本当はあの頃の自分はこう言われたかった──
──読書体験としては、原稿用紙というフォーマットならではのギミックに気づいた時に鳥肌が立つような感じがあって。そこは書籍の形では味わえない興奮がありました。
n-buna:よかったです。やっぱリアルタイムで物語と同じことが展開されてるんだって思える感覚って、書籍の形態だと難しいんですよね。本の中の人がこっちを急に向いてくる瞬間がある小説って、たまにあるんです。たとえば、サルバドール・プラセンシアの『紙の民』っていう小説があるんですけれど、それはまさにメタ的な視点が入ってる本で。日本版だとページの中に文章が3段あって、一番上が作者の視点で、2つ目と3つ目が登場人物の視点で書かれていたりする。小説の中で登場人物が作者と戦い出したりするんですよ。そういった、構造そのものが刺激的な文学をやるんだったらこういうのも面白いんじゃないかという提案が根底にありますね。
──これはまさにタイトルの『二人称』という言葉と結びつく話ですね。いわゆる通常の小説との違いは、地の文の描写がないということで。作者の俯瞰の視点が存在しない。これって、体感として音楽に近いなと思ったんです。そういう意味でも、音楽作品にそぐうような小説形態なのかもと思いました。
n-buna:それはその通りですね。作者の存在は、物語の中ではなるべく死んでいるべきだとは思うんです。ロラン・バルトの言う「作者の死」というのは、まさに正解だなと思っていて。僕の根底にはテクストが開かれているべきという考え方があるんです。作者の手を離れて物語が存在しているべきなんですよね。それぞれの読者は作者の匂いを感じ取らずに物語の中を泳ぐのが理想で、作り手はそこを突き詰めなきゃいけない。それは確かに音楽と近いのかもしれないですね。常々言っていることですけれど、僕の思う音楽の理想形って、ラジオから流れてくるメロディに一瞬で心を掴まれたり、何かわからないけど惹かれるような瞬間で。そこに作者は存在しないわけなんですよね。それはアートとしての理想だと思うし、ポップスというメディアが得意としていることでもある。単純な音階の配列にこれだけ心を奪われる。そこは音楽の素敵なところだし、そこが自分の理想の形に近いから僕は音楽をやってるのかもしれないですね。
──なので、これまでのヨルシカの楽曲やアルバムは「文学的な音楽作品」としての魅力を持っているものだと思うんですが、今回の書簡型小説にはそれに加えて「音楽的な文芸作品」という魅力があると思います。
n-buna:ありがとうございます。そこを分けたかったんですね。音楽作品であることと文芸作品であることは分けられると思っていて。僕は詩だけを鑑賞するのも好きだし、僕が好きな俳句や短歌は一行の詩だと思いながら見たりもするんです。同じように歌詞だけで成立する瞬間も絶対に存在する。だからこそ今回の作品は発売日を分けようと思ったんです。先に文芸作品としての『二人称』があり、その中で少年が書いた詩の内容が後から音楽化したものがアルバムとして出る。別の解釈で我々がバンドの楽曲にしたものになると理想だと思っていました。だから各々独立したものとして捉えてほしいという気持ちが僕の中にはありますね。
──作品の登場人物には少年と先生が登場するわけですが、それぞれの人物像にはどんなイメージがありましたか?
n-buna:まず、作るときには必然的に自分の書いた詩を自分が添削するという構造になるので、基本的に過去の自分との対話の形になるんですよ。だから、少年については子供の頃、筆を取っても目の前が暗闇で何をしたらいいのかわからなかった時代の自分を主人公に据えようと思いました。そうすると、必然的に先生というのは大人になった自分になるんだろうなと思います。物語とは別のレイヤーで、構造として作者の自分はそういうことをしなきゃいけないということは最初に思いました。
──かつてのn-bunaさんに、作中に登場する先生に当たるようなメンター的な存在はいましたか?
n-buna:いなかったんですよ。だから僕にとってそれは文学であったし、もしくは音楽であったと思います。あの頃の自分にこう言ってあげたかったというか、本当はあの頃の自分はこう言われたかった、こう導かれたかったという、そういった側面が封じ込められている感じもしますね。クリエイターはたいてい一人で自分がどうあるべきかを見つけなきゃいけないわけなんですけど、それはそうとして、そういう自分を救う存在をやっぱり作りたかったのかなっていう気はします。
──そういうことをイメージするひとつの取っかかりとして、今回のアルバムでは「ヒッチコック」が再録されているわけですが、何かしらこの曲がきっかけにはなりましたか。
n-buna:むしろ「ヒッチコック」を作った段階で大体こういうことをやろうっていうのがあったんです。ヨルシカの最初期の頃に今後の展開をある程度考えてたんですけど、その中で「先生という対象に向けて詩を送る少年」ということを漠然と考えていた。今それを形にした感じですね。
──最初の種がもうすでにその時点で蒔かれていたと。
n-buna:そういうことですね。
──「ヒッチコック」以外で、今回の作品のコンセプトを形にしていく上でのキーになった曲を挙げるならばどうでしょうか。
n-buna:「千鳥」でしょうね。この話って、引用癖のある少年が、引用が自分の手段の一つでしかない、筆の一つでしかないっていうことを知るまでの話なんです。そうなってくると、どこかでそこから抜け出そうともがく瞬間を作らなきゃいけない。そのとっかかりが「千鳥」という曲なので。なるべく一番いい曲を出そうという努力はありましたね。
──「千鳥」という曲、そして「櫂」「海へ」というラストへの流れは、すごく胸に迫るものがありました。主人公の少年が一人で歩き出すという終わりになっているので、ビルドゥングスロマンとしても受け取れる作品になっていると思います。
n-buna:引用が筆の一つでしかないことを知るって、あまりにも小さな一歩のはずなんですね。でも確かに、それがないとその先には行けないということを考えたら、それは大きな成長と言えるのかもしれないですね。
──「千鳥」で引用という手法にどう向き合うかという回答を示すのが、物語の到達点になっている。そのためにも、「修羅」や「火星人」や「忘れてください」というシングル曲で、宮沢賢治や萩原朔太郎や北原白秋を明示的に引用してきた。これにもちゃんと意図があったということですよね。
n-buna:そうですね。それをやりたいがために、ここ数年ずっと、各々のタイアップの曲に文学作品の引用を組み込んでいくという作業をずっとやってきたわけなので。アルバムの中で実った瞬間だという実感はありますね。
──オマージュや引用は表現においてどういうことなのかっていうことをアルバム全体のテーマの一つにするならば、タイアップを単なる商業的な要請ではなく、クリエイティヴとしての必然として向き合っていかなければいけない。それがちゃんと結実したアルバムという風に受け取りました。
n-buna:ありがとうございます。タイアップに誠実に向き合うべきというのは常日頃言っていることはあるんですけれども、僕の思うタイアップの一番美しい姿って、やっぱり共通項があるということだと思うんです。各々は独立しているのに、作品との部分的な重なりが、なぜかその作品にとっての必然であったかのように見える瞬間がある。イメージ・ソングではないはずなのに、なぜか断片的に重なった部分が美しく見えるという。そういうものがタイアップの個人的に好きな瞬間なので。
──タイアップ曲の中では特に『チ。 ―地球の運動について―』のエンディング・テーマの2曲、「へび」と「アポリア」に関して、そのことを感じました。
n-buna:『チ。』は作品としても好きだし、『二人称』と深い部分での共通項があるから一番作りやすかったです。知識を気球に喩えて際限なく登っていく様子というのを詩の中で書きたくて。で、『チ。』のタイアップの話が来たから「これはいけるだろう」という確信がありました。




















B-064.jpg?width=350)







