2014/11/18 19:19

TRASH-UP!! × OTOTOY連載企画 メッセージ・フロム・アンダーグラウンド 第4回インタヴュー : 大熊ワタル

(撮影 : 石田昌隆)

東日本大震災から3年がたった。TVやネットでも、随分、震災や原発事故関連のニュースは減ってしまった。かくいうOTOTOYも、毎年続けていた震災コンピ『PLAY FOR JAPAN』を、今年は創らないことにした。労力がかかりすぎる、支援金が集まらない等の様々な理由があり、今年も「創る」という選択をすることが出来なかった。「粘り強く復興に協力していく」その気持ちは減っていないにもかかわらず、動き出せなかった自分にいらだちを覚えた時に届いたこの遠藤妙子による大熊ワタルへのインタビュー記事、メッセージ・フロム・アンダーグラウンド vol.4。生活のなかで被災地支援や反原発の活動をしている表現者達(ミュージシャン / 画家 / 漫画家 etc...)に話を聞く記事だ。ここには、それでもやり続ける人たちの意思と想いが宿っている。我々は、活動をしている表現者達を知って「忘れない! 動き出す! 変えていく!」そんな様々な手段が我々の元にあることに気づく。4年目もやっぱり粘り強く復興に協力していこうと思う。やり続ける仲間がいる限り。最後に、この遠藤妙子の言葉を胸に。『未来をつくるのは現在を生きている私たちなのだ』。

オトトイ株式会社
飯田仁一郎(オトトイ編集長/Limited Express (has gone?))

『TRASH-UP!!』との連動企画「message from underground」

message from undergroundとは
トラッシュ・カルチャーを追求する雑誌『TRASH-UP!!』と音楽配信サイトOTOTOYが、共同でお送りする企画「message from underground」。2013年4月からライターの遠藤妙子が被災地支援や反原発の活動をしている表現者達に取材、不定期でインタヴューを掲載します。そして、『TRASH-UP!!』では、OTOTOYで掲載された記事に加え、掲載できなかった表現者の記事も掲載。最終的に『TRASH-UP!!』で、「message from underground」の完全版をお読みいただくことができます。表現者たちが何を思い、どのような活動をしているのか。普段は日のあたりにくいアンダーグラウンドからの発言を見逃さないように!!

TRASH-UP!! とは
「TRASH-UP!!」(トラッシュ・アップ)は、既成の概念にとらわれることなく、さまざまなトラッシュ・カルチャーを追求していく雑誌です。

「TRASH-UP!! vol.17」2014年3月発売。特集は、TRASH-UP!!ライター陣が選ぶ、これが本当の映画&音楽ランキング50。

>>TRASH-UP!! Official HP

>>第1回 悪霊のインタヴュー記事はこちら<<

>>第2回 KO(SLANG)のインタヴュー記事はこちら<<

>>第3回 西片明人 インタヴュー記事はこちら<<

第4回 : 大熊ワタル(シカラムータ / ジンタらムータ)インタヴュー

反原発デモやその集会などで、大熊ワタルが所属するジンタらムータが「不屈の民」(※1)を奏でると、なんというか、これまでの民衆の声が繋がっているような感覚になる。数多の不屈の民の声が音楽に宿り、私たちの心と体に響いてくるようなのだ。大熊ワタルは震災以降、街という現場に出て音楽を奏で、その音楽は多くの人の力となっていっている。 もともと大熊ワタルは、山谷の寄せ場や阪神・淡路大震災の被災地、更に東ティモール独立祝賀コンサートやヨルダン難民キャンプまで飛び演奏をしてきた。勿論、ライヴハウスなどでも活動を続けていて、いわゆる運動の現場と音楽の現場を繋げた活動をしている。東日本大震災から約3年が経ち、しかし事態の好転には程遠く、更に様々な問題も起きている現在、長く両現場を見ている彼の話は必読だ。その音楽人生の話は生々しくてキラキラと、そして意味を持って迫ってきた。

インタヴュー & 文 : 遠藤妙子

社会のためとか政治的な音楽をやろうって意識ではなく、自分の音楽をやりたい

ーー大熊さんは、いわゆる運動の現場と音楽の現場を繋げて活動していると思うんですが。

大熊 : まぁ、車輪の両輪というか、自分の中ではどっちもないといけない、どっちも当たり前にある感じですね。

ーーライヴハウスなどでは勿論ですが、今はジンタらムータで主に反原発デモなどで演奏をして、そして運動とは違うけど1995年の阪神・淡路大震災の後、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットで被災地で演奏をしていました。

大熊 : 90年代後半はモノノケ・サミットとして、かなり関西に通ったなって印象ですね。

ーーで、この企画は2011年の東日本大震災以降、表現者は何を考え行動したかということをテーマにしているんですが、震災から約3年経って、長いスパンで考えることも必要な時期なんじゃないかと。大熊さんは昔から運動と音楽の現場にいて、その両輪はどうやって進んできたのかをお聞きしたくて。

大熊 : はい。

ーーずっとそういう独特なスタンスで活動していますよね?

大熊 : いや… 最初は僕も単なる浮かれたロック小僧だったのですが(笑)。でもまぁ、もともと、人が行かないところに行きたいって思うたちで(笑)。ひとくちに運動の現場と言っても色々だけど、僕がラッキーだったのは、人の縁に恵まれたのか、おもしろいところが多かった。欲している人が集まって、スタッフも必死だし。どんな小さい現場でもね。例えば、仮設住宅で暮らす人は大変だし、かわいそうってイメージがあるかもしれない。確かに大変なことも沢山あるんだけど、その時はギンギン(笑)で、こっちが演奏を与えるんじゃなく一緒に楽しむっていう。これって最高のパーティーだよなってことになったりする。おばあちゃんが急に踊りだして、それが凄く上手かったりして。若いころはダンサーだったの? ってインタヴューしたいぐらい。そういう芸達者な人が結構どこの現場にもいるんだよね。

ーーいろんな人がいるでしょうしね。

大熊 : うん。災害に遭った現場はダメージは深刻だけど、その中でみんな助け合おうとしていて、いわゆる災害ユートピアというのか、どこかハッピーな空気が生まれる。特に音楽が鳴ってるとそうなっていくんだよね。そこからグルーヴが生まれる。その一体感はね、生身のグルーヴというか。いろんな人がいるからこそ、本当に独特なグルーヴがある。

ーーではグッと遡ってお聞きしますが、バンドを始めたころっていうのは…。

大熊 : 僕は広島生まれなんだけど、10代で関西に引っ越して。高校出たころに東京に移り住んで。東京ロッカーズの時代ですね。1960年生まれだから「DRIVE TO 80’s」(※2)が19才の時。直撃受けました(笑)。音楽は子どものころにピアノをやってたんですけど、ずっとブランクがあって。高校のころはつげ義春とか横尾忠則とかにハマッてて、自分は絵のほうに行くのかなって思ってたけど、気づいたらバンドやってました。初めは吉祥寺のマイナーっていう、それこそアンダーグラウンドの巣窟みたいなとこに出入りして(笑)。灰野敬二さんやガセネタをはじめ、得体のしれない有象無象がたむろしてる、その中の一人でしたね。

ーー大熊さんがやっていたバンドは絶対零度ですよね。

大熊 : そうです。誰も聞いたことがない音楽をやろうって夢中でしたね。もう、若いから自我炸裂(笑)。サウンド的にはポストパンクの走りかな。ノイズがありビートもあって。僕の担当はシンセサイザーでね、インダストリアルとかノー・ニューヨーク(※3)あたりを聴いていて。で、1年半くらいで空中分解して。その前後に、竹田賢一さんがリーダーで、後に僕も参加したA-MUSIKやその周囲の人たちと出会って。もともとアヴァンギャルドの人脈には、運動の現場とも回路があって、だんだんその辺のイベントに出入りするようになって。そういう現場も音楽の一つの現場なんだって思うようになったんです。

ーーそのころ、80年代って対政治というより脱政治のような時代だった気がします。表現者は政治や社会に反抗するより、政治や社会は関係ないっていう感じで。

大熊 : 70年代からシラケ世代っていうのがあったからね。上も下もシラケ世代っていう感じ。僕は逆にシラケ世代にもシラケたっていうか、そこにもハマってたくないっていう感じ。何でも見てやろうって気持ちがあったんで。ちょっとおもしろそうな人がいる場所とか、なんでも覗いてやろうって。

ーー社会的な運動をやりたいっていうより、おもしろい現場におもしろい人がいるっていう…。

大熊 : そういう好奇心があったのも確かです。僕の10代のころが70年代で、当時はベトナム戦争や水俣なんかの公害問題も毎日ニュースでバンバンやってて、抗議運動とかデモとかも子どもながら当たり前に感じてた。で、大人たちの世の中は、どうも信用ができないと。いろんな問題がある社会なのに金もうけが最優先。こんな大人たちの中に入っていきたくないってずっと思ってた。だから大きくなったら学生運動をやるのかなって思ってたけど、大学に行ってみると、みんなスタジャン着てテニスにスキーっていう時代に変わってて。びっくりするくらい居場所がなくて。その反発もあってバンドを始めたのかもしれない。あと、通学で通る新宿や池袋にホームレスの人がいて。いるんだけど誰も見ないふりをする。僕も気になるけど見ないふりして通り過ぎてた。それを繰り返しているうちに、自分にとってのロックって、なんていうか、音楽だけで成り立ってるものではなかったわけですよ。社会に対してぶちかますっていうパンク的なものであったり、何かしらリアリティが感じられることをやりたかったんで。そうすると、ホームレスを見ないふりしてる自分はどうなんだ? って考えだして。僕がバンドを始めたのは、そのままサラリーマンにはなりたくない、世間の良識にノーを突きつけるって(笑)、そんなふうに意気込んでたけど、自分もホームレスを見ないふりしていて、社会の矛盾ってものは、実は自分もその中にいるんだって気がついたんだよね。で、そんなことを思ってるうちに山谷の労働者の支援をしてるミュージシャンや芝居の人たちに出会って、何かあるかも… と。

ーー自分のやっている音楽に、よりリアリティを持たせたいっていう。

大熊 : そうですね。だから社会のためとか政治的な音楽をやろうって意識ではなく、自分の音楽をやりたいってことですよ。政治のための音楽ということではなくて。

ーーですよね。政治のための音楽って、受け取る側がそういうふうに思うだけで、演奏する側はやりたいことをやってるだけなんじゃないかって思います。

大熊 : やり方次第だけどね。下手すると政治の道具になっちゃう。実際、80年代の山谷とかの集会って、濃い活動家の人たちのふきだまりみたいな感じもあって、僕らみたいなバンドだけやってるような若造にはついて行けないところもあった。ギンギンの人たちがシュプレヒコールあげて、僕らはそこには混ざらないぞって必死(笑)。シュプレヒコールが自己陶酔のように感じたのかな。もちろんカッコイイ人もたくさんいましたけどね。でね、ある活動家が言った言葉だけど、「政治は人を崇高にもするし醜悪にもする」って。それはアートについても音楽についても言えると思うんだよね。何するにしても怖がってるか、それともジャンプできるか。結局は自分の問題なんだと思うんです。だから自分たちで企画みたいなこともやり始めて。

「支援してあげますよ」みたいに音楽やられても聴くほうは嫌ですよね

ーー山谷の集会などでライヴをやると、政治的なバンドっていうレッテルを貼られそうだけど、そこがおもしろい現場なら怖がることはないっていう。

大熊 : うん。だっておもしろいんだもん(笑)。語弊があるかもしれないけど、山谷のおじさんとコミュニケートするのはとてもおもしろいんだよね。みんな顔があるっていうかね。「オマエは何者なんだ」ってことを問われてる気がするし。彼らはライヴがおもしろければ拍手をするし、つまらなければ石を投げてくる。それはもうね、こういうジャンルの音楽ならOKって話ではなくて、サウンドが自分のものかどうか問われる感覚っていうか。楽しいけど真剣。それこそ怖がらずジャンプしないとやれない。

ーーあぁ、そういう場所にいる人は、みんなありがたがって音楽を楽しむだろう、なんて思ったらとんでもないことで。

大熊 : そうです。「支援してあげますよ」みたいに音楽やられても聴くほうは嫌ですよね。だから本当にちゃんと腰据えて音楽やらなきゃって思いましたね。

ーーまさに音楽の現場ですね。

大熊 : そう。あとね、僕らは自分たちが好きでやってるので、やっぱり何の集会であっても自分たちが納得できることがやりたいから、ステージの設営から音響まで自分たちで関わってた。そういう経験も良かった。自分たちでステージ作って、いろんな人のサポートをして、自分も演奏するっていう。やっぱり裏方やらないと分からないことがあるから。それはサウンドのシステムだけじゃなくシーンということでもね。山谷でのライヴもそうだけど、法政の学館(※4)とかでも自主管理的なライヴもやってて。学館ではなんでもぶち込んでやろうって、実験的なことをやってましたね。場所を自分たちで作るってことは、演奏にも大きく反映していくものなんですよ。

ーーで、絶対零度のころは自我炸裂の音楽で、そこから山谷の集会などでライヴをやるようになり、A-MUSIKに入って。自我だけでは通用しない音楽に変わっていくわけですよね?

大熊 : 音楽そのものの方に向かうというか、音楽が外に向いていった感じかな、自我という中だけじゃなく。大きいのはチンドン屋体験。山谷に行ったころ、じゃがたらやA-MUSIKにいたサックスの篠田昌已と仲良くなって、山谷のドキュメンタリー映画(※5)の音楽を彼と一緒に作ったりもしてね。当時、彼がチンドン屋に弟子入りして間もなかったころで。彼は友だちをチンドン屋に巻き込もうとしていて、僕も大喜びで引きずり込まれて(笑)。僕もサーカスとか見世物小屋とか、そういったイメージの世界が大好きだったからね。そしたら見事にハマッてしまって。それまで管楽器は全然やったことなかったけどチンドン屋で、見よう見まねでクラリネットを始めた。だからチンドン屋は僕のキャリアにとっても凄く大きな経験で。

ーー今は大熊さんといえばクラリネットですもんね。凄い大きな転機ですね。

大熊 : ターニングポイント。なぜそこまでハマッたかというと、チンドン屋はステージ芸とは違って、パフォーマーが風景になってるのね。しかも宣伝のためにやってるから、風景ではあるけど、うまく注意を集めなきゃいけない。自己主張ではないけど、そういう存在感を程よく出さなきゃいけないわけで、それは簡単そうに見えて難しい…けどおもしろい。チンドン屋っていろんな個性を持ったチームがあるんだけど、ラッキーなことに僕が入ったのはビート感があってカッコイイ音を出すチームだった。だからこの感じをバンドにフィードバックしてやったら絶対におもしろいってピンときた。当時のことが今やってるシカラムータのヒントになってる。チンドン屋はサウンドのおもしろさもあったけど、ステージの上だけが舞台じゃないってことに気づかせてくれたしね。

ーー最初におっしゃった仮設住宅などでのライヴの、生身で独特な一体感にも繋がっていくんでしょうね。

大熊 : かもしれないですね。こっちがステージにいるんじゃなく、みんなでグルーヴを生み出している。被災地でのライヴはまさにそういうもので。あとね、ステージと客席を分けること、つまり音楽のあり方のことなんだけど、音楽の近代化っていうのは、どんどん社会のニーズや構造の中に閉じ込めて細分化されていって今に至るんじゃないかと。限定された場所での限られた出会いしかないみたいな。ライヴハウスやコンサートが駄目だっていうんじゃないよ、僕もそういう場所でもやるし。ただ、そうじゃない場所でも音楽はやれるしね。ストリートっていうのは購買関係ではない関係があって、損得抜きっていうと大雑把だけど、誰でもそこにいていいし、いなくなってもいい。そういう場所を使わないのはもったいないなと。

ーーそういう場所、最初に山谷の集会やストリートで演奏した時はどう感じました? 怖さはありませんでした?

大熊 : 初めはね。必死にやればやるほど空回りすることは何度もあったな~。誰も聴いてないっていう時もあったし。逆に僕らのことを誰も知らなくても盛り上がることもあるし。その日その日が違うってことですよね。そうだ、凄く印象的なライヴがあって、山谷の夏祭りのことなんだけど。A-MUSIKで竹田賢一さん、千野秀一さんなんかがいて、僕は別のバンドで行っていた時で。そしたらA-MUSIKのドラムが来れなくなって急遽、なぜか僕が叩くことになって。エレクトリック・ドラムだったけど、僕はドラムなんかやったことなくて、初ドラムですよ。凄腕のメンバーの中で僕だけ初心者(笑)。必死ですよ。その時やったのは、懐メロや演歌をポンチャック風(※6)にメドレーで演奏するっていう。まあディスコ的な解釈でね。なんとか自分もうまく叩けてるかな… と思ってた。そしたら客の方から突然、ナイフが飛んできたんですよ。放物線を描いて千野さんのキーボードに着地して。直線的に投げられたんじゃないから刺さるような危険はなかったけど、でもナイフだからね。騒然として、千野さんは仁王立ち、演奏は中止、場は凍りつく。ま、結局は再開していい感じで終わったんですけど。

ーーライヴを観てる山谷のおじさんの誰かが投げたんですよね。

大熊 : そう。ブルーシート敷いて座って観てるんだけど。アレはなんだったのかっていろいろ考えましたよ。何のメッセージだったのか。みんなが知ってて楽しめそうな曲をやってたのに、なんでナイフが飛んできたんだろう? って。単純に虫の居所が悪かったのか、またはテンポが速すぎて踊れないっていう抗議だったのか(笑)。あるいは、何かステージの上から支援してあげているみたいに感じたのかもしれない。

ーーあ、私、障害者施設の祭りのライヴを観に行った時、出演者は素人に近かったんですけど、車椅子の人に「楽しいよね」って声かけたら、「でも僕はこういう音楽はあまり好みじゃないんだ」って言われたんです。その時、私には「あなたたちのためにやってあげている」っていう上からの意識があったのかもしれないって、ハッとしたことを思い出した。

大熊 : そういう現場で、ステージの上からっていう意識でやったら届かないってことだよね。

ーーうん。それにしてもナイフは怖いです(笑)。

大熊 : そのころは、おっちゃんたちもギンギンだったし、山谷の状況も大変な時期だったから。ドキュメンタリー映画の監督はカメラ回し始めてすぐにヤクザ右翼に刺されて亡くなって。僕もまだ20代で試行錯誤の連続。今だからおもしろかったと言えるけど当時は必死でしたね。毎回落ち込んでた。ある程度思ったことができるようになったのは90年代になってから。クラリネットにシフトチェンジして、モノノケ・サミットに参加して。チンドン体験を活かして、シカラムータで自分なりのコンテンツを提示できるようになった。

(撮影 : 高橋 裕大)

怒りから発したものではあるけど、共有して連帯すればその先に進める

ーー今の反原発デモなどではジンタらムータとして演奏してますが、ジンタらムータの定義というと?

大熊 : シカラムータの別ユニットというか。チンドン太鼓のこぐれみわぞうとツートップで。生楽器で外でやるような時は大体ジンタらムータって名乗ってます。そこではなるべくポピュラーなカバー曲を多くやったり、なるべく間口を広げるように意識してる。

ーー反原発デモもいろんな人がいますからね。

大熊 : いろんな人がいるよね。だから今の金曜日の官邸前の抗議行動(※7)も、官邸前、国会前、ファミリー・エリアって分散できたのはいいと思う。各々にドラム隊がいるけど、場所によってちょっと違う感じを出してるしね。官邸前はストイックに、ファミリー・エリアはもうちょっと祝祭的に… ってね。

ーードラム隊はプロではなく抗議の参加者がドラムを叩き始めたわけですが、そういう中にジンタらムータがいると、デモや抗議の参加者もドラム隊も、とても心強いと思います。

大熊 : ドラム隊もまさに現場で鍛えられてるよね。自分たちで場所を作って、どういう人が来るのか察知して。どんどん修練して変化していってる。音楽はそうやって生まれたり転がっていくんだなぁと。

ーーところで3.11に震災があって、その時はどう思ったのでしょう? すぐに現場に出ようって思いました?

大熊 : やっぱり強く思ったのは、メディアや政府の情報のコントロールへの怒りだよね。本当に腹が立った。またそういうことに対して、心配のし過ぎじゃないの? って言う人もいたり。音楽に対しても、どうやっていいかわからない時期があった。震災の後、三月の下旬に前から決まっていたライヴをやったんだけど、ライヴハウスで。その時は曲を変更して東北の民謡を入れたりして。でも全然やった気になれなかった。圧倒的に世の中は変わってしまったから、ライヴハウスの中でやってることにリアリティが感じられない。音を鳴らしても、外の世界と乖離してる感覚というか。とにかく息苦しかったんですよね。で、4月10日に高円寺で行われた反原発デモ(※8)にジンタらムータは出たんだけど、その時にやっと息ができた気がしたな。その時のデモは震災以降の最初の大きなデモって感じで、数えられないくらい人が集まってて、仕事がキャンセルされてたチンドン仲間やバンド仲間もたくさん来ていた。誰だか分からないけどその場にいたミュージシャンも一緒に演奏して、皆で声をあげた。そこには怒りが凄くあったし、音楽でも怒りを表明してるんだけど、それだけじゃなくて、そこにいる皆と気持ちを共有することで、仲間がいる、孤立しているんじゃないっていう、凄くポジティブなムードもあったよね。涙が出るくらい嬉しかった。

ーー私もあのデモに行きました。今の話、大熊さんがマガジン9で監督と対談していた映画「自由と壁とヒップホップ」の一場面を思い出しました。イスラエル支配下のパレスチナの、ヒップホップの若いミュージシャンのドキュメンタリーで、ライヴで怒りの音楽をやっているんだけど、意思表示できるっていう喜びでメンバーも観客もみんな笑顔で盛り上がっていた。

大熊 : そうそう。怒りから発したものではあるけど、共有して連帯すればその先に進める、音楽はそれを気づかせる役割もあるんじゃないかと。そこで僕は、今までやってきたことが役に立つってことが再確認できた。今までやってきた音楽を、もっと解放していろんな用途に使いこなしたいと思ったんです。語弊があるかもしれないけど、3・11からひと月経って高円寺のデモで演奏した時、今こそ出番だと、この時のために今までやってきたのかなかって思うぐらいに。こんな時でも、こんな時だからこそ、ね。

ーー私も音楽があって良かったって凄く思います。音楽が聴けない時もあったけど、よけいに音楽は大事だなって。で、この3年間はジンタらムータの活動が多かったわけで。それが今後はどうなっていくのか…。

大熊 : 2011年からジンタらムータは外に出て、人々が声をあげてる場所に行って、その声をサポートしたいって気持ちで演奏をして。まぁ、2011年12年と必死でやって、ある程度やれたと思うけど、去年からまた別な暗黒時代って感じだし、これからどうやっていくかはやりながらですよね。で、今、ジンタらムータで録音してるんですよ。ジンタらムータでやっていたカバーも記録として残したいと思って。

ーーそれは凄く聴きたいし、必要な作品だと思います。

大熊 : でね、そろそろオリジナル曲も作りたくなってきたんで、シカラムータもやっていこうかと。ジンタらムータで蓄積されたものが、オリジナルとしてどう出てくるのか、自分でもそろそろ知りたいですし。

ーーまさしく音楽の現場と運動の現場は両輪ですね。

大熊 : ですね。で、今はホントに激動期というかね。国際関係もヤバい感じだし、すぐには終わらない。長くなりますよ。デモとか昔からあったけど、これだけ持続的にやれてるのは、実は初めてのことらしいし。だから過去のいいところを取り入れると同時に、これからは過去の免疫がない若い人にも期待っていうか。怖がらずにジャンプしてほしいなって思います。音楽にしても運動にしても。あれはダメこれはダメってレッテル貼りとかね、あまり気にしすぎると、その先、本当につまらなくなるからね。たかが音楽、されど音楽。いろんなものを超えていけるのが音楽だと思います。

(※1)不屈の民
チリのヌエバ・カンシオン(フォークローレなどをもとにした、闘う民衆の歌を作り広める活動)の曲の中でも国際的に知られた歌。キラパジュンとセルヒオ・オルテガにより作詞・作曲。1973年に録音。世界各地で多くのミュージシャンによって歌い継がれている。
(※2)DRIVE TO 80’s 
1979年8月28日から9月2日まで新宿LOFTで行われたライヴイベント。東京ロッカーズと呼ばれていたバンドをはじめ、パンクからテクノポップのバンドまで参加。日本のパンク / ニューウェイヴの発火点となった。出演はフリクション、リザード、ミラーズ、S-KEN、Mr.カイト、アーントサリー、突然ダンボール、不正療法、プラスチックス、ヒカシュー、P-MODEL、フレッシュ、ザ・スタークラブ、自殺、ノイズ、BOYS BOYS、HI-ANXIETY、81/2、バナナリアンズ、サイズ、マリア023、ノン、モルグ、螺旋
(※3)ノー・ニューヨーク
1978年にアンティルス・レコードからリリースされたコンピレーション・アルバム。プロデュースはブライアン・イーノ。参加アーティストはザ・コントーションズ、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス、マーズ、DNA。70年代後半を風靡したノー・ウェイヴのきっかけとなった作品。後のポストロックなどにも影響を与えている。
(※4)法政学館
法政大学学生会館。法政大学の市ヶ谷校舎に1973年に建てられた。主に80年代はアンダーグラウンド、インディーズのバンドのライヴの殿堂と言われ、自主映画なども上映されていた。2003年に解体。80年代から様々なバンドで出演した大熊は、最後のオールナイトコンサートにもシカラムータで出演。学館解体に際し追悼エッセーも発表した。(http://www.cicala-mvta.com/housei.shtml)その後、加筆し「コンクリートは解体しても歌の在りかは消せはしない 法政 <学館>の記憶のために 」として『音の力<ストリート>占拠編』(インパクト出版会)に所収。
(※5)山谷のドキュメンタリー映画
「山谷-やられたらやりかえせ」。東京都台東区・荒川区の寄せ場、山谷の日雇い労働者の生活と労働を中心に、釜ヶ崎など他地域の寄せ場も撮影したドキュメンタリー映画。1985年発表。佐藤満夫・山岡強一共同脚本/監督。佐藤は撮影開始後に刺殺、山岡は完成後に射殺されている。大熊ワタルは篠田昌已らと共に音楽を担当。
(※6)ポンチャック
韓国の大衆音楽。2拍子を基調としたリズムで、メドレーで演奏し歌い続けるディスコティックな元祖K—POP。
(※7)官邸前の抗議行動
首都圏反原発連合主催の脱原発抗議アクション。ほぼ毎週金曜日に官邸前を中心に行われている。 
(※8)高円寺で行われた反原発デモ
高円寺・原発やめろ!!!!!! デモ。2011年4月10日に素人の乱の呼びかけにより高円寺で行われた。約15000人(主宰者発表)が集まった、原発事故後、初の大規模デモ。

PROFILE

大熊ワタル

広島県出身。1980年、東京アンダーグラウンド・シーンで活動開始。最初のバンド「絶対零度」ではシンセサイザーを担当し独自のポスト・パンク的サウンドを追求。その後「ルナパーク・アンサンブル」などで多楽器・脱ジャンル的アプローチ。20代半ば、チンドン屋でクラリネットに出会う。 90年代、クラリネット奏者として自身のグループ「シカラムータ」展開。実験性とストリート感覚をシャッフルした独自の音楽性が国内外で評価を呼ぶ。またソウル・フラワー・モノノケ・サミット、A-MUSIKなど様々なプロジェクト、映画・演劇とのコラボレーションなど、ジャンルを超え横断的に参加。近年は別働隊「ジンタらムータ」でのコンサート会場に限らない活動も多い。特に3・11以降は街頭のデモなどにも積極的に参加。

遠藤妙子 PROFILE

80年代半ばよりライターとしてパンク・ロック雑誌「DOLL」などで執筆。DOLL廃刊後もアンダーグラウンドで活動するバンドを軸に、ロック・バンドへのインタヴュー、執筆に加え、2011年にライヴ企画をスタート。ライヴ・ハウス・シーンのリアルを伝えていくことを目指し活動。

OTOTOYの連載企画『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』

2011年3月11日以降、OTOTOYでは『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』と題し、音楽やカルチャーに関わるもの達が、原発に対してどのような考えを持ち、どうやって復興を目指しているのかをインタヴューで紹介してきました。2011年6月から2012年4月までの期間に、大友良英、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)など9。そして、2013年2月、再び大友良英へのインタヴューを試み、全10回の記事を電子書籍BCCKSにまとめて販売します。有料版の売り上げは、ハタチ基金へ寄付いたします。

BCCKSとは
BCCKS(ブックス)は、誰でも無料で『電子書籍』や『紙本』をつくり、公開し、販売することができるWebサービス。エディタで一冊本をつくるだけで、Webブラウザ、iPhone、iPad、Android、紙を含むすべてのデバイスにスピード出版できます。BCCKSのリーダーアプリの他、EPUB3ファイルでお好きなリーダーでも読書をお楽しみいただけます。
※製本版の購入にはBCCKS(ブックス)への会員登録が必要です
※電子書籍は、PCではSafari、Chrome最新版、デバイスではリーダーアプリ「bccks reader」またはEPUB3ファイルを落として対応リーダーでご覧いただけます

itunes Storeでbccks readerのiOS版をダウンロードする
Google Playでbccks readerのAndroid版をダウンロードする

【義援金送付先】
ハタチ基金 : 被災した子どもたちが震災の苦難を乗り越え、社会を支える自立した20歳へと成長するよう、継続的に支援をする団体。ハタチ基金についてはこちら

>>>【REVIVE JAPAN WITH MUSICを読む / 購入する】<<<

OTOTOY東日本大震災救済支援コンピレーション・アルバム(2013)

2011年3月11日に起こった東日本大震災の直後に、被災地への支援をしたいという強い思いからOTOTOYが中心となって関係者とともに企画し、たった6日間で創り上げたコンピレーション・アルバム『Play for Japan vol.1-vol.10』。200ものアーティストの賛同のもと、たくさんの方にご購入いただき、売り上げは4,983,785円にのぼりました(2012年1月1日時点)。震災から1年後の2012年3月11日には『Play for Japan 2012』を制作、728,000円を売り上げました。どちらも、その時点でお金を必要としている団体を選別しお送りしてきました。

『Play for Japan 2013』は、前2作のように、10枚×20曲のような大型コンピではなく、3つのテーマに基づいた、3枚のコンピレーション・アルバムを制作しました。テーマは、『Landscapes in Music』『沸きあがる的な』そして『a will finds a way』。オトトイ編集部やライター等3チームが、それぞれの思いを話し合いながらテーマとアーティストを選出。そしてそのオファーに答えてくれたアーティストの気持ちのこもった曲達によって出来上がりました。義援金は「ハタチ基金」にお送りします。被災地支援はまだまだ終りがありません。素晴らしい音源たちをご購入いただき、被災地支援にご協力いただけたら幸いです。

『Play for Japan 2013 ~All ver.~』

(左)『Play for Japan2013 vol.1 ~Landscapes in Music~』
(中央)『Play for Japan2013 vol.2 ~沸きあがる的な~』
(右)『Play for Japan2013 vol.3 ~a will finds a way~』

>>>『Play for Japan2013』の特集はこちら

OTOTOY日本復興コンピレーション・アルバム(2012)

『Play for Japan 2012 ALL ver. (vol.1-vol.11)』
『Play for Japan 2012 First ver. (vol.1~vol.6)』
『Play for Japan 2012 Second ver.(vol.7~vol.11)』

『Play for Japan vol.1-Vol.11』


>>>『Play for Japan 2012』参加アーティストのコメント、義援金総額はこちらから

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2011.5.15 映画『ミツバチの羽音と地球の回転』サウンド・トラックについてはこちら

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2011.05.02 箭内道彦(猪苗代湖ズ)×怒髪天の対談はこちら ※「ニッポン・ラブ・ファイターズ」ダウンロード期間は終了いたしました。

2011.06.11 「SHARE FUKUSHIMA@セブンイレブンいわき豊間店」レポートはこちら

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[インタヴュー] CICALA-MVTA

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