東京の郊外と戦後ポップ・ミュージックの源泉──書評 柳瀬博一著『国道16号線──「日本」を創った道』
オトトイ読んだ Vol.16

オトトイ読んだ Vol.16
文 : 塚田 智
今回のお題
『国道16号線──「日本」を創った道』
柳瀬博一 : 著
新潮社 : 刊
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OTOTOYの書籍コーナー“オトトイ読んだ”。これまで音楽専門書籍などが続きましたが、今回は少々趣向を変えて「道路」の話。今回紹介するのは「国道16号線」──横浜を起点に、ぐるっと東京中心街とそのベッドタウンとなる西東京や、千葉や埼玉、神奈川の東京隣接地域を囲む地域を環状に結び、富津に至り、東京湾を越えて横須賀からまた横浜へといたる環状の国道だ。この道路、そして内側の地域をテーマに書かれた『国道16号線──「日本」を創った道』を紹介します。と、なぜそんな本をOTOTOYの書籍コーナーで? と言われそうですが、ところがどっこいここには日本の戦後ポップ・ミュージックの裏で、切っても切り離せない国道16号線との関わりがまるまる一章に渡って繰り広げられています。今回は、Glimpse Groupのベーシストでもあり、音楽メディアや釣り専門誌などライターとしても多岐に活躍する塚田智による書評でお届けします(編集部)。
東京郊外の象徴、国道16号線
──書評 : 柳瀬博一著『国道16号線:「日本」を創った道』──
文 : 塚田 智
東京湾をぐるりと膨らむようにしてルートを描く、国道16号線。本書は、16号線が関東一円の物流の要衝となっただけではなく、歴史のターニング・ポイントとして働いていたことを、さまざまな角度から掘り下げている。
まずは、主役である16号線の道のりを神奈川県横須賀市からトレースしてみたい。東京湾を右手に見つつ横浜市まで北上すると、中心部を避けるようにして横浜の内陸部に進路を向ける。東京都に入り八王子市、福生市を抜けて埼玉県入間市に入り、今度は東に向かい春日部市へ。江戸川を渡り千葉県野田市から柏市に突入すると、南下して千葉市中心部へと進む。幕張メッセを横目に再度東京湾沿いを走ると、木更津市を越えて最後は富津市までを繋いでいく。そう、16号線は、おもに四都県の中心部から少し離れた、いわゆる「郊外」を通る道路なのである。
16号線が現在の形として施行されたのは1963年だが、時に旧石器時代まで遡りながら、本書は16号線を何度も走り抜ける。けっして偶然ではなく、人々の営みが常に存在する条件がそろったエリアであることを、冷静に分析していく。
立地的な側面だけでなく、マンガや小説、ドラマ、映画などの舞台として登場する16号線エリアへの考察や、ディスカウントショップとの密接な関わりを指摘するまなざしも鋭い。これを読めば、ブックオフがなぜ郊外の国道沿いに多いのか、その理由もわかるはずだ。
さて、そんな本書だが全6章のうち、第3章を「戦後日本音楽のゆりかご」と題し、まるっと1章を割いて、16号線エリアと戦後~1970年代半ばまでの約30年のあいだに生まれた音楽との関わりについて、さまざまなドラマを通じて紐解いていくのである。
おもな舞台となるのは戦後の米軍施設とその周辺だ。敗戦国となった日本の軍隊がGHQによって接収されてから70年代半ばまでに、今日の日本の音楽シーンの礎を築いた重要人物が多く輩出されることになる。そして、どこを切り取っても、背景を貫くのは16号線なのである。本章ではこの約30年間を第1世代、第2世代、第3世代と分けて、それらの強い結びつきに迫っていく。
地力あるミュージシャンを育んだ進駐軍クラブ
“第1世代”は戦後から1950年代前半までだ。16号線エリアには、今も昔も軍事基地が連なる。すでに跡地となっている場所も含むと、横須賀、座間、福生、入間、柏などが挙げられる。
こうした米軍基地のすぐ近くには、米兵たちが音楽を楽しむ場として進駐軍クラブというのが存在した。ここに、ミュージシャンを目指す日本人がなだれ込んだのである。ジャンルとしてはジャズやカントリーが好まれたという。のちに「ザ・スパイダース」でデビューするかまやつひろしは、各地のキャンプ地を回ったときのことを「キャンプの中は憧れのアメリカそのものだった」と振り返る。
1952年に進駐軍の規模が縮小していくと、クラブで演奏していたミュージシャンたちは、都内のジャズ喫茶に活動の場を移していく。
“第2世代”は、戦後生まれの世代だ。16号線エリアは、音楽をつくるための場所として重要な役割を担っていく。
米軍基地近くには、アメリカ兵たちがその家族たちと一緒に住む「ハウス」が多く建てられた。1970年代に入ると米軍の規模が縮小して空き家が増え、日本人向けに賃貸されることになる。とくに狭山のハウスはベッドルーム3室に14畳ほどのリビングがつき、車も2台停められるほどのスペースを持ちながら、月2万ほどで借りることができたという。そこに、ミュージシャンを目指す若者たちが集まってきた。そのなかのひとりが、細野晴臣である。1973年にリリースした1stソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』は、この狭山の自宅で録音されたアルバムだった。
都心に洋楽を“輸入”した松任谷由実
“第3世代”の代表は、1954年生まれの松任谷由実である。中学生のころから都心のジャズ喫茶に出入りしていたユーミンは、店で演奏していたミュージシャンたちと交流を重ねていく。距離を縮めるために、八王子の実家からほど近い横田基地で手に入れた海外の輸入盤を、都心のミュージシャンたちに渡すという大きな武器を持っていた。実際ひとまわり上の世代であるかまやつひろしなどは、このイベントを心待ちにしていたという。
1972年、ユーミンはシングル『返事はいらない』でデビュー。16号線が育んだ一連の流れを、著者はこうまとめる。
ユーミンのデビューは、三重の意味で16号線と関わりがある。
1番目は、デビューシングルを、16号線エリアの軍のクラブでカントリーを歌っていたかまやつひろしがプロデュースしたことである。2番目は、デビューアルバムに、16号線エリアの狭山でヒッピー的な生活を送り、アメリカの音楽に耽溺していた細野晴臣らキャラメル・ママが関わったこと。3番目は、何よりユーミン自身が16号線エリアの街、八王子生まれであることだ。(『国道16号線──「日本」を創った道』第3章「戦後日本音楽のゆりかご」より)
ユーミンの4thアルバム『14番目の月』(1976年)に収録された「中央フリーウェイ」は、都心部でのレコーディングから八王子の自宅に帰る道中を歌った曲との説がある。本書を読んだうえで、改めて聴いてみてほしい1曲だ。
動き回るがけっして歌を邪魔しないテクニカルなベースライン。リズミカルなノリを引き立てるナチュラル・トーンのバッキング・ギター。アーバンな色を添えるキーボードの伴奏。淡々と続くフリーウェイ(≒高速道路)かのようにビートを刻むドラム。そんな極上の演奏の上に響く、ユーミンの唯一無二の抑揚。月並みな表現だが、とても1976年の日本の音楽とは思えない、洗練された演奏が収められている。
本書の魅力は、16号線を補助線に、他の音楽本にはない戦後ポピュラー音楽史の見方をしている点、そしてほかの16号線の事象と重ね合わせることで、より立体的なものとして浮かび上がってくるところにある。