ラップ、ブラコン、弾き語り… 目まぐるしく展開する、彼の不可触世界——ZAZEN BOYSのベーシスト、吉田一郎による初のソロ作
向井秀徳率いるロック・バンドZAZEN BOYSで、テクニカルかつ奇妙なベース・プレイでファンを魅了してきた吉田一郎。彼が突如、ソロ形態「吉田一郎不可触世界」として初アルバムを発表。20年あまりもの間作りためたというその楽曲群は、ロック、ブラコン、弾き語りと、じつに多様な音楽性に溢れている。なぜ、彼はこのタイミングで、そしてどんな音楽的遍歴を経て今作の発表に至ったのか。普段明かされることのない彼のミュージシャンとしての“本質”を、このインタヴューから覗き込んでいただきたい。
吉田一郎不可触世界 / あぱんだ
【配信形態】
ALAC / FLAC / WAV / AAC / mp3
【価格】
単曲 205円 まとめ価格 1,697円(税込)
【収録曲】
1. ルール / 2. 見慣れた街 / 3. ピザトースト / 4. たまプラーザ / 5. 法螺 / 6. 眼と眼 / 7. 暗渠 / 8. 洗濯 / 9. あぱんだ / 10. 燕の啼く海
本作には、歌詞カードのpdfデータが付属します
ZAZEN BOYSのベーシストである吉田一郎によるソロ・プロジェクト「吉田一郎不可触世界」のファースト・アルバム。MATSURI STUDIOよりリリース。個人練習用として年間契約している下北沢のスタジオにて、夜な夜なこつこつと制作された作品集である。ベーシストではなく、一個の肉の固まりとしての吉田一郎の想いがここに集まり、沼から突如フナを咥えて這いずり出てきた河童のエグい匂いを漂わせながら / それに出くわし / おののきながらも未知の好奇心を刺激された十才の少年のような純粋な煌めきを放っている。(向井秀徳)
INTERVIEW : 吉田一郎「誰もが人の本質を覗きたいじゃないですか」
——なぜ吉田(一郎)さんは、ソロ・アルバムを作ろうと思ったのですか。
ZAZEN BOYSの活動とは関係なく中学生くらいから曲を作り溜めていたんです。それを発露させるに至った1番の理由としては、2014年の1月から何ヶ月間か、向井秀徳アコーティスティック&エレクトリックがeastern youthの吉野寿さん、七尾旅人さんとカップリング・ツアーを行ったんですけど、それがすごい良くて。ひとりで作品を作って、お客さんに対峙する姿を観て「俺も曲を作ってるし形にしよう」って思ったのがきっかけですね。20年くらいずっと作ってたものを、みんなに聴いてもらいたいなって。
——そもそも20年前に曲を作ろうと思ったきっかけはなんだったんですか?
中学1年生くらいのときに、父親にIBMのパソコンを買ってもらったことですね。音楽をやるためではなく、ただの子供の物欲だったんですけど、当時インターネット全盛ってわけでもなくてやることがないわけですよ。だから音楽ソフトを入れて、音符を打って、スーパーで流れているカラオケのようなものを作ってました。それで年をとっていくごとにマシーンやソフトのスペックがだんだん上がっていくわけです。
——20年も作り続けるっていうそのエネルギーが凄いですよね。
貯蔵することに意味はないし、誰かに聴かせるわけでもなかったんです。僕の場合、曲を書き溜める方法がA4のコピー用紙に、Bもしくは2Bの鉛筆で書いた、走り書きのメモのようなものを全部ファイルに綴じてくってスタイルなんですけど、それが好きなんですよね。もちろん録音しているものや、レコーディングまでしてハイファイなWAV形式になってるものもありますけど。
——いつか発表したいという気持ちはなかった?
出せなくてもいいかなとも思っていました。というのは、僕は向井さんから教えてもらったヘンリー・ダーガーっていう画家が大好きで。知的ハンディキャップを持っていて身寄りもなく、ずっと清掃員の仕事をしながら生活していた人です。亡くなったあと彼の家から大量の絵が出てきたんですけど、周りの人は彼が絵を描いてたことを知らなかったんです。彼は自分の作品を意図して貯蔵していたわけじゃないんですけど、なんかそういうのいいなぁと思って。僕、全然習ったこともないですけど絵も好きで、今回のジャケットも自画像なんですよ。とにかく僕はそういう自分の発露みたいなものが好きなんです。
※ヘンリー・ダーガーに関する詳しい情報はこちらから
——じゃあ吉田さんにとって、日々曲を作っていく行為や、その曲自体は何を意味していますか?
日記、ダイアリーですね。とにかく音楽って形のないものだから、その日なにを成したかってことが残らないんですよね。毎日練習してなにかを達成した実感とかもあるんでしょうけど、僕の場合はそれを録音したり、文にしたりしてアーカイヴする。ファイルという目に見える形で、それが本棚に増えていくのが楽しくて。でも、くっだらない曲が多いんですよ(笑)。ツアー中の鹿児島で見た、九州にあるタイヨーっていうスーパーのCMをパクった曲とか。それをボイスメモで録音して、さらにエモーショナルな思いをたくさんメモして。東京帰って読んだら「なんだこれ…」って思うんですけど(笑)、そのメモをファイルにパチンって閉じる。
——そういうメモや録音の積み重ねがこのアルバム?
そうです。そのなかでお気に入りのものですよね。自分にとっての全集だし、「あぱんだ」って曲で歌っているのは人の全集が見たいっていうことなんです。誰もが人の本質を覗きたいじゃないですか。覗き部屋に入りたいおじさんの気持ちですよね、えへへって。
自己陶酔したクソガキだったんだと思います(笑)
——いままでの話を聞いて、吉田さんがどういう経緯で音楽を始めるのか知りたくなりました。出身は長野でしたっけ?
生まれは長野なんで長野出身って言ってるんですけど、僕は横浜の青葉区育ちなんですよ。音楽との関わりが始まるのは、見栄っ張りで優しい叔父さんが小学生の僕をブルーノート東京に連れていくところからですね。
——じゃあ「見慣れた街」(アルバム3曲目収録)は横浜のことを歌ってるんだ! それはこの作品を紐解くにあたって大事な情報ですね。
そうなんです。でも僕が育ったのは観覧車がキラキラして、ランドマークタワーがあるようなところから離れてて、山奥の方なんです。1学年6クラスとかあって、まぁ本当に子供の多い、70年代に作られたニュータウン。しかも中学生のとき端から端まで、みんなパンチマーパになっていくわけですよ(笑)。それを見て「俺は全然わかんねーな」と思って。だってビーバップ・ハイスクールとか見た世代とかじゃないんですよ? なんで「みんなニッカポッカ穿いてるんだろう?」って、僕理解できなかったんです。そういう北関東臭もあって、でも北関東じゃない。まぁ馴染めてたし、友達もたくさんいたんですけど、不思議な街でしたね。
——なるほど。さっきの話に戻りますけど、小学生のときにブルーノートへ行ってからその後は?
観に行ったのがジャズ・ベーシストのロン・カーターだったんです。その生演奏を小学5年生のときに観て、いま聴こえてる音がこの瞬間に作られてるっていうことに面食らったんですね。そのライヴを観てすっげぇと思って。そのあと地元の楽器屋さんでエレキ・ギターを弾いてみたんですけど、なんか違うなと思って。それで「ウッドベースが欲しい」って言って、親父と一緒に御茶ノ水に行って、ウッドベースを買ってもらいました。それが1番最初に手にした楽器ですね。
——いきなり御茶ノ水でウッドベース!
まぁ発表する場もないわ、教えてくれる人もいなかったんですよ。僕は小学校3年か4年生までピアノやってて辞めたんですけど、その習ってた先生のところにウッドベース担いで行くんですね。そしたら「私はジャスができないから教えられない」って言われて。でもその先生が教本を取り寄せてくれて「こうやって持つらしいよ」とか、ピッチの取り方とか教えてもらってましたね。でも結局いまにいたるまで、1度もウッドベースをちゃんと習ったことない(笑)。エレキ・ベースを手にしたのは中学生です。
——吉田さんは中学生、高校生のころは随分ませてたんですか?
多分ませてたんじゃないですかね。「俺だけ変わり者なんだぜ」って自己陶酔したクソガキだったんだと思います(笑)。それで中学生のとき周りの友達や先輩とかに「バンドとかやらないっすか?」とか言ってみたんですけど、「なんとか先輩のケツ持ちだからよぉ」みたいなやつがぞろぞろいて、みんなもう車、バイクに夢中で。ほんとにその街にゲンナリしてたんですよ。「わかんねぇ、いよいよわかんねぇ」ってなってきて。だからってわけじゃないですけど、中学卒業してからは、電車で1時間くらいかかる新宿の私立高校に入るんです。それなのに入学して2日目には「辞めたい」って思ってたんですよね。
——まだなにも起こってないですよ(笑)。
入学式とかはレッドツェッペリンとか聴きながら、意気揚々と登校したんです。次の日に1クラス50人が高田馬場の狭い校舎に詰め込まれて自己紹介をして。それで当時ってヴィジュアル全盛だったので、みんな好きなバンドが「L’Arc-en-Ciel、GLAY、LUNA SEA」って感じで。それで僕の番になって「好きな音楽は… えーっとえーっと」ってなにも言えなくて。軽音部もちらっと覗いたんですけど、またそこも「わかんねえな、ちょっと違うな」と。いい悪いというより、好みが合う合わないの話ですね。
——初めからそんな状態で高校は卒業できたんですか?
僕はほとんど高校行かずして卒業するんですよ。楽器屋行ったり、ベースの練習したり、曲を作ったりとかもしてたし、免許とって「原付イエーイ」とか言ってたりもしていて。それで出席日数ギリギリで「このテスト受ければいいぞ」って言われたのを受けて、そこで0点とかとったりしながらも、最後の校長面接で「僕はミュージシャンになります!」ってうそぶいて、それで音楽の専門学校に行くんです。
——バンドを結成するのはいつですか?
バンド活動を1番ちゃんとやりだしたのは18、19くらい。ZAZEN BOYSに入るまで、僕がベース・ヴォーカルの12939dbっていうバンドを、専門学校の同級生と4年か5年くらいやってましたね。リリースの話もいただいたりしたんですけど、ベースを弾きながら歌うって難しいじゃないですか。だからなんかピンとこなくて。あとね、とにかく歌詞が30歳を過ぎるまで書けなかったんですよ。そういうこともあって、ドラムもギターも素晴らしいプレイヤーだったんですけど、そのバンドは2006年に空中分解してしまったんです。
——ZAZEN BOYS加入の経緯についても教えてもらってもいいですか?
その当時、僕はパーマネントのバンドが欲しくて、都内のライヴハウスとかスタジオにメン募を貼りまくってたんですよ。とにかくベース弾きながら歌うのはきついし、歌詞も書けないので、シンガーを探そうと思って。弾き語りの人が出演するハコに毎日通って「きみバンドやってますか?」って女の子も男の子も関係なく声をかけまくったんです。それで100人くらいと一緒にスタジオに入ったんですけど、うまくいかなくて。それで自分で1からバンド組むのは一度やめて、既に形をなしているバンドでベース・プレイヤーとして加入しようと思ったんです。
——疲れちゃったんですね。
はい。それで友人から「ZAZEN BOYSのベースが抜けたってー」って教えてもらって。僕はそれまでZAZEN BOYSを聴いたことがなかったんですけど、家帰って調べたら、ナンバーガールの向井さんがやってるバンドだと知って。ナンバーガールと言えば、同級生のギタリストが皆テレキャスになった時期があったくらいなので、もちろん知ってるわけですよ。そういうすごいバンドに入れてもらえねぇかなと思って、それで音源もなにも聴く前に向井さんに手紙を書いたんですよね、自分のやっていたバンドの音源とかも同封して。そこから何回かセッションをしてもらっていまに至ると。それが2007年の年始ですかね。
——で、そこから7、8年が経っていま、自分の作品を出したいというモードになると。
はい。一番最初の話に戻りますけど、向井さんと吉野さん、七尾旅人さんのツアーだったり、あとは同世代で言えばLEO今井君がひとりで創作してライヴ活動をしている姿をずっと観たりしてですね、そういったところから影響を受けています。
自分の妄想と青春の苦味の思い出をうまく発露できた曲たち
——さっきもおっしゃってたんですけど、これまで吉田さんが自分主導の活動をしようとしてきたときに、歌詞が書けないっていう壁があったじゃないですか。でも30歳を過ぎて急に書けるようになったのはなぜなんでしょう?
やっぱり良いこと言おうっていう気持ちがなくなったんだと思うんですよ。30を過ぎていろんな事を諦め、達観したつもりになったというか。超大げさに言うと、僕はジャニーズには入れないじゃないですか(笑)。そういう感じですよね。「俺は体重100Kg近い坊主で髭だよ」っていうだけになった。さらにいろんな映画、絵、音楽に触れて、向井秀徳とかいろんな表現をしてる人を身近に目撃して、衝撃波を食らっているなかで、僕が人生を論じるような歌詞を書くっていうよりかは、僕の妄想をただ文にして、それを楽曲にするってのが一番いいんだなってことしか思わなくなった。
——なるほど。僕はこのアルバムの歌詞を読んで、これが表現しているところは半分妄想で半分写実って感じがしました。
おっしゃる通りですね。いま長々と話を聞いてもらいましたけど、この作品には自分の生い立ちというか、そこまで深い話じゃないですけど、育った環境、ベットタウン、子供が多くて端から端までDQNになっていくとかそういう雰囲気が入っちゃってますね。あとはやれケンカだなんだとか、周りがそういう状況になっていくなかで自分が妄想したこととか。べつに侮蔑じゃないし、劣等感でもなくて、なんだか不思議な感情なんです。今日もそうだし昨日もそうなんですけど、当時のことをよく夢にみるんですよね。
——どんな夢ですか?
青葉台第なんとか公園の砂場の横の茂みのとこで、なんとかさんと、なんとか先輩がブロックをぶつけあってケンカしてるとか。そういうきな臭い話が本当に多かったんですよ。まぁ当時僕はただのなんにも考えてないクソださいデニムをはいた中学生ですよ。学校からの帰り道に鳥辰っていう焼き鳥屋さんがあったんですけど、そこで「皮を一本、ハツを一本タレでお願いします」って言って、それを食べながらひとりで帰ってたんです。それなのに当時は「ロングバケーション」が放送してたんで、突然みんなロン毛になって、ロングコートを着てくる男の子とかがいて。「なんだ! 森君がロングコートを着てきたぞ!」みたいな。僕の中学校は制服なくて私服の中学校だったので、そういう突然決めてくる森くんに対して「わっかんねぇなぁ、俺は」って思って、焼き鳥を食べながら見ていて(笑)。そういう思い出とか、妄想が入ってます。
——でも思い出すってことはなにか大きな印象があるんでしょうね。
彼らに対して影響を受けているんですよね。自意識を発露させてる子供たちに。当時は僕も子供だったけど、子供たちの我の発露が美しいし、香ばしく匂ってくるし、それがすごい好きで。いまでも思い出すし、そういうのを勝手にこうだったなって妄想しただけの曲もあるし。って感じですね、この『あぱんだ』は。
——この『あぱんだ』の10曲はどうやって選出したんですか。
トラックに関しては、例えば「ルール」っていう曲は10代のときに作っていたりするんですけど、歌詞についてはこの10曲はすべて30歳を過ぎてから書いたものしかないんですね。そのなかから、わりとうまくいった曲、自分の妄想と青春の苦味の思い出をうまく発露できた曲たちをはじめ50曲くらいに絞ったんですよ。
——それでも50曲って膨大ですね(笑)。
去年の8月に向井さんに「曲作ったんで聴いてください、出したいです」って話をしたら、すげぇ笑われれて。でもすぐ聴いてくれました。そのときは13曲になってたんですけど「全体長いかもね」ってアドバイスをもらったりして、結局〈MATSURI STUDIO〉から出すことになったんです。その時点で歌も録ってマスタリングも終わってたんですね。だから振り返ると今回は製作期間っていうものはなかったですね。アルバムを作ろうと思って、一から制作した曲ではなくて、その場その場で作ってきた20年くらいのアーカイヴのなかから、意欲作と面構えのいいやつを連れて来たんです。
——そのアーカイヴを作品化するにあたってトラックを録り直したりはしていないんですか?
すべて創作している毎日のなかで録ったものですね。例えばドラムも僕がリハスタでドラムを叩いて、レコーディングしたものです。その僕の作ったトラックを豪徳寺にあるスタジオのシステムに落としこんで、僕がディレクションしながらミックスして。歌だけはいいマイク使わないとなってことで自分だけでは難しかったんで、そこで録ってもらいました。でも「たまプラーザ」だけ、Macに付いているマイクで録音してますね。よくファースト・テイクが1番って言うじゃないですか。この曲はそうなっちゃったんです。
——この作品をライヴで表現することは考えていますか?
したいですねー。演奏は全部ひとりでやっちゃったんで、どうしようかなと。
——僕が言うのも変ですけど、そのままにしてほしいですけどね。弾き語りだとちょっと面白くないというか(笑)。
それはね、激しく同意なんですよ。そりゃあ弾き語りもやることもあるでしょうけど、30を過ぎてこんな太り倒した状態でアコースティックをね、「ジャラーン」ってやっても盛り上がらねえなって思っちゃう(笑)。弾き語りも好きなんですけど。そうですね、ライブは超未定なんですけど考えてますよ。ライヴしたいです。
インタヴュー : 飯田仁一郎
文 : 鶯巣大介
写真 : ハムカツ
RECOMMEND
eastern youth / ボトムオブザワールド(24bit/96kHz)
結成27年目を迎えるイースタンユースの最新で最高の傑作。これまでのメジャー・レーベルを離れ、かねてより自身たちで運営してきた「裸足の音楽社」からオリジナル・アルバムとしては初の単独リリースとなる。かねてから親交が深く極東最前線にも出演している、向井秀徳 (ZAZEN BOYS)、射守矢雄(bloodthirsty butchers)、cp(group_inou)らがゲスト・コーラスに参加するなど、これまでになかったアプローチをも試し、アルバム全体で大きな表現の強度を生んだ、イースタンならではの丹精に魂が込められた現代社会に突き刺さる紛うことなき大名作。
ZAZEN BOYSの前作より4年振りのリリースとなるアルバム。奇妙かつシンプルな歌詞に、コード、リズム、旋律がバラバラでありながら一体感をもって迫ってくる意欲作。
現在の日本のロック・シーンをリードし、特異なスタンスで独自の存在感を放っているOGRE YOU ASSHOLEの最新作。ポストパンク、サイケ〜プログレ、AOR、ノイズ・エクスペリメンタルなど、様々なモードを咀嚼した末に、叙情的でありながらクールでデカダンな「ミニマルメロウ」とでも言うべき新境地に至った、彼らの最新にして最高傑作。
PROFILE
吉田一郎
1982年生まれ 長野県出身 特技 天プラを揚げること
12才よりベースを始める、2002年「12939db」を結成。2004年「ninedayswonder」のサポートを経て、2007年「ZAZENBOYS」にベーシストとして加入。
2015年、吉田一郎の単独形態として「吉田一郎不可触世界」の活動を開始。