2015/07/17 18:07

いつでも"ここ"に戻ってこれる、その街と移ろう人々を描くラッキーオールドサンが生み出した一生もののポップス

そのあどけなくも涼やかな歌声と、普遍的なメロディときらめきを携えたギターポップ・サウンドで鮮烈な印象を残し、デビューを果たしたラッキーオールドサン。そのデビュー作『I’m so sorry, mom』から半年と少し、早くもフル・アルバムにしてセルフ・タイトル『ラッキーオールドサン』を完成させた。今作は聖蹟桜ヶ丘の街をテーマにした9曲を収録。先行7インチ・シングルとしてリリースされた「坂の多い街と退屈」を筆頭に、ジャジーなアコースティック・ポップ「二十一世紀」、疾走感を感じさせる「ミッドナイト・バス」など今作も粒揃い。ひとつの季節を超え、アルバムを完成させた2人にインタヴューを行った。

ラッキーオールドサン / ラッキーオールドサン
【Track List】
01. 魔法のことば
02. 坂の多い街と退屈
03. 二十一世紀
04. 何も決まってない
05. Have a nice day!
06. 街
07. いつも何度でも
08. ミッドナイト・バス
09. しん

【配信形態】
WAV / ALAC / FLAC / AAC / MP3

【価格】
単曲 200円(税込) / アルバム 1,500円(税込)
「坂の多い街と退屈」
「坂の多い街と退屈」

INTERVIEW : ラッキーオールドサン

坂の多い街を想像してみる。木々の緑と色とりどりの屋根がパッチワークのように重なる斜面。風に舞い上げられ空を覆う洗いざらしのシャツ。滑らかに駆け下りる車輪の音。入居者募集の看板。日暮れに丘をのぼれば、窓に映る灯火を見下ろすことができる。それは何千もの暮らしの証だ。ゆきては去りし魂が、今この瞬間に瞬きこだましているパノラマ。君は世界があることを知るだろう。

男女のシンガーソングライター・デュオ、ラッキーオールドサンによる初のフル・アルバム『ラッキーオールドサン』は、ひとつの街を舞台に、移ろいゆく人々の徒然なるさまを9篇の歌で描いた。彼らが、背景としたのは、東京・多摩にある"坂の多い街"聖蹟桜ヶ丘。閑静な住宅地のなかで、主人公たちは、いつかはここを去ることや隣街の名も知らぬ住人、そして、大人になることについて、思いを馳せる。ひとつの街に、いろいろな人が暮らしていることを映し出すかのごとく、今作には、管楽器や弦楽器を含む多くのゲスト・ミュージシャンが参加。前ミニ・アルバム同様の、近しいメンバーによる、心地良い親密さを醸したアンサンブルに、華やぎや躍動が加わり、ポップスとしての魅力をいっそう高めている。もはや時を越えたスタンダードとでもいった風格さえ漂わせているのだ。

今は2015年の7月15日。不条理で傲慢な方法で、社会は君を絶望させようとしているだろう。そして、ラッキーオールドサンの奏でるソフトなポップスは、あまりにウェルメイドであるがゆえに、それらに対して無力に思えるかもしれない。だが、彼らは、動きゆく歴史の只中においても、たえず発され続ける市井の人々の小さな息づかいを、細心に音楽へと置きかえることで、時代を覆う暗雲へと抗った。ラッキーオールドサンは、こころの普遍性を信じた。ふとラジオから聴こえた音楽が、胸をすっと軽くするように、彼らは、自らがしたためた宛のなき手紙が、いつの日か"魔法のことば"となって、あの街の灯火のもとへと届かんと、強く強く祈っている。

インタヴュー&文 : 田中亮太
写真 : 木村和平

もともとあった曲やできた曲を最終的にのっけるお皿として聖蹟桜ヶ丘って街が見えてきた

——聖蹟桜ヶ丘を舞台にしたフル・アルバムという構想は、『I'm so sorry, mom』時にお話を伺った時点で持たれていました。当時から制作・完成にいたるまで、コンセプトが揺らぐことはなかったのでしょうか?

篠原良彰(以下、篠原) : コンセプトっていうよりは、お皿みたいなイメージですね。曲自体をそこに寄せたってわけではなくて、もともとあった曲やできた曲を最終的にのっけるお皿として聖蹟桜ヶ丘って街が見えてきたのが、前にインタヴューしていただいた時くらいだったんですよ。その時からその感覚は変わらなかったですね。

ナナ : そうですね。

——あの当時基調だったバンド・メンバーのみで演奏したミニ・アルバムと違い、今作には管楽器、弦楽器含め多数のゲスト・ミュージシャンが招かれています。その意図は?

ナナ : 曲ごとに色をつけたかったので、楽器をいっぱい入れたいってのはありました。

篠原 : ただ、蛇足にならないようには気をつけて。頭のなかではわりと慎重な部分もありました。例えば「坂の上の街と退屈」って、さらに楽器をもうひとつ入れることもできたんですけど、そこは増やさない方、シンプルにしようって選択をしました。そういう足し算引き算は作りながらやってました。

——ゴージャスになりすぎないように気をつけたってことですか?

篠原 : いや、あくまで曲のイメージっていうか、歌とメロディみたいなものはちゃんと残したかったので、楽器はいっぱい入ってはいるんですけど、どの音も「これ!」っていうものを入れてもらってます。余計なものは入ってない。

——カラフルで華やかではあるんですけど、ごちゃごちゃはしてない。あくまで品が良いですよね。

2人 : (笑)。

ナナ : 品が良い(笑)。はじめて言われました。

一人称が出てこないんですよ。そのときどきの僕らの姿でもあるし、いろんな人の投影でもある

——前作時からポップスを作るという志を公言されていましたが、いろいろな楽器や音色を加えることで、ラッキーオールドサンの描く理想のポップス像へと近づけていったのでしょうか?

篠原 : カラフルっていう意味では、自分たちの考えているポップスに近づいたというか、現段階でできることは全てやった気がします。管楽器のアレンジとかに関しては、僕ら完全には掴めてないところがあるので、そこはトランペットの(高橋)三太さんなどにお任せして。わりと柔軟に託すところは託して、でも結果的に思い描いたところには近づきました。

——たくさんの音楽家が参加してるってこと自体、街の多くの人が存在しているっていう側面を反映したのかなと思ったんですね。

篠原 : それはそのとおりですね。いろんな人が見えるっていうか、いろんな生活とかいろんな考え方とか、そういうのが交錯するようなものってのは。それは曲単体でもそうだし、音単体でもそうだし。ごちゃごちゃになってるけど、ちゃんとひとつの街として成立してるものにしたくて。

——今回収録された9曲それぞれで描かれてるキャラクターって同一人物じゃないですよね?

篠原 : そうですね。そもそも1曲1曲で登場人物を見立てて書いてるって意識はなくて、全部の曲が主観であるし俯瞰でもあります。自分たちも絶対そこにはいるんですけど、でも僕とか私って主観は出てこないんです。一人称が出てこないんですよ。そのときどきの僕らの姿でもあるし、いろんな人の投影でもある。この曲にはこういう主人公ってのが、あんまり見えないアルバムなのかな。

ナナ : うん

篠原 : 聴く人によって見え方が違うんじゃないかなって思います。

——確かに一人称が出てこないですね。今言われて、はって思いました。それっておふたりのなかで共通したルールでもあったんですか?

篠原 : 最初はなかったんですけど、ミニ・アルバムの曲も含めて、僕ら全曲に主観というか一人称がないんですよ。最初一緒に音楽を始めて、曲を書いてた頃はまったく意識してなかったんですけど、ある日ふと、あれ一人称出てこないねって話になって。そっから少しは意識してるかもしれないですね。暗黙じゃないですけど。

——一人称が出てこないって面は、ラッキーオールドサンの音楽をどう特徴づけていると思いますか?

篠原 : 普遍性。いろんな人にいろんな風に考えてもらえるひとつの契機っていうか、最初の入り口になりやすい。言われないと気づかないところでしょうけど、一人称がないのは、さらっと入っていける手助けになっている気はします。

ナナ : 私の歌詞に一人称が出てこないってのは、意識して一人称を使っこなかったわけではないです。自然とそうなってきたので、なんだろう、登場人物ってのもいるわけではないし、主観は入ってるんだけど。

篠原 : 考えて合理的にしたわけではないんですよね。ナナさんの方はもっと感覚的、センスでそれをやってて、僕はそれをラッキーオールドサンの核にして、自分がそれに近づけたってイメージだと思います。自然にできたものでもあるし、言葉にして示し合わせることはないですけど、論理的にやってるところもある。狙ってやったわけでもないし、勝手にそうなってたってわけでもないっていうか。

ナナ : この2人のなかでも曲の主人公の性別を違って捉えてたこともあります。

篠原 : 「ミッドナイト・バス」の主人公は、男女イメージバラバラに持ってました。僕は女の子が主人公だったりしたんですけど、ナナさん的には男だと思ってたみたいで。だから、本人たちのなかでも曖昧でもあるんです。

——特定の年齢や特定の社会層にも還元されないようにって意図もあるように感じました。

篠原 : でも、描かれてる人物に関しては、じぶんたちの年齢層に重なる部分もあるとは思うんです。僕は春に卒業したんですけど、これを制作してる段階ではまだ出る前っていうか、3月までがっつりレコーディングしてて。その時に思ってたものとか、その時に考えてたものを、全部ぶちこんだ感はあります。そういう意味で、個人的な節目、くさい言い方ですけど大人になるって感覚の一番微妙な薄い層のところが出てるアルバムではあると思います。今同じ心境で作れって言われても、もうこのアルバムは作れないだろうな。

人生を豊かにするものとしてポップスの水準を合わせたい

——一方で、特定の世代に限定される音楽にはなってませんよね。街という舞台があり、住んでる人や出て行く人がいる。移ろいゆくものと残るものがあるという視点は、世代に限定されるものではない。ただ、篠原さんは当時移行の只中にあった方なので、その状態を反映したものになったのではと感じました。

篠原 : ミニ・アルバムと比較してちょっとだけ変化があるとしたら、ミニ・アルバムが諦念っていうか変わっていくものを受け入れるって視点だったと思うんですけど、今回のアルバムは受け入れるを通り越して、歳をとることや変化することを、むしろ楽しむくらいの勢いがあると思うんです。自分がまずそういう状況、変化のなかにあったからこそ、そういう思いは強くて。で、いざ社会に出て、帰りが遅かった翌朝に「ミッドナイト・バス」を聴くと、自分で泣きそうになるんです(笑)。もうダメだって思ったときに、これを聴くと、いつかの自分がまだ大丈夫って後ろを押してくれる感じがあって。そういう意味では、移っていくもの変わっていくものを、その只中でパックできたっていう点では、この作品は自信があります。そのうえで変わっていくものってのを肯定しようとしてて。僕は打たれ弱い面もあるんですけど、その時に自分らのものだけじゃなくても音楽を聴いたり、演奏をすると、なんて言うか年齢とかを忘れちゃうっていうか。自分の置かれてる環境とかを忘れて、また戻ってこれるって感じがすごくあって。それが自分たちの作品でできたって自負があります。そういう意味では、ちょっとかっこつけると、変わっていくなかにいる人達が、これを聴くと、その瞬間を楽しめる余裕を持てるようなアルバムなんじゃないかと思っていて。

——篠原さんの制作当時の状況は落とし込まれてるのかなって思いました。そのうえで、ナナさんもなにがしかの個人的な状況が反映されていますか?

ナナ : 私もこの中にある曲は、その時でしか作れなかったものたちで、今だったら絶対に同じようなものは作れない。私は今住んでいる街から出たいって思いが入ってる。違うところに行って自分の目で見てみたいって気持ちが。

——違う街、違う暮らしを想像してみるって視線はアルバムのなかで度々出てきます。「魔法のことば」の「千年旅する民の物語はつづく」って詞、ここで1000年って大きなスパンを出してることに象徴されるように、このアルバムも耐久力のある音楽じゃないかと思っていまして。一瞬で消費されて終わるとかではなくて。時代や場所をまたいで誰かに口ずさまれるものになるんじゃないかなと。それはおふたりの望む自分たちの音楽の形でもありますよね?

篠原 : はい。それは個人的にもそうだし、ラッキーオールドサンとしても当然そうで。100年とかって単位で残るもの、受け継がれていくもの、それを1曲でも遺せたら、そんな嬉しい事はないわけで。別に僕が書いたとか、ナナさんが書いたとか、そんなこともある意味どうでもよくて。人が歌い継ぐには、メロディが受け入れやすくて、シンプルで、伴奏がなくても成り立つもの。同時にそれは追い込むためにあるわけではなくて、その人が道に迷ったときに口ずさめば大丈夫と思えるようなものだと思うんですよね。民謡とかがそうだと思うんですけど、そういうのに少しでも近づけたらいいなと思ってはいて。それが最終的な目標というか。ただ、僕らはラッキーオールドサンとしてもまだ1枚目というか、このファースト・アルバムで完成とかそういう風には思ってなくて。ゴールはそこなんですけど、辿り着くまでに、ものすごくいろんな遠回りとか回り道をやりたい。そこはオルタナティヴでありたいし、いろんなことに挑戦したい。僕らのその1番最初のスタンスが表れているアルバムとして、今作はセイム・タイトルでもある。うん、歌い継がれる音楽が僕らの理想ですね。でも、それが1年、2年とかでできるとは思わないし、逆にできるときは一瞬なんだろうなと思っているんです。

——前に話されてた時に、『草枕』の「人の世は住みにくい」って言葉もアルバムではキーになるとおっしゃってましたね。その感覚自体が普遍性を持っているとは思いますが、今作にはどう落とし込んだのでしょうか?

篠原 : あれって結局、「人の世は住みにくい」の先がやっぱり大事で。だからこそ、詩や音楽が機能するっていうか、音楽を作ったり聴いたりすることに意味があると思う。その姿勢は、ものをつくるはしくれとして、そのとおりだって納得することがあるんです。僕はどうしても「人の世は住みにくい」って言葉をどこかに使いたくて、もしかしたらタイトルになったかもしれないくらいで。でも、「人の世は住みにくい。だけど」って先があるんです。そして、その答えがこのアルバムになってる。生活していくのは時にヘヴィではあるんですけど、そのなかでポップスとか音楽が提示できるものはなんなんだろうってのは、自分のなかにあって

——それこそ「二十一世紀」の〈人の世は住みにくいもの それならなんとかなるさ〉が象徴的ですよね。諦念で嘆いてるのじゃなくて、生き抜いていくちょっとした頼もしさがある。社会的、政治的な面では大きな変化の只中にある昨今、今有効なポップスの形ってどんなものになるとお考えですか?

篠原 : 頭で理解できなくても、肌で感じざるをえない社会の空気ってあると思うんです。ただ、ポップスってのは、人の根幹に関わるところなので、それは変わらないと思ってもいます。世の中が大きな事態に巻き込まれていくような状況になったとしても、逆に平々凡々な日々が続いていったとしても、そのなかで生きている人たちが、誰かを好きになったり、嫌なことに感情を乱されたり、クタクタになって帰ってきて次の朝に聴いた音楽に救われたりってのは、社会が変わっても変わらないことだと思っている。確かに世の中のポップスの形は変わるかもしれないけれど、僕らがやりたいことっていうのは、変化のなかにあっても、個人的なところで救われたり報われたり、そういうきっかけになるものでありたい。人生の次のステップに行けるようなもの、後を押すものになればいいなと思っていて。人生を豊かにするものとしてポップスの水準を合わせたい。社会ではなく、社会に生きる一人ひとりの人生に光を当てたいと思っているんです。

過去作

ラッキーオールドサン / I’m so sorry, mom

ラッキーオールドサンの記念すべきデビュー・ミニ・アルバム。現時点での代表曲ともいえる疾走感あふれるリード・トラック「海へと続く道」を筆頭に、切なくも心地よい捨て曲なしの珠玉の全5曲を収録。フォークやカントリー、ロック、ゴールデンポップスのテイストを随所に織り交ぜた、ミュージックラヴァー感を感じさせるバラエティに富んだ音楽性。あどけない女性ヴォーカルで優しく包み込むように、柔らかで普遍的なメロディとドリーミーなサウンドをまとい歌われる、青春期の戸惑いや不安とささやかな希望を感じさせる日本語詞。老若男女問わず聴いてもらいたい、鮮烈なデビュー作。

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PROFILE

ラッキーオールドサン

ナナ(Vo, Key)と篠原良彰(Vo, Gt)によるポップ・デュオ。ふたりともが作詞作曲を手がける。あどけない女性ヴォーカルを前面に、確かなソングライティング・センスに裏打ちされたタイムレスでエヴァーグリーンなポップスを奏でる。

2014年11月に渋谷O-Groupで開催された〈Booked!〉にデビュー前ながら出演。
2014年12月にファースト・ミニ・アルバム『I'm so sorry, mom』発表。
2015年6月にファースト7インチ・シングル『坂の多い街と退屈』発表。
2010年代にポップスの復権を担うべくあらわれた、今後さらなる注目が集まること必至な注目のニューカマー。

>>ラッキーオールドサン Twitter
>>ラッキーオールドサン SoundCloud

[インタヴュー] ラッキーオールドサン

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