普通の人の一生分ぐらいあることが27歳ぐらいまでに起きちゃってる
──FLATBACKERは歌詞にも特徴がありますよね。
高橋 : 歌詞もそんなに考えてなかったけど、増子さんのユーモアとはちょっと違う、僕らなりの斜めから見た感じとか、若気の至りの部分とかがいま思うと面白かったのかなっていう感じはします。
増子 : 絶妙なバランスなんだよなあ。歌詞を読んで思ったのは……開成高校ですよね?
高橋 : 山田(ヴォーカルのMASAKI こと山田雅樹)はそうですね。
増子 : そりゃ頭いいですよ。開成高校なんつったら、そんなに入れないマジで頭良い学校なんだから。
高橋 : 僕は西高(札幌西高等学校)でしたけど、ラグビーをやっていて、あとはシャカマン(札幌のディスコ〈釈迦曼荼羅〉)とかマージャン、パチンコとか学校以外で忙しかったんで。
増子 : でも西高って言ったら札幌で3本指に入る進学高ですよ。俺らのときは丙午だったんで、全部定員割れですごいバカでもどの高校も入れたんですよ。本当にバカだったから(笑)。それに、そんなにちゃんとした進学校に行っててバンドやってるやつ、我々の世代にいなかったから。それでFLATBACKERは「うわ~すげ~!」って思っていたらサッといなくなっちゃったから。自分たちと比べるとかいうレベルじゃないっていうか、「こんなに行くの!?」って、もう神話的な感じ(笑)。自分は小学校の時にキッスが大好きで、ジーン・シモンズの絵とか書いてたんですよね。だからE・Z・Oをジーン・シモンズがプロデュースするって聞いたときに、「こんなことあんの!?」みたいな。 漫画みてえだなと思ったもん。
高橋 : でもそれも、僕はあんまりキッスは好きじゃなくて、そんなに…
増子 : あ、そうですか(笑)。
上原子 : ははははは(笑)。
高橋 : 僕はちょっと熱量が冷めた感じだったので、そこが逆にバランスが取れて良かったんじゃないですかね。まあ、色々勉強になりました。
──E・Z・Oは結局、日本での活動はしないまま解散してしまいましたね。
高橋 : そうですね。1回僕の結婚式で4人が集まって、1曲演奏したんです。それが日本初ライヴでしたね。解散した後でしたけど。
上原子 : なんせカッコ良かったですね。僕がFLATBACKERを最初に知ったのは、当時読んでた音楽雑誌にライヴ写真が小さく載っていたんです。それを見たら、短髪でスターリンみたいなメイクをしてバキバキのヘヴィ・メタルやってるっていうんで、こんなカッコイイはバンドないなと思って音を聴いたら、もうめっちゃカッコイイの。「カッコイイ」しかないです、はい。
──ギター・プレイや曲づくりに影響を受けてますか?
上原子 : 完全に影響受けてます。ギター・フレーズもそうですし、メタルでカッコイイ曲を作ろうってなったら、絶対そこは入ってきますね。“OUT老GUYS”はFLATBACKERっぽい曲を作ろうと思っていたわけじゃないんですけど、作ってみたら結果、刷り込まれてるから。
高橋 : でも、フレーズも昌洋(SHOYOことギターの飯田昌洋)っぽい。デミニッシュの感じとか。
上原子 : はい、そうですね。
増子 : 歌詞の内容がアレですけども(笑)。
上原子 : スーパーでおばちゃんとリアルに怒鳴り合った話(笑)。
高橋 : 再会するのがいいですよね(笑)。(『more-AA-janaica』は)曲のバリエーションがすごいなと思いました。歌詞は僕、どの曲もずっと好きなので。
──高橋さんが日本に帰ってディレクターになってからは、バンド界隈をどう見ていましたか?
高橋 : 僕が帰ってきてディレクターを始めたころはバンド・ブームがちょうど終わりぐらいの時期と重なっていて。良いバンドもいましたけど、いなくなっちゃうようなバンドもたくさんいて。ちょうど到汰される時期の始まりみたいな感じでしたね。でも、北海道だからではないですけど、怒髪天とbloodthirsty butchersとeastern youthは、すごく骨のあるバンドだなっていう感じで、カッコイイなと思って見てました。あと、 90年代後半になると、くるり、ナンバーガール、SUPERCARとかまた良いバンドがたくさんいて、それぐらいの時期は日本のバンドも色々聴いたりはしてましたね。
増子 : アメリカから帰ってきて、プレイヤーとしてこっちでバンドをやろうとは思わなかったですか。
高橋 : 僕は解散したくなかったんです。まあ、「音楽性の違い」っていうことになってますけど、バンドの解散ってそんなに簡単なことじゃなくて色々あって。でもまあ解散することになったので、アメリカに残るかどうかしばらく考えました。まだ27歳ぐらいだったけどちょっと色々疲れちゃったんですよね。向こうでは新人バンドとしてやらせてもらっていたので、それこそバスでライヴハウスを回る生活をしていて。ライヴが終わって次の街まで朝まで10何時間もずっと走って、着いてチェックインしてちょっと寝てライヴ、みたいな生活が続いてくんです。それでライヴが終わったら軽く一杯やってみたいな。それでたまに休みがあると、みんなでバーに行って飲んで。そんな毎日が続くと、僕はあんまり人が好きじゃないっていうか「ひとりでいたいな」みたいな日もあったりするんですよ。それで「今日は俺、ちょっとひとりでいるから」とかって言うと、「どうしたんだTARO!? ちょっとふたりで飲んで色々話そう」みたいな(笑)。
増子 : 「いやいや、そうじゃなくて」って(笑)。それは疲れますね。
高橋 : そういうのもあったし、自分で曲も書いたりはしてたけど、レコード会社の間に入ったりとか、アレンジのこと考えたりとかが好きだったんで、そっちに重点を置くのもいいかなみたいに考えるようになって、もう日本に帰ろうと思って半年ぐらいお寿司屋さんでバイトして借金を返して、日本に帰ってくる前にアミューズの会長とスピードスター・レコーズを作った高垣(健)さんに相談して、「ディレクターをやらせてほしい」っていうことを伝えたんです。
増子 : なるほど。展開が早すぎんだよね。最初に札幌でバンド組んでから東京に戻ってくるまでの。これ、普通の人の一生分ぐらいあることが27歳ぐらいまでに起きちゃってるんで。よく思うのは、解散してそのままアメリカに残っていたら、メンバーはみんなどこかしらのバンドにいただろうなって思うんですよ。
──怒髪天はE・Z・Oのように海外を目指してみようという気持ちはなかったですか。
増子 : いや、ないでしょ(笑)! 比べられないから。もう本当にすごかったんだよ「そりゃ行くよな」っていうさ。
高橋 : いやいや、僕らも全然目指してたわけじゃなくて、偶然向こうの人がテープ聞いてくれて、なにかやろうとしていたところにただハマったっていうだけなので。いま僕がFLATBACKERとE・Z・Oを聴くと、FLATBACKERのほうがオリジナリティがあってカッコイイなと思うんですけど。アメリカに行ってジーン・シモンズを紹介してもらったりとかいうなかで、もっといろんな人に聴いてもらって、E・Z・Oとしてもう1回4人で固まってやろうっていう感じだったんです。だから日本でFLATBACKERの音楽、生意気なところとかが好きだったかたは、ちょっとE・Z・Oは開けすぎちゃっててっていう感覚もあったと思うんですけど。もちろん僕らはその“開けたこと”をやろうっていうことでやっていたので、その辺をちゃんと伝えられなかったっていうのいま思うとありますね。もう40年も前ですけどね。
──お2人は当時、FLATBACKERからE・Z・Oへの変化についてはどう思われましたか。
上原子 : もちろん、FLATBACKERに思い入れがあって聴いていたんですけど、もうサッとアメリカに行ってバンド名を変えてビジュアルも変えて、曲もなんか変わっちゃって、当時「えっ」とは思いました。でもそれがものすごく斬新で。そんなバンドいなかったし、なんか潔いというか、音楽というよりもそのやりかたがカッコイイと思いましたね。音楽はどんどんキャッチーになって、ちょっとアメリカン・ロックが入ってきましたけど、僕はFLATBACKERもE・Z・Oもどっちも好きなんですよ。1つのバンドとして誰もやったことがなかった斬新さがあって、グッときました。
増子 : 俺はパンク寄りだったからFLATBACKERのほうが好きだったんだけど、大人になってから聴き直すと、E・Z・Oって本当にちゃんと金かけないとできない音なんで、「うおー!」って思った。あとヴィジュアルが変わったのも海外から見たジャパニーズ・カルチャーみたいなものを落とし込んでるのがすげえカッコイイなと思いましたね。「すげえ大きくなったな~!」っていう感じがあったもん。我々が草野球の少年だとしたら、E・Z・Oは大谷翔平です。それぐらいの差はありますよ。
──確かに当時、『YOUNG GUITAR』とかにE・Z・Oデビューの広告がすごく出てました。
上原子 : そうそう、出てましたね。キャッチコピーありましたよね?
増子・上原子 : (同時に)“隠れて何をしてたんだ。”
高橋 : (笑)。
増子 : あれも本当、衝撃だったもんなあ。
高橋 : 隠れて、一生懸命練習してたんです。
──メイクをすることについてはいかがですか?
増子 : スターリンの影響で、俺もマジックで目の周りを塗ったりしてたから。マジックで塗ったらもう荒れちゃって。すっげえ荒れるんだよね。1番落ちないのは筆ペンだっていうね(笑)。でももともとパンクって、セックス・ピストルズとかもそうだけど、みんなメイクしてるものから始まってんだよね。俺らもやっぱその影響で、それがかっこいいっていう感じはあったかもしれないすね。ただやっぱり似合う顔似合わないはあるね(笑)。ずっと昔下北沢で年越しカバー大会をやったときに、「BOØWYやろうぜ!」ってメイクして鏡を見たら、かあちゃんが東京に会いに来たのかと思った。
一同 : (爆笑)。
増子 : 「ただの俺のかあちゃんだよこれ!」って。めちゃくちゃ、かあちゃんに似てた。だから誰でも似合うわけじゃないですよ本当に。(アー写を見ながら)でも、友康はもう理想に近い形だよね。
上原子 : これ大変ですよね、ものすごく時間かかったし、落とすのも大変だし。
高橋 : E・Z・Oで最初は結構すごいメイクをしてたんですけど、そんなの毎回やってられないんで、あんまりしなくなったんです。
上原子 : ああ、それでだんだん素顔になったんですね。
増子 : 素顔のアー写になったのもカッコイイんだよな。我々が知ってたE・Z・Oじゃなくて「すげえ大人になってる!」っていう。
上原子 : FLATBACKERのときはやっぱり“ダイエースプレー”ですか?
高橋 : そうです。“ダイエースプレー”を2回で1本ぐらい使ってました。