キダケイスケ
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働く人たちのための、生活を歌ったロックナンバーです。 2000年代の日本のロックシーンには煌びやかなポップスシーンへのオルタナティブとして華美よりも粗野、理想よりも現実といった「高い解像度」で現在地を歌う楽曲が多かったように思います。2010年代になってからは、それがより強い感情爆発や初期衝動への憧憬に変質し、現代の享楽主義、冷笑主義の時代へ変遷していったわけですが、今を生きる人々に深い共感をしてもらう為には、また00年代に回帰した表現が必要なのではないかと思ったのが制作の動機でした。 働きたくない、働くとしても適当でいい。自分の手の届く幸せを、効率よく守ることが出来ればいい―― 昨今の世代論ではこのように若者を評論する人たちが増えてきましたが、私は、これらの生活を100%実現出来るほど人間が器用で賢い生き物だとは思えないのです。実際適当に働くにしても、余程の状況でない限り手を抜くのは難しく、却ってストレスになることもあります。効率化を考えて働くことはむしろ推奨されるわけですが、合理性だけで業務遂行や業務改善できるほど、会社という組織、人間社会は単純ではないわけです。私たちはひとりで生きている訳ではありませんし、理性よりも感情やバイオリズムを優先してしまう生き物であるわけですから。 現実にあるのは理想と乖離した怠惰な生活。それでもいっぱいいっぱいで余裕がなくて、今の生活は退屈で好きじゃないけれど、変えてしまう程嫌いでもなく、関心を持つ余裕もない。快と不快の狭間に揺れ動くのが私たちの生活なのではないか、と思うわけです。 そうした数々のコンフリクトは何処で刺さったかわからない棘のようにふとした瞬間に現れて、ぼんやりとした不安は苛立ちという形で表出します。それを希釈するために退屈さに溺れているのが私たちなのです。 現状への不満は、過去の自分による復讐なのではないかと感じる事が多々あります。幼き頃夢みた自分はこうではなかった。あの時頑張っていればこうはならなかった。憧憬とも後悔とも言い難い、目を背けたくなるような時間の連続性こそが「カゲボウシ」なのです。
働く人たちのための、生活を歌ったロックナンバーです。 2000年代の日本のロックシーンには煌びやかなポップスシーンへのオルタナティブとして華美よりも粗野、理想よりも現実といった「高い解像度」で現在地を歌う楽曲が多かったように思います。2010年代になってからは、それがより強い感情爆発や初期衝動への憧憬に変質し、現代の享楽主義、冷笑主義の時代へ変遷していったわけですが、今を生きる人々に深い共感をしてもらう為には、また00年代に回帰した表現が必要なのではないかと思ったのが制作の動機でした。 働きたくない、働くとしても適当でいい。自分の手の届く幸せを、効率よく守ることが出来ればいい―― 昨今の世代論ではこのように若者を評論する人たちが増えてきましたが、私は、これらの生活を100%実現出来るほど人間が器用で賢い生き物だとは思えないのです。実際適当に働くにしても、余程の状況でない限り手を抜くのは難しく、却ってストレスになることもあります。効率化を考えて働くことはむしろ推奨されるわけですが、合理性だけで業務遂行や業務改善できるほど、会社という組織、人間社会は単純ではないわけです。私たちはひとりで生きている訳ではありませんし、理性よりも感情やバイオリズムを優先してしまう生き物であるわけですから。 現実にあるのは理想と乖離した怠惰な生活。それでもいっぱいいっぱいで余裕がなくて、今の生活は退屈で好きじゃないけれど、変えてしまう程嫌いでもなく、関心を持つ余裕もない。快と不快の狭間に揺れ動くのが私たちの生活なのではないか、と思うわけです。 そうした数々のコンフリクトは何処で刺さったかわからない棘のようにふとした瞬間に現れて、ぼんやりとした不安は苛立ちという形で表出します。それを希釈するために退屈さに溺れているのが私たちなのです。 現状への不満は、過去の自分による復讐なのではないかと感じる事が多々あります。幼き頃夢みた自分はこうではなかった。あの時頑張っていればこうはならなかった。憧憬とも後悔とも言い難い、目を背けたくなるような時間の連続性こそが「カゲボウシ」なのです。


![カゲボウシ (feat. 東北きりたん) [DEMO Ver.]](https://imgs.ototoy.jp//imgs/jacket/2894/00000003.1752474928.9462_180.jpg)
![カゲボウシ (feat. 東北きりたん) [DEMO Ver.]](https://imgs.ototoy.jp//imgs/jacket/2894/00000003.1752473693.4286_180.jpg)