2012/08/15 00:00

マナブシティ INTERVIEW

マナブシティ(Drums)

——今日は全メンバー・インタビューということで、それぞれのメンバーの音楽遍歴からお伺いしたいと思います。マナブシティさんが初めてバンドを組んだのは、いつ頃のことですか。

マナブシティ : 19歳の頃に、Hi-STANDARDやB-DASH、THE BLUE HEARTSなどのコピー・バンドを始めたのが最初ですね。俺の影響で、2個下の弟も音楽を聴くようになって、一緒にバンドをやることになったんですけど、どうしてもギターがいいって言うから、俺はドラムを叩き始めたんです。

——そのあと、どのようなバンド活動をしていったんでしょう。

マナブシティ : 最初に組んだバンドは3年くらいで辞めて、その後、地元の仲の良い人たちとバンドをやっていたんです。でも、もうちょっと本格的にやりたいって気持ちが出てきて、メンバー募集サイトで「舞丹旅(またたび)」ってスカ・ポップ・バンドに入ったんですよ。当時、スカ・ポップが盛り上がってて、ムラマサ☆なんかとも対バンしていました。

——その頃、玉屋2060%さんとは出会っていたんですか。

マナブシティ : いや、22歳の始めくらいに舞丹旅を辞めて、次どうしようかなと思ってたいときに、弟が「すごくはまってるSCHOOL YOUTHってバンドがいる」って言ってきたんです。しかも、「ドラムを募集してるらしいよ」って。で、聴いてみたら「これはすごい」と思って。今迄聴いた中で全然違うと思って、すぐに応募して一緒にスタジオ入ったんです。そのSCHOOL YOUTHのリーダーとヴォーカルが、玉屋2600%なんです。

——ああ、なるほど。

マナブシティ : 当時は”西荻系”っていうのがバンドマンの間で流行ってて、そういうのに影響をうけて。SNOTTYとかFRUITY(フルーティー)とか、俺も好きで、なんとかCD出したり本格的にやりたいなと思っていました。

——2002年前後って、インディーズ・バンドが注目されていたじゃないですか。それによって、大きく売れてくバンドも出てきた代わりに、消費されて崩壊していってしまったバンドもいたと思うんです。そういう状況に身をおいてでも、音楽で食って行きたいと思っていたんですか。

マナブシティ : 当時は、ちゃんと考えていなかったですね。なんとなく音楽で食えたらいいなって。玉屋も同じだったと思うんですよね。いけるっしょみたいな(笑)。

——青春パンクと名付けられるくらい盛り上がったけど、一気に収縮しちゃったじゃないですか。それはどういうふうに見ていたんですか。

マナブシティ : ああいうふうになりたいと思っていたけど、自分達はまだ本気だしてないぜみたいな感じはありましたね。ちゃんとやればイケルよ! みたいな。

——つまり、自分たちも同じ土俵で勝負したいと思いつつ、積極的にその盛り上がりの中に入っていったわけではないと。

マナブシティ : 全然していなかったですね。内輪の中で俺達カッコイイみたいな。 俺が入ったとき、SCHOOL YOUTHは後期で、入って2年くらいで解散して、新しくバンドを始めようってことになって。俺も、ここで終わったらちょっともったいないなと思っていたから、やろうって。SCHOOL YOUTHの解散直前くらいに、MAXも応募してきていたので、Wiennersの母体は出来てたんです。

——根本的な質問なんですけど、なんでSCHOOL YOUTHを解散してWiennersという形に移ろうと思ったんですか? メンバーは、それほど大きく変わらないわけですよね。

マナブシティ : たぶん玉屋的に、一回ケジメをつけたかったんだと思います。Wiennersはもっとガッツリやりたいっていう意思表示というか、色んなところでライヴして、CDをリリースして、っていうのを目指そうという表れなんじゃないかと思ってましたね。

——じゃあより音楽だけで本気でやっていくための仕切り直しでもあったわけですね。

マナブシティ : そうですね。

——実際にWiennersとして始めて、それまでの活動と大きく変えたことってあるんですか?

マナブシティ : 大阪とか名古屋のライヴにも出るようになりました。SCHOOL YOUTHは外に出て行こうとしなかったんです。楽して売れようというか、なんていうか、「才能あるから大丈夫でしょ」みたいな感じがどこかしらにあって。

——才能を信じてやっていれば、レコード会社や業界の人が見つけてくれるだろうみたいな。

マナブシティ : そうですね。ありましたね。今考えると本当に恥ずかしいですけど。

——ちなみに、その時はまだメンバーは三人だったんですか?

マナブシティ : いや、∴560∵(ゴロー)もいましたね。SCHOOL YOUTHの解散の時に、「俺、サンプラー練習してるよ」ってメールが来てたんです。これ狙ってんのかなっと思ったんですけど、ベースがどうしても見つからなかったので、∴560∵はベースを弾いたことはなかったんですけど、とりあえずスタジオに入ってみたら、意外と弾けたんですよ。それで、とりあえずライヴやってみようかみたいな。それでそのままって感じですね。

——メンバー4人で、本気でやってこうって気持ちは共有されてました?

マナブシティ : 玉屋は最初の頃から言ってましたね。ちゃんとやっていきたい、皆はどうしたいの? みたいな。俺は食っていきたいと思ってましたから、ある程度話した上で覚悟は決めていました。

——全然話が飛んでしまうんですけど、マナブシティさんは最近お子さんが生まれたんですね。

マナブシティ : そうなんですよ!! ちょうど三ヶ月くらい前ですね。5月4日に。

——おめでとうございます! その質問をしたのも、結婚をされたのが、1stアルバムを出した後くらいなんですよね?

マナブシティ : そうですね。

——結婚って、覚悟がないと出来ないじゃないですか。アルバムを出したとはいえ、まだ経済的にもバンド的にもこれからという中で、どうして踏み切れたんですか?

マナブシティ : 彼女と色々あって、お互いに連絡しなかったんですけど、話し合ってやり直すことにしたんです。やり直すなら、けじめをつけてちゃんとした形でやり直したいって言われて、俺もやり直したい気持ちがあったので、後日プロポーズして結婚しました。やっぱり音楽をやってるっていうのは、相手の両親にとっても経済的に不安じゃないですか。なので、絶対に成功させます! って言って。1stアルバム『CULT POP JAPAN』が出るタイミングだったので、気持ち的にはやったるぜ! って気持ちは強かったです。

——『CULT POP JAPAN』は、そういった一連の流れがあって完成した思い入れのあるアルバムだと思うんですけど、自分が思っていたような反応はありました?

マナブシティ : 正直、もっと売れると思っていたから、現実は厳しいなと思いました。もちろんいいって言ってくれる人もいっぱいいたんですけど、色々悩んだりもしましたね。ただ、全国ツアーも初めてだったんで、気持ち的にはノッてましたね。あと、新しい曲も作っていたので、次に向いてました。玉屋が持ってるパンクの要素だけじゃなく、メロディックな歌ものの要素が詰まった曲も出来始めていて。次の『W』は、J-POPとか聴いてる人にも届くと思ったし、レコーディングをしていても、1stの『CULT POP JAPAN』を全然越えたなって、気持ちとしてはノッていましたね。

——実際に並行して聴かせて頂くと、成長というか変化が如実に出ていますよね。その音楽的な変化に至った、一番の理由はどういうところにあると思いますか。

マナブシティ : たぶん、一番の原因は… その当時、玉屋が色々悩んでたんですね。例えば彼女と別れたり、曲が、スランプに陥って曲が全然書けなくなったりと。音楽を辞めようかと思ったとまで言っていたので、それが一番大きかったのかなって思います。

——それは、以前玉屋さんにインタビューさせていただいた時にも仰っていましたね。挫折じゃないけど、それがあったから変わったって。日常生活はWiennersの音楽にも影響を与えると思いますか?

マナブシティ : それはあると思いますね。

小学校から組んでいるようなバンドになるのが理想

——今回のアルバムの7曲目「子供の心」にで、最初に入っている赤ちゃんの泣き声はマナブシティさんのお子さんの声なんですよね。

マナブシティ : はい。俺がヴォイス・レコーダーで泣いてる声を録って、それをレコーディング・スタジオでエンジニアの方につないで頂いたんです。

——この曲を作ろうというのは、どこから生まれてきたアイデアなんですか。

マナブシティ : これは、玉屋が親戚の子供と触れ合ってたいた頃から原型があったみたいなんですけど、俺にも子供が出来たんで、俺へのプレゼント・ソングみたいになっちゃいましたね。

——実際、お子さんが生まれたことによってバンドに対する気持ちとかに変化はありましたか?

マナブシティ : 正直… バンドを続けるのか、辞めるのかで、悩みましたね。

——バンドを辞めて別の仕事をしようと悩んだってことですか?

マナブシティ : そうですね。『W』のときに、玉屋がすごいスランプに陥っているのに、それを助けてあげられなかったっていうのも心のどこかにひっかかていて。あと、ドラムのことに関してもすごく言われて、気持ち的に落ち込んで、もう辞めようかなって思ってたんですけど、マネージャーの町田さんとかに助けてもらって、なんとか乗り越えられて。レコーディングをしている1月から6月まで、本当に色々悩みましたね。嫁さんにもやっぱり言われますし。

——100%バンドを頑張ってね、ってわけでもないわけですよね、生活のこともあるわけだし。

マナブシティ : そうですね。すごく応援してくれるんですけど、現実問題として、どうすんの?みたいな。迷って、それをなんとか乗り越えての繰り返しですね。

——マナブシティさんが色々なものを乗り越えてきた中で、お子さんが生まれたことは大きなトピックだと思うんです。そのタイミングで、バンドを続けようと決心できたのはなぜですか。

マナブシティ : それは、月並みな答えになってしまうかもしれないですけど、周りの支えですね、本当に。町田さんにも迷惑かけたし。

——町田さんからはどういった言葉をもらったんですか?

マナブシティ : 「今辞めたらもったいないよ」って。「30歳前後は辞めちゃう人が多いけど、もうちょっと頑張ればもっといい景色を見られるし。玉屋に対してももっとサポート出来る」って。玉屋に関しては、彼の負担が大きすぎるから、もっとサポートしてバンドを盛り上げて行きたい気持ちは、ずっと持っていたので。言っちゃえば、SCHOOL YOUTHが始まって少しの頃からあったんですけど、俺的に全然出来てなくて。自分の中でこのままだと悔しいし、まだやれるしやりたいなって気持ちですね、最後は。

——20代前半で感じていた「まだ本気を出してない! 」って気持ちまだがどっかにあるってことですか。

マナブシティ : そうですね。玉屋がリーダーで核となる存在だっていうのはそうなんですけど、今は他のメンバーでしっかりサポートしたりするって意味じゃ、スタート・ラインかなって。

——マナブシティさんは、Wiennersでどういった面をサポートしたいと思っていますか。

マナブシティ : 俺がやりたいのは、ムード・メイカー的な存在ですよね。ライヴ前に声をかけるとか、落ち込んでるときに声をかけるとか。俺が一番やるべきなんじゃないかという気持ちはありますね。今まで出来てなかったので、今回のツアーでちょっとでも前向きに出来たらって。

——内情を全然知らない僕が聴いても、Wiennersの表現力は向上してると感じます。それって、前作から今作に至る過程で、メンバー間のサポートが出来るようになったことによるんじゃないかなって。

マナブシティ : バンドの成長はあると思います。メンバーそれぞれ、色々あって、乗り越えてきてる感じはありますね。後は、今回のツアーも、ちょっとでも一丸となる感じが見せられたらなと思います。

——Wiennersは、メンバーが一度も替わらずやってきていますよね。それってすごいことだと思うんですけど、やっぱりこの4人でWiennersとしてバンドをやりたい気持ちがあるんじゃないですか。

マナブシティ : あると思いますね、みんな。玉屋以外も他にバンドやってたり、時間の使い方も大変だと思います。それでも、なんとかやってきているんで、バンド内の雰囲気は絶対もっと良くなると思います。俺は本当にそこでムード・メイカーになりたいですね。正直、最近は練習する時間もなかなかとれないし、子供のことでも精一杯ですし、アルバイトもしているんで、相当苦しいですがなんとか続けていきたいです。

——最後に、Wiennersとして、あるいはマナブシティさんとしてどういう風になっていきたいかお聞きしたいです。

マナブシティ : メンバー間で、まだどこか遠慮していると思うんですよ。俺は、Wiennersが小学校から組んでいるようなバンドになるのが理想なんです。実際にそうなることは難しいかもしれないけど、それに近い形で、メンバーが言いたいことを言えるようになったWiennersがみたいですね。それが見えたときは結果が付いてきてると思います。お客さんにも伝わると思うし、対バン相手にも伝わると思うんで、そうなったらもうすごいことになってると思います。そうなってるWiennersが見たいです。それに向けて頑張るしかないですね。

——本当にそうなった時のWiennersが楽しみですね。

マナブシティ : はい。でも今回のツアーでも少しはそれを見せられると思います。そこに向かっているWiennersを見に来て欲しいですね。

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∴560∵のインタビューはこちらから

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