2019/11/09 00:00

対談 : 小西康陽 x クボタタケシ ── 1990年代のピチカート・ファイヴと、DJと

ピチカート・ファイヴの珠玉の名曲たちがついに配信スタートしました。野宮真貴をヴォーカリストに迎え、日本コロムビアからリリースされた楽曲(1991年〜2001年)を、シングル曲を中心に小西康陽が完全監修でついにニュー・エディット&ミックスを行い、さらに全曲新たなマスタリングでリリース。題して『THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001』。「レコードの日」にすでにスペシャルな7インチ・ボックスとしてもリリース。

対談 : 小西康陽 x クボタタケシ

OTOTOYでは『THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001』の配信開始とともに、当時のピチカート(とくに1990年代中頃)のそのサウンドにひとつヒントを与えていたであろうDJ〜クラブ・ミュージック的な音作り、その源泉となっていたであろうDJとしての小西康陽に迫るべく、同時代よりDJとして活躍するクボタタケシに登場してもらい対談をお届けしましょう。
クボタタケシは、1990年代初頭の伝説的なヒップホップ・グループ、キミドリは言わずもがな、ソロとしてのリミックス・ワーク、そしてなによりDJとして現場、そしてミックステープ・シリーズ『Classics』などでシーンに大きな影響をおよぼしてきた。出自こそ違うが、お互いDJとして1990年代初頭より活動を続け、現在は小西、クボタ、そして須永辰緒を迎えた3人よるレギュラー・パーティ〈BY-PASS〉を行うなど現場での共演経験も多い。このふたりに質問をぶつけるのは、当時のピチカートの活動や小西、そしてクボタタケシのDJに感化され、自らもDJをはじめ、現在では〈ナイトリズム〉やクボタタケシとの新しいイベント〈number〉他で活動するDJマイケルJフォクスだ。当時の話、そしてそのレコード愛に満ちた会話をお楽しみください。

インタヴュー : マイケルJフォクス
写真 : 沼田学

はじめてのDJだったから舞い上がってて、ぜんぜん覚えてないです

左にクボタタケシ、右に小西康陽

──まずはじめに、おふたりがDJをはじめたタイミングや場所などについて伺います。

小西康陽(以下 : 小西) :たしか1989年か1990年ぐらい……正確な年は定かじゃないんですけど、その頃、マガジンハウスで原稿を書く仕事をやってたんですよ。担当編集が岡本仁さんだったんですよ。

クボタタケシ(以下 : クボタ) : 『relax』編集長の。

小西 : そう、もちろんもっと昔のことなんですけど。当時のマガジンハウスの仕事で、岡本さんが編集者として仕切りの取材だと、ほぼ必ずカメラマンとしてついてきてくださってたのが長田定男さんだったんですよ。

クボタ : ええ~、そうだったんだ。そうか、カメラマンですよね。

小西 : 長田さんは仕事にくるたびにレコードの袋を持っていて。「どこで買ったんですか?」とか「なにを買ったんですか?」とかやってたんですね。レコードの話ばっかりしてたら「小西くん、レコードがそんなに好きだったら、DJやってみれば?」と言われて誘われたのが最初。当時、西麻布にあった〈P.ピカソ〉で、アマチュアDJがフリーで参加できたイベントがありまして。そこで1度やらせてもらったのがはじまり。それから次々とDJのお誘いがくるようになって、それからですね。

クボタ : 長田さんはじまりなんだ、はじめて知った。その当時の長田さんってことはレゲエですよね、ダンスホールとか。

小西 : レゲエとかスカが多かったですけど、その他もいろいろかけてましたよ。

──クボタさんは?

クボタ : 自分も人前でDJをはじめたのが1989年、しかも大晦日。いきなり〈川崎クラブチッタ〉だったんですよ。日本のハードコア系のバンド、ボアダムス、SxOxB、LIP CREAMなんかが出てて。当時そういうライヴばっかり行ってたから、そういう現場で知り合ったガクちゃんという友だちがいて。そのガクちゃんがSELFISH RECORDSの岡本さんと仲良くて。その流れで「いっぱいレコード持ってるならDJやってみない?」というのがはじめですね。そのイベントでは早すぎたバック2バックでDJを。それはキミドリをやる前かな。その後は、小西さんの話じゃないですけど、いろいろと誘われるようになって。その後、下北沢のZOOではじめてレギュラーをもらえたという感じですね。

──小さなクラブ的なものがやっと出てきた時代、いわゆるディスコの職業DJではないところからDJをはじめた、という感じですよね。

小西 : そうですね。

クボタ : 当時の〈P.ピカソ〉、実は一度もいったことないんですよ。当時ライヴハウスばっかり行ってたから。ちなみに小西さんが出たそのイベントは、〈DJバー・インクスティック〉がやってたオーディション、DJゴング・ショーみたいな感じでした?

小西 : ゴング・ショーではないですね。はじめてのDJだったから舞い上がってて、ぜんぜん覚えてないです(笑)。

クボタ : 1曲くらい覚えてますよね。

小西 : かけたレコードはほぼ覚えてるんだけど…… ブライアン・ベネットとかですね。

クボタ : そういう意味では変わってないですね。そうか、でもほぼ同じ時期なんですね、スタートは。

小西 : その翌年ぐらいから〈DJバー・インクスティック〉で月1回のイベントがスタートして。

クボタ : 当時はYOU THE ROCKが店員の頃?

小西 : 当時はBEN THE ACEさんですね。いつも、機材の使い方とか教えてもらっていました。

クボタ : たしか僕らも〈DJバー・インクスティック〉は1度だけ、キミドリやる前にゴング・ショーみたいなのに出てて、たしかまだ人数が多かった頃のライムスターも出てたな。当時、YOU THE ROCKに機材の使い方を教えてもらったのは覚えている。

──いまでは同じ現場でDJをやられることも多いと思います。とはいえおふたりはDJとして別々の出自です、初めて共演されたのはいつ・どこだったか覚えていますか?

小西 : えっと、青山のスパイラル?

クボタ : いや新宿時代のリキッドルームですよ。

小西 : え? そうだっけ?

クボタ : 小西さんの後にDJやったんですよ。結構、バンドもふくめていろんな人が出てたイベントで。

小西 : え、それスパイラルじゃないの?

クボタ : いや、あのリキッドルーム特有の床が揺れる感じとか、すごいよく覚えてる。小西さんがものすごいあげて、その後にどうすればいいんだって思ったのを覚えてますね。1997か1998年かな。逆にスパイラルでやったイベントはなんですか? 逆にすごい気になる……。

小西 : 自分の後にクボタくんで、ビーチ・ボーイズの「Dance, Dance, Dance」をかけたのは覚えている。

クボタ : 曲は覚えてるんだ(笑)。

小西 : アゲアゲのDJやってて、クボタくんに見られて恥ずかしいなと思ったんだけど……。

クボタ : あ、やっぱりリキッドでやってた〈FREE FORM FREAK-OUT〉じゃないかな。シーガル(スクリーミング・キス・ハー・キス・ハー)出てました?

小西 : 出てたと思う。

クボタ : 1997年とか1998年とかだから年代的にもあってると思う。

小西 : そうなのか……。

クボタ : まだ、小西さんにちゃんとご挨拶はしたことなくて、そこでご挨拶しようと思ったら、もう帰っていなくて。

──他の現場でお互いのDJを見るみたいなことはあまりなかった?

小西 : 俺はクボタくんのミックステープを買ってたもん。

クボタ : そうですよ、僕、小西さんからミックステープ聴いてラヴレターもらってたんですよ。

小西 : ファックスだっけ?

クボタ : 違いますよ(笑)。ちゃんと自筆のお手紙と、小西さん関係のプロモ盤を一杯いただいて。ファースト・コンタクトは『relax』の自分のインタビュー記事に対してですよね。

小西 : 赤帽さんのことだ。

クボタ : そうですよ。東京駅から地方に行くときは赤帽さんにレコードを一式預けて、お弁当とか買い物を済ませてホームにあがる、そうするとそこまで赤帽さんが届けてくれるサービスがあるということが手紙に書かれていて。それ知らなくて、小西さんに教わって使うようになったんですよ。

小西 : それを話したのか。

クボタ : すごい便利でよく使ったんだけど、その後すぐになくなっちゃいましたよね。

小西 : DJに流行りだして「嫌だな」って思われたんじゃないですかね(笑)。

──キミドリやリミキサーとしてとか、そもそもがクボタさんの場合はDJ的なところでトラックを作ってたと思うんですけど、まさに今回リイシューされるピチカートの音源は小西さんがDJ活動を開始してから生まれた楽曲たちで、それこそ1980年代の作り方とは全く違う感覚で作っていたと思うのですが。音作りにおいてここは時代として変わったなと思うタイミングはありましたか?

小西 : どこの現場だったか忘れたけど、ライヴハウスみたいなところかな、自分たちのライヴの前に、レコードをちょっとかけるという機会があって。フィル・スペクターがプロデュースしたティナ・ターナーの「River Deep, Mountain High」。すごい好きな曲なんだけど、クラブでかけたら音がぐわんぐわんに回ってしまって、全然良くなくて。「ああ、DJでかける曲ってヘッドフォンとかで最高な曲とは違うんだ」と思うようになって。それが最初の気づき、変化だったのかもしれない。

クボタ : 「River Deep, Mountain High」、ジョージ・ハリソンが世界で一番好きな曲ですよね。

小西 : それから、ずっとかけてなかったんだけど、この前、若いDJが七インチとかでかけてて、やっぱり良い曲だなって(笑)。

クボタ : あの曲、自分も好きなんだけどポータブル・プレイヤーが一番良く聞こえたりするんですよ。むしろ家のシステムで聴くと「なんか違う」って思う。それをモノラルにするとちょうどよかったりする。

小西 : フィル・スペクター、教えられることが多い。

──当時、自分たちの音を作るときの意識もそこで変わっていったと。

小西 : でもそれは流行でもあったと思う。僕らの音に限らず、例えばエイベックスの一連の音もその前の時代に比べると低音は多かったと思うし。

──今回の再発は、時代的は特にサンプリング・ミュージック的なアプローチがやっぱり多いとは思うんですけど。

小西 : 1987年に『couples』、続く『Bellissima!』を作って、その当時はエヴァー・グリーンなものを目指して作ろうと思っていました。1990年代に入る頃になると、その感覚で作るのはやめようと思うようになって。ローリング・ストーンズの「Satisfaction」を聴くと、やっぱり「あ、60年代中頃だな」って感じになるでしょ? そういう感覚で「いかにもその時代に作られた音楽にしよう」ということを意識するようになって。1990年代のピチカート・ファイヴの音源をいま聴くと「1990年代ってこういう感じだったな、懐かしい」って思うでしょ? そういう音楽にしようと意識的に思ったんだよね。時代の流行を積極的に取り入れようという方向に変化していきました。

──よくインタヴューでも、プロデュース曲に関して「この時代の小西康陽の音を意識させたい」というようなことをおしゃってますよね。いま改めて、再発された楽曲を聴いてもそういう感覚が強いと感じました。

小西 : その時代の刻印があるように作ってたと思う。

レコードの時代、今昔

──DJカルチャーに付随して、1990年代は例えば渋谷のレコードショップの勢いとか、いまのレコード・ブームとは違った感覚があったんじゃないかと思うんですが。

クボタ : 僕自身は、1年間シスコにいたから、レコード・バブル前夜みたいなのはわかるけど…… でもその時点でいま考えると異常でしたね。シスコは各ジャンルのショップがまだなくて、渋谷店と札幌と、新宿アルタ、上野があっただけ。ア・トライブ・コールド・クエストの12インチが新しく出ると、渋谷店だけで1000枚取ってて、それが全部売れちゃう時代。700枚だとショートしちゃう時代。例えばルシャス・ジャクソンのミニLP、リリース元の〈グラウンド・ロイヤル〉と直接交渉して1200枚とか入れてましたね。そのぐらいの勢いがあったと思う。

──そういう1990年代中頃以降のレコード・ブームとは関係なく、それ以前から積極的にピチカートはアナログを切ったりしてましたよね。戦略的な見通してとかありましたか?

小西 : なんにもない(笑)。やっぱり自分が欲しいものを作るという。CDも出したけど、プロモでアナログ盤だけのを作って…… 自分さえ手に入ればいいという(笑)。CDに乗り換えたことあった?

クボタ : 一番はじめに音楽を聴きだしたときはカセットテープだったんですよ。学生時代は寮の部屋でレコード買っても聴けなかったんで、むしろ輸入盤よりカセットの方が高かったんですけどそれしか聴けないから買ってましたね。CDをまわりは買い始めてたんですけど、その後はレコードをすぐに集めるようになって。だからレコード買い始めたのは実は遅くて高校出て19歳とか。

小西 : CDは本当に買わなくて。CDが出て、そのせいでレコードに火がついた気がする。

──“じゃないもの”という感じですね。

クボタ : それがレコードバブルに繋がっていくという。

──自分はリアルタイムに1990年代当時、ピチカートのレコードを買っていて。そのレコード棚にもうちょっとレコードが欲しいなと、いわゆる渋谷系の元ネタなレア・グルーヴをピチカートファイブやレコード屋さんから教えてもらって探していた感じがあって。僕はピチカート・ファイヴのポータブル・プレイヤーを買って、その足で小西さんのDJを聴きにいったことがあるんですよ。

クボタ : 気持ち悪いよ(笑)。なんのカミングアウトだよ。

──そういう時代だったという(笑)池袋のP'PARCOで小西さんがDJをやるというので埼玉の田舎から高校サボって。現場で最初に見たDJが小西さんです。ちなみに当時おふたりはどこでレコードを買っていました?

クボタ : 僕はいまと変わらないですよ、レコード屋さんがあればまず入る。

小西 : 1990年代は僕も渋谷ですね、ZEST、DMRとか……。

──シスコが無くなったのが象徴的ですけど、2000年代後半に渋谷のレコード店が一端衰退しますが、いままたレコードブームが来てますがおふたりはどう思ってますか?

小西 : 正直、自分は新譜は買ってなくて。もうかなり経つ。

クボタ : そうなんですか?

小西 : 新しい音楽が好きじゃないというのか、理解できなくなったというのか、どう言えばいいのかわかりませんが、年を取ってしまったんですね。

クボタ : 例えばトラップとか新しい音楽じゃなくて、1960年代のヴィンテージな音をいまやるみたいなものも?

小西 : 昔の音楽をほぼ中心に聴いている自分、そんな自分が接点を持てる新しいレコードは買って、チェックしてますよね。

クボタ : 少林兄弟とか?

小西 : 少林兄弟とかもそうだけど、ブルーハーツの人たちの音楽でもいいんだけどさ。とにかく新しい打ち込みの音楽とかは全く聴かなくなったね。もう15年位前から。『マーキー』のチャートに「12インチ・シングルさようなら」って書いたんだよね。その頃から。

クボタ : あのチャート、俺もやってたんだ。その記事を見た覚えある。

小西 : 12インチ・シングルみたいなものに興味が無くなったんだよね。

クボタ : そういう意味じゃないと思ってたんで。俺はずっと買い続けてますね。最近ではレコードとかCDになってないものはデータも。

小西 : 12インチというメディアの名前で書いたけど、端的に言うと12インチでリリースされるような音楽。

──いわゆるダンス・ミュージックになりますね。

小西 : イントロが長くて、低音もすごい入っている音楽にさようならと。相変わらず昔のレコードはすごい買ってますけどね。

筒美京平さんがやっていたような音楽に、1990年代っぽいダンス・ミュージックの構造をかけあわしてアレンジした音楽

──今回リリースされる1990年代~2000年代初頭のピチカートというと、まさに「12インチでリリースされるような音」がたくさん入っていますよね。

小西 : そうそう。今回、すごい苦労したのは曲の長さ。基本的には当時の音は、僕が大好きな歌謡曲、筒美京平さんがやっていたような音楽に、1990年代っぽいダンス・ミュージックの構造をかけあわしてアレンジした音楽だったから、さっきいったような12インチ対応サイズの音楽だったんですよ。イントロもそれなりに長くて、3番まで歌詞もあって。だけど、それを7インチ・サイズに今回エディットするのにすごい苦労した。バッサリやらなくちゃいけない。それを今回は他の人にやられたくなかったんで、自分でやって苦労したという(笑)。あとは単純に低音が多いと7インチに入らないんで、全体の印象を変えずに、ある周波数帯をカットしたりとかけっこうやってますね。

──45回転ですか?

小西 : やっぱり45の方が音が良かったんで、2曲を除いて、今回のボックスは全て45回転。カットインでレコードをDJで使うときに、33回転だとガッツが出ないんだよね(笑)。

クボタ : そこか(笑)。

小西 : とにかく自分がDJするときに使いやすい形で作ったという感じですね。自分用に作っているものを売るんでね、申し訳ない気持ちでいっぱいです。1970年代とか1980年代の歌謡曲の人たち、本当にすごいと思って、それに近づきたいと思って当時作ってたんですけど、7インチにするとその思いがさらによくわかるという。

──7インチ・ボックスという企画も。

小西 : 自分が欲しいもの作ったという感じですね。

クボタ : でも基本そうですよね。

小西 : 残したもん勝ちですよね。

──残ったものが後々新しい世代に聴かれる、という事についてどう思われますか?

クボタ : 聴いてもらえるのは嬉しいです。ただ、自分はミックスCDにしても作り終わったらもう忘れるというか、ミックスCDも自分で聴いたことないし。過去の自分が出てるYouTubeとか本当にみたくないし。

小西 : でもクボタくんのミックスCD……それは(須永)辰緒さんのもそうだけど、落語家さんの名人会のレコードに近い。すごくいい高座、基本的にはその場で消えてしまうものなんだけど、たまたまそうやって記憶されていて。

クボタ : それも他に書いていただいたことがあって、その文章飾っとこうかなという。

小西 : 落語家さんも、それぞれの噺で40代、50代、60代で語り方が変わっていくじゃない? それと同じで、同じレコードやつなぎ方も、時代とともに変わっていくんじゃないかと思う。DJとしては、俺もそうありたいと思ってますけどね。

──ちなみにクボタさんからみた小西さんのフェイバリット・ワークってなんなんでしょうか?

クボタ : そんな俺が言うなんておこがましい…… 。ヒップスター・イメージのリミックスをやられたときに、7インチのプロモでいただいて、それ本当にボロボロになるまでかけてたんですけど。本当にすごく良い、オリジナルよりも好きかもしれない。

100円レコードばっかり買ってるから

──さて最後の質問です。おふたりがいま、DJでかけたい曲はなんでしょうか?

クボタ : 曲ってことではないんだけど、いま好きな流れはドゥーワップのオリジナルの7インチをかけて、そこから跳ねてないユルいニュー・ジャック・スウィングの7インチをかけるとすごく気持ち良い。100円ぐらいで売ってるやつなんですけどね。

小西 : 僕はいま100円レコードばっかり買ってるからな…… 。

クボタ : 100円レコードなんてほとんど持ってるんじゃないですか? なに買うんですか?

小西 : やっぱり歌謡曲かな。風見しんごの「僕 笑っちゃいます」なんてもってないから、つい買っちゃうんだよね。いまかけたい曲…… 1990年代のクラブ・ミュージックって、イギリスとかドイツだと無理矢理7インチになってるじゃない? アレが結構好きなんだよね。クリスタル・ウォーターズ「Ghetto Day」を、そういう仕様で見つけてうれしかった。

クボタ : 「Gypsy Woman」とかもありますよね。

小西 : あ、あるんだ。

クボタ : 「Ghetto Day」の少し前だからありますね。

小西 : じゃあ、いま探しているのはクリスタル・ウォーターズ「Gypsy Woman」の7インチということで(笑)。

REVIEW

圧倒的なダンスグルーヴと、アンニュイな詩世界・コード展開
レヴュー:『THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001』

文 : マイケルJフォクス


『THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001』はこちらから購入


UKクラブ・カルチャーから沸き起こったアシッド・ジャズムーヴメントやマンチェスター・サウンド(当時は称して”おマンチェ”なんて呼び方も!)などの色濃い影響を感じさせる日本コロムビア期初期楽曲から、80年代の狂騒・喧騒をシニカルに俯瞰したようなソフィスティケイトされたハウス・ヒップホップ サウンド、ドラムンベース〜ビッグビートの勃興に対し過剰にヒット数を詰め込んだドラムブレイクやマンボ・ボッサブレイクとバカラックを思わせる上質なアレンジが融合された楽曲群、それらを超える力強さ=ある種のマチズムを求めただろうロックンロール回帰(そもそも小西さんに素養としての一般的ロックンロールっ”気”はなかったのではないかと勝手に想像)これぞ“小西節”とも言える楽曲・エディットスタイルへの昇華、音響、サンプリング、エトセトラエトセトラ……。

山下達郎が”DANCER”や”JUNGLE SWING”で描いた孤独や焦燥感にも通ずる、90年代のクラブミュージックとピチカート・ファイヴが寄り添っていた憂鬱でハッピーな世界を再確認。ピチカート・ファイヴ「THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001」を聴いて、お家で、クラブで、泣きながら踊ろう!

INFORMATION

数量限定16枚組7インチ・ボックス仕様でもリリース

ピチカート・ファイヴ『THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001』は数量限定16枚組7インチ・ボックス仕様でもリリース。ジャケットデザインはピチカート・ファイヴの作品を数多く手がけてきた信藤三雄氏。封入特典:小西康陽、野宮真貴直筆サイン入り生写真、ナンバリング入り。また通常版CD2枚組も詳しくは下記、コロムビアミュージックショップへ

7インチ・ボックスセット


詳細・購入などはコロムビアミュージックショップへ

PROFILE

PIZZICATO FIVE

1984年、小西康陽、高浪敬太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子によって結成。翌年、細野晴臣プロデュースにより12インチシングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でデビュー。1987年、鴨宮諒、佐々木麻美子が脱退。1988年から1990年までオリジナル・ラヴの田島貴男が在籍。1990年、野宮真貴がヴォーカリストとして加入。1994年、高浪敬太郎が脱退し、小西と野宮のユニットとなる。
「スウィート・ソウル・レヴュー」「東京は夜の七時」「ベイビィ・ポータブル・ロック」など、ヒット曲を数多く生み出し、90年代に日本の音楽シーンを席巻した「渋谷系」アーティストのひとつとして支持を得た。
また、1994年5月にはシングル「5×5」でアメリカ・デビュー、秋に発売したアルバム「Made In USA」のセールスは全世界で20万枚を突破。1995年2月(アメリカ10都市、ヨーロッパ4都市)、1997年9月(アメリカ14都市)に2度のワールドツアーを敢行した。 その後も意欲作を次々と発表し、精力的な活動を続けたが、2001年3月31日にベスト・アルバム第3集「Pizzicato Five R.I.P. Big Hits and Jet Lags 1998-2001」をリリースし、その長い歴史に幕を下ろした。

クボタタケシ

1991年、ラップグループ「キミドリ」のラッパー/サウンドクリエイターとして活動を開始。
1993年、アルバム『キミドリ』と、1996年『オ.ワ.ラ. ナ.イ』の2枚の公式作品を残してキミドリはその活動を休止するが、クボタはその間から現在まで数々のリミックス、プロデュース、そしてDJとしての活動。まさに“オール・ジャンル”なミックス・テープ / CDシリーズ『CLASSICS』〜『NEW CLASSICS』などでシーンに大きな影響を与え続けている。

http://kubotatakeshi.com/

[インタヴュー] ピチカート・ファイヴ

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