2022/06/02 17:00

“うしろから”ライナーノーツ Vol.2 : oono yuuki『stars in video game』(2010年4月14日リリース)

「OTOTOY うしろからライナーノーツ」は、その名の通り、リリースしてから時間を経た作品に、さまざまな角度からスポットを当て、リリース当時にあまり語られていない、もしくはいまだからこそ語ることが新たにある、そんな、新譜ではないけど、ひとつ記事を残しておきたい、そんな作品にOTOTOYが“うしろから”ライナーノーツ的な記事をはさみ込んでいく、そんな連載です。

少し間が空いてしまいましたが、第2回目は2010年リリースのoono yuuki『stars in video game』。本連載企画の趣旨をライターの田中亮太に話したところ、「2010年代の東京のインディ・シーンを語る上できちんと評価されておくべき作品だし、音楽的にもいまあらためて聴くべき内容だと思う」とのことで、今回とりあげることになりました。本記事の執筆に際して、田中亮太によるoono yuukiの最新インタヴューも新たに収録しました。またつい先頃、各サブスクリプション系のサービスにも登場した模様。12年を経て、2022年のいま、そしてこの後も聴かれ続けるであろう作品はどのように作られたのか? そしてその後は……くわしくは本文にて。また記事内では当時のリリース前後のレコーディングやリハ、ライヴなどでの貴重な写真も掲載します。

OTOTOY “うしろから”ライナーノーツ 002

oono yuuki 『stars in video game』

2010年4月14日リリース
レーベル : kiti
取材・文 : 田中亮太
写真提供 : 栗原論

OTOTOYでもロスレス(CD音質)にて配信中

2010年代、東京インディ・ムーヴメントの直前に花開いた作品

『stars in video game』レコーディング中

2000年代中ごろから東京を拠点に活動しているシンガーソングライター、oono yuuki。これまでにリリースしたフル・アルバムは3作と決して多作ではないが、フォーキーでメランコリックなうたものを生むソングライティング、けたたましさと焦燥感に溢れたパンク的なバンド・アンサンブル、さらにミニマル・ミュージックやポスト・クラシカルの流れを汲んだプロダクションという、大きく3つの側面を融合させた音楽で、日本のインディ・シーンにおいて存在感を放ってきた。

ここで紹介する『stars in video game』は、彼が2010年4月にリリースしたファースト・アルバム。シャムキャッツが名曲“渚”を含むデモCDR『Demo Single Series “1”』を発表したのが2010年の3月。ceroのカクバリズムからのデビュー・10インチ“21世紀の日照りの都に雨が降る”が同年の10月。そして、ミツメがファースト・アルバム『mitsume』をリリースしたのは、少し間を置いて2011年の8月。何を言いたいのかというと、この『stars in video game』は、2010年代のいわゆる東京インディ・ムーヴメントが衆目を集める前に発表されたアルバムであるということ。その意味で先駆者的な作品であった。

事実、oonoが当時活動拠点に置いていた八丁堀のアートスペース〈七針〉周辺のミュージシャンが多く参加したこのアルバムは、当時知られていなかった才能を世に知らしめるきっかけにもなった。かくいう筆者もその一人で、『stars in video game』とその周辺を掘り下げることで、参加メンバーだった麓健一やmmm、アルバム自体には関与していなかったものの王舟やAlfred Beach Sandalといった音楽家を知ることになる。

ここで時間を少し巻き戻して、oonoの『stars in video game』以前の半生を振り返ってみよう。彼が生まれ育ったのは、高知県高知市。思春期の頃にパンクやエモーークラッシュ、ランシド、eastern youthといったバンドに夢中になる一方で、ボブ・ディランやニール・ヤング、エリオット・スミスらシンガーソングライターの音楽/フォークにも同時に傾倒していったという。「外ではパンクをやって、家ではフォークのスリーフィンガー奏法を練習しているんだけど、パンクの友達にはフォークが好きだと言えなくて(笑)。そんな状態が続いていましたね」と語る。思えば、その狭間にあってどこにも属せないという立ち位置を、彼はその後の活動においても選択してきたと言える。そして、大学入学時に上京。東京の街で一人暮らしをはじめた。

oono : 東京に出てきたあと、年上の友人と出会い、一緒にバンドをするようになるんですけど、その彼からいろいろな音楽を教えてもらったんです。特にポストパンクやニューウェイヴにハマって、ギャング・オブ・フォーやニューオーダーなんかが好きでしたね。彼や(『stars in video game』にも参加した)麓健一くんとやっていたエーテル、そのあとにほとんど同じメンバーで組んだメモリーズでは、パンクやエモ、ポストロックから影響を受けたサウンドをやろうとしていました。でも、ぜんぜん上手くいきませんでした(笑)。ライヴをやってもお客さんは数人だし、バンドがハコにノルマを払って、みんな貧乏になって。そこで一回、バンドに挫折したわけです。そのあと、1人で宅録をするようになった。

パンクやフォークと並んで、oonoがみずからのバックボーンとして挙げるのが、先にも紹介したスティーヴ・ライヒなどのミニマル・ミュージック。ミニマル~エレクトロニカ的なサウンドへのアプローチは、この時期の宅録で突き進められ、2009年ににせんねんもんだい主宰のレーベル、bijin recordからリリースした2作のCDR『Leonids』『fin,fur and feather』に聴くことができる。

oono : 宅録のときは、生楽器やアコギを使いつつ、それまでも電子音楽とかは聴いていたこともあって、自分でサンプリングをやるようになりました。CDR作品のドラムは、自分がスタジオで叩いたものを録音し、それをサンプラーに取り込んでループさせたものですね。リズムマシンのきれいなプリセット音ではなく、ザラザラした音がよかったんです。(リファレンスにしていたものはあったのか?という質問に)参考にしたとは思わないですけど、アンチコンやレックス(LEX)から出ていたナードなヒップヒップをよく聴いていました。特にハイミーズ・ベースメントのアルバム『Hymie’s Basement』(2003年)には一時期心を支えられていましたね。リズムマシンの音とアコギ双方の音色がすごく好きで。当時、バンドを解散して絶望していた心にすごくフィットしたんです。

確かにoonoのbijin時代の作品は、その頃のアンダーグラウンド・ラップ特有の醒めたサイケデリアに近い空気を醸している。余談になるが『Leonids』の表題曲は、後日Traks BoysのXTAL(当時はCrystal)によるミックスCD『Made In Japan "Future" Classics』(2010年)に収録されたことでも、注目を集めた。bijinからのCDRをリリースして以降、oono yuukiの名は徐々に知られはじめ、先述した七針でライヴを行うようになった。

oono : 七針に出るようになってはじめてギャラをもらえるようになったんです。ノルマがなく、音楽でお金をもらえるようになったのが衝撃でした。最初は1人でステージに出ていて、もうビビりまくっていましたね(笑)。ずっと手が震えていて、お客さんのことを睨みながら歌っていました。最初のCDRを出したあとに、エーテルの元メンバーで、上京したあとの僕に音楽を教えてくれた友達が亡くなるんです。亡くなって2週間後に、七針で『Leonids』のレコ発を開催したんですけど、それが自分にとってはじめて、いっぱいのお客さんの前でのライヴでした。なんでそんなに来たのかがいまだにわからないんですけど、七針に50人とか来たんです。そのレコ発用に組んだバンドが、その後のoono yuuki bandの原型ですね。で、ライヴが終わったあとにはじめて歓声を浴びたんです。それにあまりに興奮して、3日間くらい家に帰らなかった(笑)。ファースト・アルバムの時期を思い出すとき、その日のことがいちばん大切な出来事だったと思います。

友を亡くした悲しみが消えないなかでのリリースパーティーだったのではないか、と尋ねた。

oono : めちゃくちゃそうでした。だけど、はじめてお客さんが来て、はじめて自分が報われたように感じたんです。死んだ彼とやっていたときは一切お客さんがいなかったので、そういう歓声を自分も彼も聴くことがなかった。だから、彼が浴びさせてくれたのかもしれないな、と思ったり(笑)。

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