善養寺 惠介

Digital Catalog

一つの区切り目 30代のうちに、自分のレパートリーをCDに残しておこうと思い立ったのが、今から5年前のこと。依頼、今回の3枚目のアルバムを制作して、ようやく当初の目的を完成した想い出ホッとしているが、40歳の誕生日は僅かばかり過ぎてしまった。 5年前の私は少なくとも今よりはずっとメランコリックで、人生を哀しみ、執拗に嘆こうとしていて、それを虚無僧尺八の音楽に託していた。 ところがいつの頃からか、そうしたある意味では「情熱」と言うべきものが、何か大きな空間に吸い込まれて、より暗示的、あるいは黙示的な何かに変容しつつあることを感じ始めたのである。アルバムのタイトルが「鶴の巣籠」から「霧海箎」、そして今回が「虚空」へと移り変わったことが、何よりもそのことを物語っていると思う。 ただ気持ちが希薄になっただけなのかも知れないが、その結果は十数年後の録音で明らかになることだろう。いまさら気恥ずかしい言葉ではあるけれど、この録音が私の青春の一区切りとなったことは、紛れもない自陣であると思っている。(善養寺惠介)

6 tracks

本曲尺八の申し子 善養寺君 彼が。虚無僧研究会に初めて顔を出したのは、まだ青白い高校生の時であった。驚いたことには、その時すでに本曲尺八の一人前の吹き手であった。聞いてみると、小学校へ入学するかしない頃から厳父に本曲のみの稽古を受けて、もう竹歴10年を経ていたのであった。 父・昭三氏は、神如道門下きっての尺八好きで知られ多くの逸話を有する人である。こと尺八に関しては何事も徹底していたのである。遊びに連れて行ってくれると思えば、遊園地や動物園ではなく、尺八の適材を探すためのあちこちの竹林であったり、彼のために師を求めて如道門下の高足で、その時は住所が不明だった岡崎自修師を、関東一円の「岡崎」姓を虱潰しに電話してようやく数百件目に尋ね出たりした。 私は、その話に少なからず感銘を受けた。そして、幕末の偉人、勝海舟とその父小吉の「父子鷹」の話を思い出していた。 洋楽ならいざ知らず、このような稀有な環境で育った本曲一筋の尺八演奏家が、今後出ることはないとさえ思える。 まさに、善養寺惠介君こそは、本曲尺八の申し子である。(虚無僧研究会会長・小菅大徹)

5 tracks

虚無僧尺八と善養寺惠介の芸系について 虚無僧の前進である薦僧は、1400年代の後半、つまり500年余り前に登場した尺八を吹いて乞食をしながら廻国する集団であった。二人で門付けすることが多いことから連管出来るような曲があったものであろう。おれが「恋慕」(後の「鈴慕」「霧海箎」ともいう)ではなかったかと思われる。これと「虚空」「虚鈴」が古傳三曲と呼ばれる。江戸時代中期までに「鶴の巣籠」「三谷」「滝落し」「伊豆」「志津」などの曲が吹かれており、レパートリーが広がっていた。江戸や京大阪では尺八譜が作られたが、その他の地域では用いられることはなかった。まさに曲は竹から竹へと伝えられて、様々な技巧や工夫がなされていったのである。明治に入り、普化宗が廃宗になると、尺八界の主役は三曲合奏へ向かう。その三曲全盛期に神如道(1891~1966)は日本各地に残された尺八曲を積極的に習得し、それを古典本曲としてまとめあげた。神如道がいなければ消えてしまった曲も数多くあったのである。 神如道は青森県弘前市で生まれた。根笹派錦風流の故郷である。折登如月、長野旭影といった名人につき、新谷六朗、森庸三といった先輩にも恵まれ、上京してからは琴古流本曲また外曲にも非凡な才能を発揮した。これに古典本曲が加わった稀有な存在であった。神如道とその門流の尺八の特徴は何と言っても「暗譜」にある。「小曾根(蔵太)門の流人や神如道氏の流を汲む人々が暗譜主義によって一曲ずつその心をつかんで進もうとする練磨の精神が現代大衆尺八の安易主義に対して頂門の一針たることを主張したい。」と言うのは、門人であった木幡吹月である(「尺八古今集」)。 善養寺惠介師の名付け親は神如道である。彼の師は父・昭三、岡崎自修両師だが、両親とも神門下に少なからずいた変わり者の系統であろう。そういう意味ではいい師匠についたと言えよう。指導よろしきを得て何でも暗譜で、幼少の頃より尺八を手にした甲斐あって、中学生にして完成の趣があった。「いい若い者がこんなことでは先が心配だ。」などと思ったものだが、心配をよそに着実に歩みを進めている。このCDを聴いて分かるように、その音、間合いは神如道そのものである。「彷彿とさせる」という言葉はこういうところに使うためにある。(尺八研究家:神田可遊)

6 tracks
TOP