圧倒的に、アジカンの音楽とGotchのそれとは別物だ
正直、最近のASIAN KUNG-FU GENERATIONやその周辺の事情にはほとんど疎かった。私が持っている後藤正文に関する情報といえば、わかりやすいメロディに乗せて文学的な言葉を力強く吐き出す姿と、3年前の震災の後、政治的な発言をしたり震災に関する新聞を発行したり、そういったことに精力的に関わっているらしい、という程度だった。だから、今回アルバムのタイトル曲の邦題で「いのちを燃やせ」なんて書いてあるのをみたときは、どれだけ熱っぽいものがでてくるのかと少し距離を置いてみていた。
そんな状況で聴きはじめたものだから、1曲目の「Wonderland」で、浮遊感満載のギターイントロと気の抜けたようなゆるいラップをかまされたときには、いい意味で拍子抜けした。そのうちあの真っ直ぐなアジカンサウンドに転調するに違いない、と身構えたが、結局最後までそんな転調は起こらなかった。圧倒的に、アジカンの音楽とGotchのそれとは別物だと思い知らされた。
ハーモニカなど様々なアコースティック楽器の音色、アクセントで入る電子音やサンプリングされた日常会話。それらによって醸し出される楽しげで優しい雰囲気は、2曲目、3曲目と進んでいっても薄れることはなく、最後までゆるやかに続いていく。
しかし、ただの平和でPOPなアルバムというだけで終わっていないのは、〈いつかは灰になって〉〈心臓はいつか止まってしまう〉〈感じないや何もかも〉など、ところどころにちりばめられた不穏な言葉が、ふとした瞬間に耳に飛び込んでくるからだろう。
私たちは3年前、死は特別なものではなく常に生の裏側にひそんでいるということについて意識することとなった。しかし、Gotchはそれを悲観することも変に前向きになることもなく、『Can't Be Forever Young』(=いつまでも若くいられる訳じゃないんだから)「いのちを燃やせ」と、軽妙なPOPに乗せて歌っている。それは、彼が震災に関する活動をするなかでみた一元論的なメディアや世論に対して、もっとニュートラルに、多面的に物事を捉えてほしいという思いの表れなのかもしれない。
今回のアルバムが、両面で楽しむアナログレコードのかたちで先行販売するというところに、なにか重要な意味を感じてしまうのは考えすぎだろうか(Text by 大西真衣子)