2020/11/25 19:00

デビュー20周年を迎えたサカノウエヨースケ、これまで語らなかった幼少期の風景を追憶する新作リリース

浅倉大介プロデュースで2000年メジャー・デビューを果たし、現在は米原幸佑とのアコースティック・デュオ「ヨースケコースケ」や、VTuberなどへの楽曲提供など、多岐にわたる活動を行うシンガー・ソングライター、サカノウエヨースケ。そんな彼が今年デビュー20周年を迎える。そんな記念イヤーに、新たに6ヶ月連続配信リリースに挑戦中。今回、第5弾リリースとなる「Say!ハローハローハロー / アカイミツボシ 〜BRIGHT MIX〜 / I♡BOB DYLAN」リリースのタイミングでインタヴューを実施。前半ではサカノウエヨースケとしての活動をスタートさせた当時を振り返り、後半では共に活動するバンド、SPIRAL SPIDERSのメンバー、DAKENとの対談をお届けします。

6ヶ月連続リリースの第5弾!!

INTERVIEW : サカノウエヨースケ

2020年はサカノウエヨースケにとってデビュー20周年の年であり、彼が所属するバンド・サカノウエヨースケ&SPIRAL SPIDERSが再始動して10周年を迎える。そんな節目のタイミングに、OTOTOYではサカノウエのソロ・インタヴューとSPIRAL SPIDERSの対談企画を敢行した。第1章では最新曲『Say! ハローハローハロー』をテーマに、これまで明かされることのなかった彼の生い立ちについて迫る。そして第2章ではSPIRAL SPIDERSとの関係性や、彼らの会社・YKファクトリーがどのような形で会社運営を行なっているのかに迫る。

インタヴュー&文 : 真貝聡
写真 : 作永裕範

お医者さんになるために、学校選びも習い事も全てが決められていた

──前回、吉川友さんと対談された時に取り上げた『抑えきれない僕らのJ-POP』は、いままでの音楽人生の集大成となる楽曲でしたよね。

サカノウエヨースケ(以下、サカノウエ) : そうですそうです。集大成的なオマージュというかね、リスナーとして聴いてきた1990年代のJ-POPに特化した曲でした。

──今回、配信される『Say! ハローハローハロー』は『抑えきれない僕らのJ-POP』よりも前の、幼少時代を歌っている楽曲なので、この2作を並べるとヨースケさんの人生が繋がったような気がして。

サカノウエ : 改めてシンガー・ソングライターという肩書きを名乗っている以上、意味のある歌詞を残しておく必要があると思って。それで『Say! ハローハローハロー』は、いままで語ってこなかった幼少期の風景を歌にしてみたんです。なかなかね、この手のタイプの曲はたくさんの人が聴いてくれるかどうかアレなので、ちょっとデリケートな感じではあって。

──このタイミングでヨースケさんの人生を振り返る曲を作ったのは、どうしてだったんですか?

サカノウエ : シンガー・ソングライターって、メロディよりも歌詞を先に考える人が多いと思うんですよ。まず伝えたいことがあって、そこにメロディを乗せていく。僕も『抑えきれない僕らのJ-POP』は歌詞から曲を作っていった。だけど今回は先にメロディを作りました。当初はチル系のトラックにしたかったんですよ。テニスプレイヤーの大坂なおみさんのボーイフレンドであり、ラッパーのYBNコーデーという方がいらっしゃるんですけど。その人の音楽は優しいチル系のサウンドが特徴なんです。ああいうトラックを作りたかったんだけど、蓋を開けたら生バンドっぽいビートになっちゃって。これはゆるい世界観の歌詞では成立しないなと。じゃあ何を当てはめようかと考えたときに、もう少し内面を掘っていく必要があった。で、5歳から10歳までの自分を書くことになったんです。

──『抑えきれない僕らのJ-POP』のときに「最初はラップにしようと思った」と言ってましたよね。ただ、ラップにしてしまうと歌詞が暗い印象になってしまうので、アコギメインのJ-POPサウンドに仕上げた。今作はヒップホップのトラックに乗せて淡々と歌うことで、エピソードが重く響いて聴こえる。

サカノウエ : だからこそ曲だけで聴くよりも、曲の背景を言葉にした方が絶対に伝わると思って。それで逆オファーじゃないですけど「真貝さんに、この曲を読者の方へ言葉で伝えて欲しい」という思いでお願いしたっていう。

──言ってしまえば、生い立ちの歌ですよね。「父さんが握った命のメス」という歌詞があるように、ヨースケさんは代々お医者さんの家庭に生まれて。

サカノウエ : そうなんですよ。生まれたときにレールが決まっているみたいな感じの家でしたね。お医者さんになるために、学校選びも習い事もすべてが決められていました。

──お父さんの研究室でたくさんの解剖書や研究書を目にした、という歌詞がありますけど、これは何歳の記憶ですか。

サカノウエ : 小学1年生の頃ですね。お父さんが働いている大学病院に研究室があるんですけど、お昼にお父さんに会いにいって。僕は研究している様子を側から見ていたんです。あの頃の光景をそのまま歌詞にしましたね。

──それが歌詞になっているということは、大人になったいまも記憶に強く残っている。

サカノウエ : 研究室っていまみたくパソコンがあって、書類が整理されてる感じではなかった。部屋中にカエルとかネズミとか薬品がバーッと散乱しているような、昆虫解剖の部屋みたいな感じだったので、記憶に残っているんですよね。

──自分の家庭環境が特殊であることに違和感は抱きました?

サカノウエ : えっと…… 小学6年生まではなくて。中学校に入ったあたりから徐々に周りと自分の環境の違いに違和感を抱くようになりましたね。「アレ!? みんなカーディガンを着いひんの!?」みたいな(笑)。ぜんぜんお金持ちとかじゃなかったんですけど、遊びに行くときにみんなラフな服装でビックリした。半袖半パンの子を見ながら、ウチと違うなって。

──お堅い家庭で育った場合「音楽をやりたい」と言っても「はい、どうぞ」とはならないですよね。

サカノウエ : 打ち明ける前から、受け入れられるはずがないと思ってましたね。親に言っても理解してもらえないだろうな、と中学生なりに考えた結果、ひとまず親が納得するような結果を残しておこうと。親的には良い高校へ入ることが「お医者さんになる第一歩」という感じだったので、文句を言われないように望まれた高校に入る必要があった。なので中学生のときに独学で受験勉強をして、地元で一番良い高校に合格したのを機にはじめて「これで俺も好きなことをするね。実は、音楽をやりたいんだ」と相談しました。

──そこからは音楽漬けの毎日だったんですか。

サカノウエ : 『抑えきれない僕らのJ-POP』でも歌っていた通り、僕が高校生だった1998年頃はCDがものすごく売れていた。いわゆる音楽バブルだったので、コンテストもいっぱいあったし、デモテープ・オーディションとかライヴハウスのオーディションとか、そういう音楽をはじめるためのチャンスがたくさんあったんです。高校1年生でバンドのコンテストに応募して、それでつんく♂さんのグループ(すっぽんファミリー)に誘われることになりました。だから高校入学の段階で音楽漬けだったと思います。

──その頃、ご両親は音楽をすることを了承していたんですか。

サカノウエ : 認めてもらってなかったです。特に、お父さんからは強く反対されてた。だから一刻も早くデビューすることで、親も認めてくれると思ったから10代は焦っていたと思います。まあ…… デビューしてからの20代も大変でしたね。守られていた環境から抜け出して、巨大すぎる壁に圧倒される10年だったんじゃないかなっていう。

──〈アンティノスレコード〉からデビューしたものの、3年目でレコード会社消滅という事態になりましたもんね。

サカノウエ : そうですそうです。本当にしんどい時期でしたね。

──「医者を目指していたら」とよぎることはありました?

サカノウエ : あえて考えなかったというか、もしかしたら選択肢から外して自分を追い込んでいった感じなのかもしれないですね。

──僕がはじめてヨースケさんを知ったのは雑誌『Go!Go! GUITAR』の中で、たしか『春風〜金色の匂いが僕らをつつんだ日曜日〜』とか『ジョバンニ』の頃だったのかな。いまのような自分の人生を赤裸々に歌うような作風じゃなかった。だからこそ、このタイミングで『Say! ハローハローハロー』をリリースすることは、リスナーの人も感慨深い気持ちになると思うんですよ。

サカノウエ : 僕はお医者さんにはなれなかったけれども、音楽で人を元気付けたり勇気を与えたりすることはできると思う。改めてシンガー・ソングライターという仕事を見つめ直したときに、やっぱり意味のない歌は作っちゃダメだなと思うし、その肩書きに恥じないような表現をしたいと思ったからこそ、ちょっと一回深い曲を投げるよっていうか。いまこそ、それが必要だと思いましたね。

トレンドを狙いにいく正攻法とは真逆のアプローチなんです

──今回は6ヶ月連続リリースという企画のもとリリースされるわけですけど、この企画の発端はなんだったんですか。

サカノウエ : 今年デビュー20周年目というタイミングもあり、まずはいままでライヴで人気だったナンバーを集めた無観客ライヴを映像化したベストヒットDVDを作ろうと思ったんですよね。一方で、昔のサカノウエヨースケを詰め込むだけじゃなくて、配信では最新の楽曲を届けたいと思った。それで6ヶ月連続リリースを思い付いたんです。

──今回は他にも“アカイミツボシ ~ BRIGHT MIX ~”、“I♡BOB DYLAN”が収録されてますね。

サカノウエ : “Say! ハローハローハロー”の1曲だけだと自分色が強すぎると思って、もう少しファンのためにできることはないかなと考えました。僕が個人的にやっているオンラインサロンで「みんなの好きな曲はなに?」と質問したんですよね。そしたら自分が思っていたよりもさらに個人的な「いつ演奏したっけ?」みたいな曲を挙げる方がすごい多かったんです。“アカイミツボシ ~ BRIGHT MIX ~”に関しては、僕が〈EMI〉に所属しているときに出したデビュー・アルバムの収録曲で、しかもライヴ音源やったんですよ。だから本当に知る人ぞ知るみたいな楽曲で。当時のライヴ音源を入手して、それを聴いて清書していくみたいな作り方で進めていきました。

──3曲目“I♡BOB DYLAN”はどうですか?

サカノウエ : “I♡BOB DYLAN”に関しては、ライヴでも数回しか演奏したことがない未発表曲なんです。美術館へ行って、ちょっと自分の意識が高くなった気がしてうれしくなるときがあるじゃないですか。ああいう感じで、ボブ・ディランのレコードを聴いて、いろんな歴史を知って「ボブ・ディラン様はすごい」みたいな知ったかぶりになっているときに“I♡BOB DYLAN”とそのままの楽曲を作って。サウンドにはいろんなコンテンポラリーな音を入れて、実験的な楽曲に仕上げましたね。

──話を聞くと、今回の3曲はヨースケさんの濃い部分が出ていると。

サカノウエ : すごい出てると思う。時代と帳尻を合わせるとか、トレンドを狙いにいく正攻法とは真逆のアプローチなんですけど、シンガー・ソングライターやし、それで良いかなと思って。万人には刺さらないかもしれないけど、その内の1人がまた10年とか20年と大切に思い続けてくれるかもしれない。だからこそ、こういう濃いめの作品を出させてもらいましたね。

父親と話す親子の絆が欠落してると気づいた

(その後、再びサカノウエの家族について話す)

──ヨースケさんの家柄の話って、すごい前になにかで知ったんですよ。それがなにかを思い出せなくて。

サカノウエ : それこそ音楽番組『うたばん』とかテレビで取り上げられたのかもしれないですね。ただ、自分の口から語るというのはいままでしたことがなかったです。自分がお父さんの期待に反して音楽の道を志したこともあって、実はお父さんとちゃんと話しをするようになったのもここ3、4年なんです。それまで疎遠状態やったんです。ずっとシコリがあって、公の場では言えなかったんですよ。

──じゃあ、その間は連絡をすることもなく?

サカノウエ : うん。完全に距離がある状態でした。自分の会社(YKファクトリー)を立ち上げるのをきっかけに、久しぶりにお父さんに会って。「1回きりの人生なので、この会社と音楽に自分の人生を捧げるよ」と。そしたらお父さんも「わかった。頑張れよ」と言ってくれたんです。ちゃんと対面して話をすることは、上京するのも早かったですし35歳になるまでなかったですね。お医者さんになれなかった人生とか、親の期待に応えられなかったこととか、後ろめたい気持ちがどこかにあったので避けてきたんですよね。

──じゃあ、お父さんと和解をしていなければ『Say! ハローハローハロー』ができることもなかった。

サカノウエ : できなかったですね。「親とちゃんと話をしなければ、ちゃんと一人前になれないんじゃないの?」とある日、友人から言われたことがあって。デビューしてからずっと、いろんな音楽を作って喜んでもらおうとやってきたけど。ふと自分を見つめ直したときに、当たり前のように父親と話す親子の絆が欠落してると気づいた。それで父親と会ってみようと思ったんですよね。最初はお互いに敬語で、なんともいえない不安定な親子の会話というか。めっちゃ不思議な一夜だったんですけど。

──お父さんはどんな人なんですか?

サカノウエ : どうだろうなぁ…… 本当に真面目な人ですね。阪神淡路大震災が起きたとき、瓦礫に埋もれた人がたくさんいて「いますぐ助けてほしい」とお願いされるんですけど、お父さんはお父さんで自分が務める病院へ行かなければいけない。目の前の人を助けることと、一刻も早く病院へ行って担ぎ込まれた重傷患者を助ける選択肢に迫られたみたいで。「あのとき…… 俺はどうしたら良かったんや」と小さい僕にも普通に話すような感じだったので、ずっと核の話をするような人でしたね。小さい頃に見た父親の葛藤や考えが、39歳のいまになって少し理解できるようになった。やっぱり、こう言う曲を作らなければいけなかった気がしましたね。

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