| Title | Duration | Price | ||
|---|---|---|---|---|
| 1 |
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Missing Link alac,flac,wav,aac: 16bit/44.1kHz | 02:09 | |
| 2 |
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SPARTA alac,flac,wav,aac: 16bit/44.1kHz | 03:27 | |
| 3 |
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OVERLOAD Voyager alac,flac,wav,aac: 16bit/44.1kHz | 04:49 | |
| 4 |
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Moonlit Metrics alac,flac,wav,aac: 16bit/44.1kHz | 03:17 | |
| 5 |
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MONOEYE alac,flac,wav,aac: 16bit/44.1kHz | 04:15 | |
| 6 |
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Sanity Checks alac,flac,wav,aac: 16bit/44.1kHz | 03:10 |
”新しい音楽を作る”というのが至上命題になったのは去年の冬、2023年の12月のことだった。 音楽の生成AIがそれなりのものを作れるレベルまで進化してきたのだ。音楽そのものや音楽を取り巻く文化がそれにとって代わる、という話をしたいのではない。むしろ音楽ビジネス的に考えても文化的に考えても、誰かが作為的にAIを使わなければ、少なくとも10年は人間が人間としてアーティストでいられるだろう。 だが音楽を作る意義は変化すると考えている。生成AIが作る音楽は、現時点ではまだBGM用途か一発ギャグぐらいにしか使えないが、それでも単に曲としてみたら割と良い曲・良いメロディがポンポン出てくるのだ。AIは統計学的な仕組みで物を生成するため皆が好むもの、つまりマクロで見た時の”良い物”を作り出すのは得意なのである。
一言で表すと「自分が作りたい音楽で、自分より上手に作れるやつがいるのは百歩譲って許せるが、その相手が機械となると許せん」になる。誰しもそうとは限らないが少なくとも僕にとってはそう。ちなみに人間に負けるのは百歩譲って許すと慣用句的にそう書いてしまったが、それは嘘で「人間も許さないが機械はもっと許さん」というのが正しい。 こと芸術方面では精神論で片付けられてしまいがちだが、例えば人類がどれだけ努力を重ねたところで自動車の速度を上回ることができないように、音楽でも人間はいずれ機械に敵わなくなってしまうだろう。 極端に単純化して考えてみよう。AIと人間が1時間の中でどちらが多く曲を作ることができるか?これに関しては反論の余地なく機械の勝ちだろう。では決められたコード進行の中でどちらが良いメロディを作るか?これに関しても判断する側が人間である限り、良いと選択されてきたものを基に統計的に作れてしまうAI側に分があるんじゃないだろうか。
「人間は機械に勝てないので音楽を作るのをやめましょう」ということを言いたいのではない。というかむしろAIの登場によって、人間が物を作る本質のようなものが浮き彫りになったのではないかと考えている。 思い出してほしい。ロックが生まれた時、その歪んだギターの汚い音や激しい演奏がカッコいいという価値観が、それまでに存在したかを。ヒップホップでもファンクでもなんでもいい。人間はこれまでに”良い”とされてきたものとはまた別軸の”良い”、つまりこれまでに無かった価値観を作ってきた。そしてAIは統計的に今までに存在した価値観の中でよりベターなものを作れるかもしれないが、思考もバックグラウンドも情熱も実態もヒューマンエラーも、それらを持たないAIには新しい価値観というものは生み出せないのだ。今までに無かったものが「良いか悪いか、カッコいいかカッコよく無いか」を決められるのは受け取り手が人間である限り、人間にしか判断できないものなので、つまり新しい価値観を作れるのは人間だけということだ。 人間がモノを作るということの本質はそこにあって、皮肉にもそれが機械によって自覚させられたのである。
我々BUXUSは今、そのような”新しい価値観を持った音楽”を作ることを目標として活動している。その背景はAIの件(くだり)が半分ともう半分が、冒頭の生まれつきの人と違うことへの執着である。だがとにかく新しい物を目指し続けている限り、AIは競争相手でも敵でもないし、これからの時代に意義を持ってモノを作るにはこの方法しかないと考えている。 だがチェスでいきなりキングを取れないように、最初の一歩目からその辺境まで辿り着くことはできなかった。そこで我々は何段階かのプロセスを踏んで、その終着点まで至ろうと考えた。そしてその一歩目のテーマであり、成果がこのEP、Languizeである。
Languizeは造語なので辞書を引いても意味は出てこないが、意味は”言語化”である。 なぜ言語化がテーマなのか。いくつかの細かいテーマがあって、それらに共通したのが言語化だったからだ。 まず一つ目はバンドとして活動していく上で、単純に言語化が重要、というか役に立つといったところからだ。 バンド内で「自分にとって”ソロをとる”とはなにか?」というお題で話したことがある。僕はソロは演説だと思っていて、言葉を使って人を取りまとめるようなイメージだ。なのでソロは某独裁者のように最初はボソボソ喋って注目を惹いて最後は怒鳴りまくるようなのが好きだ。 だが話してみると思ったよりみんな違うイメージを持っていて、例えばデニスなんかは「誰もいなくなった学校の廊下で一人になった時に、思いっきり走り回って自分を解放する」イメージらしい。デニスのソロは確かに言われてみるとそんな感じだ。縛りから外れて自分の思うがままに何かを発散している。 こうやって言葉にすると演奏が凄くよくなるのだ。例えば僕のソロは演説なので周りのみんなにはどんどん盛り上げていって欲しいし、逆にデニスのソロの際にちょっかいを出すのは野暮だろう。
他には新しいものを目指すにあたって、言葉での綿密なコミュニケーションが必要だったというのも理由の一つだ。 僕は「日常生活で使う言葉の大半は鳴き声と一緒」としきりにいうのだが、例えば「ん(醤油とって)」みたいなのでも伝わるし、友達に全てのコミュニケーションを「押忍」だけで押し通してくるやつがいるが、大体意味は通る。日本人が好きなフレーズだと「すみません」が挙がるだろう。「すみません(ごめんなさい)」「すみません(ありがとうございます)」なんていう初級編から「すみません(詰めてもらえますか?)」「すみません(チケットの整理番号何番ですか?)」などといった上級編まである。これはつまりシチュエーションにすでに意味があるので、言葉としての情報がいらないのだ。「押忍」が「ワン!」になっても「すみません」がニャーになっても通じるのである。やはりそういった使い方をされる言葉は、人間といった動物の鳴き声だと思う。 だが話が混み合ってくると「すみません」では済まなくなってくる。何かの計画を立てる時だったり、あなたが今読んでいるこの文章だってそうだろう。言葉の上でしか存在しない”仮定”を基に何かを組み立てていく時には必ず言葉でのやりとりが必要になってくる。仮定とはつまり、まだ起きていない未来のことだ。人間はまだ起きていない未来のことを共有するためには必ず言葉が必要になる。 道なき道を行く時に”お約束”なんてものはないというか、既にある”お約束”を避けるか、新しい”お約束”を作っていきたい我々にとっては言語化というプロセスは避けては通れなかったのである。
最後の一つは、音楽とは言語の一種なんじゃないかという僕の持論からだ。言語学の理論の一つに生成文法というものがあって、簡潔に説明すると人間は後天的に言語を獲得するのではなく、生まれつき普遍文法という言語の芽のようなものを持っていて、それを発達させることによって言葉を喋れるようになるという説だ。 この説によると日本語も英語もヤーガン語も人間が話す言語の全ては、人間が元々持っている言語の方言に過ぎないという。 音楽もメロディ、リズム、ハーモニー、その全てのルーツがコミニュケーションから来ているので、音楽も方言の一つなんじゃ無いかというのが僕の持論である。その「音楽=言語」という考えに、言語化という言葉が暗に含んでいる「当てはまる言葉がない、これまでに言葉にされなかったものを言葉で表す」というニュアンスを重ねると、今までになかったものを作るという自分たちの目標を表すことができるので僕はそのロマンを支持したい。
そしてお気づきだと思うがこれ自体も言語化の一環である。 ミュージシャンが曲について語りすぎると想像の余地を奪ってしまうので野暮だ、という意見はよく見かけるが逆に説明があることでしか得られない体験もあると思う。音楽の聴き方には様々な種類がある。歌詞の風景に自分を重ねるような聴き方、音を細かく分析するような聴き方、音に体を委ねて浴びるような聴き方…。 そしてこれがみなさんの新しい音楽体験になれば幸いである。
Digital Catalog
これまでインストゥルメンタル・ジャムバンドとして高い評価を得てきたBUXUSが、新たな一歩を踏み出す。ついにボーカル曲を解禁し、フロントに立つのはドラムのデニス。ウガンダと日本のハーフである彼は、アフリカのルーツに根ざした力強い歌声と、ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーとしての確かな発音・言葉選びで、これまでの活動領域を日本国内から一気に世界へと広げる。本作「Gray All Over」は、完全セルフプロデュース&セルフレコーディングによって制作され、彼自身のアイデンティティと、タイトルが示す“世界のグレーさ”をどう受け止めるかというテーマを、真摯かつエネルギッシュに歌い上げている。
これまでインストゥルメンタル・ジャムバンドとして高い評価を得てきたBUXUSが、新たな一歩を踏み出す。ついにボーカル曲を解禁し、フロントに立つのはドラムのデニス。ウガンダと日本のハーフである彼は、アフリカのルーツに根ざした力強い歌声と、ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーとしての確かな発音・言葉選びで、これまでの活動領域を日本国内から一気に世界へと広げる。本作「Gray All Over」は、完全セルフプロデュース&セルフレコーディングによって制作され、彼自身のアイデンティティと、タイトルが示す“世界のグレーさ”をどう受け止めるかというテーマを、真摯かつエネルギッシュに歌い上げている。
”新しい音楽を作る”というのが至上命題になったのは去年の冬、2023年の12月のことだった。 音楽の生成AIがそれなりのものを作れるレベルまで進化してきたのだ。音楽そのものや音楽を取り巻く文化がそれにとって代わる、という話をしたいのではない。むしろ音楽ビジネス的に考えても文化的に考えても、誰かが作為的にAIを使わなければ、少なくとも10年は人間が人間としてアーティストでいられるだろう。 だが音楽を作る意義は変化すると考えている。生成AIが作る音楽は、現時点ではまだBGM用途か一発ギャグぐらいにしか使えないが、それでも単に曲としてみたら割と良い曲・良いメロディがポンポン出てくるのだ。AIは統計学的な仕組みで物を生成するため皆が好むもの、つまりマクロで見た時の”良い物”を作り出すのは得意なのである。 一言で表すと「自分が作りたい音楽で、自分より上手に作れるやつがいるのは百歩譲って許せるが、その相手が機械となると許せん」になる。誰しもそうとは限らないが少なくとも僕にとってはそう。ちなみに人間に負けるのは百歩譲って許すと慣用句的にそう書いてしまったが、それは嘘で「人間も許さないが機械はもっと許さん」というのが正しい。 こと芸術方面では精神論で片付けられてしまいがちだが、例えば人類がどれだけ努力を重ねたところで自動車の速度を上回ることができないように、音楽でも人間はいずれ機械に敵わなくなってしまうだろう。 極端に単純化して考えてみよう。AIと人間が1時間の中でどちらが多く曲を作ることができるか?これに関しては反論の余地なく機械の勝ちだろう。では決められたコード進行の中でどちらが良いメロディを作るか?これに関しても判断する側が人間である限り、良いと選択されてきたものを基に統計的に作れてしまうAI側に分があるんじゃないだろうか。 「人間は機械に勝てないので音楽を作るのをやめましょう」ということを言いたいのではない。というかむしろAIの登場によって、人間が物を作る本質のようなものが浮き彫りになったのではないかと考えている。 思い出してほしい。ロックが生まれた時、その歪んだギターの汚い音や激しい演奏がカッコいいという価値観が、それまでに存在したかを。ヒップホップでもファンクでもなんでもいい。人間はこれまでに”良い”とされてきたものとはまた別軸の”良い”、つまりこれまでに無かった価値観を作ってきた。そしてAIは統計的に今までに存在した価値観の中でよりベターなものを作れるかもしれないが、思考もバックグラウンドも情熱も実態もヒューマンエラーも、それらを持たないAIには新しい価値観というものは生み出せないのだ。今までに無かったものが「良いか悪いか、カッコいいかカッコよく無いか」を決められるのは受け取り手が人間である限り、人間にしか判断できないものなので、つまり新しい価値観を作れるのは人間だけということだ。 人間がモノを作るということの本質はそこにあって、皮肉にもそれが機械によって自覚させられたのである。 我々BUXUSは今、そのような”新しい価値観を持った音楽”を作ることを目標として活動している。その背景はAIの件(くだり)が半分ともう半分が、冒頭の生まれつきの人と違うことへの執着である。だがとにかく新しい物を目指し続けている限り、AIは競争相手でも敵でもないし、これからの時代に意義を持ってモノを作るにはこの方法しかないと考えている。 だがチェスでいきなりキングを取れないように、最初の一歩目からその辺境まで辿り着くことはできなかった。そこで我々は何段階かのプロセスを踏んで、その終着点まで至ろうと考えた。そしてその一歩目のテーマであり、成果がこのEP、Languizeである。 Languizeは造語なので辞書を引いても意味は出てこないが、意味は”言語化”である。 なぜ言語化がテーマなのか。いくつかの細かいテーマがあって、それらに共通したのが言語化だったからだ。 まず一つ目はバンドとして活動していく上で、単純に言語化が重要、というか役に立つといったところからだ。 バンド内で「自分にとって”ソロをとる”とはなにか?」というお題で話したことがある。僕はソロは演説だと思っていて、言葉を使って人を取りまとめるようなイメージだ。なのでソロは某独裁者のように最初はボソボソ喋って注目を惹いて最後は怒鳴りまくるようなのが好きだ。 だが話してみると思ったよりみんな違うイメージを持っていて、例えばデニスなんかは「誰もいなくなった学校の廊下で一人になった時に、思いっきり走り回って自分を解放する」イメージらしい。デニスのソロは確かに言われてみるとそんな感じだ。縛りから外れて自分の思うがままに何かを発散している。 こうやって言葉にすると演奏が凄くよくなるのだ。例えば僕のソロは演説なので周りのみんなにはどんどん盛り上げていって欲しいし、逆にデニスのソロの際にちょっかいを出すのは野暮だろう。 他には新しいものを目指すにあたって、言葉での綿密なコミュニケーションが必要だったというのも理由の一つだ。 僕は「日常生活で使う言葉の大半は鳴き声と一緒」としきりにいうのだが、例えば「ん(醤油とって)」みたいなのでも伝わるし、友達に全てのコミュニケーションを「押忍」だけで押し通してくるやつがいるが、大体意味は通る。日本人が好きなフレーズだと「すみません」が挙がるだろう。「すみません(ごめんなさい)」「すみません(ありがとうございます)」なんていう初級編から「すみません(詰めてもらえますか?)」「すみません(チケットの整理番号何番ですか?)」などといった上級編まである。これはつまりシチュエーションにすでに意味があるので、言葉としての情報がいらないのだ。「押忍」が「ワン!」になっても「すみません」がニャーになっても通じるのである。やはりそういった使い方をされる言葉は、人間といった動物の鳴き声だと思う。 だが話が混み合ってくると「すみません」では済まなくなってくる。何かの計画を立てる時だったり、あなたが今読んでいるこの文章だってそうだろう。言葉の上でしか存在しない”仮定”を基に何かを組み立てていく時には必ず言葉でのやりとりが必要になってくる。仮定とはつまり、まだ起きていない未来のことだ。人間はまだ起きていない未来のことを共有するためには必ず言葉が必要になる。 道なき道を行く時に”お約束”なんてものはないというか、既にある”お約束”を避けるか、新しい”お約束”を作っていきたい我々にとっては言語化というプロセスは避けては通れなかったのである。 最後の一つは、音楽とは言語の一種なんじゃないかという僕の持論からだ。言語学の理論の一つに生成文法というものがあって、簡潔に説明すると人間は後天的に言語を獲得するのではなく、生まれつき普遍文法という言語の芽のようなものを持っていて、それを発達させることによって言葉を喋れるようになるという説だ。 この説によると日本語も英語もヤーガン語も人間が話す言語の全ては、人間が元々持っている言語の方言に過ぎないという。 音楽もメロディ、リズム、ハーモニー、その全てのルーツがコミニュケーションから来ているので、音楽も方言の一つなんじゃ無いかというのが僕の持論である。その「音楽=言語」という考えに、言語化という言葉が暗に含んでいる「当てはまる言葉がない、これまでに言葉にされなかったものを言葉で表す」というニュアンスを重ねると、今までになかったものを作るという自分たちの目標を表すことができるので僕はそのロマンを支持したい。 そしてお気づきだと思うがこれ自体も言語化の一環である。 ミュージシャンが曲について語りすぎると想像の余地を奪ってしまうので野暮だ、という意見はよく見かけるが逆に説明があることでしか得られない体験もあると思う。音楽の聴き方には様々な種類がある。歌詞の風景に自分を重ねるような聴き方、音を細かく分析するような聴き方、音に体を委ねて浴びるような聴き方…。 そしてこれがみなさんの新しい音楽体験になれば幸いである。
”新しい音楽を作る”というのが至上命題になったのは去年の冬、2023年の12月のことだった。 音楽の生成AIがそれなりのものを作れるレベルまで進化してきたのだ。音楽そのものや音楽を取り巻く文化がそれにとって代わる、という話をしたいのではない。むしろ音楽ビジネス的に考えても文化的に考えても、誰かが作為的にAIを使わなければ、少なくとも10年は人間が人間としてアーティストでいられるだろう。 だが音楽を作る意義は変化すると考えている。生成AIが作る音楽は、現時点ではまだBGM用途か一発ギャグぐらいにしか使えないが、それでも単に曲としてみたら割と良い曲・良いメロディがポンポン出てくるのだ。AIは統計学的な仕組みで物を生成するため皆が好むもの、つまりマクロで見た時の”良い物”を作り出すのは得意なのである。 一言で表すと「自分が作りたい音楽で、自分より上手に作れるやつがいるのは百歩譲って許せるが、その相手が機械となると許せん」になる。誰しもそうとは限らないが少なくとも僕にとってはそう。ちなみに人間に負けるのは百歩譲って許すと慣用句的にそう書いてしまったが、それは嘘で「人間も許さないが機械はもっと許さん」というのが正しい。 こと芸術方面では精神論で片付けられてしまいがちだが、例えば人類がどれだけ努力を重ねたところで自動車の速度を上回ることができないように、音楽でも人間はいずれ機械に敵わなくなってしまうだろう。 極端に単純化して考えてみよう。AIと人間が1時間の中でどちらが多く曲を作ることができるか?これに関しては反論の余地なく機械の勝ちだろう。では決められたコード進行の中でどちらが良いメロディを作るか?これに関しても判断する側が人間である限り、良いと選択されてきたものを基に統計的に作れてしまうAI側に分があるんじゃないだろうか。 「人間は機械に勝てないので音楽を作るのをやめましょう」ということを言いたいのではない。というかむしろAIの登場によって、人間が物を作る本質のようなものが浮き彫りになったのではないかと考えている。 思い出してほしい。ロックが生まれた時、その歪んだギターの汚い音や激しい演奏がカッコいいという価値観が、それまでに存在したかを。ヒップホップでもファンクでもなんでもいい。人間はこれまでに”良い”とされてきたものとはまた別軸の”良い”、つまりこれまでに無かった価値観を作ってきた。そしてAIは統計的に今までに存在した価値観の中でよりベターなものを作れるかもしれないが、思考もバックグラウンドも情熱も実態もヒューマンエラーも、それらを持たないAIには新しい価値観というものは生み出せないのだ。今までに無かったものが「良いか悪いか、カッコいいかカッコよく無いか」を決められるのは受け取り手が人間である限り、人間にしか判断できないものなので、つまり新しい価値観を作れるのは人間だけということだ。 人間がモノを作るということの本質はそこにあって、皮肉にもそれが機械によって自覚させられたのである。 我々BUXUSは今、そのような”新しい価値観を持った音楽”を作ることを目標として活動している。その背景はAIの件(くだり)が半分ともう半分が、冒頭の生まれつきの人と違うことへの執着である。だがとにかく新しい物を目指し続けている限り、AIは競争相手でも敵でもないし、これからの時代に意義を持ってモノを作るにはこの方法しかないと考えている。 だがチェスでいきなりキングを取れないように、最初の一歩目からその辺境まで辿り着くことはできなかった。そこで我々は何段階かのプロセスを踏んで、その終着点まで至ろうと考えた。そしてその一歩目のテーマであり、成果がこのEP、Languizeである。 Languizeは造語なので辞書を引いても意味は出てこないが、意味は”言語化”である。 なぜ言語化がテーマなのか。いくつかの細かいテーマがあって、それらに共通したのが言語化だったからだ。 まず一つ目はバンドとして活動していく上で、単純に言語化が重要、というか役に立つといったところからだ。 バンド内で「自分にとって”ソロをとる”とはなにか?」というお題で話したことがある。僕はソロは演説だと思っていて、言葉を使って人を取りまとめるようなイメージだ。なのでソロは某独裁者のように最初はボソボソ喋って注目を惹いて最後は怒鳴りまくるようなのが好きだ。 だが話してみると思ったよりみんな違うイメージを持っていて、例えばデニスなんかは「誰もいなくなった学校の廊下で一人になった時に、思いっきり走り回って自分を解放する」イメージらしい。デニスのソロは確かに言われてみるとそんな感じだ。縛りから外れて自分の思うがままに何かを発散している。 こうやって言葉にすると演奏が凄くよくなるのだ。例えば僕のソロは演説なので周りのみんなにはどんどん盛り上げていって欲しいし、逆にデニスのソロの際にちょっかいを出すのは野暮だろう。 他には新しいものを目指すにあたって、言葉での綿密なコミュニケーションが必要だったというのも理由の一つだ。 僕は「日常生活で使う言葉の大半は鳴き声と一緒」としきりにいうのだが、例えば「ん(醤油とって)」みたいなのでも伝わるし、友達に全てのコミュニケーションを「押忍」だけで押し通してくるやつがいるが、大体意味は通る。日本人が好きなフレーズだと「すみません」が挙がるだろう。「すみません(ごめんなさい)」「すみません(ありがとうございます)」なんていう初級編から「すみません(詰めてもらえますか?)」「すみません(チケットの整理番号何番ですか?)」などといった上級編まである。これはつまりシチュエーションにすでに意味があるので、言葉としての情報がいらないのだ。「押忍」が「ワン!」になっても「すみません」がニャーになっても通じるのである。やはりそういった使い方をされる言葉は、人間といった動物の鳴き声だと思う。 だが話が混み合ってくると「すみません」では済まなくなってくる。何かの計画を立てる時だったり、あなたが今読んでいるこの文章だってそうだろう。言葉の上でしか存在しない”仮定”を基に何かを組み立てていく時には必ず言葉でのやりとりが必要になってくる。仮定とはつまり、まだ起きていない未来のことだ。人間はまだ起きていない未来のことを共有するためには必ず言葉が必要になる。 道なき道を行く時に”お約束”なんてものはないというか、既にある”お約束”を避けるか、新しい”お約束”を作っていきたい我々にとっては言語化というプロセスは避けては通れなかったのである。 最後の一つは、音楽とは言語の一種なんじゃないかという僕の持論からだ。言語学の理論の一つに生成文法というものがあって、簡潔に説明すると人間は後天的に言語を獲得するのではなく、生まれつき普遍文法という言語の芽のようなものを持っていて、それを発達させることによって言葉を喋れるようになるという説だ。 この説によると日本語も英語もヤーガン語も人間が話す言語の全ては、人間が元々持っている言語の方言に過ぎないという。 音楽もメロディ、リズム、ハーモニー、その全てのルーツがコミニュケーションから来ているので、音楽も方言の一つなんじゃ無いかというのが僕の持論である。その「音楽=言語」という考えに、言語化という言葉が暗に含んでいる「当てはまる言葉がない、これまでに言葉にされなかったものを言葉で表す」というニュアンスを重ねると、今までになかったものを作るという自分たちの目標を表すことができるので僕はそのロマンを支持したい。 そしてお気づきだと思うがこれ自体も言語化の一環である。 ミュージシャンが曲について語りすぎると想像の余地を奪ってしまうので野暮だ、という意見はよく見かけるが逆に説明があることでしか得られない体験もあると思う。音楽の聴き方には様々な種類がある。歌詞の風景に自分を重ねるような聴き方、音を細かく分析するような聴き方、音に体を委ねて浴びるような聴き方…。 そしてこれがみなさんの新しい音楽体験になれば幸いである。
YouTubeチャンネル登録者23万人を誇るソロギタリスト「Toshiki Soejima」と名古屋のストリートシーンのトップに君臨する「BUXUS」の異色のコラボレーション。ギターインストの可能性を追求したオルタナティブな3曲をライブ演奏にて収録した意欲作。
YouTubeチャンネル登録者23万人を誇るソロギタリスト「Toshiki Soejima」と名古屋のストリートシーンのトップに君臨する「BUXUS」の異色のコラボレーション。ギターインストの可能性を追求したオルタナティブな3曲をライブ演奏にて収録した意欲作。
YouTubeチャンネル登録者20万人を誇るソロギタリスト「Toshiki Soejima」と名古屋のストリートシーンにおいて確かな存在感を示す「BUXUS」のコラボレーション楽曲。ギターインストの可能性を追求したオルタナティブな1曲。
YouTubeチャンネル登録者20万人を誇るソロギタリスト「Toshiki Soejima」と名古屋のストリートシーンにおいて確かな存在感を示す「BUXUS」のコラボレーション楽曲。ギターインストの可能性を追求したオルタナティブな1曲。
Digital Catalog
これまでインストゥルメンタル・ジャムバンドとして高い評価を得てきたBUXUSが、新たな一歩を踏み出す。ついにボーカル曲を解禁し、フロントに立つのはドラムのデニス。ウガンダと日本のハーフである彼は、アフリカのルーツに根ざした力強い歌声と、ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーとしての確かな発音・言葉選びで、これまでの活動領域を日本国内から一気に世界へと広げる。本作「Gray All Over」は、完全セルフプロデュース&セルフレコーディングによって制作され、彼自身のアイデンティティと、タイトルが示す“世界のグレーさ”をどう受け止めるかというテーマを、真摯かつエネルギッシュに歌い上げている。
これまでインストゥルメンタル・ジャムバンドとして高い評価を得てきたBUXUSが、新たな一歩を踏み出す。ついにボーカル曲を解禁し、フロントに立つのはドラムのデニス。ウガンダと日本のハーフである彼は、アフリカのルーツに根ざした力強い歌声と、ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーとしての確かな発音・言葉選びで、これまでの活動領域を日本国内から一気に世界へと広げる。本作「Gray All Over」は、完全セルフプロデュース&セルフレコーディングによって制作され、彼自身のアイデンティティと、タイトルが示す“世界のグレーさ”をどう受け止めるかというテーマを、真摯かつエネルギッシュに歌い上げている。
”新しい音楽を作る”というのが至上命題になったのは去年の冬、2023年の12月のことだった。 音楽の生成AIがそれなりのものを作れるレベルまで進化してきたのだ。音楽そのものや音楽を取り巻く文化がそれにとって代わる、という話をしたいのではない。むしろ音楽ビジネス的に考えても文化的に考えても、誰かが作為的にAIを使わなければ、少なくとも10年は人間が人間としてアーティストでいられるだろう。 だが音楽を作る意義は変化すると考えている。生成AIが作る音楽は、現時点ではまだBGM用途か一発ギャグぐらいにしか使えないが、それでも単に曲としてみたら割と良い曲・良いメロディがポンポン出てくるのだ。AIは統計学的な仕組みで物を生成するため皆が好むもの、つまりマクロで見た時の”良い物”を作り出すのは得意なのである。 一言で表すと「自分が作りたい音楽で、自分より上手に作れるやつがいるのは百歩譲って許せるが、その相手が機械となると許せん」になる。誰しもそうとは限らないが少なくとも僕にとってはそう。ちなみに人間に負けるのは百歩譲って許すと慣用句的にそう書いてしまったが、それは嘘で「人間も許さないが機械はもっと許さん」というのが正しい。 こと芸術方面では精神論で片付けられてしまいがちだが、例えば人類がどれだけ努力を重ねたところで自動車の速度を上回ることができないように、音楽でも人間はいずれ機械に敵わなくなってしまうだろう。 極端に単純化して考えてみよう。AIと人間が1時間の中でどちらが多く曲を作ることができるか?これに関しては反論の余地なく機械の勝ちだろう。では決められたコード進行の中でどちらが良いメロディを作るか?これに関しても判断する側が人間である限り、良いと選択されてきたものを基に統計的に作れてしまうAI側に分があるんじゃないだろうか。 「人間は機械に勝てないので音楽を作るのをやめましょう」ということを言いたいのではない。というかむしろAIの登場によって、人間が物を作る本質のようなものが浮き彫りになったのではないかと考えている。 思い出してほしい。ロックが生まれた時、その歪んだギターの汚い音や激しい演奏がカッコいいという価値観が、それまでに存在したかを。ヒップホップでもファンクでもなんでもいい。人間はこれまでに”良い”とされてきたものとはまた別軸の”良い”、つまりこれまでに無かった価値観を作ってきた。そしてAIは統計的に今までに存在した価値観の中でよりベターなものを作れるかもしれないが、思考もバックグラウンドも情熱も実態もヒューマンエラーも、それらを持たないAIには新しい価値観というものは生み出せないのだ。今までに無かったものが「良いか悪いか、カッコいいかカッコよく無いか」を決められるのは受け取り手が人間である限り、人間にしか判断できないものなので、つまり新しい価値観を作れるのは人間だけということだ。 人間がモノを作るということの本質はそこにあって、皮肉にもそれが機械によって自覚させられたのである。 我々BUXUSは今、そのような”新しい価値観を持った音楽”を作ることを目標として活動している。その背景はAIの件(くだり)が半分ともう半分が、冒頭の生まれつきの人と違うことへの執着である。だがとにかく新しい物を目指し続けている限り、AIは競争相手でも敵でもないし、これからの時代に意義を持ってモノを作るにはこの方法しかないと考えている。 だがチェスでいきなりキングを取れないように、最初の一歩目からその辺境まで辿り着くことはできなかった。そこで我々は何段階かのプロセスを踏んで、その終着点まで至ろうと考えた。そしてその一歩目のテーマであり、成果がこのEP、Languizeである。 Languizeは造語なので辞書を引いても意味は出てこないが、意味は”言語化”である。 なぜ言語化がテーマなのか。いくつかの細かいテーマがあって、それらに共通したのが言語化だったからだ。 まず一つ目はバンドとして活動していく上で、単純に言語化が重要、というか役に立つといったところからだ。 バンド内で「自分にとって”ソロをとる”とはなにか?」というお題で話したことがある。僕はソロは演説だと思っていて、言葉を使って人を取りまとめるようなイメージだ。なのでソロは某独裁者のように最初はボソボソ喋って注目を惹いて最後は怒鳴りまくるようなのが好きだ。 だが話してみると思ったよりみんな違うイメージを持っていて、例えばデニスなんかは「誰もいなくなった学校の廊下で一人になった時に、思いっきり走り回って自分を解放する」イメージらしい。デニスのソロは確かに言われてみるとそんな感じだ。縛りから外れて自分の思うがままに何かを発散している。 こうやって言葉にすると演奏が凄くよくなるのだ。例えば僕のソロは演説なので周りのみんなにはどんどん盛り上げていって欲しいし、逆にデニスのソロの際にちょっかいを出すのは野暮だろう。 他には新しいものを目指すにあたって、言葉での綿密なコミュニケーションが必要だったというのも理由の一つだ。 僕は「日常生活で使う言葉の大半は鳴き声と一緒」としきりにいうのだが、例えば「ん(醤油とって)」みたいなのでも伝わるし、友達に全てのコミュニケーションを「押忍」だけで押し通してくるやつがいるが、大体意味は通る。日本人が好きなフレーズだと「すみません」が挙がるだろう。「すみません(ごめんなさい)」「すみません(ありがとうございます)」なんていう初級編から「すみません(詰めてもらえますか?)」「すみません(チケットの整理番号何番ですか?)」などといった上級編まである。これはつまりシチュエーションにすでに意味があるので、言葉としての情報がいらないのだ。「押忍」が「ワン!」になっても「すみません」がニャーになっても通じるのである。やはりそういった使い方をされる言葉は、人間といった動物の鳴き声だと思う。 だが話が混み合ってくると「すみません」では済まなくなってくる。何かの計画を立てる時だったり、あなたが今読んでいるこの文章だってそうだろう。言葉の上でしか存在しない”仮定”を基に何かを組み立てていく時には必ず言葉でのやりとりが必要になってくる。仮定とはつまり、まだ起きていない未来のことだ。人間はまだ起きていない未来のことを共有するためには必ず言葉が必要になる。 道なき道を行く時に”お約束”なんてものはないというか、既にある”お約束”を避けるか、新しい”お約束”を作っていきたい我々にとっては言語化というプロセスは避けては通れなかったのである。 最後の一つは、音楽とは言語の一種なんじゃないかという僕の持論からだ。言語学の理論の一つに生成文法というものがあって、簡潔に説明すると人間は後天的に言語を獲得するのではなく、生まれつき普遍文法という言語の芽のようなものを持っていて、それを発達させることによって言葉を喋れるようになるという説だ。 この説によると日本語も英語もヤーガン語も人間が話す言語の全ては、人間が元々持っている言語の方言に過ぎないという。 音楽もメロディ、リズム、ハーモニー、その全てのルーツがコミニュケーションから来ているので、音楽も方言の一つなんじゃ無いかというのが僕の持論である。その「音楽=言語」という考えに、言語化という言葉が暗に含んでいる「当てはまる言葉がない、これまでに言葉にされなかったものを言葉で表す」というニュアンスを重ねると、今までになかったものを作るという自分たちの目標を表すことができるので僕はそのロマンを支持したい。 そしてお気づきだと思うがこれ自体も言語化の一環である。 ミュージシャンが曲について語りすぎると想像の余地を奪ってしまうので野暮だ、という意見はよく見かけるが逆に説明があることでしか得られない体験もあると思う。音楽の聴き方には様々な種類がある。歌詞の風景に自分を重ねるような聴き方、音を細かく分析するような聴き方、音に体を委ねて浴びるような聴き方…。 そしてこれがみなさんの新しい音楽体験になれば幸いである。
”新しい音楽を作る”というのが至上命題になったのは去年の冬、2023年の12月のことだった。 音楽の生成AIがそれなりのものを作れるレベルまで進化してきたのだ。音楽そのものや音楽を取り巻く文化がそれにとって代わる、という話をしたいのではない。むしろ音楽ビジネス的に考えても文化的に考えても、誰かが作為的にAIを使わなければ、少なくとも10年は人間が人間としてアーティストでいられるだろう。 だが音楽を作る意義は変化すると考えている。生成AIが作る音楽は、現時点ではまだBGM用途か一発ギャグぐらいにしか使えないが、それでも単に曲としてみたら割と良い曲・良いメロディがポンポン出てくるのだ。AIは統計学的な仕組みで物を生成するため皆が好むもの、つまりマクロで見た時の”良い物”を作り出すのは得意なのである。 一言で表すと「自分が作りたい音楽で、自分より上手に作れるやつがいるのは百歩譲って許せるが、その相手が機械となると許せん」になる。誰しもそうとは限らないが少なくとも僕にとってはそう。ちなみに人間に負けるのは百歩譲って許すと慣用句的にそう書いてしまったが、それは嘘で「人間も許さないが機械はもっと許さん」というのが正しい。 こと芸術方面では精神論で片付けられてしまいがちだが、例えば人類がどれだけ努力を重ねたところで自動車の速度を上回ることができないように、音楽でも人間はいずれ機械に敵わなくなってしまうだろう。 極端に単純化して考えてみよう。AIと人間が1時間の中でどちらが多く曲を作ることができるか?これに関しては反論の余地なく機械の勝ちだろう。では決められたコード進行の中でどちらが良いメロディを作るか?これに関しても判断する側が人間である限り、良いと選択されてきたものを基に統計的に作れてしまうAI側に分があるんじゃないだろうか。 「人間は機械に勝てないので音楽を作るのをやめましょう」ということを言いたいのではない。というかむしろAIの登場によって、人間が物を作る本質のようなものが浮き彫りになったのではないかと考えている。 思い出してほしい。ロックが生まれた時、その歪んだギターの汚い音や激しい演奏がカッコいいという価値観が、それまでに存在したかを。ヒップホップでもファンクでもなんでもいい。人間はこれまでに”良い”とされてきたものとはまた別軸の”良い”、つまりこれまでに無かった価値観を作ってきた。そしてAIは統計的に今までに存在した価値観の中でよりベターなものを作れるかもしれないが、思考もバックグラウンドも情熱も実態もヒューマンエラーも、それらを持たないAIには新しい価値観というものは生み出せないのだ。今までに無かったものが「良いか悪いか、カッコいいかカッコよく無いか」を決められるのは受け取り手が人間である限り、人間にしか判断できないものなので、つまり新しい価値観を作れるのは人間だけということだ。 人間がモノを作るということの本質はそこにあって、皮肉にもそれが機械によって自覚させられたのである。 我々BUXUSは今、そのような”新しい価値観を持った音楽”を作ることを目標として活動している。その背景はAIの件(くだり)が半分ともう半分が、冒頭の生まれつきの人と違うことへの執着である。だがとにかく新しい物を目指し続けている限り、AIは競争相手でも敵でもないし、これからの時代に意義を持ってモノを作るにはこの方法しかないと考えている。 だがチェスでいきなりキングを取れないように、最初の一歩目からその辺境まで辿り着くことはできなかった。そこで我々は何段階かのプロセスを踏んで、その終着点まで至ろうと考えた。そしてその一歩目のテーマであり、成果がこのEP、Languizeである。 Languizeは造語なので辞書を引いても意味は出てこないが、意味は”言語化”である。 なぜ言語化がテーマなのか。いくつかの細かいテーマがあって、それらに共通したのが言語化だったからだ。 まず一つ目はバンドとして活動していく上で、単純に言語化が重要、というか役に立つといったところからだ。 バンド内で「自分にとって”ソロをとる”とはなにか?」というお題で話したことがある。僕はソロは演説だと思っていて、言葉を使って人を取りまとめるようなイメージだ。なのでソロは某独裁者のように最初はボソボソ喋って注目を惹いて最後は怒鳴りまくるようなのが好きだ。 だが話してみると思ったよりみんな違うイメージを持っていて、例えばデニスなんかは「誰もいなくなった学校の廊下で一人になった時に、思いっきり走り回って自分を解放する」イメージらしい。デニスのソロは確かに言われてみるとそんな感じだ。縛りから外れて自分の思うがままに何かを発散している。 こうやって言葉にすると演奏が凄くよくなるのだ。例えば僕のソロは演説なので周りのみんなにはどんどん盛り上げていって欲しいし、逆にデニスのソロの際にちょっかいを出すのは野暮だろう。 他には新しいものを目指すにあたって、言葉での綿密なコミュニケーションが必要だったというのも理由の一つだ。 僕は「日常生活で使う言葉の大半は鳴き声と一緒」としきりにいうのだが、例えば「ん(醤油とって)」みたいなのでも伝わるし、友達に全てのコミュニケーションを「押忍」だけで押し通してくるやつがいるが、大体意味は通る。日本人が好きなフレーズだと「すみません」が挙がるだろう。「すみません(ごめんなさい)」「すみません(ありがとうございます)」なんていう初級編から「すみません(詰めてもらえますか?)」「すみません(チケットの整理番号何番ですか?)」などといった上級編まである。これはつまりシチュエーションにすでに意味があるので、言葉としての情報がいらないのだ。「押忍」が「ワン!」になっても「すみません」がニャーになっても通じるのである。やはりそういった使い方をされる言葉は、人間といった動物の鳴き声だと思う。 だが話が混み合ってくると「すみません」では済まなくなってくる。何かの計画を立てる時だったり、あなたが今読んでいるこの文章だってそうだろう。言葉の上でしか存在しない”仮定”を基に何かを組み立てていく時には必ず言葉でのやりとりが必要になってくる。仮定とはつまり、まだ起きていない未来のことだ。人間はまだ起きていない未来のことを共有するためには必ず言葉が必要になる。 道なき道を行く時に”お約束”なんてものはないというか、既にある”お約束”を避けるか、新しい”お約束”を作っていきたい我々にとっては言語化というプロセスは避けては通れなかったのである。 最後の一つは、音楽とは言語の一種なんじゃないかという僕の持論からだ。言語学の理論の一つに生成文法というものがあって、簡潔に説明すると人間は後天的に言語を獲得するのではなく、生まれつき普遍文法という言語の芽のようなものを持っていて、それを発達させることによって言葉を喋れるようになるという説だ。 この説によると日本語も英語もヤーガン語も人間が話す言語の全ては、人間が元々持っている言語の方言に過ぎないという。 音楽もメロディ、リズム、ハーモニー、その全てのルーツがコミニュケーションから来ているので、音楽も方言の一つなんじゃ無いかというのが僕の持論である。その「音楽=言語」という考えに、言語化という言葉が暗に含んでいる「当てはまる言葉がない、これまでに言葉にされなかったものを言葉で表す」というニュアンスを重ねると、今までになかったものを作るという自分たちの目標を表すことができるので僕はそのロマンを支持したい。 そしてお気づきだと思うがこれ自体も言語化の一環である。 ミュージシャンが曲について語りすぎると想像の余地を奪ってしまうので野暮だ、という意見はよく見かけるが逆に説明があることでしか得られない体験もあると思う。音楽の聴き方には様々な種類がある。歌詞の風景に自分を重ねるような聴き方、音を細かく分析するような聴き方、音に体を委ねて浴びるような聴き方…。 そしてこれがみなさんの新しい音楽体験になれば幸いである。
YouTubeチャンネル登録者23万人を誇るソロギタリスト「Toshiki Soejima」と名古屋のストリートシーンのトップに君臨する「BUXUS」の異色のコラボレーション。ギターインストの可能性を追求したオルタナティブな3曲をライブ演奏にて収録した意欲作。
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YouTubeチャンネル登録者20万人を誇るソロギタリスト「Toshiki Soejima」と名古屋のストリートシーンにおいて確かな存在感を示す「BUXUS」のコラボレーション楽曲。ギターインストの可能性を追求したオルタナティブな1曲。
YouTubeチャンネル登録者20万人を誇るソロギタリスト「Toshiki Soejima」と名古屋のストリートシーンにおいて確かな存在感を示す「BUXUS」のコラボレーション楽曲。ギターインストの可能性を追求したオルタナティブな1曲。


















