOM
- 5/1(土)〜2(日)ARABAKI ROCK FEST.10@みちのく公園北地区 エコキャンプみちのく(宮城県柴田郡川崎町大字川内字向原254番地)
- 5/22(土)NATURAL HIGH@山梨 道志村
- 6/5(土)頂@日本平
- 6/6(日)KING OF ROCK@下北沢ガーデン
THEATRE BROOK
1986年にVo,Gである佐藤タイジが中心になって結成、95年エピックレコードよりメジャー・デビュー。95年にBassの中條卓、96年にKeyboardsのエマーソン北村、97年にDrumsの沼澤尚が参加し、様々な遍歴を経て、現在のバンドに近い形となる。アルバム等も勢力的にリリースを重ね、FUJI ROCK FESTIVAL、RISING SUN ROCK FESTIVAL等様々な大型フェスを大いに沸かせる。2005年にフォーライフ・ミュージックエンタテインメントに移籍。2007年12月、恵比寿リキッドルームを最後に2年間の活動休止を発表。その言葉通り、2009年12月27日にリキッドルームで再始動ライブ”Return To The Liquid”を敢行。2年間の個々の活動を経て成熟したプロフェッショナルな世界観が、この夜に集結。エネルギッシュでパワフルなロック魂を音にのせ、会場のオーディエンスを熱狂させた。2010年2月24日ニュー・シングル「裏切りの夕焼け」をリリース! 現在ニュー・アルバムを制作中。