気仙沼へ(2011年4月2日)

東日本大地震の津波と火災による被害の大きかった宮城県の北東端、太平洋沿岸の三陸海岸に位置する気仙沼市(けせんぬまし)に行ってきた。メンバーは、『Play for Japan』のプロデューサーの筆者と、『Play for Japan Vol.1』のディレクターを務めたフォトグラファー佐々木亘、『Play for Japan Vol.6』のディレクターを務めた池田義文、急遽車を手配してくれた池田の友人、下野川丈史の4人。

目的は、3つ。1つ目は、佐々木亘が、地震後初めて、気仙沼に住む兄と母親に会う事。彼は、親族との連絡が取れない中で、『Play for Japan vol.1〜vol.6』の制作をかってでてくれた。連絡が取れたのは、発売の1日前、3月16日だった。2つ目は、池田義文とパルボ今江が新宿motionにて開催した『ギブミーベジタブル』という入場料が野菜のイベントで、多くのスタッフやお客さんの協力のもとに集まった野菜を被災地に持っていく事。3日前の告知にも関わらず、集まった段ボールの数はなんと10箱程に! 3つ目は、気仙沼の状況を脳裏に焼き付け、東京に戻って伝える事。

野菜を車いっぱいに積み、朝4時に東京を出発する。高速道路は、所々にひび割れがあり、応急処置を施されている。仙台市に近づくにつれ、パーキングエリアでのガソリン待ちの車の列は長くなる。レギュラーは売り切れで、ハイオクしかないパーキングエリアも。2度の給油後、ガソリン満タンの状態で、築館で東北自動車道を降り、栗原市にある「日本の森バイオマスネットワーク」に向かう。

ここは、とても規模の小さな災害救援物資中継所。規模の小ささを活かし、大きな避難所では手が回らない小さな避難所や個人宅へ、被災者から足らないとの連絡を受け、その物資を輸送する。

個別対応も行っているので、是非物資を送ってください。

「日本の森バイオマスネットワーク」
0228-49-3155
http://miyagibiomass.net/

「日本の森バイオマスネットワーク」で、副理事長、大場隆博氏と合流する。『ギブミーベジタブル』のことをTwitter経由で知った大場氏から、池田の元へ連絡が届き、我々は「日本の森バイオマスネットワーク」と出会うことが出来た。彼からの第一声、「是非、気仙沼の惨状を見て欲しい。そして東京の皆さんに伝えて欲しい」。野次馬的と言われようが「見る」「伝える」ということを目的の一つとして組んだツアーのため、この一言は我々をとても勇気づけた。

大場氏の車を追い、気仙沼の避難所へ向かう。「日本の森バイオマスネットワーク」から約1時間。500メートル程のトンネルを抜けて、川を逆流した津波の影響で家屋の残骸が散らばったままの鹿折川の測道を上がり、約80人程が避難する浄念寺へ。

お昼間ということもあり、老人がとても多い。元気な人とそうでない人が半々という印象。東京から積んできた野菜を運び込む。被災者の話によると、ずっと缶詰ばかりで、なんと20日ぶりに野菜を食べることになるらしい。スタッフの方からは、しきりに「ありがとう」との言葉をいただく。自分達がまだまだ被災地のために出来る事があることを痛感する。

大場氏は、次の被災地に向かうので、我々は、気仙沼の津波と火災の被害が大きかった気仙沼漁港に隣接する鹿折地区へ向かう。大地震から3週間。自衛隊により、人が入る道は出来ていたが、それでも海辺までは道路が出来ておらず、行くことは出来なかった。

車、建物、電柱、船等が、一緒くたになって、めっちゃくちゃになって、焼けこげていた。

陸橋がこげていた。駅が焼けていた。駅に車が刺さっていた。大きな漁船が、街中にあった。家が逆さまになっていた。街の一部が液状化により、海になっていた。

街がたった1時間程で壊滅する。現地に行けば、壊滅する前の街の姿を、そして津波が来たときの街の光景を想像出来るかと思っていたが、不可能だった。想像の範疇を越えていた。自然の脅威。言葉は出ない。脳裏に一つずつ刻み込まれる。

佐々木亘のお兄さんとお母さんに会う。お兄さんは、「津波の時、300人のスタッフと3階立ての市場社屋の屋上にいた。12メートル程の津波が、自分がいる市場に3度、4度と打ちつけるのを見るしかなかった。波が後1メートル高ければ、助からなかっただろう。けれど、それほどパニックにはならず、皆がじっと覚悟を決めていたように思う。その後、重油が街に広がり、火の海が、街を焼いてしまった。」と言われた。

気仙沼は、漁業の街である。港が壊滅したこと。そしてその復旧には、何十年もかかること。しかも復旧しようにも、原発の事故で、漁業を再開出来るかどうかも分からない状態。「もうすぐ鰹が南から上がってくるときなのに」と悔しそうに伝えてくれた。

お二人に見送られ、東浜街道を通って唐桑町の佐々木亘の友人、熊谷もん氏と娘の羊(よう)さんの家へ。ミュージシャン一家で、オーガナイズ等も引き受け、埋火の見汐麻衣や、あふりらんぽのぴかちゅう等が、この一家が持つ半造レストハウスというスタジオ(兼レストハウス)で1月にライブをした。

ソーラーを拾ってきて改造して使えるようにしたと嬉しそうに語るもん氏と、「タバコが全然なくて...」と語る羊さん。もん氏が作った「愛の放射能」なんて曲をかけながら、唐桑町の状況を伝えてくれた。気仙沼程の大きな港はないけれど、唐桑の小さな浜辺達は、同じくどれも津波で破壊されてしまったとのこと。まだ海からは、大地震の日と同じようなうなり声が聞こえる事。そして、陸前高田市は、気仙沼よりもひどい状況であると教えてもらう。

彼らが住む街は、田舎町の更に田舎。話し込むうちに夜になり、辺りは真っ暗に。地震があった日の夜は、どんなに怖かったことだろうか。

もん氏に「7月に星まつりがあるから、戻って来な!」と言われる。「ありがとう」と言うも、それまでに、気仙沼や唐桑がどれほど回復しているのかは想像出来ない。でも、星まつりができるほど元気になっていてほしいと願わずにはいられない。

6時間かけて東京へ戻る。滞在時間は、10時間程。たったそれだけの時間で見た光景は、TVで何度も見た光景と同じだけれど、同じではない。確かに、そこには人がいて、生活していた。そして今も生活しているし、生活を取り戻そうとしている。

百聞は一見に如かず。何かやりたいと思う人は、被災地を見に行って欲しい。救援物資を届けて、被災地を見る。そして、住む街に戻って伝える。被災地への配慮はもちろん必要だけれど、そんな行動が何度も繰り返されることによって、復興が早くなる。今そう確信している。

※今回、たった3日で段ボール10箱もの野菜を集めてくれた、『ギブミーベジタブル』のスタッフの皆様。そして野菜を届けてくれたお客さん。そのイベントの原動力にもなった「日本の森バイオマスネットワーク」の大場隆博氏。急遽車を手配してくれた下野川丈史氏。また我々を温かく迎えてくれた、気仙沼と唐桑町の皆様に感謝をこめて。

飯田仁一郎(OTOTOY / Limited Express (has gone?) / BOROFESTA)

東日本大地震救済支援コンピレーション『Play for Japan』

OTOTOYが企画した東日本大地震救済支援コンピレーション・アルバム『Play for Japan』シリーズ。「日本のために演奏する」という思いのもと、180組以上のアーティストにご協力頂き、全10アルバムが完成しました。本作の販売に当たっては、クレジット決済手数料約5%と、著作権管理事業者へ登録済の楽曲に関しては、著作権料約7.7%を除いた全ての売り上げを、東日本大地震の義援金として、日本赤十字社を通じて寄付致します。ミュージシャン、デザイナー、ライター、エンジニア、編集部... 皆が出来る事を精一杯行ってエネルギーとお金を生み、それらが少しでも被災した皆さんの助けになれば幸いです。

『Play for Japan Vol.1-6』『Play for Japan Vol.7-10』まとめ版

『Play for JapanVol.1〜10』

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