初めて音楽を聴いた時は確かに、こんな気分だったかもしれない
この人がこれまで表現してきたようなルサンチマン的な表現に自ずから距離を置きたくなってしまう僕のような聴き手からしてみれば、本作は、良い意味で印象の変化がある作品だと言える。端的に言って、ここでの倉内は、これまで自らの表現の芯としてきたある種の青臭さを、別の何かへと昇華しようとしている。とはいえ、間違っても、彼方から此方へ、という単純な筋ではない。(資料によれば)全ての楽器が倉内自身によって演奏され作られたという本作は、少なくとも、いまの自分にとって、とても不思議な印象の残す作品だ。
例えば、アコースティック・ギターを中心に、ドラムや鍵盤、(変顔めいた)表情ゆたかなコーラスが彩るその音楽は、ビートルズをはじめとする60年代のサイケデリック音楽からの影響が見られ… などと、それらしい言葉で枠どってみようと試みるが、どうにもしっくり来ない。それでは、と、今度は弾き語り=フォークという連想から、歌の中に社会的なイシューがないか、と鼻を利かせてみるが、倉内の音楽の中にはわかりやすい意味での政治性のようなものは存在していない。実際、彼の音楽における"社会"とは、言葉遊びと言葉遊び(「病気と結婚」)の間、世に散在する文学イメージを弄ぶ言葉と言葉(「銀行強盗」)の間に垣間見えるという類のものだろう。
おそらくは、縦(音程)にも横(リズム)にも揺れる、音自体の不安定さも、その捉え切れなさを強調しているのかも知れない。聴き応えは爽やかで、一貫して希望を感じる音楽ではあるのだが、何度聴いても最後には魚に逃げられたような感触が残る。例えば「全然UFOが来ない」のような曲に、サイケデリックと呼びたくなるような内省世界、イメージの奔走を見つけられるのは確かだが、ドラッギーと呼ぶには強すぎるバネのような意志も同時に感じる。だが、それを支えるものが一体何なのか。それがやはり僕には分からないのだ。
はたして当の倉内本人には分かっているのだろうか。もしかすると、彼自身もまた、それと向き合いはじめたばかりなのではないか。このモヤモヤとした感触は、作家も同様なのではないか。簡単に分かった気になる愚はもちろん、逆に、分からなさに価値があるとも言えない、言いたくない音楽。であれば、“シンピン”のリスナーとして、もう少しじっくりこの音楽と付き合ってみたい。初めて音楽を聴いた時は確かに、こんな気分だったかもしれない。(text by 佐藤優太)