ランキン・タクシーがレゲエ・ディージェイとしての活動を始めたのが83年。こだま和文がRUDE FLOWER参加後MUTE BEATを結成したのが82年。日本におけるレゲエのオリジネイターである2人の付き合いは、実に20年以上におよぶ。チェルノブイリ原発事故の直後からアクションを起こしていた2人は、3.11以降の現状をどのように見つめているのか? 80年代のレゲエ・シーン黎明期のエピソードからレゲエに対する思いまでが(酒の勢いも借りながら)縦横無尽に展開される貴重な対談をお届けしよう。
進行 & 文 : 大石始
アナログ盤でしか発表されていなかったフロア・チューンが配信開始
RANKIN TAXI / チンチンピンピン
順調! 快調! 絶好調! RANKIN TAXIの爆裂ヒット・チューン、現場では誰もが知ってる「チンチンピンピン」(CCPP)!! 子供から大人まで大合唱しちゃう「CCPP」! 元気はつらつ! トラブル続出! ダァ~ッ!
RANKIN TAXI / チンチンピンピン (BUZZER BEATS REMIX) feat. サイプレス上野
CCPPがREMIXとなって登場! リミックスを手掛けたのは、HIP HOP、R&B、REGGAE界のプロデュースは数知れず! トラック・メイカー、プロデューサー・チームBUZZER BEATS。そして、フィーチャリングには、サイプレス上野が、世代を飛び越えCCPPをぶちかます! CCPP(BBRemix)が遂に誕生。たちあがれサ上!! たちあがれランキン!! たちあがれ日本!
ここにMUTE BEATが復活!
MUTE BEAT / STILL ECHO
1987年5月、それまでリリースされた12インチ・シングル三部作をまとめた実質的な1stアルバム。Augustus Pabloが参加した「Still Echo」のMelodica Mixはもちろん、今回は新たに 12インチ・アナログ盤でしか発売されていなかった朝本浩文作「Sunny Side Walk」と 増井朗人作「A Stairwell」も追加収録し、黎明期のコンプリート盤となった。全曲デジタル・リマスタリングを施し原音が驚異の復活。
こだま和文×ランキン・タクシー
──お2人が初めて会ったのはいつごろなんですか。
こだま和文(以下、こ) : 僕が最初にランキンを観たのが六本木インクスティックかな。ランキンがまだ会社員だったころ。
ランキン・タクシー(以下、ラ) : サラリーマン・ディージェイって呼ばれてたころだね。
──タクシー・ハイファイ(註)の名前はそれ以前から耳にしてたんですか。
(*タクシー・ハイファイ : ランキン・タクシーが主宰する日本最古のサウンド・システム。)
こ : うん、聞き始めたころじゃないですかね。その前にレゲエ・ディージェイなんて名乗ってるヤツなんていなかったから、そんなヤツがいるんだって観に行ったんだよ。そのころはまだダンスホールのこともよく分かってなかったし、ランキンも背広を着てネクタイしてる感じだったからね。変わった人が出てきたなと思って。
ラ : オレが初めてMUTE BEATを観たのは芝の郵便貯金ホール。82、3年かな。
こ : RUDE FLOWERからMUTE BEATになった直後じゃないかな。でもね、そのころの記憶はなにせおぼろだから… 。
ラ : そのころのことはもうフィクションでいいよ(笑)。YouTubeでヘンな映像とか挙げられるとまいっちゃう。自分でも覚えてなかったりするからね。
こ : 自分のアルバムを見せられてるような感じだよね。昔の映像もあんまり観たくない。
ラ : 自分のこと、大好きなくせに(笑)。
こ : いやいや、今の自分が好きだからね(笑)。
──ランキンさんがMUTE BEATを観たのは、マイクを持つ前のことですか?
ラ : たぶんそうだろうね。サラリーマンをしながらレゲエ遊びを覚えだしたころ。当時はまだきちんと話したことがなくて、頻繁に会うようになったのはトウキョウ・ソイ・ソース(註)のころじゃないかな。 (*トウキョウ・ソイ・ソース : 86年からの数年間、S-KEN、MUTE BEAT、じゃがたら、トマトスというメンツで続けられたイヴェント・シリーズ。)
──直接会う前からお互いに対するシンパシーみたいなものはあったんですか。
ラ : MUTEに対する漠然とした憧れはあったけどね。MUTEを観たときはこれが東京の最先端なんだなって感じがしたし、メンバーみんなお洒落だったから。オレは横浜の田舎モノで、ジャマイカとイギリスの違いも分からないまま(レゲエを)聴いてたような時代だったね。ピテカン(註)にしても敷居が高かったから。でも、それに気づかず遊んでるぐらい田舎モノだったんだろうし、だからこそマイクも持てたんだろうね。ジャマイカで喰らって帰ってきてからは、「レゲエのパワーに比べたら東京なんてなんでもねえや」みたいな気持ちもあったけど。
(*ピテカン : 82年から84年まで原宿で営業していたクラブ、ピテカントロプス・エレクトスのこと。MUTE BEATの活動拠点のひとつでもあった。)
──ランキンさんが初めてジャマイカを訪れたのは83年ですよね。
ラ : そうだね。それからマイクを持ち始めて、徐々におかしなオヤジがいるって広まっていったんだと思う。
こ : 当時は吉祥寺のレゲエのレコード屋(ナッティ・ドレッド/註)でイエローマンのレコードを初めて手にしたような時期だったから、ランキンを観たときは「日本でこんなことやってる人がいるんだ」って驚いたんだよ。新鮮なものだったし、なにせ初めて観たレゲエのディージェイだったからね。そうやって当時はいろんなことが始まりつつあったんだよ。ボブ・マーリーの信奉者のような人たちもいたし、MUTE BEATより先にレゲエのバンドもいたけど、そういうなかにランキンみたいな存在も出てきた。そのころはみんな自意識も強かったから、そんなに仲良くもしなかったし… 。
ラ : 仲が悪かったわけじゃないけどな(笑)。
こ : ランキンとはベタベタと付き合ってきたわけじゃないけど… そのパフォーマンスを観れば、彼がなにをやろうとしていたのかは分かったから。そういう感覚は江戸アケミやOTOにも持ってた。特別に話をしなくても分かるような人が周りにいて、ランキンもそういうひとり。「面白そうなことをやってるヤツがいる」って話を聞くと、みんなそのライヴには遊びいくような感じだったんだよ、当時は。
ラ : まだ夜が強い時代だったからね(笑)。
(*ナッティ・ドレッド : 79年にオープンした、日本初のレゲエ専門レコード店。)
──さっきの話にもありましたが、RUDE FLOWERやランキンさんが活動を始める前の東京は、まだまだボブ・マーリー=レゲエという捉え方が強い時期ですよね。
こ : レゲエって言ったっていろいろあって、みんな一線を画すようなところがあったんだよ。ボブ・マーリー信奉みたいなものもあったし、ランキンみたいな… 。
ラ : チャラチャラしたヤツもいて(笑)。オレ、トゥールズ・バー(註)で回したとき、客から「ボブ・マーリーかけてくれよ」なんて言われてさ。「オレがかけてるのは今のジャマイカの音なんだよ。ボブ・マーリーを聴きたかったから他の店に行ってくれ」なんて応えてた。
こ : この前亡くなったレゲエ・マガジンの元編集長、加藤学さんはブラックホークっていうレゲエ・バーを渋谷でやってたんだけど、熱心なボブ・マーリー・ファンが来てボブばかりリクエストするもんだから、「いい加減帰ってくれ」って言ったこともあったみたいでね。それぞれにハードコアだったんだよ。当時はディスコのDJは知られていても、ダンスホール・ディージェイなんてみんな知らなかったんだから。
ラ : 自分で「レゲエ・ラッパー」って言ってたぐらいだからね。
(*トゥールズ・バー : 85年にオープンした西麻布のクラブ。その後、トロス・ガスと名前を変えていく。)
自分で学ばなきゃいけないこと
──なるほど。で、ここからはこの対談の重要なテーマのひとつでもあるんですが、86年4月にチェルノブイリ原子力発電所の事故があって、当時、お2人ともそれに対するリアクションを起こしましたよね。MUTE BEATの88年作『LOVERS ROCK』には現ウクライナの首都の名を冠した“キエフの空”が収録されてますし、ジャケットは79年に事故を起こしたスリーマイル島原子力発電所が飾っていました。
こ : チェルノブイリのあと、その衝撃が自分のなかにずっと残ってたんですよ。広瀬隆さんが『危険な話』(87年)を出されたとき、それに対するコメントをメディアに出したりもしたし、そういう最中ですよね。それ以前から政治に対するいろんな思いはあったわけだけど、チェルノブイリ以降、より政治や環境に意識的になった。曲名にキエフを持ってくるぐらいのことだったんだよ、チェルノブイリは。
──ランキンさんが「誰にも見えない、匂いもない」の入ったファースト・アルバム『火事だあ』を出したのは89年でした。この曲では<放射能能強い/放射能エライ/誰も差別しない、誰にも負けない>と歌われていますが。
ラ : ま、隙間を狙ったんだと思うよ。単に(原発に対する)アンチを言ってもしょうがないから、差別問題とかけて、「放射能は差別しない」っていうのが一番面白い歌い方かなと思ったんだろうね。そういう言い方でいいんだろうと思ってさ。社会的なトピックを扱ったとしても歌うのは結局自分なわけで、自分を表現してるだけなんだよ。あとは(聞き手に)面白く捉えてもらえれば。
──ただ、当時から原発に対しての問題意識はあったわけですよね?
ラ : うん、普通にあったよ。いろんなところから情報が入ってきたし、広瀬隆さんも読んでた。広瀬さんが書いた『東京に原発を!』(81年)という本があったけど、このタイトルなんていかにも使えそうなネタでしょ? ヒネリがない歌は歌いたくなかったから、要はネタだよね。だって、そんなことを本当に起きてほしくなかったわけじゃない?
こ : あと、80年代の終わりになって、世紀末みたいな意識が自分のなかにあったんだと思う。あんまり使いたくない言葉だけど、トレンド的なものとして。東京で音楽をやっていくうえで、次なるものを常に考えてたんですね。世紀末に向かっていくなかでテンションを上げていた時期ですよ。
──ミレニウムに向けての意識というのはポジティヴなものだったんですか? もしくは不安を含んだもの?
こ : ポジティヴなものだったとは思いますよ。でも、表裏一体なものだったと思う。江戸アケミが死んだり、キース・ヘリングとかバスキアが死んだり… そうそう、エイズの衝撃もあったんですよ。核戦争の不安があって、チェルノブイリがあって、エイズがあって。そういうワケの分からないものが次々に起きた時代だったから。
ラ : そういうことを小学校のうちからみんな習っておけば、日本もこんなに間違った国にはならなかったんだよ。誇り高く生きるためにはどうすればいいか。オレらは50歳を過ぎてそういうことを学び始めたんだから(笑)。もちろん、自分で学ばなきゃいけないことだと思うよ。でも、誰もきちんとは教えてくれなかったんだから。
こ : 世の中について考えるきっかけをくれたのは、やっぱりレゲエなんじゃないですかね。僕なんてさ、日本で一番原発が多い場所に生まれ育っちゃったわけですよ。つまりそれって保守のエリアに決まってるわけで、日本で一番不自由なところで育った。そういう人間がジャマイカのカルチャーを知るっていうのは、ものすごいことなんですよ。それこそ田舎から東京に出てくるよりも大きい。ジャマイカはいつもそれを分かりやすい形で提示してくれたし、そのなかに自由について考えるきっかけもあったんです。
ラ : ジャマイカはね、ちょっとヘンだよ。ヘンだったから良かった。ヘンなレゲエにハマってるヤツが正しい! オレはそう思うね。珍味勢揃いだから(笑)。ボブ・マーリーみたいなヤツしかレゲエをやっちゃいけないんだったら、ワタシは音楽をやってませんから。町のチンピラがスケートボードに乗るのと同じ感覚でマイクを握るわけでね。やっぱりイエローマンあたりで引っかかり始めた。イエローマンって同じフレーズを二回繰り返すけど、これだったら真似しやすいんじゃないかと思って、意味もわからず口真似してましたね。
こ : ランキンは… 80年代のあの時期にレゲエ・ディージェイを名乗っていたわけで、なかなかできないことですよ。
ラ : ハイ、なかなかできないですね、今思うと(笑)。
こ : ちゃんとシステムも作ってたからね。
ラ : うん、作った! まったくバカですね(笑)。
──サウンド・システムを作ることも、ダブ・バンドを始めることも、日本では前例がないものだったわけですよね。
ラ : でもね、それはジャマイカのパワーがあったからこそなんだよね。引き金を引いてくれたジャマイカに感謝ですよ。それを受け止められた当時の自分にも感謝すべきかもしれないけど。
こ : そもそもMUTE BEATは「これ、格好いいからライヴでやろうよ」って思ったわけだけど、それってものすごい勘違いなわけ。だって、ジャマイカにダブ・バンドなんていませんから。バンドのライヴでエンジニアが好き勝手に音をトバすことなんて、ジャマイカじゃありえない。
ラ : ステージ・ショウの時にはちょっとトバすこともあるけど、それで5分も10分もやったりしないよね。
こ : だから、勘違いしてたんだよね。ミュージシャンとしては、レコードにそういう音源が入ってたら再現したくなるわけですよ。
──ただ、仮に勘違いだったとしても、それが創造性に繋がっていくわけですよね。現代のようにすぐ情報収集できる時代だと、そうした勘違いは生まれにくい。
ラ : レゲエをひらめきあるものとして捉えられていたからね。フィランドからブラジルに行って映画を作ったヤツと同じだよ、ミカ・カウリスマキと。自分は何ができるかっていうことだよね。ビートルズに憧れるヤツもいるわけで、憧れはみんな持ってるじゃないですか。でも、同じ表現者にはなれない。ひらめきはもらっても、声や言葉はもらえないわけで、持ってるものだけでいかに勝負するっていう話だと思うよ。
──で、これも今回の対談の重要なテーマなんですが、3.11以降のこの国はチェルノブイリ以上の激変期にあるわけですよね。そのことについてはどう思われていますか。
ラ : そんなに格好いい答えはないんだけど… 「みんなが変わっていくんだろうな」と思いつつ音楽をやってるけどね。「これで考えないヤツはダメだろうな」と。あと、こういう状況になって改めて思ったのは、「楽しまなきゃダメ」ってことと「闘わないとダメ」ってことなんだよね。どっちも必要なこと。その2つがあって生きていくんだろうね。自分がやるべきなのは「楽しむ音楽」かつ「闘う音楽」。そういうことがはっきりしたね。
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