【連載】〜I LIKE YOU〜忌野清志郎──《第5回》宗像和男 × 森川欣信(後編)
INTERVIEW : 宗像和男(株式会社リズメディア 顧問) × 森川欣信(オフィス オーガスタ最高顧問)【後編】
1979年から、キティレコードでRCサクセションのディレクターを務めた森川氏、宣伝担当として携わっていた宗像氏。共に忌野清志郎に才能にほれ込んでいた2人はいかにして清志郎を世に送り出していったのか?また、『RHAPSODY』を機にRCが破竹の勢いで音楽シーンを席巻していく中で、清志郎はどのように変化していったのだろうか。そして、2人が選ぶ3曲とアルバム1枚、若い世代へのメッセージまでたっぷりとどうぞ。
企画・取材 : 岡本貴之 / ゆうばひかり
文・編集 : 岡本貴之
撮影 : ゆうばひかり
ページ作成 : 鈴木雄希(OTOTOY編集部)
協力 : Babys
RCや清志郎を否定するやつらに対して「君らの考えてることは間違ってる、いつでも話に出向いてやる」くらいの気概を持って臨んでた
──『RHAPSODY』のジャケットはすべて英語で表記されてますよね。これはどうしてですか。
宗像 : 最初にお話したように僕は洋楽で育ってきたので、RCは僕にとって憧れの素晴らしい洋楽そのものだったんです。だからジャケットもアトランティック・レコードから出てるブラック・ミュージックのレコードを模して、裏は全部英語にして曲目が入っているっていう、海外のレコード会社でよくやっているデザインにしたんです。
──森川さんの文章も英文で載ってますよね。
森川 : これは、すごく思いを込めて書いたんですよ。それを宗像さんの知り合いに英訳してもらって。「いかにRCがすごいバンドなのか、僕らはこの時代にこいつらと一緒にいるなんてこんなに素敵なことはない、だから彼らの音楽を聴いてくれ」って。そして「ひょっとしたらRCは日本から海外にも出て行けるかもしれない」っていうことを書いたら、とある音楽評論家がこれを見て「あなた頭がおかしいんじゃないですか?」って、僕のことをある音楽業界紙に書いて「こんな下品なバンドが世界に出て行けるわけがない」ってRCを酷評したんですよ。それで僕と宗像さんはものすごく怒ったんだよね。
宗像 : それプラス、清志郎の歌詞を批判したんです。汚い日本語がどうのこうのって。本当にクソミソにけなしてたんですよ。
森川 : 僕はもう時間も経ったしあんなヤツの事は今更どうでもいいけど、宗像さんはいまだに赦してないからね(笑)。
宗像 : うん、いまだに赦してない(笑)。
森川 : 清志郎もRCもまだまだ認められてなかったし誤解されてるところが随分あったように思う。RCをしっかり聴きもせず、観もしないで否定するやつらに対して僕と宗像さんは「君らの考えてることは間違ってる、いつでも話に出向いてやる」くらいの気概を持って臨んでいた。ライブを観てもらえさえすれば納得してもらえる自信があった。だから、あそこまであからさまに本人の感情だけで誹謗中傷してる記事を放置しておくわけにはいかなかった。その評論家が所属してる事務所に連絡して、「そちらが一方的にRCを批判してるから、知らない人が本気でその評論を受け取ることだってある。是非一度お会いしたい。僕と対談させて欲しい」みたいなことを要求した。論破してやろうと思ってたから。怒りを抑えつつとても丁寧に何度か電話したよ。結局そいつからは連絡なかったけどね。あの頃は会社から家に帰っても夜に宗像さんから呼び出されて「どうやったらRCが売れるのか?」「RCの何が素晴らしいのか」って、居酒屋で2人でRCの褒め殺し合戦をやってました(笑)。
宗像 : そうそう、他は誰も聞いてくれないから(笑)。
森川 : 何が悔しかったかというと、どうやっても屋根裏どまり、LOFTどまりなんですよ。そこを出て学祭に出たりオムニバスなコンサートに出ても、なんだか盛り上がらないんだよね。彼らも屋根裏でやるときはあんなに爆発力があるのに、大きいところでやるのがちょっと苦手だったりということもあった。なんか実力が発揮できなかった。だけどだんだんシンパは増えてきてるから、もっといけるんじゃないかって。それで、『RHAPSODY』で井出さんが撮ったビデオを30分くらいにまとめたんですよ。当時テレビ局でもビデオデッキがないところがあったんだけど、僕と宗像さんでテレビ局とかラジオ局に、わざわざデッキを担いで持って行って「ぜひ観て欲しい」ってテレビ局のモニターに繋がせてもらって見せてさ。
宗像 : そうすると、何人かは「おもしろいですね」って言う人が出てくるわけですよ。まず見てもらわないとはじまらないですから、なんでもやりましたね。
森川 : でも1980年の夏頃から、ものすごく変わりはじめてた。晴海のオールナイト・コンサート(1980年6月21日に晴海オーディトリアム国際貿易センターで開催された〈晴海オールナイト・ロックショー'80〉)のときなんかはもう、すごかったしね。『RHAPSODY』が出る前からどんどん盛り上がって行ってはいたんだよね。
宗像 : 当時は警備が緩かったので、RCが出る頃になるとお客さんがワーって前に押し寄せてきて、はじまるとステージに上がって来ちゃうんですよ。それでしばらく中断になることがしょっちゅうありました。こっちが怖くなるくらいの勢いでしたね。
森川 : だから、僕と宗像さんが「なんでRCは売れないんだろう」って毎晩悔しがってたのは、あれはじつはたったの1年もないんだよね?
宗像 : そう。10ヶ月くらいなんだよね。でもそれだけ毎日密に話してたんですよね。家にも帰らないし(笑)。
清志郎が持っているポップ・センスを引き出しから出してきた「トランジスタ・ラジオ」
──実際、『RHAPSODY』はセールスも良かったわけですか。
森川 : たぶんオリコン初登場50位だったんじゃないかな?
宗像 : 当時、オリコンは見開きページで左が1位から50位まで右が51位から100位までが掲載されていたんですけど、オリコンの集計が出たときに、当時キティ(レコード)のディストリビューターになっていたポリドールの営業担当者から夜中に「宗像さん、『RHAPSODY』が左側のページに載りましたよ!」って興奮して電話がかかってきて。それくらい、ポリドールの人たちもあのRCのアルバムが50位内に入るなんて想像してなかったんですよ。
森川 : でも実際の売上枚数は、1万枚ちょっとくらいだったんじゃないかなあ。
宗像 : あの当時はそんなものだよね。
森川 : その後RCが大きくなって、CDなんかも出てからキティで調べたら17、8万枚は行ってたはず。でもそこに行くまでに10年近くかかってるんだよね。
──そこから代表曲の1つとなる「トランジスタ・ラジオ」が収録されたアルバム『PLEASE』(1980年12月5日)に行くわけですが、「トランジスタ・ラジオ」が誕生したときのことを教えてください。
森川 : いまでも覚えているけど、ラジオ関東で加奈崎(芳太郎)さんがやっていた番組に清志郎がゲストで出て、その帰りに清志郎と車で帰ってる途中で次に作る曲の話をしていたら、清志郎が「次の曲は、絶対CからAmに落ちてFに行く黄金のコード進行で作るから」って言ってたんだよ。そしたら、次に出てきたのが「トランジスタ・ラジオ」だった。実際はC#っていう嫌なkeyだけど進行はまさにあの日車で話してたシンプルなものだった。『PLEASE』のレコーディングがはじまるか、はじまらないかくらいにもう出来上がっていて、RCがはじめてワンマンを野音でやったときに披露したんだよね。
宗像 : 僕はスタジオには全然出入りしてなかったので、野音でまったくはじめて聴いたんです。もう、「次のシングルはこれだ!」っていうくらいのインパクトはありました。
──初期のRCの楽曲と違うのはもちろん、当時の新しい曲「雨あがりの夜空に」や「エネルギー OH エネルギー」なんかともまったく違うポップスですよね? これは何かインスパイアされたものがあったのでしょうか。
森川 : エレクトリックになってロックなRCになってきたけど、メロディー、歌詞においてどこか一般性というかポップなものを入れなきゃいけないと清志郎は考えてた。そして彼の自伝的な部分、それは誰にも共通する10代のひとコマ、学生の頃に残してきた自分が、君が、そして彼女が音楽に出会って行ったノスタルジックなシーンを歌詞に入れて行くことにトライした。僕もスタジオではじめて聴いたときは「これはすごくいいから絶対シングルにしよう」って思いました。何かにインスパイアされたわけではなく清志郎が持っているポップ・センスを引き出しから出してきただけです。
アナログ盤のカッティングを見に行って「もっとベースの音を入れて欲しい」とか言うと、「針飛びするから無理です」って
──『PLEASE』の歌詞カードに「PLEASE, play it loud」とありますが、レコーディングでのサウンド面に納得していなかったのでしょうか。
森川 : できあがりへの不満っていうのは、そのときはそんなに言ってなかったけど、のちのち言ってましたね。「ちょっと綺麗に録りすぎている」って。彼らもトラックダウンに立ち会って「ああしてほしい、こうしてほしい」って言ってるんだけど、出来上がって家で再生してみると、どうも自分たちが聴いてきた洋楽とは音が違う、と。そこのところはまだ日本のエンジニアも、いまほどロックな音作りにテクニカルではなかったんだろうね。『PLEASE』のエンジニアさんは技術もすごく高い方だったんだけど、清志郎たちの音楽は技術できっちりまとめるよりも、勢いとかパワーをそこに詰め込めるっていうことが欲しかったんだと思う。
宗像 : うん、確かにそうだよね。
森川 : 当時は僕らもよくわかってなかったから、ビクタースタジオの信頼できるエンジニアに相談したり、山梨にあったポリグラムのプレス工場にもアナログ盤のカッティングを見に行っていて。そこで聴いてる限りは音響システムも素晴らしいからどうってことはないんだけど、民生機器用に「もっとベースの音を入れて欲しい」とか言うと、「針飛びするから無理です」ってことになるんです。日本のカッティング規定レベルってあったんでしょうね。
宗像 : ああ、当時はそうかもしれない。
森川 : 日本はアナログ・カッティングのピーク・レベルに規制があったみたいだし、60年代の洋盤と違って、その当時は盤が薄くなっているんですよ。最近はアナログ・ブームでまた180g盤が出てますが、70年代は盤がすごく薄くて柔らかいでしょ? 深くプレスできないというか。そういう事情もあって、清志郎たちが望んでいた洋楽で聴くような音にはどうしてもならなかった。だから、「PLEASE, play it loud」っていうのは、聴くときにフル・ボリュームにして聴いてくれっていう意味で入れたんじゃないかな。でも僕は好きですけどね、『PLEASE』は。
「つ・き・あ・い・た・い」を聴いたときは「宗像さん、これは俺たちのことを歌ってるよ!」って言ったんだよ(笑)
──次のアルバム『BLUE』(1981年11月21日)は、ガラッと音が変わってますよね。
森川 : これは、レコーディングが理想の音にならないから自分たちでなんとかできないかって、りぼん(当時の所属事務所)が持っていた「スタジオJ」っていうリハーサル・スタジオに籠って、ライヴのエンジニアをやっていたキンスケ(ベースのリンコの弟)を入れてやったんです。このときはなかなか迫力のある音が録れたと思うけど、でもやっぱりコンプがキツイのか、ちょっとギシギシした音に聴こえるんだよね。いま聴くとバランス的には決して良い音ではないと思う。ただあのときのRCとしては、ヴォーカル・レベルを抑えて演奏を前に出すっていう迫力のある録り方をしていると思います。だから、『BLUE』が好きな人は多いですよ。
宗像 : 『BLUE』は名曲が山ほど入ってますからね。
──ただ、この作品を最後にRCはキティからロンドン・レコードへと移籍するわけですね。
森川 : はじめての日本武道館公演(1981年12月24日)のときには、彼らがいなくなるのはなんとなく雰囲気でわかってたし、「い・け・な・いルージュマジック」(1982年2月14日)を録るっていう話もチラっと聞いてたから、その頃に清志郎たちと話してもなんとなく心ここにあらずっていう感じを受けた。移籍したことはすごく残念だったね。だって僕と宗像さんがどれだけ人生を捧げたかっていう気持ちがあったから。愛情があったよね?
宗像 : はははは。本当そうだよね。
森川 : だって毎日RCのことしか考えてないんだもん(笑)。
──ロンドン・レコードに移籍してから出した2枚目のシングルが「つ・き・あ・い・た・い」でした。
森川 : あの曲を聴いたとき、「宗像さん、これは俺たちのことを歌ってるよ!」って言ったんだよね(笑)。宗像さんも「そうだと思う」って言ってて。だって清志郎はブレイクして移籍、僕たちは置いてけぼりにされたままで、〈もしもオイラが偉くなったら 偉くない奴とはつきあいたくない〉って歌ってるわけですよ(笑)。でも、あの曲の歌詞で素晴らしいのは、〈誰かが影(編注・うしろ)であやつろうとする だから俺はときどき手をぬく〉っていうところで。その箇所に少しは救われたというか。
清志郎たちが売れたことで彼らを持ち上げる輩がいっぱい出現したんだと思う。それまでRCには誰も近寄ってこなかったのに、売れたとたんにたくさん外野が集まってきた。だから清志郎は〈ときどき手をぬく〉し、〈深くつきあいたい狭くつきあいたい〉っていうのは、そういうことを言ってるんだな、清志郎たちはいまそういう状況に置かれているんだなって思ったわけですよ。だから、僕らのことも歌ってるけど、逆説的には僕らにエクスキューズしてるというか、むしろ本マルはそいつら、いかがわしい外野のことを歌ってるんだと僕は理解した。ただ、いきなり冒頭で歌われてるのは僕と宗像さんのことだと思ったから、はじめて聴いたときはショックでした。だから直接訊いたんですよ。
──清志郎さん本人に訊いたんですか?
森川 : そう。「あれ、俺たちのことだよね?」って。そうしたら「違うよバカヤロー」なんて言ってたけどね(笑)。でも絶対そうだと思う。
宗像 : ははははは! 僕も間違いなくそうだと思いました。あまりにも彼らと過ごした2年間の躁状態がすごかったものですから、見事に落ち込んだわけです(笑)。
森川 : ロンドン・レコードに移って以降、彼らは自分たちで個になってやりだしたんだよね。だから周りのやつらがRCに何も口出しできないような雰囲気もあったのかもしれない。もう登りつめていたから、スタッフもあんまり何も言わなかったんじゃないかな。それがあんまりよくなかったんじゃないかと思う。本当はそういうときこそ周りは意見を言わないといけないと思うから。
「い・け・な・いルージュマジック」が出たときはものすごく悔しかった。「これは間違いなく1位を獲るな」って思ったから
──お2人はその後、清志郎さんとどのような交流があったんですか。
森川 : キティ時代の余波で、『BEAT POPS』(1982年10月25日)っていうアルバムはそこそこ売れたし、それがいままでで1番売れたアルバムだなんて言われたことはおもしろくなかった。キティ時代のものより評価されてる感じでね。ただ、その前に「い・け・な・いルージュマジック」が出たときは、ものすごく悔しかった。それは悔しいくらいポップな仕上がりだった。僕が望んでいた万人受けする作品をついに清志郎はリリースしたって思ったから。あれを聴いたときに、「これは間違いなく1位を獲るな」って思ったから。それは清志郎の歌唱も良かったけど、やっぱり坂本龍一のアレンジが素晴らしかった。坂本龍一はRCじゃない清志郎を引っ張り出して見事なプロデュースをした。そこに僕や宗像さんがいられなかったことがすごく悔しかった。
僕らの手を離れたところで、清志郎はメジャーになっていくんだなっていう淋しい思いはあった。だから、移籍してからは僕も宗像さんも、清志郎とは2年くらい疎遠になってたよね。でも、いろいろあってRCが東芝EMIに移って、事務所から独立したり、パルコのCMをやった「すべてはALRIGHT(YA BABY)」(1985年4月21日)くらいから、なんとなくまた会うようになったのかな。そこから、80年代中頃にやった野音とか武道館のパンフは頼まれて原稿を書いたりしましたね。
──80年代後半には、東芝EMIで発売中止になった『COVERS』(1988年8月15日)がキティレコードから発売されることになるわけですが、その頃はどのように関わっていたのでしょうか。
森川 : 『COVERS』が出たときは、清志郎らしいなって思った。彼は以前から言葉遊びやリズム優先で歌詞を乗っけて歌うことに長けていた。彼が訳ししてカヴァーするってのは原曲をリスペクトしつつもどこかユーモアを交えた替え歌のようなものだったと思うんですよ。でもあそこで「サマータイム・ブルース」(日本語詞で原発について歌っている)をあんなふうに訳して歌っていたのはすごいことだと今更のように思う。あの時代に原発の危機について正面から捉えていたわけだし。あれは予言の歌だよ。ただ僕はカヴァーよりもオリジナル曲が聴きたかったし、賑やかしの企画的なアルバムとしては良いのかなって感じで静観してた。そうしたらあの騒動になって。
宗像 : それで、東芝EMIから出せないということで、代理人の事務所代表の方からキティに電話があって僕が引き継いで発売することになったんです。宣伝は東芝EMIが全部仕込んでてくれたし、なおかつ発売中止騒動で社会的な話題になっていたので、こっちは何もしていなくてただ発売しただけなんですけど、初めてキティで出したRCの作品で初登場1位になったんです。このアルバムは好きで、今でもよく聴いています。
逆境になったときに清志郎の核心部分が出てくる
森川 : タイマーズは『COVERS』があったからできたと思うんだけど、最初は清志郎と三宅伸治が2人ではじめたんですよ。そのときに僕はヒルビリー・バップスを担当していたんだけど、事故があって当時解散してしまって(その後再結成)。それでウッドベースの川上剛君が浮いてたんで、だったら清志郎と三宅がやってるところに入れてくれないかって頼みに行って、ドラムの杉山章二丸も入れて4人になったんですよ。あのときの清志郎は、タイマーズだけどまた「違うRC」に変化したんだと思った。いかにも清志郎らしく、昔のアコースティック時代の毒のある意地の悪さも出してきて。第1期RCはどこかまだ幼く、身の回りの不満、ファンやスタッフとかも標的に自分に関わる身近な世界について歌ってた。第2期RCはロックそのものとして君臨した。そしてタイマーズではもっと大きな敵に向かって、世の不条理を社会に向かってアジテートしてた。でもタイマーズだって根本的には、「第3期RC」だと僕は思っている。
宗像 : タイマーズはおもしろいなっていうのはあったんですけど、やっぱり自分にとっての清志郎っていうのは、1979年から1981年時代に尽きるんですよ。新しい曲を聴いても、その頃の感動には追い付かないっていうのがあって。本当のアーティストっていうのは、売れたり豊かになったり、家庭的に安定するっていうことがあると、やっぱりおもしろい曲が出来なくなるのかな、みたいなものは自分の気持ちの中にはずっとありました。
RCがキティを離れてだいぶ経って、いつだったか下北沢CLUB Queに観に行ったらそのときにやった新曲で「えっ!」っていうくらいすごい曲があったんですよ。それはその前に息子さんの竜平君が、交通事故に遭って大怪我をしたときに、息子さんのことを想って書いた曲だったみたいで。そのときはそのことは知らなかったんですけど、すごい曲を作ってるなと思って。そういう順調じゃないとき、逆境になったときに清志郎の核心部分が出てくるんだろうなって、改めて思ったりしました。あれは何ていうタイトルだったかな(※編注 : 1996年に関係者のみに配られたCD『快気祝い』収録の「うちのベッド」と思われる)。
「バカンス」は僕の中では共作だと思ってるんですよ(笑)
──では、森川さんが好きな3曲とアルバムを1枚挙げてください。
森川 : 今日の気分で選びます。初期の曲なら「僕とあの娘」。もう一度あの初期3人のパフォーマンスでこの曲を聴きたい。それと、僕が関わってたときのRCのライヴでよくやってた「君が僕を知ってる」かな。あれは清志郎の歌も素晴らしいけど、チャボの流れるような抒情的なギターですよね。まさにあれが1番「清志郎とチャボ」っていう感じがしてすごく好きですね。あと1曲は、「バカンス」にしよう。
森川欣信が選ぶ3曲
「僕とあの娘」
「君が僕を知ってる」
「バカンス」
──「バカンス」! 清志郎さんがヒルビリー・バップスに提供した曲ですね。
森川 : 清志郎にヒルビリー・バップス用の曲を依頼したら、カントリーみたいな曲を書いてきたんですよ。「この曲、どうやってアレンジしたらいいんだ!?」って、僕がずっとその曲をいじってて。それでリトル・ペギー・マーチの「I Will Follow Him」っていうヒット曲を参考にしてピアノで弾いてアレンジしたんです。それを清志郎に持って行ったら、「え〜、森川、このアレンジじゃダメだよ、曲に合わないよ」って言って。でも、この曲には合わないけどアレンジは良いっていうんで、僕とヒルビリーが作った打ち込みのカラオケを渡したんですよ。
そうしたら、何日かして清志郎から曲ができたって連絡があってスタジオに来て僕が用意したカラオケをバックに歌いはじめたんです。僕が作ったアレンジを活かしたあのイントロから「あの日の事〜♪」って清志郎が歌い出したら、「うわ〜すごい!」って圧倒されて。歌い出しの〈あの日の事 覚えてるかい? いまでもまだ感じてくる〉っていう歌詞で、その場にいた全員それぞれの夏が“パッ”と頭に浮かんだんですよ。それが「バカンス」だったんです。さすが清志郎だって思いました。だから、ちょっと大げさに言うと、僕が作ったオケに彼がメロディーをつけて歌ってくれたから、僕の中では共作だと思ってるんですよ(笑)。
──知られざるエピソードですね(笑)。ではアルバムを1枚選んでください。
森川 : 『RHAPSODY NAKED』(2005年10月26日)です。2003年にビートルズの『Let It Be... Naked』が出たから、「『RHAPSODY NAKED』を出そう」って僕が清志郎に提案したんです。これは 『RHAPSODY』と違って修正していないままの作品にしたから彼らが間違えたところも入ってるし、その後『PLEASE』に収録される曲もやっていて、あの日の久保講堂RCライヴのすべてが丸ごと入ってますから。2005年の技術であの当時の音を再現できたと思っているし、僕と宗像さんがRCに関わっていた時期の曲のオンパレードですから、このアルバムを挙げたいですね。
森川欣信が選ぶ忌野清志郎のアルバム
RC SUCCESSION / RHAPSODY NAKED
【収録曲】
〈ディスク1〉
1. Opening MC
2. よォーこそ
3. ロックン・ロール・ ショー
4. エネルギー Oh エネルギー
5. ラプソディー
6. ボスしけてるぜ
7. まりんブルース
8. たとえばこんなラヴ・ソング
9. いい事ばかりはありゃしない
10. Sweet Soul Music〜The Dock Of The Bay
〈ディスク2〉
1. エンジェル
2. お墓
3. ブン・ブン・ブン
4. ステップ!
5. スローバラード
6. 雨あがりの夜空に
7. 上を向いて歩こう
8. キモちE
9. 指輪をはめたい
〈ディスク3〉
1. よォーこそ (イントロダクションのみ)
2. エネルギー Oh エネルギー
3. ブン・ブン・ブン
4. スローバラード
5. 雨あがりの夜空に
6. キモちE
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〈ダイジョブ ダイジョブ きっとうまくやれるさ〉(「ラプソディー」)
──では、宗像さんの好きな3曲をお願いします。
宗像 : まず「ダーリン・ミシン」です。この曲は、男女2人の関係というか、胸が締め付けられる感じがして。たぶん、いまの子たちからするとわからないと思うんですけど、部屋に足踏み式のミシンが置いてあって、しかも四畳半とか六畳とかの部屋に、どうしようもないバンドマンが転がり込んで来てズルズル一緒にいる、みたいなものがものすごくリアルに目に浮かぶというか。そこになぜかわからないけど、しみじみするんですよね。
それと「ラプソディー」かな。〈スーツケースひとつで、僕の部屋にころがりこんで来てもいいんだぜ〉とか〈ダイジョブ ダイジョブ きっとうまくやれるさ〉っていうのも、ものすごくよくわかるところがあって。僕の周りの30代〜50代の女性に、悩みがたくさんあって、「これから先、どうなるんだろう、どうしたらいいんだろう」っていう状況に置かれている人がけっこういるんですよね。そういうときに必ず、〈ダイジョブ ダイジョブ きっとうまくやれるさ〉ってメールで送ってあげたりするんです。僕にとっては、そのくらいのリアリティがあるんです。
3曲目は森川にはじめてRCのライヴに連れていかれたときに聴いた「よォーこそ」です。〈古くからのオイラのダチさ〉っていう歌詞があって、本当に清志郎が好きな連中と好きな音楽をやっているということを、いきなりのメンバー紹介で聴かせるっていう、その1曲目で私は腰を抜かしました。そんなことをなんの衒いもなく唄う清志郎の人間性というか魂というか、そして、あのときの屋根裏のインパクトがあまりにも強すぎて忘れがたいものがあります。
宗像和男が選ぶ3曲
「ダーリン・ミシン」
「ラプソディー」
「よォーこそ」
森川 : 僕とか宗像さんが思うRCっていうのは、僕ら世代の象徴みたいな存在だった。それは何かというと、“若くて貧しくて無名”だったっていうこと。いまの子たちとはちょっと違う時代。僕らは戦後の日本が復興してゆく時代に生まれ育った。あの頃、僕たちはみんな行き場を探してた、足りないものの情報に飢えていた、Can’t get no satisfactionだった。Rock was youngだった。そういう時間を僕らは共有してた。そんな時代に生きる僕たちのことを清志郎は代弁してくれてたということなんじゃないかな。だって、宗像さんが選んだ曲も全部“若くて貧しくて無名”の頃のRCでしょ? 僕が選んだのもほとんどそういう時代のものだしね。
──ではアルバムを1枚お願いします。
宗像 : アルバムは、『シングル・マン』です。日本のアルバムで1枚通して正座して聴かなきゃいけないように聴かされたのはこの作品だけですし、名盤だと思います。それと、廃盤再発運動に関われたことがいまだに自分にとって大事だったなっていう感じは残っています。
宗像和男が選ぶ忌野清志郎のアルバム
アーティストと長いトンネルを抜けていくときっていうのは、じつはスタッフにとって一番関わるべき時期だし、魅力がある期間なんですよ
森川 : アーティストに関わるときって、出会って売れるときまでの期間が、僕たちスタッフにとっては一番ドラマがあるし一番わくわくする時間なんだと思う。だからあの時期、ブレイク寸前までのRCに関われたことは今思えばとても幸せなことだね。挫折すらも愛おしくやりがいのある時間。素晴らしい経験をさせてもらえた。宗像さん、あの「認められる、売れる瞬間」までアーティストを持って行くっていうのが、スタッフにとっては一番良い時代だと思わない?
宗像 : うん、本当にそう思う。
森川 : もちろん、アーティストが「売れた!」っていう瞬間は本当にうれしいけど、彼らと長いトンネルを抜けていくときっていうのは、じつはスタッフにとって1番関わるべき時期だし、魅力がある期間なんですよ。
宗像 : その通りだね。清志郎が当時のライヴのMCで叫んでいた「バンドは目立たなきゃダメなんだ! 目立ちゃいいんだ!」という言葉に触発されて、僕はRCっていう名前をとにかく世に出そうっていうことばかり毎日考えてたから、あるとき新聞に「RC」って書いてあって大喜びして、良く見たらラジコンの「RC」だったんですけど(笑)、その記事すらも切り抜いてスクラップに貼ってましたから。
──ぜんぜん関係ない記事まで貼ってましたか(笑)。躁状態の極みですね。
宗像 : そういえばこの場を借りて言いたいんですけど、RCが売れてだいぶ経ってから、若い女性ライターさんが訪ねて来て、「RCのことを書きたいので、キティ時代のスクラップを貸してくれませんか」って言われて。7、8冊、僕にとっては血と汗の結晶のようなスクラップを貸したんです。でもそれが返ってこなかったんですよ。20年くらい前の話で、その方のお名前も失念してしまいましたし、彼女ももう忘れてると思うんですけど、もしこの記事をお読みになったら、宗像が読みたいと思っておりますので(笑)、ぜひご返却して頂けたらと思います。よろしくお願いします(※お心当たりのある方はOTOTOYまでご連絡ください!)。
「日本語のロック」を発明したのは清志郎だと思う(森川)
音楽を武器に既成の価値観や世の中をひっくり返した洋楽アーティストと同じものを清志郎に感じた(宗像)
──では最後に、若い音楽リスナー、アーティストに向けて清志郎さんのどんなところをとくに知って欲しいかメッセージをお願いします。
森川 : ひと言でいうのはむずかしいけど、「日本語のロック」を発明したのは清志郎だと思う。いまいろんなロック・バンドがいて、清志郎の孫世代のバンドも多いと思うけど、日本語でロックを歌って、こういうステージをやって、MCはこういうものだっていうことを、僕は清志郎が発明したんだと思ってる。だから、ロック・バンドを好きで聴いている若い世代で、忌野清志郎を知らないという人たちは、是非さかのぼってRCサクセションの『シングル・マン』『RHAPSODY』『PLEASE』『EPLP』『BLUE』の5枚を入門編として聴いてみてください。日本語ロックの原点がここにある。詩情あふれる言葉とエネルギーみなぎる「若く貧しく無名」なRCがいる。そこが出発点となり、いつの日か新しい時代の忌野清志郎、未来のRCサクセションが出現してくれることを僕は期待しています。
宗像 : 僕は、清志郎と出会えたことがラッキーだと思っているし、彼らの音楽に触れた頃って、日本の音楽や社会自体にも不満を持っていたようなところがあって。そのときに自分が考えたのは、絶対RCを売らなきゃいけない、RCが売れたら日本の音楽も変わるし、若気の至りですけど、日本自体も変わるんじゃないかっていう気持ちがあったんです。僕らの世代には、エルヴィス・プレスリーとかボブ・ディランとかザ・ビートルズにように、音楽を武器に既成の価値観や世の中をひっくり返した人がいたんですよ。それと同じようなものを忌野清志郎、RCサクセションに感じたんです。
でも間違いなく、いまの世代でもそれに匹敵するような素晴らしい若いアーティスト、ミュージシャンがいるんじゃないかと思うので、そういう人たちと出会って、その人たちの音楽を売って、ぜひ我々おじさんたちに知らせてください(笑)。そんな気持ちです。
【>>>第6回は4月20日に掲載予定。お楽しみに!】