2011/04/26 00:00

救援物資を届けに、石巻市へ。 (2011.4.24)

朝7時半に仙台市内のホテルを出発して、国道45号線で石巻を目指す。被害がなさそうなところでも、よく見ると壁に水の跡が残っている。大きなグラウンドは瓦礫やガラクタの集積場となっていたり、建物は損傷していたりしている。仙台から離れるにつれ、震災と津波がおこった跡が静かに残っていた。しかし、テレビで見るような、街が全壊した様子はなかなか現れない。それが逆に不安をかりたてた。松島を通ったときには、あまりに奇麗な眺めにみとれてしまい、この自然が表情を変えたと思うとやるせない気持ちにもなったし、自然への畏れも感じた。

そんな気持ちも、石巻に近づくにつれて現れ始めた倒壊した家屋などを見て一変してしまう。テレビで見たような惨劇。道路の脇にはゴミの山。車内には言葉がなくなり、呆然とその中を進むしかなかった。ときより車内で鳴るカメラのシャッター音だけが、妙に現実とつながっていた。

僕たちが目指していたのは、石巻市にある総合運動公園だった。OTOTOYのホームページで募集して、みなさんから送っていただいた支援物資を届けることが、今日の大きな目的である。僕たちが持って行った物資は以下の通り。

・缶詰×2箱
・紙おむつ×2箱
・レトルト食品
・飲み物 / 調味料 ・みそ汁チョコレート
・紙コップ / 皿
・ハブラシ / ボディ・ソープ
・生理用品

たくさんの方から、被災地で必要だと思われるものを持って来ていただいた。本当に感謝しているし、その気持ちをしっかり届けてこなければと思いながら、受け入れ場所を目指した。

総合運動公園は相当大きな運動施設で、フットボール場がまるまる物資の受け入れ場所になっていた。陸上自衛隊の方たちが10数個のテントを組んで、それぞれ物資ごとに分けて保管していた。僕たちは自衛官の方の指示にしたがい、テントの前に車をつけて、手渡しで物資を渡した。僕たち以外、ほとんどが大きなトラックだった。東京に帰ってきて石巻のホームページを見たら、4t車以下の受け入れは終了していた。行く前はそうした記述がなかったので、今週末を境に本当に必要なのものが大口の支援物資に切り替わったようである。

石巻から仙台までの道は問題なく移動することができたし、時間は少しかかるけれどバスなどの公共機関も動いている。ひとまず何でもいいから物資を集めるという状態から、安定的に量を集めるという段階に進んだのであろう。みなさんの物資を届けることができて一安心した。この場を借りて、みなさまに改めて感謝したいと思います。本当にありがとうございました。

今回はもう一人、支援物資を渡したい人がいた。気仙沼出身のフォトグラファー佐々木亘の間接的な友人、阿部一将さんである。衣類が足りていないという話を聞いていたので、みなさんから送っていただいた衣類は阿部さんのもとに届けた。指定されたスーパーの駐車場に着くと、阿部さんと彼の友人の斉藤敦さんが迎えてくれた。2人とも30歳前後の若者で、挨拶もそこそこに石巻の街を案内してくれた。

左から斉藤敦さん、阿部一将さん。

阿部さんは、石巻の沿岸でバーを経営しており、地震当日は仕込みのために店にいた。地震が起こってからすぐ車に乗って日和山を目指したが、まだ登りきらないうちに津波が襲って来てしまった。そのため、阿部さんより後ろで渋滞にはまってしまったいくつかの車は津波に飲み込まれてしまったという。助かった阿部さんは、二日間山の上で過ごしたが、街に戻ってみると経営するバーも浸水しており、店を続けられるような状況ではなくなってしまっていたという。住む場所も仕事もない彼に残されたものは、車1台のみ。現在は友人の家をたよって住まわせてもらっている。仮設住宅の入居倍率は8倍くらいあり、賃貸アパートもいっぱいで全然入れない。それでも彼はその車を使って、物資を個人あてに届けたり、知り合いを探したりして過ごしている。

そんな彼の案内で回った石巻の中心地は、倒壊した家屋やゴミで溢れ返っていた。信号機が機能していないところも多く、そういったところは警察が交通整理をしていた。そのため、警察が集中する場所とそうでないところができてしまい、街の治安も悪くなっているようである。目の前でその状況を体感すると、何から手をつけていいのかまったくわからず、ただただ呆然とするしかなかった。そんな中、個人で自分の家を片付けようとしている人たちの姿も見受けられた。同時にまったく人気のないところもあり、この場所に普通の生活が戻ってくるまでには数年かかるのではないかと率直に感じた。

「地震があってキツいと思うこともあるけれど、今まで当たり前だと思っていた生活のありがたみがすごく分かったんです。」

阿部さんの友人の斉藤さんは、ゆっくりとした口調で落ち着いてそう話してくれた。斉藤さんの話を聞いていると、被災してどうしようもない状態からは一歩前に進んで、自分たちで出来ることをやろうとしていることが伝わって来た。僕たちは、彼らを慰めること以上に、サポートをする必要がある。具体的にどうするべきかはわからない段階であるけれど、瓦礫の撤去やゴミの回収など、明らかに人手が足りていない。今個人でいっても何から手をつけていいのかわからないけれど、組織立って作業ができるようになった時に、絶対的に人が必要となる。だから、今はそういた段階のときに、すぐに手伝いにいけるように準備しておくことが必要だと感じた。

最後に斉藤さんが話していたことを書いてレポートを閉じたいと思う。今回の地震と津波のことを忘れないこと。それは被災地から離れた場所で過ごす僕たちも、強く強く自分に言い聞かせなきゃいけないことでもある。

「地震があった当日のことを、僕たちでさえ忘れてしまうかもしれない。忘れてしまうことが一番恐いんです。いまは、ライフラインのありがたみとかを感じているけど、それを忘れずにやっていかなきゃいけないと思っています。」

(text by 西澤裕郎)

>>>INTERVIEW : 八巻祐介(runny stools)

>>>Play for Japan in Sendai ライヴ・レポート(2011.4.23)

>>>INTERVIEW : 佐々木章宏(FLYING STUDIO 店長)

気仙沼へ(2011.4.2)

OTOTOY、チーフ・プロデューサー飯田仁一郎と、『Play for Japan Vol.1』のディレクターを務めたフォトグラファー佐々木亘、『Play for Japan Vol.6』のディレクターを務めた池田義文、急遽車を手配してくれた池田の友人、下野川丈史の4人が、気仙沼に野菜を届けに行ってきました。

レポートはこちら

東日本大震災救済支援コンピレーション・アルバム『Play for Japan』

3月11日の東日本大震災を受け、12日に本サイトでは被災地救済支援コンピレーション『Play for Japan』の制作を発表。17日にリリースされた第一弾、4月1日にリリースされた第二弾を合わせ、180組以上のアーティストによる10枚の作品が完成しました。本作の販売に当たっては、クレジット決済手数料約5%と、著作権管理事業者へ登録済の楽曲に関しては、著作権料約7.7%を除いた全ての売り上げを、東日本大地震の義援金として、日本赤十字社を通じて寄付致します。ミュージシャン、デザイナー、ライター、エンジニア、編集部… 皆が出来る事を精一杯行ってエネルギーとお金を生み、それらが少しでも被災した皆さんの助けになれば幸いです。

『Play for Japan Vol.1-6』『Play for Japan Vol.7-10』まとめ版

『Play for JapanVol.1-10』

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