2018/02/13 00:00

“東京と京都のうたを紡ぐ”イベント〈うたのゆくえ〉──イベント・レポートを掲載

OTOTOYが主催するオトトイ学校にて、音楽評論家として活躍する岡村詩野のもと、音楽への造詣を深め、「表現」の方法を学ぶ場として開講している「岡村詩野音楽ライター講座」。2018年1月期・講座生はこれまで本ページのアーティスト紹介文も手掛けてきました。今回、特別課外活動として〈うたのゆくえ〉に参加した講座生によるイベント・レポートを掲載します。彼らは”うた”をどう捉えたのか。ぜひ一読ください。

〈うたのゆくえ〉イベント・レポート

●尾野泰幸
「ひとつでも、“うた”が残ればいいんです。」アンコールをうけステージへと戻ったラッキーオールドサンの篠原良彰は、高田渡の言葉を引き静かにそう語った。 最後の曲は「坂の多い街と退屈」。聖蹟桜ヶ丘の街を下敷きに、今や“オールドタウン”となった東京郊外ニュータウンでの生活を描いた曲である。そのような“土地と結びついた生活のうた”を最後に鳴らしたことから、ラッキーオールドサンが自身の“うたのゆくえ”に込めた想いを感じた。
前述の篠原の言葉を軸とすれば、台風クラブははっきりと京都の“生活のうた”を歌っていた。うだるような暑さが少し和らいだ夏の夕方に川べりをとぼとぼ歩く。その気だるさや、やるせなさ。京都におけるそのような生活の姿が、彼らのうたからにじみ出ていた。
2018年3月3日。多くの東京と京都のうたを聴き、私の中に残った“うた”の“ゆくえ”にあったのは、そのうたが生まれ出た土地や生活の姿だった。(Text by 尾野泰幸)

●田中友樹
この日最も「うた」を感じたのは、東京の石指拓朗。観客の目線とほぼ同じ高さの簡易ステージに立ってうたう、その光景と同じように、彼のうたは決して崇高な存在としてではなく、観客と同じ市井の人としてのうただった。私という個人の生活をそのまま重ねられるうたの数々に、ときに笑顔に、ときに泣きたい気持ちにさせられた
。 「うた」という範疇を超えて魅せられたのは、京都の本日休演。四人の身体から噴き出す剥き出しの熱量によって投げ出される音たちは、まるで息づき蠢く一匹の動物のよう。しかしそこにいるのは何の変哲もない気張らぬ若者四人だという事実に、ささやかな狂気と京都らしさを感じた。
そういえば、石指は「自分の好きなうたや、昨今のシーンを考える日になったらいい」と語り、中村佳穂は「うたいたくて堪らなくて、京都中のライヴハウスを回った」と語り、そしてラッキーオールドサンの篠原は、高田渡の言葉を引用し、「うたがひとつ残ればいい」と語った。 「うたのゆくえ」はひとつには括れない。だからこそ素晴らしいのだ。(Text by田中友樹)

●川口麻衣
東京と京都、出演者を東西に分けることによって、逆に一つに見えるイベントだった。
東京の折坂悠太と京都の中村佳穂は楽器のように歌声を響かせ、バンドのサウンドと融合させながらも、きちんと心を表現していた二組だ。しかし、洗練されたデザインのような折坂と自然体のグルーヴや熱を感じる中村。共通点がより彼らの差異を魅力的に引き立てる。
他にも人間味の強さ、見える景色、感情、様々なポイントで東京と京都を対のように映し合いながら進むイベントは、どのアーティストも欠けてはいけない、西と東の掛け合いによって成立する一つの新しい歌のように感じたのだ。長時間のイベントにも関わらず多くのお客さんが最後までステージを見守り、しっかりと彼らのうたに耳を傾けていたのがそれを証明しているのではないだろうか。そして西と東のシーンが繋がることで、掛け合いからハーモニーへと“うたのゆくへえ”は新たな可能性を広げていくのかもしれない。(Text by 川口麻衣)

●榎本恭介
イベント・タイトルにある“うたのゆくえ”とはなんなのだろうか。石指拓朗と中村佳穂、この2つのアクトを見て考えた。アコースティック・ギターを1つ持ち観衆に歌いかける姿、バック・バンドを携えて歌う姿。この2つに違いはあるのだろうか、1人で観衆と対峙する、即興でその場でうたを歌い観衆を沸かせる。どちらもうたを歌うという面において差はない、聴衆に語り掛ける面に関してもそうだ。
だが、石指、中村はそれぞれMCにおいて、うたの歴史における自分たちのうたの在り方を語っていた。どちらもこれまでに何万曲のうたが作られうたわれてきた、その中にわたしたちの歌が存在すると。うたを歌いたいという思いとそれを受け取る聴衆、この2つがあればいつの時代にもうたは存在し、そして永遠に続いていくのではないだろうか。そんなことを今回のイベントを通じて考えた。(Text by榎本恭介)

●辻瞼
最前列で石指拓朗を観た。まずこんなに近くで歌を歌っている人をみるのは初めてだった。ぎゅうぎゅう詰めの会場はキャパシティと人数が釣り合っていないように思える。押し出されるように最前列でファンでもないのに観ることになったが、強い引力のような瞳と特徴的な眉が目立つ。
例えば対照的に、バレーボウイズの音と戯れて周りを引き摺り込む引力と違って、自分と他者をきっぱりわけた自立した引力だった。そのバレーボウイズで1番印象的なのは唯一の女性メンバー・オオムラツヅミのおどろおどろしいダンス。あんな風に踊る人って東京のライヴハウスであんまり見ない気がする。ただ地方のライヴハウスに行ったことがないからわからない。真昼間なのに文化祭の後夜祭のような会場で、東京だから京都だからと、土地がどれだけ重要なのかはちょっと私にはまだ不明瞭だ。ただ京都のあの閉鎖的とも言われる土地柄が、土俗のおどろおどろしさとなってあのダンスに出たのかもしれない。
自分と周りをしっかり見つめる東京組に対し、京都組は自分達ありきで周りを変えようと歌っているようだった。土地が混ざることで、うたはどこへ行くのだろう。答えはまだ出ていない。うたもまた人間みたいに、どこにいても変わらないこともあると思った。(Text by 辻瞼)

●高久大輝
この日、最もソリッドな演奏を届けたのは東京のドミコだった。ほとんどMCを挟まないストイックな30分間。ドラムとギターボーカルという少数構成を感じさせない音圧でダイナミックに駆け抜けてゆく。会場の所々から聞こえる黄色い歓声も納得のクールさだ。一方で最もフロアを揺らしたのは京都の中村佳穂。音と戯れるように即興を交えた演奏は、なんとも楽しそうで観ているこちらまで笑顔で踊り出してしまう。と思えば「空を見て泣いている人たちに支えられてきました。」というMCからしっとり歌い上げ、感情まで揺さぶっていった。
東京に溢れる有象無象の中で生きるための鋭いうたと、京都の大きくはないシーンでその繋がりを喜び合うようなうた。ドミコの研ぎ澄まされたアクトと中村佳穂の人間味溢れるアクトに、そんな東京と京都のうたの差異を垣間見たように思う。8時間を超える長丁場だったが、帰路に着く人たちがみなどこか満足そうに見えたのは、各々がうたのゆくえを、あるいはそのヒントを見つけたからだろうか。(Text by 高久大輝)

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