その時点でやり直せなかったのがついて回ってるんだなと
──そういう意味では箱も重要だったというか。
谷口 : すごい居心地良かったです。SHELTERだからこそって感じで。eastern youthの〈極東最前線〉はSHELTERが定番だったんですよ。だからSHELTERばっか行ってたんですよね。
大石 : 次は大きい箱で、みたいなのはなかったんですか?
谷口 : 僕らはあのキャパ以上呼べないし、あれがちょうど良かったんですよ。売り切れでどうしようもないとかもなかったし、満杯に近いっていうときはあったけど。それはゲストのおかげだったり。大きいところでやろうって話が浮上したことは1回もないです。当時おこがましくなってる気持ちになってるときもあって、冗談ぽくマネージャーに言ってみることもあったけどそれは却下で。赤字になるのが見えてたのでね。結構初期の〈砂上の楼閣〉は恐々としていて。ちゃんとチケットが売れるのかっていうのをメンバーもレーベルも気にしてTシャツ作ってそれをダシにしたりとかしてました。
大石 : 西村(仁志)さん(現・新代田FEVER店長、元・下北沢SHELTER店長)にお話聞いたときには、「赤字は一度もなかったし、動員はかなり良かった」って言ってましたけどね。
谷口 : だけどそれ以上大きいところではやらせないっていう。なんだろう、呼ぼうとしないっていうのもあったんですかね。僕らもそうですし、誰かわからないけど動員がすごいからってことで他のバンドを呼ぶのはfOULではタブーだったから。
──僕はリアルタイムじゃないので、90年代にbloodthirsty butchersやeastern youthをはじめ、たくさんのロック・バンドが規模が大きくなっていったわけじゃないですか。そのなかで悔しいみたいな気持ちはあったんですか?
谷口 : 正直ありました。なんでいつまでも自分たちは? って。でも映画を見たら当然だなってちょっと思いましたけどね(笑)。多くの人たちには広がりにくいだろうなって。
──でもそのなかでもキングレコードからリリースしたり、海外でレコーディングしたりということもあったわけじゃないですか。『煉獄のなかで』以降の作品はレコーディングでジョー・チカレリ(※フランク・ザッパやU2、モリッシーなどの作品を手掛けたエンジニア)がプロデュースしていますけれど、これは当時どういう経緯でプロデュースが決まったのでしょうか?
谷口 : 当時のレーベルの社長さんが海外とも繋がりがあって曲を送ってくれたんですよ。それがジョーさんの耳に入って、“Smart Boy Meets Fat Girl”って曲を聞いてくれたみたいなんですけど、こんな面白いタイトルと歌詞を書いてるのは誰だってなって、オファーをくれてやってみないかと。僕らはジョーさんが誰なのか知らなかったんですけど、後から聞いたら結構大御所の人だと知って。3枚目か4枚目のアルバムのレコーディングのときも最初から立ち会えないから、途中からスタジオに合流するって話だったんですけど、前日までエルトン・ジョンか誰かとレッド・カーペットがあるような式典に出席してて。どんだけすごい人なんだっていう。
大石 : 前日にレッド・カーペットで翌日にfOULのマスタリングしてたんですか(笑)?
谷口 : そう、式典に出たらすぐ行くからって。
──それはすごいエピソードですね(笑)。レコーディングの話だと、当時fOULの曲作りというのはどのように進めていたのでしょうか?
谷口 : 曲作りは僕がギターで軽くリフを持ってくるバージョンと、学が作ってきた骨格を広げて作るっていうのが半々くらいですね。僕が作って持っていったのはメロディとか譜割りを作りやすいんですけど、学が持ってくるのはメロディを楽しく乗せれるものと結構苦労するものがあって。それもまたスリリングでよかったですね。
──健さんの曲作りのアイディアはどうやって得ていたんですか?
谷口 : 自分が好きなバンドをいっぱい聴いてるときに、自分なりの歌が浮かんだらそれをICレコーダーに入れてっていう感じです。あとはそのころとにかくスタジオに入っていたので、学と大地が何度も同じリフを繰り返していくなかで、ギターもずっと色々なことを考えてたのでそこからできたものも多かったですね。
──健さんのギターのスタイルって特徴的でfOULにおいて重要なポジションを占めてると思うんですけど、fOULを始めるまではギターに触れてこなかったんですよね?
谷口 : そうですね。コード・ブックを読んでも覚えられないし、理論も勉強してないので形で押さえるしかないんですよね。何フレット目かを決めたらそれを忘れないように、当時はガラケーで押さえてるところを写真撮って、次のスタジオで思い出せるようにっていうのをやってました。
──あとはギターの持ち方や弾き方ひとつにもこだわりがあったと映画で語っていた部分がエピソードとして強烈に残っていて。
谷口 : 立ち位置とか弾き方とかストラップの長さとか、そういうのをこだわってやってましたね。なんであんなに拘ったんですかね、eastern youthの吉野(寿)くんとも「ちょっと今日はあれなんじゃない?」って演奏というよりかは形の話をよくしてましたけど。
──(笑)。立ち姿の理想ってなにか参考にしていたものはあったんですか?
谷口 : ありましたね、誰々っぽくなりたいっていうのが。言わないんですけどあったと思います。イギリスのニュー・ウェーヴのバンドとか、観たこともないのにきっとこうやって弾いていたはずだっていうね。そのとき着てきた服の着こなし、FUGAZIだってあんな地味な格好してるけど色味には拘ってるはずだとか。だから自分たちもこだわりたいっていう。大地もシンバルの位置とか超高くしてましたし。
──あのシンバルの高さはそうですよね。そういう立ち姿もfOULの魅力なんですかね。
大石 : 3人のバランスと動き含めて美しいなって思ってました。シルエットとして鮮明に残ってますね。あんな風に演奏する人たちなんていないから。素材を見ながら自分だったらどう撮るんだろうじゃないけど、撮りたい対象として素材を見てたのはありますね。
──最後に、映画のなかで大石さんが1番気に入ってるシーンを聞きたいんですけど選べます?
大石 : 選べません! 全部好きだから全部で! 自分がずっと好きだったものが映像でずっと残ってなくて、YouTubeでも見れなくてDVDもなくて、やっと残ってたものをまとめたものなので。ワンカットごとに、演奏の表情ひとつとっても何回も見れますね。観ていただくファンの方にお勧めしたいんですけど、何回か見ると「このときの顔!」とか「このときの形! 顔を見合わせてる瞬間!」とかだんだん気付いてくるたまらない瞬間がいっぱいあるので何度も見て欲しいです。
──最初に感想として伝えさせてもらった、大石さんのエゴだったり、癖(へき)がありとあらゆるシーンに詰め込まれていると。
大石 : 癖って色々な人の影響で作られていくじゃないですか。自分の好きなものがなにか言葉にはできないけれど、気持ち悪い感じとか、快感もそうだし、恍惚とした表情もそうですけど、自分の癖とか趣味の原点はfOULだなって思いました。お恥ずかしいですけど、SPACE SHOWER TVで初めてADの仕事をさせてもらったときにeastern youthのみなさんと川口(潤)監督と番組で会うことがあって。そのときにfOULのTシャツを着ていって「私、fOUL好きなんです」ってみなさんに話したら、田森(篤哉)さんに「残念だねえ! まだ若いんだからやり直せるんじゃないの!」って言われて(笑)。その時点でやり直せなかったのがついて回ってるんだなと。
──そこでやり直さなかったからこそのいまですもんね。現状音源は廃盤になっていてほとんどの音源はサブスクでも聴けないわけで、今回のこの映画がfOULの正しい記録の形、これがこれから知る人たちにとってのバンドの資料となるわけじゃないですか。僕は後追いなのでこれだけたくさんのfOULの映像を見れたってことが1番嬉しかったんですけど、当時観てた人は自分があのとき行ってたやつだって思い出すでしょうし、なんの情報もなく観てかっこいいと思う人もいると思いますし。とにかくたくさんの人に観て聴いてもらいたいですよね。
大石 : 色んな人に観てほしいともちろん思っているんですけど、公開の情報が出たときにSNSで全国にいる私みたいなfOULのことをずっと好きな人がこんなにいるんだってことが分かって。だからその人たちと一緒にまたfOULを観れるのが楽しみですね。
谷口 : みんな年を取ってるわけじゃないですか。地方に行ったとき「いま、受験生なんです」って言葉の意味とか漢字に興味持ったって言っていた当時の少年たちにも、また観てもらいたいなと。懐かしむというよりかは、かつて観に来ていた人たちにもいまの自分の姿と重ね合わせてもらえたらなと思います。あのとき観にいっていて、今日の自分はどうなのかなってことを思ってくれたら嬉しいですね。
編集補助 : 津田結衣、吉田逸人
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PROFILE
fOUL
谷口健 (Vo./G.)
平松学 (B.)
大地大介 (D.)
94年6月結成。“思い通りには運ばない人生”をなぞらえ、当初考えていた“dead ball”が“foul ball”となり、アメリカのバンドMinutemenのメンバーが新たに始めたバンドfIREHOSEの表記に倣い“fOUL”となった。初ライヴは94年10月8日下北沢CLUB Que。Less Than TVからデビュー作『foul ball for foul men』を翌年3月に発表。97年にはbloodthirsty butchersとお互いのカヴァーを含むスプリット・アルバムをリリース。98年3月から下北沢Shelterで自主企画ライヴ「砂上の楼閣」をスタート、2005年3月21日までに計34回行われた。99年にはプロデューサーにジョー・チカレリを迎えてサンフランシスコで録音した「煉獄のなかで」をリリース。続くベルウッド/キングレコードからの2枚のアルバム、「Husserliana」「アシスタント」もチカレリのプロデュースでそれぞれバンクーバーとロサンゼルスでレコーディング。Promise RingやBurning Airlines、 Jets To Brazilといった海外バンドの来日公演オープニングに出演。2005年3月21日の「砂上の楼閣34」で休憩を表明した。
【映画『fOUL』 HP】
https://foul-film.com/
【映画『fOUL』 Twitter】
https://twitter.com/fOULfILM
大石規湖
フリーランスの映像作家として、SPACE SHOWER TV や VICE japan、MTV などの音楽番組に携わる。怒髪天、トクマルシューゴ、 DEERHOOF、DEATHROなど数多くのアーティストのライヴDVDやミュージックビデオを制作。2010年、bloodthirsty butchersのドキュメンタリー映画『kocorono』(川口潤監督)で監督補佐を担当。2017年、音楽レーベルLess Than TVを追った映画『MOTHER FUCKER』で映画監督デビュー、the 原爆オナニーズの今の姿を描いた『JUST ANOTHER』(2020年)に続き、本作が3作目となる。
【HP】
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【Twitter】
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