2014/11/18 19:17

震災・原発事故から2年以上の月日が経った。平静を取り戻しているかのように見えても、勿論、まだまだ問題は山積みで、それは私たちの生活に大きく関わっているものだ。この特集は、生活のなかで被災地支援や反原発の活動をしている表現者達(ミュージシャン/画家/漫画家 etc...)の話を聞くためにスタートした。私たちの隣にいる友人のような表現者達が、震災と原発事故にどう向きあってきたのか。その話は私たち自身がこれから何をするかのヒントになるだろうし、これからの世界は私たち一人一人が地道に考え行動してつくっていくことが重要だと思うのだ。いわばアンダーグラウンドからの発信であり、それこそがリアルな声だ。未来をつくるのは現在を生きている私たちなのだ。(遠藤妙子)

2013年夏発売の『TRASH-UP!!』で「message from underground」を大特集

message from undergroundとは
トラッシュ・カルチャーを追求する雑誌『TRASH-UP!!』と音楽配信サイトOTOTOYが、共同でお送りする企画「message from underground」。2013年4月から7月まで、ライターの遠藤妙子が被災地支援や反原発の活動をしている表現者達に取材、毎月インタビューを掲載します。OTOTOYでは4月より7月まで、毎月1本ずつ記事を掲載。そして、『TRASH-UP!!』では、OTOTOYで掲載された記事に加え、掲載できなかった表現者の記事も掲載。最終的に『TRASH-UP!!』の2013年夏発売号で、「message from underground」の完全版をお読みいただくことができます。表現者たちが何を思い、どのような活動をしているのか。普段は日のあたりにくいアンダーグラウンドからの発言を見逃さないように!!

TRASH-UP!! とは
「TRASH-UP!!」(トラッシュ・アップ)は、既成の概念にとらわれることなく、さまざまなトラッシュ・カルチャーを追求していく雑誌です。

「TRASH-UP!! vol.15」2013年5月発売。特集は、BELLRING少女ハート。

>>TRASH-UP!! Official HP

>>第1回 悪霊のインタヴュー記事はこちら<<

>>第2回 KO(SLANG)のインタヴュー記事はこちら<<

第3回 : 西片明人(東北ライブハウス大作戦代表)インタヴュー

東北に新しいライブハウスが誕生した――宮古の“KLUB COUNTER ACTION MIYAKO”、大船渡の“LIVE HOUSE FREAKS”、石巻の“BLUE RESISTANCE”。活発に動き出しているこの3つのライブハウスを作ったプロジェクト「東北ライブハウス大作戦」。このプロジェクトの中心人物が西片明人氏。ライブPAチーム「SPC」の代表でもある西片氏が被災地にライブハウスを作ると決めたのは「繋げる」ためだ。人と人を、人と場所を、そして未来へと繋げていくため。震災と原発事故で寸断されてしまった現実を見た彼のその思いは強い。その強い思いは多くの人に繋がり、多くの人の協力によりライブハウスは完成した。

理想を持ち、理想を達成するために現実的な視点も持ち、勿論、その根底にあるのは愛だったりする。人間を愛する気持ち、ライブハウスとそこで響いていた(いや、PAの彼が響かせていた)ロックを愛する気持ち。現在は、「東北ライブハウス大作戦 WITH LIVE福島」という、福島に自然エネルギーによる野外音楽堂を作るプロジェクトも始動させている。多くの人々を繋げていく、西片氏の言葉を聞いてほしい。

インタヴュー&文 : 遠藤妙子

「東北ライブハウス大作戦」とは

2011年6月、ライブPAチーム「SPC peek performance」が中心となり、全国に提供を募ったレトルト食品、絵本などを被災地に届けるなどの活動と並行し、東北三陸沖沿岸地域にライブハウスを立ち上げる運動を開始。土地や物件を探すところからはじまり、募金、グッズの売り上げ、賛同するアーティストのライブ収益、チャリティーCDのリリースなど様々な方法で資金を集め、機材を全国から募り、2012年の8月から10月にかけて宮古、大船渡、石巻の3ヶ所すべてのライブハウスがオープンとなった。


バンドが出したい音、バンドの感情を伝えるために、バンドと人間同士の付き合いをずっとしてきた

――まず、西片さんはどういう方かというのを。最初はPAからスタートしたんですよね?

西片 : いや、いまでもPAです。

――そのPAっていうのも、もしかしたら私がイメージしているPAとは違うかもしれませんよね。

西片 : たぶん違うと思います。PAって、どういう仕事だと思いますか?

――コンサートで音を作る人っていう。

西片 : それもありますよね。PAって言ってもいろいろあるんです。だから「なにをやっている人ですか?」って聞かれたら「PAです」って答えるけど、僕がやっているPAの仕事は、皆さんが思うPAの仕事とは違うかもしれない。例えば農業も米を作るのと野菜を作るのでは違いますよね。PAでも、レコーディング・エンジニアとライブに携わっているPAでは違うんですよ。そのなかで僕は、バンドマンの音をライブという現場で出すっていうことをやっているんですけど、でも、そこで終わりではないんです。そんなとこで終わるような仕事はしていないつもりです。例えばステージにこれだけの楽器を乗せる、そこにマイクを立ててケーブルを立てて、PA卓があって、スピーカーから音を出すようにセットアップする。そこまでが、いわゆるPAの仕事なんですけど、僕はそこから先のためにやっているんで。

――ただ音を出すだけじゃなく、観客に音を「伝える」ってとこまでやるっていうことでしょうか?

西片 : そうです。バンドが出したい音、つまりバンドの感情ですよね。それを観客に伝えるってとこまでやっているつもりで。で、バンドが出したい音、バンドの感情を伝えるために、バンドと人間同士の付き合いをずっとしてきた。だから僕の仕事はPAですけど、その場だけで音を作るんじゃなく、バンドと付き合って、バンドがなにを伝えたいかを知って、そして音を作って、観客に伝える。僕がやっているPAの仕事とはそういうもので、それをなんとか認知されるような動き方を、東北ライブハウス大作戦も含めて、ずっと模索しているという感じですね。

――このバンドにはこのPAってチームみたいなやり方をしている人たちがいますが、私にとって西片さんはその先駆者の方だったんですよ。もともとはHi-STANDARDのPAをやられて…。

西片 : いえ、もともとはライブハウスあがりなんで。最初は旧新宿ロフトの社員です。一緒にツアーに行こうって声をかけてくれるバンドはいましたし一緒に廻ったんですけど、基本、自分の居場所はライブハウスで。特にチーフになってからはライブハウスにいなければならない立場になって。それで、お世話になったロフトを離れてフリーになったんです。で、行動を共にするようになったバンドはハイスタが最初ですね。というか、ハイスタと一緒にやりたかったからフリーになったんです。

――ハイスタにどういう魅力を感じました?

西片 : 凄く可能性を感じたんです。なにより向上心を感じたし。いまが良かったとしても、次をもっと良くしていこうって意識が凄く高かった。そういう時期だったのもありますよね、当時の時代が。80年代のバンドブームが終わって、ライブハウスに閑古鳥が鳴いてる状態の時で。自分たちでどうやって切り開いていくかっていうことを、みんなが模索していた。それが楽しかったし、僕はそういうバンドに新しさも感じたし。

――私もその時代、新しいバンドの到来を感じました。

西片 : たとえば当時、渋谷クアトロは外タレの小屋だったですからね。そこに自分たちの企画を持っていったりとか。バンドブームのころはたくさんいた観客が、バンドブームが終わっていなくなって、クラブとかに流れたりしてね。観客をどうやったら連れ戻せるかっていうことを、いつも考えて行動して。だからライブハウス以外、クラブでもライブをしようってハイスタは言ってきて。僕は音響やってる人間っていうのもあって、バンドマンがクラブでなんかやるんじゃないって言って。でも「僕らがそういうことをしてライブハウスにお客さんを戻さないとダメだ」って、そういう話し合いをハイスタや他のバンドともいつもしていた。ハイスタはクラブのようなとこでもライブをやったんですけど、バンドの力になったんですよね。後々、海外ツアーに行った時、海外のライブハウスはモニターなんかないとこばかりで。そういう場所に行っても動じなかったですからね。

――西片さんは、ライブという現場だけではなく普段からバンドマンとコミュニケーションをとって。

西片 : そうですね。全てに関してみんなで決めていましたね。一本一本のライブの大切さ、一本一本を繋げていくこと、どうやって次に繋げていくか、そういうことは凄くコミュニケートしてきましたね。

――東北ライブハウス大作戦で西片さんがやっていることは、「繋げる」っていうことだと思うんですけど、当時の活動が、まさに今に繋がっていて。

西片 : ええ。それは自分でも思います。

「それしかできない」を見つけてほしいって思ってるんですよ

――ハイスタのほかにはどんなバンドを?

西片 : フリーになってハイスタについて。その後、HUSKING-BEE、、Back Drop Bombをレギュラーとして抱えて。自分一人だとどうしても各々のバンドのツアーが重なったりするのでフォローしてくれる仲間が集まって。2000年ぐらいですかね、SPCっていうチームみたいな形になっていって。

――チームにしたのは、自分のやりかたを後輩に伝えたいっていう思いもあって?

西片 : やりかたを伝えたいっていうとニュアンスが違いますね。具体的なやりかたなんかどうでもいいんですよ。僕と同じような音を出せなんて思わないし。そんなこと、僕は一切言わない。そんなのは自分で考えろと。いい音の答えなんかないですからね。ただ、意識はね。僕は言っているように現場で音を作って終わりじゃなくて、その音を作るためにバンドと人間同士の付き合いをするし、そこで出てくる音を聴き手に届けるってことまでが仕事だという意識ですから。もっと言えば、音楽が聴き手に届いたその先も考えている。そういう意識を持っていれば、やりかたは各々なので。

――あの、私は震災以降、特にそういうことを思うんです。たいしたことはできないけど年齢だけはいってるんで、若い人には、なにかこう、可能性があるってことを伝えたいっていうか。

西片 : それは僕も凄く感じていて。ただそれが、PAの仕事を伝えたいとか、このバンドのカッコ良さを伝えたいではなくて。そんな小さなことではない。じゃ、なにを伝えたいのかっていうと、逆にそれを見つけてほしいですね、若い人自身で。自分がなにをやりたいのか、自分になにができるのかわからない人に、ヒントを投げかけられたらいいなって思っているだけなので。僕が音楽を届けたいって言うのもそういうことで。音楽を届けるっていうのは、音楽そのものは勿論なんですけど、大事なのはそこから先なんですよね。その音楽を聴いた人が自分の生き方のヒントを得るような、音楽がその人のなかで育っていってなにかを気づくような。そうなっていって初めて音楽が伝わったってことだと思いますし。

――うん、そうですよね。私たちだってロックやパンクからいろいろ教わってきたし。

西片 : ですよね。まぁ、僕は他のことはできないんで。自分のレギュラー・バンドのプレイを伝えて届けるっていうことには絶対の自信を持ってますけど、それしかできない。「それしかできない」を見つけてほしいって思ってるんですよ。だから、こんなポンコツ親父でも、みんなを繋げる、希望を持たせるようなことができるんだよってことを見せたいなって。

――震災があった時はどうしていました?

西片 : 当日はシェルターで現場でした。ASPARAGUSで入ってて、シェルターに機材入れようかって時でしたね。ライブは中止になって。僕は最後までやろうとしてたんですけど。あの日、ライブはほとんど中止になったじゃないですか。僕は中止にするより、そこでなにかできるってことを、なにかできるんじゃないかって思ったんです。実際、なにができるのかって葛藤はあったし、僕がなにかやろうって言ってもどうしようもないっていう…。裏方としてやってるつもりはなかったんですけど、裏方なんだってことを実感しましたね、震災当日からしばらくの間。自分が表立ってなにができるかっていうことを考えると、結局、自分から発信していくことはできないし、なにを発信していいかもわからなかったし。

――みんな突きつけられましたし迷いましたよね。「こんな時にライブやっていいのか?」「音楽がなんになるのか?」って。

西片 : 自分も葛藤して、でもそれが一番大事なんだって感じました。葛藤のなかでインプットしたことが大事だし、そしてそれをアウトプットしていくことが大事だし。葛藤って自分の気持ちを考えるってことですから。

――葛藤したからこそ、それが行動になっていくことが大事で。

西片 : ええ。葛藤だけで終わっちゃう人もいるかもしれませんが。僕も行動に移せない歯がゆさがずっとあったんです。震災当日、僕はなにかやれるんじゃないかって思ったのになにもできずにライブは中止になった。その歯がゆさがずっと続いて、積み重なって。周りではKO(SLANG)が動き、BRAHMANが動き。それで僕もやっと。

――でも西片さんが被災地にライブハウスを作ろうって思ったのは、KOさん主催の宮古でのPOWER STOCKの時で、6月ですよね。動きは速かったと思いますが。

西片 : いや、遅かったですよ。遅いと思ってます、自分では。すぐに動いたKOやTOSHI-LOWとはしょっちゅうケンカしてましたから。まぁ、凹んでる俺に元気出せってことだったんでしょうけど。

人が集まれる場所、自分の意思で集まってくる場所を作りたいと思ったんです

――POWER STOCKでライブハウスを作ろうって決めるまでの流れは?

西片 : POWER STOCKの前に、4月に宮古、大槌など沿岸部を廻った時に、味わったことのない悲しさというか、自分の小ささみたいなものを感じて。なんていうか、どう言っていいかわからないぐらい悲しくてしょうがないって、その光景を見た時。そこでおそらくインプットされているんですよね、動き出しのインプット。それがどんどん自分の中で繋がって答え合わせができていくんですけど。たぶん大きなきっかけが、避難所に行った時、そこには人がたくさん集めさせられていた。遺体安置所にも遺体が集めさせられていた。集まったんじゃないんですよ、集めさせられていたんですよ。そこにはその人たちの意思は尊重されない。それを見て、漠然と、人が集まれる場所、自分の意思で集まってくる場所を作りたいと思ったんです。

「東北ライブハウス大作戦ドキュメンタリームービー」トレーラーVol.1
「東北ライブハウス大作戦ドキュメンタリームービー」トレーラーVol.1
「東北ライブハウス大作戦ドキュメンタリームービー」トレーラーVol.2
「東北ライブハウス大作戦ドキュメンタリームービー」トレーラーVol.2

――集めさせられた場所じゃなく、集まる場所。なんか凄く、わかるって言うのは安易ですが、でもわかります。

西片 : それが震災から一ヶ月後の4月11日。その時にインプットされたことが、二ヶ月後の6月のPOWER STOCKに繋がったんだと思います。POWER STOCKに来ている宮古の人たちの顔を見て、ライブハウスを作ろうっていうのが確信になって、その日にスタッフたちに言ったんですよ、「被災地にライブハウスを作ろう」って。そして東北ライブハウス大作戦の活動に入っていくんです。プランなんかなんもなかったですけどね。「俺が機材集めるから、場所は確保しろ」って感じで。

――フェスなどと違ってライブハウスって、その日だけではなく、根付かせるわけですからね。凄いことです。

西片 : 震災があって原発事故が起きて。いろんなものが寸断されましたよね、人とか家族とか、土地とかね。それは僕が生きている間は元通りにはならないと思うし。でも、新しい繋がりというか、次の世代への繋がりというか、そういうことの手助けはちょっとはできるかなって。それがいまを生きてる人間の使命なんだって感じて。ライブハウスっていうのが、僕にとってそれができる場所だったっていうことですね。日々、新しいものが生まれ続けていけるような場所が、僕にとってはライブハウスだった。忘れちゃいけないことがあると同時に、前へと進んでいける場所を作らなきゃって思ったんですよね。

――最初に決めた場所は宮古?

西片 : そうです。6月のPOWER STOCKの打ち上げで現支部長の大田に話を持ちかけて、二つ返事でOK。翌日、沿岸部を廻って、大船渡に、Racco(※1)がやっている炊き出しの手伝いをにしに行って。で、大船渡のKESEN ROCK FESTIVAL(※2)の実行委員たちに、連絡するなら彼らしかいないって、「宮古にライブハウスを作る。点じゃなくて線にしたいから大船渡にも作りたい」って連絡して。

――もうそこで宮古以外の場所にも作ろうって決めたんだ。凄い。

西片 : バンドがより行きやすい状況にしたいって思ったんで。盛岡でライブやったバンドが宮古に行って、そこだけじゃなくて大船渡にも行く。沿岸部のルートを作りたいって思った。その後、連絡を取り合いながら、宮古と大船渡が決まって。で、石巻は、石巻にもライブハウス作ってほしいって声が凄くあがっているって聞いて、石巻も作ろうって。

ゼロから手作りでやることが凄く新鮮だった

――その行動力、凄いですね。

西片 : 宮古は震災の数年前から年に一回ぐらいは足を運ばせてもらった場所なんです。凄く好きな街で、ライブも凄く楽しくて。それまでずっと東京にいて、東京って楽なんですよね。ライブをやる場所はあるし機材も揃ってるし。昨日今日出てきたバンドもすぐにライブやれちゃう。甘えられる。それに僕も慣らされていたし、それがつまんねぇなとも感じていた。そんな時に宮古で仕事することがあって、ライブをやる場所もないわけですよ。だから市民会館や潰れた映画館に機材運んで、地元の若い連中に手伝ってもらって、地元の人とコミュニケーションとって。ゼロから手作りでやることが凄く新鮮だった。

――東京は、既に全てがあるところでやればいいわけで。でも宮古では、ないから自分たちで作るしかない。

西片 : ええ。なんていうか、それが基本ですよね、本当は。年に一度ぐらいそうやって宮古で仕事をして。それが何年か続いた頃に震災。それもあって最初は宮古だって思ったんです。

石巻BLUE RESISTANCE オープン時の映像
石巻BLUE RESISTANCE オープン時の映像

――ただ震災の後は生活そのものが大変で、音楽とか娯楽なんか後回しだって時期だと思うんですが。

西片 : かもしれないですね。でも僕は絶対に必要だと思った、人が集まれる場所が。まぁ、具体的には地元の人とのミニマムな付き合いですよね。「オマエがやるって言うならやっていいよ」って、そう言ってくれるまでの関係を築く。そこで説得力を持つには、やっぱり動くしかないんですよ。動く、足を運ぶ、話す。勿論、いろいろな人がいろいろな事情を抱えていて、全ての人がライブハウスができることに賛成だったとは限らないですが。でもライブハウスの斜向かいに自販機が並んだ時は凄く嬉しかったんですよ。ここに人が集まるってことを、街の人たちが認識してくれたんだって。

――あぁ、うんうん。

西片 : それがありがたかったし。近くの焼き鳥屋も店を辞めようって思ってたけど、ライブハウスができるってことで店を復活させるべく頑張って、いま、再オープンして。

――ライブハウスが建てば周りも活性化する。

西片 : うん。それが凄く嬉しかったですね。地元と繋がりを持ちつつ作っていくことは難しくもあるけど楽しいことで。いかに共存共栄でやっていけるかってことを考えてきたし。

――被災地でやるっていうのはそういうことですもんね。

西片 : そうです。ライブハウスを作るだけなら実は簡単なんですよ。大きなスポンサー見つけて上手いこと言って頼めばいい。だけど僕がなにをしたいかっていうと、ライブハウスを作りたいってだけじゃないんで。ライブハウスができたことによってどれだけ繋がっていけるかってことをやりたいんで。人と人であったり、人と場所であったり、その人が未来になにかを繋げることであったり。じゃなきゃこんなに広げませんもん。ライブハウスやりたいだけなら一軒だけでいいですもんね。

――東北ライブハウス大作戦は、KOさんがやってるNBC作戦(※3)とも繋がってると思うし、全国各地のライブハウスやバンドとも募金という形で繋がってるし。

西片 : おこがましいんですけど、なにか協力したいけどどうしたらいいかわからないっていう人たちのために、協力できる場とかきっかけとか、そういうのは作りたいなと。ホントにね、なにもできないって思ってる人がいるかもしれないけど、なにかはできるんですよ。そのなにかはなんでもいいんですよ、小さいことでも。小さくても恥ずかしいことなんかない。それより面倒くさいとかカッコ悪いとか、そう思ってるほうが恥ずかしいと思うんですけどね。まぁ、こんなポンコツ親父でもできるんだから(笑)。

人を繋げて、街を繋げて、未来へ繋げること

――西片さんのキャリアはライブハウスからスタートした。恩返しみたいな気持ちもあります?

西片 : あります。ライブハウスで育ったからライブハウスで返したいって気持ちは凄くあります。ていうか、それしかないですし、僕には(笑)。

――あと幡ヶ谷再生大学(※4)っていうのは?

西片 : あれは遊びのサークルだったのが、震災を機に復興再生部っていうのを作って、いろんなアクションを起こしましょうっていう非営利団体ですね。そこで米や水を集めたり。最近では石巻に公園を作ろうって公園作りをやってたりして。さっきの震災前に宮古で仕事してた時の手作りでライブをやった話をしましたが、あれと一緒で、自分たちで作っていこうってことですよね。

――そしていま、3軒のライブハウスが完成してライブが始まってるわけですが。

左から、大船渡FREAKS、宮古COUNTER ACTION、石巻BLUE RESISTANCE

西片 : やっと始まったって感じですよ。ライブハウスができたことが終わりじゃなく、これから続けていくことですからね。できてからの方が大変だし大事だし。あの、選挙だってそうですよね。投票して終わりではなく、その後、政治家がどうするのか見張ってなきゃいけない。ライブハウスだってそう。放っておいたらなくなっちゃうんだよって。

――その感覚って震災があったから余計に…。

西片 : そうですね。それまであったものがなくなるってことを見ましたし、だから自分たちで作っていかなきゃいけないし、作っても持続させていかなきゃいけない。それに気づいてない人が多いとは思います。東京にいると、物事は全て誰かが準備してくれる感覚になってるだろうし、なくなるわけがないって思ってるだろうし。東京だってこれからどうなるかわからないのにね。だから僕は、震災があって、どう生きるかってことを考えたし。考えて得た「繋げる」っていうことが、東北ライブハウス大作戦の気持ちの軸になっている。まぁ、一人で生きてると思うなよってことでしょうか。例えば、ここにコーヒーあるけど、誰かがコーヒーをこぼしたら、誰かがダスター持ってきますよね。初めて会った関係でも、その動きに打ち合わせいらないじゃないですか。それは人として当たり前のことですよね。それを忘れないでほしい。コーヒー代は弁償してくれるの? なんてことは後の話。誰かになにかあったら誰かは手を貸す。そういうコミュニケーションが当たり前になっていけばいいんですよ。コミュニケーションの土台ってそういうことだと思うんです。

――うん。募金箱も、ライブハウスとかいろんな場所にあるのが当たり前になればいいですよね。

西片 : いや、それは難しいですよ。募金箱があるのが当たり前になると、例えばね、お釣りをそこに入れればいいって感覚にもなっちゃうんですよ。

――あぁ、それがなんのためにあるのか、当たり前になると麻痺しちゃう。

西片 : ええ。東北ライブハウス大作戦の物販でも、500円のリストバンドを買って1000円出したからお釣りを渡そうとしたら、「あ、そこ(募金箱)に入れといて」って言う子もいて。そこってなんだよ、自分で入れろよって。「自分で入れなさい」って言いますけどね。広まっていくことって、同時に意識が薄まっていくこともあるわけで。そこは注意しながらやらなきゃ。

――確かにそうですね。

西片 : それを少しずつでも気づいてもらえればなと。そういうことを伝えるのもライブハウスだったりすると思うし。ライブハウスは悪いことも教えてくれるしダメな人間も作る。でもそういうとこを20年以上見てきた人間が、ライブハウスは面白いって言ってるんだから、やっぱりライブハウスは面白いんですよ(笑)。

――ええ。西片さんは理想があって、同時に理想を現実にするために具体的に細部まで見てらっしゃる。

西片 : それはある意味、僕が裏方だからかもしれないですね。最初に裏方であることを実感して葛藤したって言いましたが、そういう僕だからできることがあるっていう。

――ええ。素晴らしい活動だと思います。じゃ、今後、どのような理想を持って進ませていくのでしょう?

西片 : 3軒のライブハウスは若い人が希望を持ってもらえる場所にしたいですけど、おじいちゃんおばあちゃんが集まるライブでもいいと思っていて。演歌歌手が来てもいいし、使いかたにはこだわってないです。人が集まれる場所で、それがライブハウスなんだよって自信もって言えればいいんです。で、一番の思いはずっと言ってるように、人を繋げて、街を繋げて、未来へ繋げることですから。だから10年後にAIR JAMがあったら、胸張って宮古のKLUB COUNTER ACTION MIYAKOの、大船渡のLIVEHOUSE FREAKSの、石巻のBLUE RESISTANCEの出身って言えるバンドが出てきていたらいいなと。そうなって初めて一区切りついたなって思うのかもしれませんね。あと全国のライブハウスが繋がっていけばいいと思うし。それからなによりも、東北ライブハウス大作戦でできた3軒のライブハウスにみんな行ってほしいです。みんなで作ったライブハウスなんだから。募金をしてくれた人、物販でなにか買ってくれた人、これから募金をしようと思ってる人もね。そういう人たちは絶対に全員行くように(笑)。

1. Racco
ファストでユーモアある音を叩きだすパンク・バンド、Idol Punchのリーダー。自身の店、RACCOS BURGERのハンバーガーは各地のフェスに出店。震災以降はハンバーガーの炊き出しなど、被災地に何度も向かっている。
2. KESEN ROCK FESTIVAL
2008年「大船渡ロックフェスティバル」としてスタート。2009年に「KESEN ROCK FESTIVAL」と改め、震災で中止となった2011年以外、毎年7月に開催されている、地元の有志によるフェスティバル。the band apartを筆頭に多くのバンドが出演。
http://www.kesenrockfes.com/
3. NBC作戦
「NBC作戦」はKO氏を中心とする東日本大震災の被災地への物資支援活動。前回のKO氏インタビュー参照。
http://www.nbc-sakusen.com/
4. 幡ヶ谷再生大学
http://hatagaya-saisei-univ.jp/

PROFILE

西片明人

ライブ・サウンド・エンジニア・チーム「SPC peak performance」代表/「東北ライブハウス大作戦」プロジェクト本部長。専門学校在学中から、新宿の老舗ライブハウス新宿LOFTでPAとして働きはじめ、その後フリーランスで、ライブ・サウンド・エンジニアとして、キャリア・スタート。Hi-STANDARDの専属PAを皮切りに、HUSKING BEE、BRAHMAN、ヒダカトオル(元BEAT CRUSADERS)等、手掛けた担当アーティストは、これまで20組以上。2000年、ライブ・サウンド・エンジニア・チーム「SPC peak performance」設立。現在も多数バンドのツアーに帯同、年間200本以上のライブ現場を取り仕切る、カリスマ的存在。2011年3月に発生した東日本大震災を受け、「SPC peakperformance」を中心として、音楽の力を信じる仲間達と共に、被災地復興支援の為、人と人とが出逢い繋がる『場』を作るべく、特に甚大な被害を被った、宮古、大船渡、石巻3地域でのライブハウス設立プロジェクト「東北ライブハウス大作戦」を立ち上げ。同プロジェクト主旨に、担当アーティスト及び数多くの表現者達が賛同、瞬く間に結集。その後も絶え間なく継続的な、各方面からの支援、協力を受け、プロジェクト立ち上げからわずか2年弱で、上記3地域にライブハウスを完成させる。「人と人を繋げる」をテーマに、ライブ・サウンド・エンジニア活動を主体に、設立した各ライブハウス運営管理業並行の傍ら、箭内道彦氏主宰「風とロックLIVE福島CARAVAN日本」との合同プロジェクト「東北ライブハウス大作戦 with LIVE福島」等、現在も精力的な活動を、継続展開中。

遠藤妙子 PROFILE

80年代半ばよりライターとしてパンク・ロック雑誌「DOLL」などで執筆。DOLL廃刊後もアンダーグラウンドで活動するバンドを軸に、ロック・バンドへのインタビュー、執筆に加え、2011年にライヴ企画をスタート。ライヴ・ハウス・シーンのリアルを伝えていくことを目指し活動。

OTOTOYの連載企画『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』

2011年3月11日以降、OTOTOYでは『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』と題し、音楽やカルチャーに関わるもの達が、原発に対してどのような考えを持ち、どうやって復興を目指しているのかをインタビューで紹介してきました。2011年6月から2012年4月までの期間に、大友良英、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)など9。そして、2013年2月、再び大友良英へのインタビューを試み、全10回の記事を電子書籍BCCKSにまとめて販売します。有料版の売り上げは、ハタチ基金へ寄付いたします。

BCCKSとは
BCCKS(ブックス)は、誰でも無料で『電子書籍』や『紙本』をつくり、公開し、販売することができるWebサービス。エディタで一冊本をつくるだけで、Webブラウザ、iPhone、iPad、Android、紙を含むすべてのデバイスにスピード出版できます。BCCKSのリーダーアプリの他、EPUB3ファイルでお好きなリーダーでも読書をお楽しみいただけます。
※製本版の購入にはBCCKS(ブックス)への会員登録が必要です
※電子書籍は、PCではSafari、Chrome最新版、デバイスではリーダーアプリ「bccks reader」またはEPUB3ファイルを落として対応リーダーでご覧いただけます

itunes Storeでbccks readerのiOS版をダウンロードする
Google Playでbccks readerのAndroid版をダウンロードする

【義援金送付先】
ハタチ基金 : 被災した子どもたちが震災の苦難を乗り越え、社会を支える自立した20歳へと成長するよう、継続的に支援をする団体。ハタチ基金についてはこちら

>>>【REVIVE JAPAN WITH MUSICを読む / 購入する】<<<

OTOTOY東日本大震災救済支援コンピレーション・アルバム(2013)

2011年3月11日に起こった東日本大震災の直後に、被災地への支援をしたいという強い思いからOTOTOYが中心となって関係者とともに企画し、たった6日間で創り上げたコンピレーション・アルバム『Play for Japan vol.1-vol.10』。200ものアーティストの賛同のもと、たくさんの方にご購入いただき、売り上げは4,983,785円にのぼりました(2012年1月1日時点)。震災から1年後の2012年3月11日には『Play for Japan 2012』を制作、728,000円を売り上げました。どちらも、その時点でお金を必要としている団体を選別しお送りしてきました。

『Play for Japan 2013』は、前2作のように、10枚×20曲のような大型コンピではなく、3つのテーマに基づいた、3枚のコンピレーション・アルバムを制作しました。テーマは、『Landscapes in Music』『沸きあがる的な』そして『a will finds a way』。オトトイ編集部やライター等3チームが、それぞれの思いを話し合いながらテーマとアーティストを選出。そしてそのオファーに答えてくれたアーティストの気持ちのこもった曲達によって出来上がりました。義援金は「ハタチ基金」にお送りします。被災地支援はまだまだ終りがありません。素晴らしい音源たちをご購入いただき、被災地支援にご協力いただけたら幸いです。

『Play for Japan 2013 ~All ver.~』

(左)『Play for Japan2013 vol.1 ~Landscapes in Music~』
(中央)『Play for Japan2013 vol.2 ~沸きあがる的な~』
(右)『Play for Japan2013 vol.3 ~a will finds a way~』

>>>『Play for Japan2013』の特集はこちら

OTOTOY日本復興コンピレーション・アルバム(2012)

『Play for Japan 2012 ALL ver. (vol.1-vol.11)』
『Play for Japan 2012 First ver. (vol.1~vol.6)』
『Play for Japan 2012 Second ver.(vol.7~vol.11)』

『Play for Japan vol.1-Vol.11』


>>>『Play for Japan 2012』参加アーティストのコメント、義援金総額はこちらから

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2011.5.15 映画『ミツバチの羽音と地球の回転』サウンド・トラックについてはこちら

2011.04.23 「Play for Japan in Sendaiへ 救援物資を届けに石巻へ」レポートはこちら

2011.05.02 箭内道彦(猪苗代湖ズ)×怒髪天の対談はこちら ※「ニッポン・ラブ・ファイターズ」ダウンロード期間は終了いたしました。

2011.06.11 「SHARE FUKUSHIMA@セブンイレブンいわき豊間店」レポートはこちら

2011.08.11 こだま和文×ランキンタクシーの対談はこちら

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2011.12.09 畠山美由紀『わが美しき故郷よ』インタビューはこちら

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