2017/01/20 20:00

Year in Music 2016──岡村詩野音楽ライター講座生による2016年ベスト・ディスク

OTOTOYが主催するオトトイの学校にて、音楽評論家として活躍する岡村詩野のもと、音楽への造詣を深め、「表現」の方法を学ぶ場として開講している「岡村詩野音楽ライター講座」。

2013年より、年末に製作してきた『Year in Music』。その名のとおり、受講生の選盤によって、その年のベスト・ディスクのレヴューを集めたものになります。ひとりの師を仰ぎながらも音楽の趣味嗜好の異なる書き手たちが選んだ2016年のベスト・ディスクを、2017年につながるひとつの指標としてお楽しみください。

『Year in Music 2016』作品一覧(あ-ん)

agraph『the shader』
イ・ラン『神様ごっこ』
in the blue shirt『sensation of blueness』
エンジェル・オルセン『マイ・ウーマン』
カニエ・ウェスト『ザ・ライフ・オブ・パブロ』
KOHH『DIRTⅡ』
Suchmos『MINT CONDITION』
ジェイムス・ブレイク『ザ・カラー・イン・エニシング』
スピッツ『醒めない』
Seiho『Collapse』
チャンス・ザ・ラッパー『カラーリング・ブック』
D.A.N.『D.A.N.』
Hi-STANDARD『ANOTHER STARTING LINE』
ザ・ビートルズ『ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル』
ブラッド・オレンジ『フリータウン・サウンド』
BABYMETAL『METAL RESISTANCE』
ボン・イヴェール『22, ア・ミリオン』
ミツメ『A Long Day』
MOROHA『MOROHAⅢ』
RADWIMPS『君の名は。』
レディオヘッド『ア・ムーン・シェイプト・プール』

the shader──陰のように、ただそこに音楽がある、普遍

agraph / the shader

過去2作ではノンバーバルでありながら情景をドラマティックに描いた、牛尾憲輔のソロ・プロジェクト=agraphが、一転、これほど抽象的な作品を生み出すとは思いもしなかった。

気が遠くなるほどに重ねられたトラック群がなす、擦りガラスのような不透明な音像や息苦しいまでの音の密度。それらがあたかも物体が目前に聳えるかのような重力を楽曲にもたらしている本作は、端的に言って、没入しづらい作品だ。ビートやメロディが不明瞭なまま展開していく様子から、どうやら今作の楽曲は幾つかの音源をバラバラに切り貼りした構成になっていることも垣間見える。そうした手法が直接的に想起させるのは、やはりワンオートリックス・ポイント・ネヴァーではあるが、さらに言うならばそのOPNが『レプリカ』で用いたヴェイパーウェイヴの手法をも連想させられる。

情報社会の意匠を闇雲にコラージュすることでその意匠の無意味化をもたらしたヴェイパーウェイヴ。既存の音源の断片を文脈から切り離し再配置するという手法はまさに本作のそれに近しい。そこにはなにか、あえて「意味」を解体しメッセージ性から遠く離れようとする意図を感じてならない。

そう、「陰影」と名付けられた本作は、陰という現象がただそこに物体が存在しているということだけを示すように、「音楽がそこで鳴っている」ことの余韻だけが漂うのみで、なにも伝えていないのだ。

──言うまでもなく、メッセージの持つ力は強い。けれどメッセージによって“何か”を“何か”に意味づけることは、別の“何か”への不寛容をも孕んでいて、ゆえにアジテーションの道具にも利用されてゆく──そんな光景をわれわれは、“Brexit(ブレグジット)”、あるいはかの国の次期大統領といった象徴以外にも、この1年幾度となく目撃した。 

この、メッセージが物事の二極化を誘引する時代に応戦するかのように、フランク・オーシャンやビヨンセの作品に白人ミュージシャンが客演し、他方ボン・イヴェールがブラック・ミュージック的なアプローチを試みるなど、白と黒の隔たりを乗り越えようとするポップ・ミュージックの営みも、数多繰り広げられてはいる。

一方agraphは、むしろメッセージを遠ざけるという、それらとは一見真逆の発想によってこの2016年に独自の存在感を示したと言えよう。過去作はもちろん、彼の参加する電気グルーヴやLAMAなどでのカラフルな楽曲イメージを覆す、あくまで現象のような本作の楽曲群は、音楽のボーダーレスな姿の別解をわれわれに提示しようとしている。(text by 井草七海)

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韓国のカルチェ・ラタン発、死にたい彼女の哲学

イ・ラン / 神様ごっこ

インディーとメジャーの境目が曖昧になりつつある中で、韓国からK-POPアイドルとはおよそ対極的な「これぞインディー」というアーティストが登場した。闇に浮かぶ静謐な肖像が印象的なイ・ランは、韓国インディーの中心地であり学生とアートの街、ソウルの弘大(ホンデ)で音楽・映像・漫画と垣根を越えた表現活動をしている女性だ。

チェロを交えた端正なアコースティック曲「世界中の人々が私を憎みはじめた」は、弘大にある閉店後のコーヒー店で録音された。壁にわずかに反響したヴォーカルがメジャー音楽にはない親密さをもたらしている。

アルバムの日本盤は、ZINEを思わせる書籍+CDという、音楽とも文学とも分類できぬ形態で届けられた。エッセイの合間に歌詞が登場し、前後の文脈で歌の背景がわかる構成だ。あどけない歌声がほのぼのとした「東京の友達」は、自身の失恋相手に向けた歌だと判明。ジョニ・ミッチェルのような赤裸々さと毒も彼女の魅力である。

しばしば語られる主題は「死」だ。イ・ランは〈死がやって来る前に自分から死んでしまいたい〉と告白する。理由は死ぬことへの恐怖だという。でも飼い猫が困るから猫が死ぬまでは延期。まるでカート・ヴォネガット(本作に引用された作家)のように正気なのか冗談なのか曖昧なまま持論を展開するが、自殺率が世界最悪の韓国の30代にとって「死」はリアルな話題なのかもしれないし〈笑うことで、ちょっとだけ死を忘れることができる。だからユーモア感覚が錆びないよう、常に新しいユーモアを準備している〉と折り合いのつけ方も提示している所を見ると、思慮深く死を考察することで地に足の着いた「生きるモチベーション」を会得していることがわかる。「笑え、ユーモアに」は、ドラムのシンコペーションに乗せて「ハハハ、ヒヒヒ」と歌う、本作中最も生命力に溢れた曲だ。

ソウルという都市を〈バカにしたくなるポイントが本当に多い〉〈なんて頭が悪いんだろう〉と一蹴しつつ、この街を愛している。故に弘大に生き〈私が持っているエネルギーを、ソウルの変なところを死ぬまでからかうことに費やしたい〉。これがイ・ランの立ち位置だ。産業K-POPとは一線を画すスタイルで、かつてカルチェ・ラタンに集った若者のごとく人生哲学を語り、世を風刺する。若者の失業率が9%を超え、「ヘル朝鮮」という言葉が流行し、大統領の汚職に市民が怒りの声を上げる2016年の韓国において、彼女の存在自体が歪んだ社会に対する静かなカウンターであるように思えてくる。(text by 稲葉智美)

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no title

in the blue shirt / sensation of blueness

日々Twitterで飛び交うやり取りをフォローしていると、例えば札幌のPARKGOLF、大阪のSeihoなど、彼らの拠点がこの東京と遠く離れた場所であることすら忘れてしまったりもするが、同じようにして難なく筆者のインターネット世界の中で彼らと同列の場所に現れたin the blue shirtに対しても、実のところ、その京都という拠点の地域性を意識することがあまり無い。それは、この彼の初作『sensation of blueness』が、インターネットを土台にブレイクしたトラックメイカーによるデビュー作でありながら、確実にあらゆるディケイド、そして現在の彼の磁場を超越して聴くことの出来る外に開かれたレコードであることとも一致する。本作は、#FutureBass、#TrackMakerといった彼らをカテゴライズする新世代的な枠に留まらない、自身のルーツを存分に生かしたレコードに仕上がっているのだ。

何より特徴的なのはトラックメイキングで用いる記名性の高いサンプリングの手法。様々なヴォーカルやヴォイス・サンプルをチョップ、あるいは細かく刻んでカットアップしそれらを原型を留めない姿に調理しているが、それはあのアヴァランチーズを髣髴とさせるほどに巧みだ。入れ替わり立ち代わり現れるサンプルは時に忙しなくも感じられるが、そこにテン年代以降のトラックメイカーの感覚といえよう未来的なビート感が相まることで、一聴しただけでin the blue shirtとわかる音のつくりになり、何となく現代にどこからともなく新しく登場した音楽を聴いているような錯覚さえ感じてしまう。

だが、彼の本質的な魅力が現れるのは、サンプリングの力そのものではなく、それらカラフルなサンプルたちが部材となる楽曲そのものである。トリッキーなビートが飛び出す時でさえ常にメロディはキャッチ―に、そして用いるシンセサイザーの音色は優しくオーガニックにと、ベッドルーム・ミュージックや00年代後半のチルウェイブの感覚さえ持ち合わせている。時よりクラブで見せるアグレッシブなセットの印象とは異なり、 “サンプリング” や “トラックメイカー” というイメージを脱し、日々私たちが日常的に聴くポップ・ソングの一つとして機能する強度をしっかり備えているのだ。テン年代以降の新しい感覚では収まりきらない、より広い時代の音楽要素が溶け合っている様がin the blue shirtそのものであることがわかる。あらゆるサンプルを使いこなすだけあって、それに比例してトラック自体の引き出しも様々兼ね備えているということだ。

新世代の同胞たちとも共振しながらも、まるで00年代以降のトラックメイキングの移り変わりをお浚いしながら更新するような趣の本作は、彼のこれまでの集大成でありながらも、いまの彼の立ち位置を超えて聴かれる強さがある。これは進化を続ける国内のベース・ミュージック・シーンの2016年最大の賜物だ。(text by 山本大地)

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シンプルな言葉が愛の形を問い質す、女性の「新たな詩的表現」

エンジェル・オルセン / マイ・ウーマン

エンジェル・オルセンの魅力は何と言っても、ダイナミックなビブラート使いがユニークな歌声だ。前作から取り入れられたバンド・サウンドはその声の可能性をさらに引き出していたが、3作目となる今作『マイ・ウーマン』では、より多彩な声色やフィルターを巧みに使い分け、それこそ何人もの女性を演じるかのような様々なエモーションを見せつける。

その一方、いずれの曲でも、相手とのすれ違いを匂わせる、祈りや願いに似た切実なフレーズが重ねられているのもまた印象的。王道進行のポップな曲調の多い作品前半では切実な愛情表現が高らかに歌い上げられ、作品後半では一転、メランコリックな表情と共に、愛に対する冷めた視線を送る瞬間が何度か訪れる。劇的なドラマはない代わりに、ひたすらに感情の機微の描写が繰り返されるのだ。

要するにオルセンは一貫して、「愛とはなにか?」という根源的な問いに向き合っているというわけだ。「ウーマン」の中で繰り返す〈what makes me a woman〉というフレーズなど、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉が頭をよぎるほどに客観的な響きを伴っていて、ついハッとさせられてしまう。多くの女性目線のラヴソングと違って、その切実さは決して感情に任せただけのものではないのだ。女性の抱く愛の形をなにものにも規定されようとしないこうした彼女の洞察には、精神の自由を自ずから掴み取ろうとするかのような哲学的な趣きが感じ取れる。

彼女の詩のさらに興味深い点は、シンプルな言葉を重ねることでむしろ多義にとれるように仕上げているところだ。今作の楽曲はカントリー~フォークを足場にしつつも曲調は非常にバラエティ豊かだが、重要なのは、それらをどれもアメリカンスタンダードのように聴かせるアレンジが詩の含蓄を下支えし成熟した“ウーマン”の思慮を一層もたらしているところと言えるだろう。

こうしたシンプルさの背後に鋭い洞察を伺わせる手腕は、さながらボブ・ディランだ。一語一語は平易でありながら一方的な解釈ができない抽象性にディランの規定不能性があるわけだが、今のオルセンはまさにそれとぴったり重なる。そう言えば、「シャラップ・キス・ミー」では〈It’s all over (now) baby blue〉とさりげなくディランを一部引用していた。奇しくもディランが「米国音楽の伝統の中で新たな詩的表現を生み出した」ことが改めて注目された今年、彼の培った詩的表現を誰よりも丁寧に引き継いでいるのが、まさしくエンジェル・オルセンだ。(text by 井草七海)

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カニエに反射する「コミュニケーション」の形

カニエ・ウェスト / ザ・ライフ・オブ・パブロ

「本当の友達は何人いる?」(「リアル・フレンズ」)

多くのコミュニケーションの形を提示し、対立も友好もたくさんの関係を音楽を通じて経験してきたカニエ・ウェストが発するからこそ、繰り返されるその問い掛けに悲痛が籠もる。『ザ・ライフ・オブ・パブロ』は一度特別な距離を作ってしまった誰か、何かとのコミュニケーションを音楽にしたアルバムだ。発表当初、ストリーミング・サイト『TIDAL(ティダル)』を通じてしか聴けなかったが、他者とのコミュニケーションを拒む作品ではない。他者を攻撃する光景が世界のあちこちで見られ、それを解決するために繋がろうとする試みが生まれている現在だからこそ、聴く者をはっとさせるものがある。

リアーナをフューチャーした「フェイマス」で、嘲るようにテイラー・スウィフトを貶める。あるいは、前作『イーザス』で“I am a god”と連呼していたのに、「ウルトラライト・ビーム」ではチャンス・ザ・ラッパーをフューチャーし、少女が説法の真似事をしているような声のサンプリングなどゴスペルの要素を取り入れ、自分ではない「神」と向き合う。ジャンルや宗教などさまざまな垣根を越える音楽の交流は、カニエはもちろん世界中の他の音楽でも行われている。しかしそれは多くの場合、作り手同士の考え方が合っているなど、ジャンルは違えど感情の対立はないことがほとんどだ。『ザ・ライフ・オブ・パブロ』は、テイラーから果ては「神」まで、その瞬間に摩擦が生まれるものと、敢えて交わろうとしている。一歩踏み外すとただの中傷でしかなくなる。だから自分の置かれた環境をおちょくって遊ぶような「フェイマス」には高揚感と同時に、カニエの声とドラムトラックの音が不穏さを醸し出している。「リアル・フレンズ」は壁を作ることと越えることがもはや流行の一要素になりつつある時代に、人と人が繋がることにどういう難しさがあるのかを、一歩引いた目線で呟くような歌だと思う。

本作にアルバムとしての共通や物語性を見出すことは難しいかもしれない。しかしある時は他者をdisり、ある時は他者と共に歌い、ある時は他者と繋がれていない悲しみを表現するこのアルバムは、もう聞き飽きた言葉のようになっている“コミュニケーション”の意味をもう一度問い掛ける。現時点でCDになっていない本作はまだ終わっていない。生きることや、考え方の違う他人同士の交流のように、いつまでも形を変えながら続いていくのかもしれない。(text by 沖田灯)

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「生きているだけ」の言葉たち

KOHH / DIRTⅡ

音楽と音楽の間にある壁をヒップホップが取り払い、異なる世界同士が混ざり合おうとしている。KIRINJI『ネオ』にRHYMSTERが参加したことやくるり『琥珀色の街 上海蟹の朝』がラップ要素を濃くしたことは、日本国内におけるその表れと言えるだろう。“詞”を歌ってきた音楽に“リリック”が飛び込む。メロディーの中を別の波が泳ぐ。その磁力はラップの言葉だ。「分断」という病にかかった世界で、音楽がこれから鳴っていくための一片の希望がそこにある。肌の色や国境やジャンルを交ぜ合わせた音像を象徴するようなフランク・オーシャンや、宇多田ヒカルの新譜にも迎えられたKOHHはその光の先端にいるように見える。

でもKOHHの言葉は分断を乗り越えるためのプロパガンダではない。女、SEX、生と死、ビジネスとアート──こうした普遍的で、ありがちな話題を見たまま、感じたままのごとく即物的にラップする。それはSNSに吐いて捨てるほど流れる刹那的で感情的で乱暴な言葉と紙一重だ。『DIRTⅡ』Disc1の最後を飾る「Hate Me」は他者を受け入れるどころか〈俺のこと好きになるなよ まずあんたに興味ない〉という拒絶に始まり、終わる。

本作はラップが音楽の壁を乗り越えるのとは違う方法でロックの領域にはみ出していく。悲鳴のようなシャウトが禍々しい1曲目『Die Young』の絞り出すような声はロックのヴォーカル、あるいはギターの歪みのようでもある。「お金」「生きる」「死ぬ」(死なない)といった言葉たちは、アルバムを通し繰り返され、叫ばれることで次第に聴き手にとってメッセージを持たないただの音になっていく。また、このアルバムからは北区王子の団地で育ったという過去や、薬物中毒だった母親への思いといった「物語性」が排除されている(対照的に、宇多田ヒカルと共演した『忘却』は母親との関係という物語に寄った曲だった)。言葉が多分に意味を背負わされる時代に、メッセージと物語から逃れているのだ。意味でなく、最も気持ちよく聴こえる響き方を与えられた言葉たちは、海を越え意味の通じない場所にまで届いている。と同時に、無垢な子供のようにフラットな視点から発せられることで、本来の意味をむき出しにして聴く者を刺す。

意味の無化と先鋭化。何かを伝えたい思いが強いほど、表現にとって難しいはずの二つの相反することが本作で起きている。他者を攻撃する暴力のようでいて、実際は刺青のように自分を傷つけて切り出した言葉を携え、どの音より多くの垣根を越える。(text by 沖田灯)

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「Good Night」のその先へ、音楽は時代の空気を吸収する

Suchmos / MINT CONDITION

Suchmosは2016年のプロム・キングである。正装は必要ないけれど、いかしたファッションとノれるグルーヴはマスト。そして圧倒的なリスナーからの支持が彼らをキングたらしめている。その理由としては、昨今の音楽シーンに合致し、かつ独自の観点を織り交ぜた音楽を提示したこと、リスナーの共感を得たことが挙げられるだろう。その両方が色濃く反映された作品、それが『MINT CONDITION』だ。

本作は全4曲のシングルで、「アマチュアもプロも変わんないね」と挑戦的なアティテュードを見せる「DUMBO」、英語と日本語を絶妙に組み合わせ、リズムを重要視したリリックでありながら思わせぶりなフレーズを散りばめた「JET COAST」、さらりとした聴き心地の中に熱を秘め、余韻を残すインストゥルメンタル曲「S.G.S.3」と、彼らのクールさが感じられるナンバーが揃う。

さて、時代はおりしもインターネット社会。音楽のフリー・ダウンロード化が進み、デジタルネイティヴ世代には音楽をジャンルレスに取り入れるだけの環境がある。それでいて、個人と個人は隔たれている。

Suchmosはそんな2016年に呼応するようだ。まず、ロックにアシッド・ジャズ、ネオソウルやヒップホップといったブラックミュージックなど、様々なルーツを持つ横断的な音楽性がある。ここ数年リバイバル・ブームの風潮があるけれど、アーティスト/音楽へのリスペクトを含み、新たな音楽を作ろうとする気運と時代感覚は、Suchmosの音楽に結実したと言えそうだ。

そして、共感。彼らはダウンビートなリードトラック「MINT」で、〈周波数を合わせて 調子はどうだい? 兄弟、徘徊しないかい? 空白の何分かだって その苦悩や苦労をBlowして踊りたい〉と歌う。ひと同士の「共感」が薄い時代だからこそ、いい音楽を誰かと共有したい思いは強くなる。芸術を通して共感し高め合う、人々のエネルギーはいつだって普遍的なものだ。過去への尊敬を含んだ新たな様式によって、文化は更新され続けてきた。

前作『LOVE&VICE』の「STAYTUNE」では、〈ブランド着てるやつ〉〈Mで待ってるやつ〉〈頭だけ良いやつ〉〈広くて浅いやつ〉、彼らは様々なものに〈Good Night〉と告げる。新しい音楽の夜は明けた。今作はその先の世界だ。時代と音楽が共鳴していく、その確かな手応えを、この一枚から感じることができる。(text by 森山心月)

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新たなハーモニーと共にシンガーへと進化する長い物語

ジェイムス・ブレイク / ザ・カラー・イン・エニシング

約3年ぶりのリリースとなったジェイムス・ブレイクの3rdアルバム『ザ・カラー・イン・エニシング』は全17曲という最近ではボリュームのある作品となった。今回はフランク・オーシャンと、ボン・イヴェールことジャスティン・ヴァーノンも参加しているということでこのボリュームも納得と済まされがちだが、全体の構成としてもこの楽曲数が表現しているものは大きい。彼はこのアルバムで自身の進化の過程を露わにした。

前半では“これぞジェイムス・ブレイク”な世界が展開されている。重なりあうヴォーカルとシンセの音色、サンプリング音。彼の築いてきた楽曲スタイルは今作でさらに研ぎ澄まされたようだ。さらに「f.o.r.e.v.e.r.」ではピアノ弾き語りも披露。深く自分の中へ潜っていくように、1st、2ndと彼が表現してきたものをしっかりと受け継いだ楽曲が並ぶ。

しかし、このアルバムの中央に位置する9曲目、フランク・オーシャンが関わった「マイ・ウィリング・ハート」で世界が変わる。フランク・オーシャンとジャスティン・ヴァーノンが関わった曲はこれ以降に並んでいる。それらはヴォーカルにかかった多重コーラスによって、曲全体のハーモニーさえも変化しているように感じる。これにはジャスティン・ヴァーノンのあの幾重にも重なるコーラスが大きく影響しているのだろう。再び現れるピアノ弾き語りの「ザ・カラー・イン・エニシング」は、コーラスが加わることで前出の弾き語り曲よりも複雑な感情を表現している。最後の「ミート・ユー・イン・ザ・メイズ」に至ってはピアノさえなくなり、アカペラに多重コーラスのみとなる。まさに“1人ゴスペル”といったところ。これが最高にシンプルで美しい。ヴォーカル・エフェクトでありながら、人の温かさを感じるハーモニーはリズムさえもそぎ落とす力がある。ポスト・ダブステップの新星としてデビューした彼はフランク・オーシャンやジャスティン・ヴァーノンと並ぶ立派なシンガーとなったのだ。

その進化を昔から決まっていた事のように受け入れることができるのは、この作品のボリュームが徐々に私たちの意識を歌へと向かわせ、そこに変化を生じさせるからだろう。そんな他者の意識を感化するような作品と捉えると、児童文学作家でありイラストレーターであるクェンティン・ブレイクの手掛けたジャケットが腑に落ちるのではないだろうか。(text by 久野麻衣)

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いつか「醒める」日まで

スピッツ / 醒めない

「きっと想像した以上に騒がしい未来が僕を待ってる」(チェリー)

甘い聴き心地の中に、別れと決意を込めてスピッツがそう歌ってから二十年後の未来に来た。人々の生活も、音楽の聴き方も、社会の匂いも変わった。彼らのCDがミリオンヒットしたのははるか昔で、音楽はネットで動画と一緒に、玉石混交の情報とともに摂取される時代になった。与えられるものの多さに、音楽を聴いて想像力を働かせることはどんどん難しくなっている。大衆に訴えかけようとする発信は分かりやすく、扇情的になっていく。

「君ともう一度会うために作った歌さ/会うための大事な歌さ」と歌う『みなと』が先行して発表されたアルバム『醒めない』はそうした時代を象徴する作品として捉えられるかもしれない。空想と抽象がないまぜになったような歪さで聴き手を惹き付けてきた草野正宗の歌詞が、いつになくストレートで熱を帯びた印象を与えるからだ。聴き手の想像力を信じられないから分かりやすいことを歌っているのだと、はじめは自分も思っていた。しかしこのアルバムは、時代の趨勢に流された作品ではなかった。

本作にはストリングスを極力排し、バンド・サウンドを重視した音が詰まっている。ネットで大衆と接触した時、即座に拡散していくような奇抜な細工は何もない。綺麗な声、耳当たりの良い音を作ることは、ボーカロイドでもロボットでもできる。だからこそ「コグマ」や「ナサケモノ」や小さな生き物でしかないバンドにとって、信じられるのは自分たちから鳴る音だけなのだ。「醒めない」とは生きているということだと思う。ずっと醒めないままでいられるわけじゃないから、生き物が生きている間にだけできることを、生身の音で表現している。それでもいつか、バンドにも聴き手にも「醒める」日が来ると知っていて、全楽曲中唯一オルガンの音が入った『雪風』だけは、自分が「醒めた」あとの世界へ向けて歌っている。

「お願い夢醒めたら少しでいいから 無敵の微笑み見せてくれ 君は生きてく 壊れそうでも 愚かな言葉を誇れるように」

草野の言葉に籠った熱は、生きていくことや音楽や表現や人と人の繫がりの足場が不確かになっていく暮らしの中、命と向き合うことで生まれたものだった。その熱は彼が過去に放ってきた詩的で芸術点の高い表現より愚かな言葉かもしれないが、想像力を失くした時代の聴き手に刺さる、見えないけど聴こえる棘を持っている。(text by 沖田灯)

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シュルレアリスムの世界が提示する、甘美な未来への黙示録

Seiho / Collapse

肉体に思考力が制限されていると感じることがないだろうか? たとえば疲れているといつもできるはずの計算ができなかったりする時など、ふと、身体から思考だけが自由になってくれたら、という考えが頭をよぎる。しかし今やそれはSFではない。人工知能はまさに思考だけの存在だし、VRが進化すれば五感すべてを仮想に置き換えて、私たちはいずれ電子空間に住むことが可能になるだろう。Seihoが『Collapse』で見せるのは、そんな近未来だ。

Seihoというと、前作収録のアンセム『I Feel Rave』やSugar’s Campaignでの楽曲のように、ダンサブルな側面が取り沙汰されることが多かったが、今作の、先の見えない展開に様々な音飾が現れては消える様にはスリルと小気味良さと同時に、幾何学模様やシグナルが飛び交うようなイメージを覚えた。また、随所に登場する鳥の鳴き声や人の声のサンプリング音源も、生っぽさが削ぎ落とされ電子音の中で効果音のひとつとして響いている。そのように過剰なまでに綺麗に成型された音はいずれも、なにか意味や感情を写し取ったものというよりどこか記号的でシンボリック。デフォルメにデフォルメを重ねたような今作は、もはやダリの絵画のような奇妙な非現実感さえ伴っている。つまり今作に貫かれているのは、超現実主義=シュルレアリスムだ。そう考えると、あの生け花(のようなもの)が佇む和風なジャケットも、どこか現実離れした奇妙さがあることに気づくだろう。 

前作で彼は「物理的な快楽をヴァーチャル世界に転送できるか」ということを考えていたそうだが、今作はまさにその物理的な世界、そして感情や記憶までもを記号化/エンコードしたかのような作品だ。それは、人間の思考がいずれ肉体を離れて、バックアップされたその軌跡だけがヴァーチャル世界にコーディングされる未来を暗示するかのよう。その時にはきっと記憶や感情もコードに変換され、自分自身を指し示す記号となるのだろう。これは、そんな未来の黙示録だ。 

では、その未来に人間はいるのだろうか。今作の出した答えはきっと“いないけれども、いる”ということになろう。我々の人間社会も来たる未来では、記号と記号の応酬としてそこに存在するようになるのかもしれない。けれども、美意識の行き届いた今作の楽曲には、その応酬もまた甘美なものなのではないかとつい思わされてしまう。そしてそれはまた、これから待ち受ける未来をそこまで悲観しすぎなくてもいい、というSeihoのメッセージのように思えてならないのだ。(text by 井草七海)

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現代のヒーローが贈るポジティブなエネルギー

チャンス・ザ・ラッパー / カラーリング・ブック

2013年にリリースされたミックステープ『アシッド・ラップ』でその名を世界に轟かせたチャンス・ザ・ラッパー。3作目のミックステープとなる『カラーリング・ブック』は彼が今の音楽業界とアメリカ社会という街の壁に描かれた落書きを消し、花を植えるような活動を実現させた。

カニエ・ウェストやジャスティン・ビーバーといったビックネームからシカゴの子供たちによるコーラス隊や彼の従姉妹までをも客演として招いた今作はソウル、R&B、ハウス、トラップなど様々なジャンルを取り入れながらもゴスペルをベースとすることで全体のバランスが保たれ、作品全体にポジティブな雰囲気を生んだ。

リリックは今もなお殺人事件が増加し続けている彼の地元・シカゴとそこに暮らす若者や彼の娘、そしてミュージシャン、ヒップホップ文化など彼の愛するものへ捧げられた内容となっている。サウンドのポジティブさと前作で培ったソウルフルなグルーヴ、スムースなフロウによる聴き心地の良さは普段ヒップホップに馴染みのない人をも惹きつけるポップさを備えている。

そして、この作品はストリーミング限定で配信され、それによってグラミー賞の選考対象の規定が見直されたと言っても過言ではないほど今の音楽シーンに大きな影響を及ぼした。これは多くの音楽ファンにとって明るいニュースとして伝えられたのではないだろうか。街も人も暗い話題ばかりではネガティブなイメージがどんどん膨らんでしまう。“音楽業界が衰退している”というニュースよりも、新しいことを起こし明るいイメージを与えることが大事であることを彼は理解している。そこへポジティブで開放的な音楽でもって花を植えているのだ。誰が見ても素敵だと感じるポップな花を。

今作で注目を集めたことにより彼は音楽以外の活動も大きく取り上げられることとなった。アメリカ大統領選では地元シカゴでフリー・ライヴを行いそのまま観客と投票へ向かった。このニュースは選挙結果はどうあれ、多くの人が政治に関心を持ち、動こうとしている姿を見せることで治安問題に悩むシカゴの街に現状を打破する可能性を感じさせたのではないだろうか。

作品の内容からリリース方法、さらにその結果とトータル的な革新さをもって、希望を与える現代のヒーローのようなこの作品は眩しいほどの輝きを見せてくれた。その輝きがこれからの音楽シーンだけでなく、社会全体の未来をも明るく照らしてくれていることを願わずにはいられない。(text by 久野麻衣)

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D.A.N.の作り出す境目も見えないほどの深い霧

D.A.N. / D.A.N.

2014年8月に結成されたD.A.N.が今年4月20日、結成から約2年で1stアルバム『D.A.N.』をリリースした。前作のep『EP』でベースとドラムが主軸となった楽曲が披露され、平均年齢わずか22歳の作り出す音とは思えないほどの重厚なサウンド、楽曲センスでインディー・ロック界隈に大きな衝撃を与えた。巷でのシティポップ・ブームも相まって、今回のアルバムはかなりの期待を持って耳にされたことだろう。

どこか日本人離れしているなというのが最初の印象だった。ブラック・ミュージックを内包したダンサブルかつどこかおどろおどろしくて霧がかったような雰囲気はどこからくるものなのか。彼らの音楽性を手探りして探し出そうとするが、いくら手を伸ばしてもどうも核心となる部分に触れられず、霧は濃くなるばかり。耳をすましてようやく彼らの楽曲の「リリック」という部分にたどり着く。彼らの作り出すリリックは強烈なフレーズが詰め込まれているにもかかわらず、どうも掴みどころがない散文詩。歌詞にちょっとしたメッセージ性があると私たちは歌詞の意味を深く読み解こうとしてしまう。しかし解読しようとした瞬間、それは完全なる自国の言葉の読解になり、邦楽に位置付けられてしまうようにも思える。この少し気だるげな散文的日本詞でなければ邦楽と洋楽どちらでもないシームレスな曲を作り上げることはできなかっただろう。街中で流れるBGMに呟くように口ずさみ、「じっくり煮込んで作りあげました」というような重々しい空気を感じさせない。この身軽さにやっと20代前半の健康的な雰囲気がうかがえた。

上記の文章は「歌詞」と「リリック」という2つの同義語によって表現している、ここがミソだ。一般的楽曲解説には「歌詞」、D.A.N.の楽曲についての部分は「リリック」と使い分けているのだが、日本詞であるのに「リリック」という言葉によって読み進められるのは、やはり彼らの楽曲が自国の雰囲気を纏っていないからであり、The fin.やYkiki Beatのような英詞での楽曲に対して「リリック」と使う感覚とはまた違った感覚なのだ。

霧が濃く、境目というものがぼやけ見えなくなり自分がどこにいるかさえもわからなくなる。しかし流れる音にただ意識を集中させると感覚が研ぎ澄まされ洗礼されていく。それはまるでシティポップという枠組みとは懸け離れたむしろ野生的な狩りを連想させた。こんな感覚を、私は今まで経験したことなどなかった。(text by 宮尾茉実)

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伝説級パンクバンドの再出発と現行である事の宣言

Hi-STANDARD / ANOTHER STARTING LINE

世間を騒がせたHi-STANDARD による16年ぶりの、事前告知ゼロのゲリラ・リリース。あの日私もすぐに新宿のタワレコへ駆け込んだ。CDを買うだけであんなにワクワクしたのは初めてだった。ネクタイ絞めたサラリーマンも刺青入れた金髪の兄ちゃんも、ギター担いだ制服の学生もレジに並んでいた。3人のロマンと男気、遊び心がにじみ出たこのシングルを手にして……。

それは本当にハイスタだった。難波の男臭いヴォーカルをはじめ、ハイスタらしいコード進行やメロディ、恒岡のアツいビートは本当に気持ちいい。新しさもある。横山のコーラスはソロ活動のおかげか、すこぶる深みが増しており、近年彼が傾倒しているロカビリーの影響があるギターソロは新しいハイスタの持ち味だ。

表題曲である「Another Starting Line」は言うまでもなく、“今のHi-STANDARD”がファンに向けた曲である。長きにわたる活動休止や原盤権での争いなど本当にこれまで色々あったバンドであった。それがようやく活動の証を形として手に取れるまでにこぎつけたのだ。彼らのメッセージは歌詞カードを見ながら受け取ってほしい。リアルタイムで追いかけていたオールドキッズも、皆の言うハイスタが気になっている後追いのキッズもぜひCDを手に取ってほしい。歌詞カードの最後には配信サービスが主流となりつつある現代にCDの良さを再確認させてくれるハイスタからの一文がある。

ただやはり、『GROWING UP』や『ANGRY FIST』といった過去の作品と比べると物足りなさを感じる。再スタートを切ったばかりで仕方ないのかもしれないが、全盛期の3人がガチっと合って鳴らして生んでいたパワフルな爆裂感が足りないのだ。その点ではまだ完全復活とは言えない。それでもこの物足りなさは、皆が待ち望んだ3人組への次のリリースへの大きな期待と考えればこんなに幸せなフラストレーションはないだろう。

今回の作品をハイスタじゃないという人もいるだろう。後追いの21歳キッズである私は当時90年代の事は詳しくは分からない。しかし”今のHi-STANDARD”でさえもいまだ成長真っ只中であるという事は間違いなく言える。それは単純に今後にもワクワクしているからだ。今や星の数だけバンドがいる現代でも、世代関係なしにいつでもワクワクさせてくれるバンドはそうはいない。『MAKING THE ROAD』の、虹がかかったあの時の空とはまた違う秋晴れの空のジャケット。その下に真っ直ぐ続く新しい一本道は始まったばかりである。この道がどこまで続き、どんな風景が待っているか……。改めて心からワクワクが止まらない。(text by 篠崎直人)

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よみがえる半世紀前の熱狂

ザ・ビートルズ / ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル

後追い世代にようやく「ライヴ初体験」の機会が巡ってきた。スタジオ・ワークに注力するようになった『Revolver』以降の功績に注目が集まりがちだが、ビートルズは確かにライヴ・バンドでありアイドルだった。それを証明する『ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル』は、1964年と65年のライヴ音源を収録した1977年のアルバムが下敷きになっている。今回、未公開音源を追加し初CD化。再発モノでありながらオリコン3位、英国3位、米国7位を記録した。

特筆すべきは、最新技術によりビートルズ初期の圧倒的な熱量を理屈抜きに体感できる音へと進化した点だ。3トラック録音のオリジナル盤は演奏が1万7000人の叫び声に埋もれクオリティが高いとは言えなかった。しかし単一トラックから音を除いたり分離したりするデミックス処理を施すことにより、ベースとドラムがより迫力を増し、それぞれの音が掘り起こされ立体的になった。

ただし、ビートルマニアの鼓膜をつんざくような金切り声は健在だ。1曲目の「ツイスト・アンド・シャウト」からジョンとファンは絶叫対決の様相。歓声をあえて取り除かなかったのは何故だろう。注意深く聴き込むと、それ自体を効果音のようにミックスしているようだ。「ロール・オーバー・ベートーヴェン」ではイントロの前半と後半で歓声が2段階で増幅され、ジョージの歌い出しで炸裂する。続く「ボーイズ」はジョンの曲紹介に反応した歓声がイントロと重なり盛り上がりは最高潮に達する。このロックンロール2曲は中盤のハイライトだ。本来ノイズであるはずの叫び声は、スタジオ・ライヴ音源にはないむき出しの熱狂を演出するための大事な要素なのだと気づかされる。

戦後のベビーブーム世代が主役となり、若者文化が爆発した時代である。少子高齢化社会に生まれ育った筆者としては、有り余るエネルギーを一丸となって発散する青春がうらやましく思えた。

2016年の音楽市場において、ライヴやフェスティバルは公演数・売上額ともに右肩上がりである。ストリーミングの定着により聴取環境が自由度を増す一方で、人々は利便性によって失われた「リアルな体験」や「共有」をより強く求めるようになった。憧れのアイドルを前に興奮する彼女たちに共感せずにはいられない。『ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル』が数多くの再発アルバムの中でひときわ存在感を示した理由は、半世紀前の若者の熱狂が、偶然にも今の時代をとらえていたからだ。(text by 稲葉智美)

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ポップ・ミュージックの世界に生きる男

ブラッド・オレンジ / フリータウン・サウンド

デヴ・ハインズという人物はこれまでテスト・アイシクルズ、ライトスピード・チャンピオンと名前や形態を変え、現在はブラッド・オレンジとして活動している。ブラッド・オレンジ名義での3rdアルバム『フリータウン・サウンド』は彼がビヨンセやカニエ・ウェストといったアーティストと同じようにポップ・ミュージックというものを大きな枠組みとして捉え、その中で活動していることを明確に示している。

今回の作品は“Black Lives Matter”ムーブメントの一端を担うであろう作品となった。アルバムのタイトルにある「フリータウン」とは彼の父親の故郷、アフリカはシエラレオネの首都の名前であり、ここは解放された黒人奴隷の移住国として知られている。「ハンズ・アップ」では警官による黒人射殺事件を題材とし、その他の楽曲でも歌詞やサンプリングの中には“黒人”や“アフリカ”を想起させる内容が巧みに散りばめられている。

さらには現代社会が抱える様々なマイノリティ問題にも触れている。「オーガスティン」のMVや歌詞の中の曖昧な人称、80年代のNYのゲイカルチャーを描いたドキュメンタリー映画『パリ、夜は眠らない。(Paris Is Burning)』からのサンプリングなどはLGBTカルチャーへのリスペクトを、エンプレス・オブ、デボラ・ハリー、カーリー・レイ・ジェプセンなど多くの女性をゲストヴォーカルとして迎え、まるで短編小説のように紡がれる楽曲群には女性“性”へのリスペクトを感じさせる。

これらの題材は黒人であり、LGBTカルチャーとも関わりが深く、多くの女性アーティストのプロデュースをしている彼にとってどれも彼のアイデンティティを支えるものだ。それをブラック・ミュージックをベースとした心地よく穏やかなサウンドにのせることでより彼のリアルな悲しみが伝わってくる。そして、彼と同じように心を痛めている人が多くいるからこそ、“Black Lives Matter”ムーブメントというのは世界中の人の元へと届く大きな力を持っている。今作からはそんな現代の姿を見ることができるだろう。

彼の音楽はこれまでもその時代に生きる人へ届くものを敏感に察知し、パンク、フォーク、ブラック・ミュージックと音楽性を変えながらも多くの人に聴かれ続けてきた。彼にとって音楽性の違いは問題ではない。名義の違いもアルバム名のようなものではないだろうか。そんな小さな枠に捉われず、ポップ・ミュージックという文化の中で彼はいつも時代を映してきたのだ。(text by 久野麻衣)

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ロックと女性の共存、そのヒントとなるBABYMETAL

BABYMETAL / METAL RESISTANCE

ヘヴィ・メタル(以下、メタル)という音楽でイメージされるボーカリストの歌い方としてシャウト、グロウル(唸り声)を含むものがある。しかしこのアルバム『METAL RESISTANCE』で聴かれるメインボーカリスト・SU-METALの歌声は、澄んだ素直な歌声にもかかわらずヘヴィサウンドの中でもしっかりと抜け、実際に耳で聴こえる以上に大きな存在感を示しているのが印象的だ。例えば「KARATE」は荒々しいギターリフから始まる曲だが、最初のリズムチェンジで女の子の声によるコーラスが入る。この時点で「メタル+女の子」という不安定でカオスな状態が生まれるのだが、SU-METALのボーカルが入るタイミングで場は整然とした形となり、「女の子」のイメージが楽曲の主導権を握る。これは「Road of Resistance」の冒頭でも同様の傾向があり、楽曲群には様々な趣向が見られる一方で、やはりSU-METALの存在をメタルサウンドで崩さず、かつ生かす形を確立している。

このプロジェクトのコンセプトは、日本特有の「Kawaii文化」とメタルイメージの融合だが、このアルバムの中でその二つは交わらずかつ対立せずという、一見矛盾した関係を実現している。どれも中世的な表現の歌詞の上で、SU-METALの歌を中心に「女の子」−−強い意志を感じさせる、可憐な少女のイメージが、メタルのサウンドスタイルに影響されずしっかりと確立されている。このようなスタイルが、かつてメタルで見られたことはない。

「メタルに付き物な、女人禁制的思考を覆した」ある人がBABYMETALを見て、こんなことを言ったそうだ。この一言から私が感じたことだが、良し悪しは別として女性の参入に抵抗があるのは、実はメタルだけでなくロック全体にいえることではないだろうか? 男性が作り始めたロックを、女性は後から追いかける。つまりロックには男性的な表現、例えば力強さやセックス・シンボルなどを、意識せざるを得なくなる場合があるということだ。

80年代のメタルブームに熱狂した私にとって、その意味でロックの中では、未だ女性という特質が打ち出されたことはほぼないのではないかという印象を抱いていた。しかしBABYMETALは、このアルバムでそんなロックの課題を浮き彫りにし、かつナチュラルな「女の子」をそこに存在させることで、その障壁を打ち破ったように見える。このプロジェクトのような斬新な視点が次々と生まれれば、ロックも再びおもしろい時を迎えるのではないだろうか。(text by 桂伸也)

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混沌の世に見つける救い

Bon Iver / 22,ア・ミリオン

ボン・イヴェールの5年振りの新譜で表現されたものは、混沌とした世界であがく人間の姿だ。タイトルの『22,ア・ミリオン』は、ジャスティン・バーノン自身を表す“22”と、自分の外界にあるものすべてを象徴する“ア・ミリオン”を組み合せたもの。つまり自己と外界を対比させる構造がアルバムの軸となっている。

視覚と聴覚の両方から迫ってくる混沌。美しい風景が描かれていたジャケットは記号で埋め尽くされているし、曲名は文字化けの如く変換され、ブックレットの歌詞は散乱していて理解を阻む。「21 M◊◊n Water」の後半では銃声や動物の鳴き声にも聞こえるノイズの断片が暴力的に飛び交い聴く者をこわばらせる。声はひとたび主の元を離れると、オートチューンでクワイアのように増殖し、実像と虚像が混同する。そして不安に襲われる。自分が信じているものは果たして真実なのだろうか、と。

〈理解しがたいもの・不快なもの・嘘か誠かわからないもの〉が溢れた難解な作品が人々の心をとらえる理由。それは混沌の中にも「救い」があるからではないか。

かつて世間から隔離されたウィスコンシンの山小屋で頑なに自己という聖域を守ったジャスティン。しかし、前作からの5年間はむしろ他のアーティストたちと交わりながら積極的に外界に身を置いてきた。本作には、カニエ・ウェストを思わせる「10 Death Breast」の攻撃的なビートや、サンプリングの多用に見られる新しい表現方法が結実している。今のジャスティンは外界の影響によって自己が再形成されることを恐れない。混沌のただ中へ踏み出し生きんとするボン・イヴェール像は、本作にたくましい生命力を与えている。

“Faces are for friends.” “Friendship is for safekeeping.” “Family is everything.”ジャケットのアートワークにこのような訓示を見つけて、本作は他者との関係を意識させる作品なのだと思った。親友や家族であっても”one of a million”である他者と通じ合うためには共通言語が必要だ。あえて曲のタイトルが数字に置き換えられているのは、数字がもっとも普遍的で精度の高いコミュニケーション・ツールだからなのではないか。最後の曲「00000 Million」でジャスティンは“日々に数字が付いていない日々 それが害をなす 僕は受け入れる”と締めくくる。

混沌とした世界で断絶を選択するのは容易いが、他者との関係のなかであがく方がきっといい。外界に飛び出したジャスティンが作った『22,ア・ミリオン』は、カオスの100万分の1を形成する、そう、あなたにも差し出されている。(text by 稲葉智美)

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お前の胸ぐらを掴み、奮い立たせる音楽

MOROHA / MOROHAⅢ

最近人の本気を感じたのはいつだろうか?

大きな夢や高い志を持ってなくても、なんとなく生きられるようになった時代。SNSでやたらと意識高いベンチャー企業の人や起業する若者の暑苦しい投稿を見ると私たちは心の距離をおいて傍観する。そういうのは鬱陶しいし、うすら寒い。本気や必死はダサいという風潮の中に私たちはいる。きっとただただ時間が頭上を過ぎてゆくような日々を過ごしている人も多いだろう。その中でMOROHAはライブでは勿論、CDの中でも常軌を逸するほどの本気を感じる。彼らは聴き手個人との心の距離を詰めて、というよりもはや0距離で本気で音楽を鳴らす。彼らの最新作『MOROHAⅢ』は自身の本気の最大限を更新し続けている証明だ。

彼らの音楽はロックなのか? ヒップホップなのか? それともパンクなのか? どうでもいい。彼らの音楽は話題性抜群のキャッチーなものでなく、奇をてらうものでもない、ただひたすらに人の心を打つ音楽だ。UKによる指弾きやひじ打ちで鳴らすアコースティックギターは、聴き手の心をこじ開けるメロディとビートを生む。火をつけるほどに情熱的に、時に陽だまりのようにハートフルに奏でる。そうして剥き出しになった心の核へアフロが汗唾飛ばしてラップ、言葉をぶち込む。そうしてバンドとして最少人数で可能な最大限の音楽を鳴らす。このMOROHAの命を削る表現者のスタイルこそが絶対的な強みなのである。

もう一つ欠かせない絶対的な強みは、何といってもMOROHAの言葉だ。

「俺の主旋律 お前にとっては これはコーラス
他人の名言 全部 綺麗事 自分の宣言だけが本物」(「宿命」)

「本当は一本道の迷路を 散々迷って人は歩くよ
理由は無くとも 足は出すよ そうすりゃそれが理由になるもん」(「tomorrow」)

「誹謗中傷 凹んでは涙 鋼じゃねぇ裸のメンタル
でも向き不向きより好きを信じてた」(「四文銭」)

ありったけの人間味と爆発力。生半可な共感や凡庸な世界観のある言葉ではない。人気急上昇のWANIMAの言葉にも確かに人間味はあるが、爆発力と熱量ではMOROHAに敵わない。MOROHAの言葉は現状との葛藤、誰もが目を背けたがる己の弱さを、他ならぬ自分自身が全力で闘い抜いて生まれた言葉だからこそ、惹きつけられ心を震わせるのだ。

いつだって全力で真剣な表情で奮い立たせ、支えてくれる。MOROHAの活人剣たりえる音楽は聴き手に自分の人生は誰が主役なのか、そのために誰が行動しなきゃいけないのかを気づかせてくれる。(text by 篠崎直人)

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聴く場所も気持ちも選ばない”ミツメ・サウンド”の大作

ミツメ / A Long Day

「なんでもない一日も後から眺めてみれば、悲しみや喜びがある」。ミツメの2年半ぶりとなるフルアルバム『A Long Day』には、なにもない一日こそ愛すべき美しさがあるんだと感じられる、平穏な中にも喜びや悲しみがつまっている。

アートワークを含め、印象的さや掴みやすさはほとんどない。混沌とした所在なげなムードが全体を流れる。しかし、聴き進めるうちに妙に生活の一部に馴染み溶け込んでいく。アルバムという大きな流れの中でストーリーが展開されていき、まるでひとつの映画のような印象だ。疾走感のあるポップなサウンドから、ゆったりとしたファンクを経て徐々にムードに変化が生まれ始める。そしてこのアルバムのハイライトと言えるだろう「船の上」「漂う船」。不安な気持ちになるような、穏やかな気持ちになるようなインストが、アルバム全体に大きな を印象を与えている。とくにギターの音色に中毒性があり、初めてライヴで見たときは呆然と眺めることしかできなくなる不思議な感覚があった。このアルバムは言うまでもなく、今作オリジナルのミツメ・サウンドが構築された大作だ。

前作は、録音物でしか表現できない音をテーマに制作された実験作で、サウンドにも厚みがあった。その反動か、その後は”音の少なさ”を突き詰め、4人で演奏するバンド・サウンドを追求している。初期作品から遡ってみても、やはりシンプルに構成されたスカスカな音に平熱なボーカルがのって淡々と流れていくそれこそ、ミツメの音楽の完成系だ。「多重録音で制作した曲をライヴで披露するには手が足りない」と彼らが語っていたように、今作はライヴでの演奏に乖離をなくした4人の姿がハッキリと見える。リリース直後の完全再現ライヴは、何度もライヴに足を運んできた私には ”バンド演奏にこだわる”という前提があったからこそ、リリース直後の完全再現ライヴは意味があるものだったと思えるし、何度聴いてもあの日の渋谷WWWで見た4人がイヤホンからも聴こえてきて、なんともスリリングなのだ。

最近では海外でのライヴ活動も多く、ミツメの音楽は場所を選ばない。そしてミツメの音楽は”聞きたい気分”も選ばない。悲しかった日も楽しかった日も、どんな気分にも似合う。楽器さえあればどこにいても演奏でき、どんな気分にも似合うのがA Long Dayなのかもしれない。(text by 川浦慧)

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RADWIMPSがサントラへの挑戦で見せた新たな表現のヒント

RADWIMPS / 君の名は。

RADWIMPSのアルバム『君の名は。』は「新たな表現にチャレンジし、その可能性を提示した」そんな印象が感じられる作品だ。

ある程度音楽のジャンルが定型化し、音楽制作の方法論や情報が氾濫している昨今では、例えば音楽という表現を、音楽というジャンルの中に限って斬新な個性を打ち出すことは、限りなく頭打ちに近づいているのではないか? という不安すらある。そんな中、映画、ドラマのサウンドトラックは、実は未だ見たことのない表現を作り出すヒントになるのではないだろうか? それぞれの表現だけでは見せきれなかった印象を補い、かつ斬新な印象を得る可能性があるということだ。

バンド、アーティストが映画などでサウンドトラックを制作した例はこれまでにもあるが、RADWIMPSはこの作品でインストの劇伴に挑戦、その中でRADWIMPSらしさを表すメロディをしっかりと曲に描き、バンドのイメージを打ち出している。具体的には、歌曲の4曲にあるバラード曲「スパークル」のAメロに見られる、連続フレーズによる歌のメロディ。「なんでもないや」にも見られる傾向だが、同様に劇伴曲でもオーバーラップする箇所がいくつもあり、インストのメロディラインに同様の歌的な旋律を感じさせている。

対照的に主題歌「前前前世」は、鼻歌的な発想で作られた印象を持つメロディの曲だが、劇中の重要なシーンで使われる「かたわれ時」で同じメロディをアレンジして別曲として表現、さらに印象を深いものにしている。部分的にはメンバーの武田祐介(Ba)が作り上げた、抽象的なイメージの楽曲もあるが、全般的にはそれぞれの楽曲のメロディをつなぎ合わせて、単なるサントラ・アルバムである以前にRADWIMPSのアルバムであることを表現しているようにも見える。

そんな本作は、映像の中ではBGM的な要素を提供するだけでなく、あたかもストーリーに別の観点を追加したかのように深い世界観を生み出している。またこの映画は、ストーリーがリスタートするポイントがいくつか存在するのだが、そのポイントでRADWIMPSの歌が流れ、映像のインパクトを鮮烈にしている。特に「前前前夜」が流れるポイントは、音楽の力を改めて感じさせるほどに見るものを高揚させてくる。サウンドトラックという作品としての印象は、ざっと聴いた感じではそれ程逸脱した印象はないが、今後この表現をヒントとして、何かアッと驚くような表現が生まれることはないか? と期待しているところでもある。(text by 桂伸也)

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「僕」と「僕ら」が繋がるまでの物語

レディオヘッド / ア・ムーン・シェイプト・プール

20年以上前からライヴで演奏されながら、初めてスタジオ録音された「トゥルー・ラヴ・ウェイツ」でレディオヘッドの『ア・ムーン・シェイプト・ア・プール』は終わる。バンドサウンドとして親しまれてきたこの曲は今回、ピアノ演奏を軸に大きくアレンジされている。そこで際立つのはトム・ヨークのヴォーカルだ。

「本当の愛は ロリーポップやポテトチップスに存在している」

それは途方もなく広い世界と、呆れるほどちっぽけな自分の悩みの両方と対峙しなければ生まれてこない、実感できない言葉だと思う。このアルバムは、そこに辿り着くまでの長く複雑な物語だ。

2曲目の「デイドリーミング」がアルバム全体を覆うイメージを作り出す。大切な人との別れに対する、あまりにも悲痛な想い。そこに伴奏する静謐で荘厳なピアノはクラシック音楽を思わせるが、曲が進むにつれ不穏さを増していく。"ハーフ・オブ・マイ・ライフ"を逆再生したという、不吉の宣告のような終盤の「いびき」はその象徴だ。個人にとってのプライベートな悲劇が膨らんでいくと、それがその人自身を飲み込み、さらに周囲の世界まで覆っていってしまうような不安と恐怖に駆られる。現実を歪ませたような「悪夢」から目覚めるのか、あるいはいびきをかき続けその世界にとどまるのかという「物語」が、聴き手をアルバム全体へと誘う。

一方、スタッカートのストリングスが聴き手を高揚させる1曲目「バーン・ザ・ウィッチ」では、世界に蔓延る他者を攻撃する風潮を魔女狩りになぞらえ、楽しそうな演奏で狂気を表現する。そこに恋に悩む「デイドリーミング」の主人公はいないようにも思える。しかしアルバムを通して聴き、もう一度1曲目を再生する時、「魔女を燃やせ お前の居場所はわかってるんだ」の言葉は、単純な社会批判ではなく、個人的な問題を抱えた普通の人間がその末路に発する狂気だということに気付く。他者への攻撃の根源、燃やすべき魔女の居場所は、自分や自分が抱える悪夢の中にいる、と突き付けられている感覚に陥る。

音楽、歌詞、音楽家のプライベートやバンドの歴史、果ては社会問題に至るまで、どんなものも人々にとって一番理解しやすい単純な物語の文脈に置かれてしまう時代。そんな中で、本作の物語は一方向で単純なものになっていない。個人の問題と世界や社会の問題が同列に、綯い交ぜになることで複層性が生まれている。異物同士の繋がりに気づき、音楽を通した物語の中で接続していく。それは、アルバムという形を通じてしかできない表現だ。(text by 沖田灯)

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【受講生募集中】音楽ライター講座、2017年1月期も開講します!


2017年1月期の音楽ライター講座は「音質聴き比べ~リスニング・ツール大研究」です。昨今、『Apple Music』や『Spotify』などサブスクリプション・サービス~定額制音楽配信を多くの人が利用するようになりました。同時に、アナログ・レコードやカセット・テープで作品に親しむ人も増えています。海外アーティストの中には、例えば、『Tidal』を買収してアーティスト目線での配信サービスをダイナミックに実践するジェイZや、『Apple Music』での独占配信をしつつ、内容違いのCDを同梱させた冊子を無料配布したフランク・オーシャン、あるいはCDとダウンロードで先行販売したのちに配信を解禁したアデルなど発信する方も様々。一方で、アナログ・レコードのセールスは緩やかに右肩上がりになっています。

では、それらのツールはどのように使い分ければいいのでしょうか。そして、その音質的な違いはどこにあるのか。近年、私たち音楽ライティングを実践する者にもその理解が求められています。私自身、家ではアナログ・レコード、CD、カセット(ダブル・デッキがあります!)、そしてもちろん定額制配信で聴けるPCとあらゆるツールを切り替えて楽しむ音楽ファン。こうやってツールを分けて聴き比べる楽しみ方は昔は考えられないことでした。しかし、その音質的違いを、例えば具体的な所作、行為の差異以外で言語化することは大変難しいのです。なのに、音楽についての文章を書く上で、その音質の特性の違いを理解する/しない、あるいは主体となるアーティストのツール・チョイスに対して理解する/しないでは執筆にも大きく関わってくるようになりました。

そこで、1月期はレコード、CD、ハイレゾ、さらにはカセットも視野に入れて、それぞれにどのような歴史があり、どのように作品に反映され、どのように現在利用されているのかを学びつつ、ゲスト講師に音楽評論家、さらにはサウンド・エンジニアの高橋健太郎氏をお迎えし、実際の聴き比べも教室内でやっていきたいと思っています。まだ未定ではありますが、日本唯一のアナログ・レコードのプレス会社、『東洋化成』さんの工場見学も予定しています。決してハードな音響講座ではなく、あくまでソフトを楽しむための、そして、ライティングしたい人のための講座です。ぜひこの機会に受講しにいらしてください。(岡村詩野)

>>岡村詩野音楽ライター講座 2017年1月期 詳細・お申し込みはこちら!


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