
自分で自分のことをすべてやれている
——さっきの「キターー!!!!」という表現で例えていた感覚って、つまりあの出来事が起こる前にも何か予兆を感じていたからなのでしょうか?
身体のどこかでは感じていたのかもしれないけど、まさかあんな事が起こるとは、まったく誰も予想していなかったよね。そこがまたすごかったんだけど。
——では、それまでのぼんやりとした時代の雰囲気というものは、あの出来事が起こるまではまだ続いていくと思っていたのでしょうか?
思っていなかったのかもしれないですね。だからバンドも解散したのかもしれない。でも、こういう時代になるとは思ってもみなかった。だから「これからは“空の色が今日は綺麗だから君に会いに行くよ”と歌っている場合ではないな」と思って、とりあえずすぐに曲を書いたんです。このインパクトをすぐ歌にしなければいけないと思った。だからと言って反戦歌のようなものを書くつもりはなかったんだよね。それで出来た「ギター」という曲は、10月にアメリカが報復を始めた日に書いた日記を音楽にして、ソロの新曲として発表するという方法論で作ったのね。そこに“戦争にはちょっと反対さ”というリリックを入れたんだけど、当時そのリリックはすごくバッシングされたんだ。近しい人達からも「なんで戦争には絶対反対だと歌わないんですか?」と言われたし、ホーム・ページの書き込みにも「なんでそんなゆるい表現を使うんですか?」っていうのがたくさんあった。でもそれがこれから歌を歌っていく糸口に思えたんだよね。<戦争反対>という旗をみんなで共有することよりも、何かが起こったその日に日記を書きたかったんだ。そこで声高に「戦争反対」と言っちゃうと、イデオロギーを発表する場になってしまう。だからあえて“戦争にはちょっと反対さ”という、みんなの神経を逆なでするような言葉を使ったんだ。
——みんなが過敏になっていた時期だったからこそ、起こるべくして起こった反応かもしれませんね。
「ギター」という曲を出した翌月には、またその時の日記をシングルにして出したいと思っていたのね。それを継続していって、曲が揃ったらアルバムとして出せればいいなと思ってたんだ。つまり雑誌や新聞みたいな意味合いの音楽を作っていきたかったんだけど、その後にメジャーと契約しちゃって、2枚は普通にアルバムを作らなきゃいけなかったのね(笑)。それがソロとしての最初の2枚になるんだけど、その頃のものは自分から見ても迷走しているんだよね。本当は「ギター」みたいな形でどんどん出していきたい気持ちだったからさ。だからその2枚のアルバムを抜いてもらえれば、「ギター」とそれ以降の活動はすべて繋がってるんだ。出来た曲をボンボン出す。今となってはシングルとして出す必要もないから。YouTubeやUstreamですぐに発表できるからね。
——最初の2作は、作り手としてのモチベーションとは分断されたものだったんですね。
作品主義になっちゃってる。新聞を配るような気持ちで作ったものではないね。やっぱりメジャーとなると、いいのか悪いのかもわからない曲をボンボン発表していくなんてことは難しいからね。ちゃんと宣伝して、何ヶ月か前には完パケして、雑誌とかにもプロモーションして、ようやく日の目を見る、みたいなのがアルバムというものだったから。それで2枚作ってみて、やっぱり自分にこのやり方は合っていないと感じたし、「サニーデイの時と似てるな」と思って。作り込んで一枚の綺麗な絵を仕上げるようなやり方はサニーデイでやってきたし、ソロでそれがやりたい訳ではなかったから。それよりは不完全なものを時間の流れの中でばらまいていくようなことをやりたかった。

——そこからどのようにしてレーベルを発足させる運びになったのでしょうか?
自分の好きなようにやりつつ、誰にも迷惑をかけないってことが大前提だったから。自分が失敗する事によって、企業や個人の財政にダメージを与えたくなかったし、借りを作るのがすごくいやだったんですよね。俺は失敗も込みでやっていきたかったから、「だったら自分の金でやるしかない」という、それだけのことです。
——周囲に相談はしなかったんですか?
まったくしなかった(笑)。引かれたよ(笑)。「パンクとか、アンダーグラウンドの音楽だったらわかるんだけど、ソロ・アーティストでインディってどうなの?」みたいなこともよく言われたし、「メジャーでしっかりとプロモーションをしてもらって、田舎のおばちゃんとかも含めて、届けられる人すべてにしっかり届けるべきだよ」みたいな正論も言われた。その時言われた言葉はみんな正論だと思ったよ(笑)。でも、何かを取れば何かが削られていくのはしょうがないから。それよりも「自分で自分のことをすべてやれている」っていう実感だけがあれば、俺は音楽をやっていけるんじゃないかと思ったんだ。だったら田舎の中学生やおばちゃんが俺のことをわざわざ知ってくれなくてもいいと思って(笑)
——でも同時に「自分の歌がすべて世界と繋がっている」という思いもあるんですよね。
多分ね。体感しているんだとは思う。自分が発表しているその日の日記が、世界中の人が共有している感覚の一部だということを実感しているから、それでいいんだと思えるんだよね。例えば日本の歌って、共通項を見つけ出して歌っているものが多いじゃないですか。「大丈夫だよ」「君は間違ってないよ」「明日があるよ」ってね(笑)。まあ、それはみんな共通の認識だから、すごく歌いやすいんだけど、別にそうじゃなくてもいいと思うんだ。すごく個人的で微妙な話を歌っても、何かで世界と繋がっていくんじゃないかな。例えば、“戦争にはちょっと反対さ”と歌えば、それはもちろん自分にとっての特別な歌になるんだけど、そこに対して「なんで“ちょっと”なの?」と反論した人も、既にその話を共有しちゃってるんだよね。だから、自分の歌を聴いた人が100人いたとして、100人全員にいいと言ってもらう必要はないと思っている。「何これ? 全然意味がわからないよ」という人が半分以上いてもいい。
——無視できないものであればいい?
誰かの特別な歌であればそれでいいんだと思う。うん、そうだね。無視できないものであれば、その人にインパクトとして残ったということだから、それでいいな。
ロックンロールのスピードで物事を表現していきたい
——メジャーでため込んだエネルギーを放出した時、どのような作品になっていったんでしょう?
仕上げが荒くなっていった(笑)。映画で言えば絵コンテのまま出しているようなものだから。『shimokitazawa concert』っていうライヴ盤をリリースしたんですけど、それはライヴをやった翌々月くらいに出したものなんだ。あと、『世界のニュース〜light of the world!』っていうタイトルのCD-Rを作っているんだけど、それは録った翌日にはもうライヴ会場で売っていたんだよ。
——そこを経て『STRAWBERRY』をリリースする訳ですが、当時の反応はどのようなものだったのでしょうか?
もう酷評されましたよ(笑)。今は酷評されることに慣れちゃってるんだけど、当時はショックでしたね。自分が前しか向いてない状態で「今出来る一番いいものを出そう」と思って一生懸命作ったものだったのに、それが「音が悪い」とか「曲がやかましい」とか言われて。
——そこで気持ちが揺らいだりはしなかったのですか?
それ以前に怒りの方が大きかった。「こんなに頑張ってやってるのになんでそんなこと言うんだよ。じゃあもっと悪い音でやってやる!」ってね(笑)。言われれば言われるほど、ムカついて加速してしまうようなところが自分にはあるのかもしれない(笑)。逆にみんなから「最高だ!」って言われている状態が長く続くと、僕は悪くなっていってしまうんだ。そういう状態にいれば、もしかするとすごく売れる曲とかも作れるのかもしれないんだけど、俺はやっぱりエッジがあるものを作りたいから、みんなにああだこうだ言われた方が自分のエネルギーになるんだ。もちろんたまには落ち着いて、万人が喜んでくれそうなものを作りたいなという気持ちにもなるよ(笑)。4年に1回くらいはね。
——(笑)。そんなに空くんですか?
オリンピック周期だね(笑)。みんなが納得する盤なんて、そのくらいでいいんじゃない? だってニール・ヤングもボブ・ディランも、みんなが揃っていいっていうアルバムは数枚でしょ? あとはもうわけわからないものばっかりなんだから(笑)。でもそれがその人を追いかける理由にもなるんだよ。例えば、子供がテストを持ち帰ってきた時に「お前、この点数ひどいじゃねぇか!」って怒る親にはなりたくないんだよ。「一生懸命やったなら、それでいいんだよ。0点の時もあれば、100点の時もあるんだからさ」って、親なら言ってやりたいからさ。音楽も一緒だよ。その時がんばったものが0点を下されたとしてもそれでいい。ただ職業にしている以上、それをいいと言うことは難しいんだけどね(笑)。でも、いい時も悪い時も正直に見せていけるかどうかが自分との戦いなんだ。こんなに長い間音楽をやり続けていれば、誰でも及第点はすぐにいけちゃうんだよ。それぞれの平均点っていうのが多分みんなあると思うんだけど、そこをクリアする術はもう身につけているんだ。そういうものを如何になくしていけるかが、自分の活動なんだよね。
——『STRAWBERRY』を出した当時、曽我部さんのスタンスに同調してくれる人はいなかったのですか?
その時、俺はロックンロールのスピードで物事を表現していきたいと思っていたから、それまでの俺の音楽にあった、メロウな部分や文学的な部分を期待していた人達はどんどん離れていったよ。ただ、今までサニーデイとかを知らなかったようなキッズがライヴに来てくれるようになった。「お前ら、今までどこにいたの!?」って言いたくなるような若い子がタオルを巻いて来るようになったんだ。その時はその彼らがいることだけが心の支えだった。だからこいつらに向かって真っすぐに歌っていこうと、その時は思っていましたね。そこから曽我部恵一BANDが生まれてくるんだけど。

——そこからはひたすらライヴですよね。
レーベルを始めた時から、もうそれしかやることがないんですよ。お金もないから、雑誌に何十万もかけて広告をうつなんてことはそうそう出来ない。じゃあ自分達に出来ることが何かを考えると、もうライヴしかないんですよね。自分達を見せていくには、「呼ばれたらどこででもやる」っていうスタンスでやっていくしかなかった。
——それはストレスになるものでしたか?
ストレスに関して言えば、ゼロでしたね。サニーデイの時は、機材車に乗って移動するなんてことはほとんどなかったのね。ほとんどは新幹線か飛行機だった。「機材を積んだ車にメンバー全員が乗って街から街に移動していく」とか「アメリカでは30本のツアーを30日で回る」みたいなことは、話には聞いたことがあったけど、やったことはなかったの。それが期せずして自分の人生の中で始まってしまって、「あ、これかぁ」と思って(笑)。「これはなかなかしんどいけど、最高だな!」と思いましたね。
——その後ソカバンとしてライヴを続けながら、ソロで『LOVE CITY』というアルバムをリリースします。あの作品にはソカバンのメンバーでの演奏も収められているし、ソロを始めて以降の曽我部さんの音楽を総括した作品だと感じています。
まさにあれがさっき言った4年に1度のまとめですよ(笑)。サニーデイの時から聴いてくれている人も含めて、自分のすべての側面をパッケージングしようというコンセプトの元に作ったアルバムですね。ひたすらツアーをこなして、ずっと歌い続けて、ちょっとだけ歌うことに自信がついたところであのアルバムが作れた。エレクトロニカもフォークもロックンロールも、いろんなことをやっているんだけど、それがすごくソウルフルでエモーショナルな作品になったのは、毎晩ひたすら歌っていたからなんです。自分のスキル・アップの方法は人前で歌うことしかないから。練習不足だろうがなんだろうが、とにかく人前にでて歌う。それだけしか考えていないんです。だからライヴの間隔が開くともどかしいんです。とにかく毎日歌っていたい。
——活動の中心はあくまでライヴにあるということですね?
今はライヴがすべての表現の場であって、それが最終形なんです。だから毎日のライヴがアート・フォームの最終形であってほしい。でも90年代はそれがアルバムとかCDだったんだよね。モノとして残るものだった。でも、「ここが最終形です」っていう音源はないんだよ。毎晩のライヴが最終形なの。でもそれって全然難しいことではないし、特に芸術的な才能もいらないんだ。とにかく人の前で歌うっていうことからしか、僕は物事が見えてこないんだ。例えばパソコンの前に座って何十日も細かい作業を続けたところで、人前で演奏してみたら、その一番聴いてもらいたいところがサラッと流されちゃうなんてことは多々あるからさ。人の耳に杭を打つようなものを発信したいんだから、もうそれはライヴでやるしかないんだよ。
後編は7/8(木)に公開します。お楽しみに!
遂に配信開始! 曽我部恵一 バック・カタログ
PROFILE
曽我部恵一(そかべけいいち)
1971年生まれ。香川県出身。ミュージシャン。<ROSE RECORDS>主宰。ソロだけでなく、ロック・バンド<曽我部恵一BAND>、アコースティック・ユニット<曽我部恵一ランデヴーバンド>、再結成を果たした<サニーデイ・サービス>で活動を展開し、歌うことへの飽くなき追求はとどまることを知らない。プロデュース・ワークにも定評があり、執筆、CM・映画音楽制作やDJなど、その表現範囲は実に多彩。下北沢で生活する三児の父でもあり、カフェ兼レコード店<CITY COUNTRY CITY>のオーナーでもある。