失われた自分とイビツなこの世界
〈あたらしく歌を作る 初めてみたいに〉と冒頭から歌われる「シンビン」が象徴するように倉内太の『ペーパードライブ』は自己喪失を経て、新たな自分へと向かった作品である。その過程というのはあまりにも痛々しいものだが、不思議と虚無は感じられない。むしろ、生命力溢れる力強い作品と言える。それは倉内太がこのイビツな世界で、今を生きることを決心したからであろう。前作までは妄想や過去の自分と向き合うような内向的な作風であったが、本作は明らかに外の世界へと彼の眼は向けられている。 これまでの倉内は妄想の中に生き、過去の自分と向き合い続けていた。その上でこのイビツな世界を拒絶し続けていた。それはナンセンス極まりないものであり、同時に彼のアイデンティティでもあった。本作ではそのままダニエル・ジョンストンのような永遠の少年として生きるか、もしくはジャンデックのように突き抜けて亡霊になる選択肢もあったはずだ。しかし、彼は大人になった… というより大人にならざるを得なかったのだろう。少年の妄想に愛焦がれながらも、1度大人になってしまったが故に2度と見ることが出来ない絶望。そのような戸惑いは歌詞に音に反映されている。「全然UFOがいない」では今までは見えていたものが見えなくなってしまった絶望が横たわっている。「ストーんマウス」ではイビツな日常の姿を露呈させている。歌詞が非常に生々しくリアリティを感じさせるのだ。
本作は作曲・歌詞・アレンジ・録音に至るまで倉内太が全て手掛けているが、それもたった一人でこの世界を見つめるためではないか。自分というものを失って初めて向き合うこの世界は混沌を帯びていながらも実は愛すべき世界なのではないか、と倉内の描写する日常の風景は問いかけてくる。実に切なさを湛えつつも、愛らしいく紡がれるメロディが重苦しくなる歌詞とはどこか相反しているのもそういうことではないか。そう考えると、6曲目に何の脈略もなく突如現れるレゲエ調の、ある種ラヴ&ピースの象徴ともいえる曲も合致がいくのだ。
『ペーパードライブ』の各楽曲に綴られた日常のストーリーに対する描写はあまりに重く、それでいて美しい。この美しさは正にこのイビツな世界を傷つきながらも懸命に生きる生命の輝きそのものなのだ。(text by 佐久間義貴)