「映画監督 = 大人」のイメージ
山下:でも『リンダ リンダ リンダ』って恥かく要素てんこ盛りの内容じゃん。THE BLUEHEARTSを否定するつもりはないけど。「ダメ男三部作」は等身大というか、恥のかき方に関してもコントロールできたんだよね。しかも3本連続で海外でウケたもんだから、20代のときは海外の映画祭でウケる映画を作るんだと思ってたの。そんなところに『リンダ リンダ リンダ』の企画がきて、「俺も海外の映画祭はこれで最後だな」とか思ってたんだけど、逆に映画祭でいちばん評価されたのが『リンダ リンダ リンダ』だったんだよね。それで、自分の感覚がわからなくなって。
見汐:そうなんですねぇ……、思わぬ形で世の中と自分の作品のピントが合って受け入れられるっていうことは喜ばしいことばかりではないんですかね。今の話を聞いて思い出したことがあるんですけど、サザンオールスターズのシングル盤に「東京シャッフル」(1989年)(*10)という曲があって。歌詞もドドイツ調だったり、モチーフがあったりで作ったらしいんですけど、思ったより売れなかったらしいんです。自分が細部まで手を入れたものより、フワッと……というか力みすぎずできたものの方が意外と世の中の人に受け入れられたり、意図しないところで広がっていくもんなのかもねぇといつだったかご自身のラジオ番組で桑田さんがおっしゃっていたんです。
山下:うんうん。『リンダ リンダ リンダ』は松本隆さんとかもすごく褒めてくれたんだけど、自分の手応えと評価が一致しなくて。
見汐:それって今思うと分岐点ですよね?
山下:そのときはわかってなかったけど、分岐点だったね。それで、自分らしさとバランスを取ろうと思って作ったのが『松ヶ根乱射事件』(2006年)(*11)なんだよね。そのときに『天然コケッコー』の話も来るんだけど、それは渡辺あや(*12)さんという脚本家と仕事がしたくて受けた。そういうバランスをとった「リンダ事変」があって、ふらふらと30代に突入してった感じ(笑)。でも30代になった途端、『マイ・バック・ページ』(*13)まで4年間映画を撮らなかったんだよね。
見汐:なぜ時間が空いてしまったんですか?
山下:『マイ・バック・ページ』は脚本に時間がかかったのもあるし、妻夫木聡と松山ケンイチのスケジュールが合わなかったのもあって。そういう物理的な原因もあるけど、自分がやるぞってエンジン入るまでに時間がかかったんだろうなって。全共闘運動がテーマだったんだけど、それを経験してつらい思いをした人も中にはいるだろうし、慎重に扱わないといけないからずっとプレッシャーを感じていて。ノリでいくような感じではなくて、向井も俺も今までと違う緊張感の中でやっていたというか。
見汐:その当時山下さんは35歳くらいだったと思うのですが、私が大人になったと思った分岐点って35歳辺りだったなと。音楽を続けていくことについて一旦立ち止まって考えたり、社会を見渡す為の視座がグンと広がっていった時期でもあって。今考えると続けていくために変わっていく必要があるんじゃないかと無理矢理にでもハンドルを切ろうと、これまでとは環境や体制を変えてミニ・アルバムを一枚出したんですけど、山下さんの作品の中で『マイ・バック・ページ』は山下さんにとってのそういう……気概が漂っているように感じたというか。自分がそういう時期だったからというのもあるのかもしれないんですが、凄く惹かれるなと思って当時レンタルして繰り返し観ていました。
山下:そうだったんだね。
見汐:20代の頃、「こういう大人になりたい」みたいな指針になる人がいたりしましたか?熊切さんは山下さんにとって重要な人であったのかなぁと思ったんですが。
山下:熊切さんを大人とは思わなかったな。だから今回の話で難しいのは、何をもって大人とするかだよね。漠然と考えると、映画監督って大人のイメージがあるじゃない。映画作る前はスピルバーグとか黒澤明ってとてつもなく仕切ってるんだろうなって思ってたし。でも自分が向井とかカメラマンの近藤龍人(*14)とかと映画を作ってるときはまだ監督という感覚はないんだよね。28歳のときに『リンダ リンダ リンダ』を撮って、周りが40歳とかなのに自分が仕切んなきゃいけなかったから初めて監督としての自分を自覚したけど、向井も近藤もいたから大人への補助輪が付いている感じだった。で、『マイ・バック・ページ』で、久しぶりに脚本・向井、撮影・近藤っていう大学トリオが集まったんだよね。大人にならざるを得ないんだけど、同級生との距離感も考えないといけなくて、それがあまりにもしんどかった。この3人で集まったらダメだと思って、それ以降その3人で撮ってないんだよね。そう考えると、『マイ・バック・ページ』までは、監督=大人になるまでに近藤や向井に助けてもらってた。そういう意味で山下ソロ第一弾、奥田民生でいう『29』(*15)は、『苦役列車』(*16)ですよ。
見汐:2012年ですね。ということは山下さんが30代後半。それまでは大学の同級生との真剣な遊びがずっと続いていたけれど『マイ・バック・ページ』で終わったということなんですかね。